久々比神社
(くくひじんじゃ)


但馬国城崎郡
兵庫県豊岡市下宮318-2
(P有)

■延喜式神名帳
久久比神社の比定社

■旧社格
村社

■祭神



豊岡市の東部郊外、国道178号線から少し入った平地に鎮座。古代においても丹後国熊野郡から但馬国城崎郡へ抜けるルートとして、概ね幹線道路であったのではないかと思います。
◎当社の創建由緒に関しては、まったく異なる展開がいくつもなされており、整理する必要があるかと思います。
◎まず当社側がもっとも全面に出しているものは、天湯河板挙命が当地で鵠(くぐひ、=コウノトリ)を捕まえたとする記紀神話によるもの。これは「もの言わぬ皇子」ホムチワケ皇子のために、天湯河板挙命が東奔西走した神話(「もの言わぬホムチワケ皇子のためなら」の記事参照)。記紀ともに但馬国へ求めたことが記されており、紀では当地で捕まえたとも。
創建はその神話がきっかけとなりなされたとしています。ご祭神も天湯河板挙命である可能性も指摘してされています。
◎次にこれは当社も指摘しており、ご祭神となっているものですが、久久能智神が原初から祀られていたとするもの。かつて当地周辺は入り江であり、当社地は岬となり突出していたと考えられています。ここで木の精霊である久久能智神が祀られていたと。
現社地は至って平地であり、おそらく背後の山で祀られていたのではないかと思います。
◎さらに当地へ入植した物部韓國連久々比命が祀られているというもの。これは「国司文書」にはっきりと記されています。「人皇四十二代天武天皇元年秋十月 物部韓國連久久比命卒す(亡くなる) 三江村(当地のこと)に葬り久久比神社と称し祀る」と。また同書「但馬神社系譜伝」には「三江郷 久久比神社 城崎郡御贄村鎮座 祭神物部韓國連久久比命」と(いずれも他サイトより引用)。物部韓國連久久比命は城崎郡司。これは公文書の記述であり、間違いのないところ。したがって当社の正しい創建由緒はこちらとなります。
◎この「国司文書」の記述に一切触れずに、コウノトリ神話と久久能智神のみを掲げているのは頂けないところ。以上から鑑みて当社の創祀創建由緒、そして後の推移を紐解くとするなら以下の通りかと。
(1)原初は久久能智神が宿る霊地と考えられていた、(2)この霊地に天湯河板挙命(あるいは後裔か)が入植し鉄を採鉱した、そして垂仁天皇のホムチワケ皇子の鵠(コウノトリ)神話が創作され当地も対象の一つとなった、(3)天武天皇の御代に物部韓國連久久比命が郡司となり入植したが没し、祀られることとなり創建に至ったと。おそらく以上が真相ではないかと考えます。
◎なおご本殿背後は山を切り崩して設けられていますが、その断面は赤土。鉄、水銀が採掘されたであろうことが分かります。
◎ご祭神の他説として多紀理比賣命が挙げられています。これは扁額に「胸形大明神」とあることによるもの。原初のまだ当地が入り江の岬であった頃に祀られていた可能性もあります。




この雰囲気だけで「鉄」が採れたのであろうことが分かりました。ご本殿背後に回るとやはり赤土。


「胸形大明神」の扁額。