(太郎生の國津神社 御神木)



伊賀国名張郡に「國津神社」が多く点在します。

国道165号線より南側の山村地帯。

これまで確認できただけで計8社(名居神社を含むと9社)。
名居神社のように國津神社から社名変更されたもの、明治末期に合祀され廃社となってしまったものも多く、全容は把握できていません。

*國津神社(滝之原、未参拝)


手掛かりとして滝之原の國津神社(記事未作成)の社伝には、
桓武天皇の延暦年間(782~805年)に桓武天皇が66社の國津明神を勧請してきたとあります。伊賀国の豊穣を祈願したとされ、その國津明神は大和三輪明神の分霊であるとも。

ところがその社の鎮座地は、伊勢の神宮の神領であった「六箇山(むこやま)」であり、大己貴神を祀る國津神社として名居神社より各村に分祀された一社であろうと(三重県神社庁による見解)。

ここにいう「六箇山」とは名張郡夏見郷辺り。

神宮に朝夕御饌に供する「竹および藤、黒葛」製の箕が貢納されていたようです。

当初は大まかな区域だったようですが、承平四年(九三五年)に四至が定められています。

比奈知・針生・長木(現在の奈垣)・布乃布(布生)・大野・太良牟(太郎生)・色豆・上家・菅野・土屋原・曽児(曽爾、大和国)・高羽の地区。
※比奈知を除き()書きの無いものは確認できていません
※以上「皇太神宮儀式帳」による


さて、以上をどうみるか。

まず桓武天皇が勧請されたものなのか、
名居神社から分祀されたものなのか。

やはり神宮領であったため、名居神社からの分祀とみるべきでしょうか。

その名居神社は599年に起こった大地震に起因するものとし、大地を鎮める神として大國主神が祀られたとするのが有力。
当初から大國主神であったのかどうかは不明。

そして神宮に貢納されたのが、「竹および藤、黒葛」製の箕。

これだけをもって「國津」を「葛」からの転訛とするのは早計すぎますが、
やはり「國津」=「葛」=「九頭」ではないかと考えます。

都祁地方の國津神社はやはり九頭神であり、
宇陀や吉野の葛神社もやはり九頭神であるかと思います。

元々水神が畏敬の念をもって祀られていたところに
修験道の「戸隠信仰」や「白山信仰」と結び付き、さらに仏教の「八大龍王」などとも結び付いたりと姿を変えていったものかと思います。

変わったといっても根本にあるのは「荒れ」て「荒ぶ」(すさぶ)、「水神(龍神)」。

これはまた東国の「アラハバキ神」と観念的に通ずるものがあるのでしょうが、これはもっと勉強を重ねてから。

いずれしっかりとした記事が書けるようになりたいものです。


ところで伊賀国や伊勢国の、特に山間部の神社を訪れていると
ひたすら目にするのが「山神」の集合体。

これは近隣の「山神」すべてを、特定の神社境内に寄せ集めたもの。

三重県は全国でもっとも明治の合祀政策を進めた県ですが、
「山神」まで合祀されています。


(名居神社の山神)



ところが伊賀国は「山神」に対しての村人たちの古来からの風習を残している地域。


(上比奈知の國津神社)




この「鉤引き」とは、山の神迎え神事。

(主に)正月明けに行われます。
「山神の碑」の辺りに注連縄を張り、各々がウツギの枝を束ねた「鉤(鍵)」で引っ掛けて山神を降ろしてくるもの。

もちろん山神に五穀豊穣を見守ってもらうためのもの。

この神事自体は、「鉤引きの唄」の歌詞にあるように近世からのもの。
ところが山神を田に迎えるという観念は、全国で古代から自然発生的に生まれたようです。

それがこの伊賀国を中心とした地域には
はっきりと残っているのです。


(上長瀬の國津神社)



この「山神」が國津神社に関連していると思えてなりません。

もちろん「山神の集合体」は國津神社に限ったものではありませんが。

(牛庭神社)