「倭笠縫邑」だったのではないかと考える笠山荒神社の参道。



◆ 「倭姫命世記」 血汗涙砕身物語 (5.豊鋤入姫命)



■過去記事



今回よりいよいよと豊鋤入姫命が登場します。
つまり次回より倭姫命が登場ということに。

前回は神武東征から即位、それから第9代開化天皇までは「天つ璽」である剱鏡は「同殿共床」であったと。

そして第10代崇神天皇から。


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御間城入彦五十瓊殖天皇(※)の即位六年秋九月、倭笠縫邑に磯城の神籬を立て、天照大神(鏡)と草薙の剱を遷し、皇女豊鋤入姫命に奉斎させました。その遷座祭の夕べに宮人は皆参詣し、終夜に渡り宴楽歌舞が行われました。



【補足】
◎いよいよ天照大神の遷座が始まりました。
先ずは豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)が「倭笠縫邑」(やまとかさぬいむら)に遷したのが始まり。
「磯城の神籬を立て」とあります。「磯城」については不明、定説はありません。また「倭笠縫邑」の比定地も諸説有り。個人的にはいろいろな観点から笠山荒神社であると導き出していますが、確証と言えるようなものではなく、また現在の趨勢からすると別の場所があたかも確定したと言わんばかりになっています。

◎御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニヱスメラミコト、第10代崇神天皇のこと)


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その後、天照大神の教えの通りにあちらこちらの国々に大宮処(天照大神が鎮まる処)を求めました。神武天皇以来九代の天皇の間、同殿共床にありました。ところが神威を畏れ、共に住むのは穏やかではないと、斎部氏(イムベノウジ、忌部氏)が石凝姥神裔(イシコリドメノカミの裔)、天目一箇裔(アマノメヒトツノカミの裔)の二氏を率い、改めて剱鏡を鋳造し、護身御璽としました。現在(※)の践祚(※)の日に献上される神璽剱鏡はこれなのです[内侍所と言います]。



【補足】
◎天照大神が鎮まるに相応しい所を「大宮処」と表記しています。また神託なのでしょうが「大神の教へのままに」と。

◎天照大神を遷座させる理由が、「同殿共床にあり 漸く神の勢ひを畏れ 共に住むこと安からず」とあります。
個人的には本当の理由は別にあると考えています。この時代、つまり卑弥呼が生きた時代と同じくらいであろうと考えています。天皇がまだ日本を支配していたとは言えない時代、まだまだ「倭国大乱」が治まったばかり(「魏志倭人伝」による)。天つ御璽(剱鏡)を天皇から離れたところに隠す必要があったのではないかというのが、自身が支持する説。
だから豊鋤入姫命にしろ、倭姫命にしろ、とんでもない山中をさ迷ったのではないかと。

◎「斎部氏が、石凝姥神裔と天目一箇裔の二氏を率い、改めて剱鏡を鋳造し、護身御璽とした」とあります。
つまりレプリカが造られ、それを天皇の元(内侍所)に置いていたと記されます。これこそが上述の説を傍証する理由の一つ。例えレプリカであろうと「同殿共床」には違いないかと。
三輪山の西麓などという、攻められるとあまりにも脆弱な場所には置いておけないための遷座であろうと考えます。

◎斎部氏(忌部氏)が石凝姥神裔と天目一箇神裔の二氏を率いて、剱鏡を造ったという記述、歴史上非常に重要な箇所。当記事では深くは触れず、いずれは触れずにいられない課題。
おそらく製造場所は鏡作坐天照御魂神社の境内であろうと思います。

◎「現在」とは「倭姫命世記」が編纂された、鎌倉時代中頃と考えられます。
◎「践祚(せんそ)」とは、継承者が天皇の位に就くこと。


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次回よりいよいよ倭姫命が登場!…の予定でしたが。。。

あともう一回だけ豊鋤入姫命のお話が続きます。

書きたいことが山ほどありすぎて…。
自粛するつもりはありませんが(笑)、ほどほどにはしておきます。


鏡を研いだとされる「鏡石」が出土。また三角縁神獣鏡も出土しています。