板列八幡神社
(いたなみはちまんじんじゃ)


丹後国與謝郡
京都府与謝郡与謝野町男山178
(一の鳥居道路向かいの「男山公民館」に停めました)

■延喜式神名帳
板列神社の論社

■旧社格
村社

■祭神
誉田別命
息長足姫命
稻廼売神


「天橋立」に「若狭湾」から隔てられた「阿蘇海」の北側、小さな山の頂に鎮座する社。
◎「丹哥府志」によると、「板列神社 今八幡宮と称す 天橋記云ふ 八幡の社は小野僧正仁海の勧請なりといふ」とあります。他書も概ね同様の記述をしています。これは永承四年(1049年)のこと。諸国に仏舎利を納めているようですが、当社に阿弥陀如来を納めたと。この僧侶の蛮行により、神仏混淆の忌まわしい社へと成り果てたということかと思います。
◎一方で奈良時代に諸国に国府が設置され、その周辺には八幡社が建てられていますが(国府の鎮守社であったか)、当社がそれではないかというものも。
丹後国府の推定地は籠神社周辺ではないかとされています。「府中」という地名が残り、飯役社が国衙(役所)の「印」と「鑰(カギ)」を保管する「印鑰社」であったとされます。また国分寺跡は当地「男山」の隣村の「国分」にあったとされます。

◎この地名「男山」に関しては、山城国綴喜郡の「男山」に鎮座する石清水八幡宮から勧請されたため。「板浪別宮」と称されていたようです。

◎これらとは別に、かつて「加舞満久(ガンマク)」という地に鎮座していた式内社 板列神社が荒廃のため、当社に合祀されたというものも(「丹哥府志」など)。

「加舞満久」とは当社の西方、森の中に鎮座していたと伝わります。詳しい場所は分かっていません。何か深い由緒を持った地名なのでしょうが、地名由来の伝承は無いようです。

なお式内社 板列神社の論社として、西隣の「岩滝」に鎮座する板列神社が挙げられています。

◎ご祭神の稻廼売神は「イナノメノカミ」と読まれるらしく、また板列稲荷神社のご祭神であるとのこと(周辺には見当たらず、当社境内社か)。察するに宇迦之御魂神のこと、ひいては豊受大神のことではないかと思います。
◎ご神像があるらしく、国宝指定。藤原時代のものとされており、参道途中に収蔵庫が設けられています。


車はこの公民館に停め置きました。








神像収蔵庫。






境内から天橋立を一望。