☆吉備姫王 檜隈墓 (附 「猿石」)



大和国高市郡
奈良県高市郡明日香村平田
(P有)


「猿石」という四体の石像物が据えられている古墳。石像物は近くの田で見つかったものが、古墳の際に据えられたようです。

古墳よりも石像物の方が有名…。

その石像物が意味するところは不明。飛鳥にはとにかく多い石の加工品、そのほとんどが謎です。

高取城への登山道にも同様の石像物があるらしく(未確認)、同じ田から出土したとも。写真を見る限り大きさ、形はそっくり。

「大和国名所図会」の記述を上げておきます。
「元禄十五年(1702年)十月五日平田村池田といふ所にて掘り出せし石像なり 面貌猿の面なりとて掘り出しの山王権現と称す」と。この山王権現ということについては、「これ妄談俗説にして信ずるに足らず」と断じています。

吉備姫王は皇極天皇(重祚し斎明天皇)や孝徳天皇の母。欽明天皇の孫。天智天皇や天武天皇の祖母。

吉備姫王という名は若い頃のもので、吉備嶋皇祖母命(キビノシマノスメミオヤノミコト)と言います。「嶋」とあることから「嶋庄」に住んでいたのでしょう。

「嶋庄」にはかつて蘇我馬子の私邸であった「嶋宮」があり、後に草壁皇子の宮となりました。「嶋庄」は概ね石舞台古墳のある地。「嶋宮」跡は石舞台古墳駐車場の道路向かいであったとされます。現在は埋め戻され、案内等何も無し。

吉備姫王は政界が激しく動揺した時代を生きた王女。飛鳥の地で「出挙(すいこ)」を行っていたとされます。
「出挙」とは、春の耕作時に稲を貸付け、秋の収穫時に利息とともに収納するというもの。当時は勧農と貧民救済を目的としていましたが、奈良時代になると強制貸付けなどが横行してしまいました。


陵墓は欽明天皇 檜隈坂合陵(梅山古墳)の南西すぐ側。「延喜式」諸陵寮には欽明天皇の御陵内にあると記されます。

墳丘は小円墳、大きさ等は不明。瑞垣から覗いた範囲では、せいぜい2~3mといったところ。

これとは別に欽明天皇 檜隈坂合陵(梅山古墳)の東側すぐにある「カナヅカ古墳」ではないかとするものも。現在は陪塚とされています。
欽明天皇 檜隈坂合陵(梅山古墳)、カナヅカ古墳、鬼の俎・鬼の雪隠天武天皇 持統天皇 檜隈大内陵が東西一列に整然と並んでいるのが気になるところ。

カナヅカ古墳は一辺35mの方墳。石室全長16mと大型の横穴式石室。7世紀後半の築造とみられ、645年に薨じた吉備姫王とは概ね合致するもの。

規模等から鑑みてそちらが妥当でしょうか。するとこちらは欽明天皇 檜隈坂合陵(梅山古墳)の陪塚ではないかと思う次第。


*写真は2018年4月と2023年10月撮影のものとが混在しています。










墳丘は吉備姫王のものとしてはあまりに貧弱なように思います。




横や斜めから撮った写真をあまり見ないので、意識的にその方向から撮ってみました。




*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。