☆ 崇神天皇皇子倭彦命 身狹桃花鳥坂墓
 (桝山古墳)(むさのつきさかのはか)



大和国高市郡
奈良県橿原市鳥屋町
(P無し、近隣停め置き不可、かなり遠くに停めて歩く必要あり)



崇神天皇皇子 倭彦命の治定墓であり、宮内庁管理の皇族墓。

兄弟姉妹の顔ぶれがそうそうたるもので、倭彦命は影が薄い…。

活目入彦五十狹茅尊(垂仁天皇)、倭姫命、豊鋤入姫命、渟名城入姫命…等々。

倭彦命の事績の記述は記紀ともに無し。ところが一つ重要な記述があるのです。

それがこちら。
━━垂仁天皇二十八年冬十月、天皇の同母弟である倭彦命が薨じた。十一月に倭彦命を身狭桃花鳥坂に葬った。近習者を集め陵域に生き埋めにした。ところが数日が経てど死なず、昼夜泣き呻く。遂に死んでしまい、腐肉を犬や烏が漁っていた。天皇はこの泣き呻く声を聞き、悲しみ心を傷めた。群卿(まへつきみ)に「生前にいくら愛しくしていたからといって、これではあまりに痛々しい。古来からの風習と雖も良くはない。今後は議論し殉死を止めるように」━━(大意)

これは崇神天皇による「殉死の禁令」。
古来からの風習といったように記されていますが、記紀においての殉死の記述はこの一箇所のみ。「魏志」倭人伝には卑弥呼が没した際に殉死があったとは記されているため、日本にはそういった風習があったのだろうと考えられます。

そして垂仁天皇三十二年、日葉酢媛が薨去した際には野見宿禰が代わりに埴輪を立てることを提案。天皇は大いに喜び、以後それがしきたりとなったとあります。

ただしこれまでの発掘、研究成果からは人物埴輪が出現するのは古墳時代中期中葉(5世紀中頃)。時代はずいぶんかけ離れています。

これは野見宿禰を祖神とする土師氏(菅原氏となった裔も)が、かつて古墳時代には埴輪製作や送葬儀礼に携わっていた功しを、紀に反映させたものではないかと。

肝心の古墳は一辺90mの方墳。
方墳としては最大規模であるとか。

ところが江戸時代に形を変えられてしまい、前方後円墳になってしまいました。

皇族墓であるため発掘等は行われていません。なぜか埴輪片が出土しています。周辺から出てきたのでしょうか。

その埴輪片から5世紀前半に築造されたとのこと。倭彦命とはあまりに時代がかけ離れており、明らかに治定違い。

すぐ近くの宣化天皇 身狹桃花鳥坂上陵といい、おそらく違う場所で眠っているのかと。またこの墳墓はいったい誰のものなのか…。

古墳に関しては詳しくはないので真実は分かりかねますが、正しいと思われる墳墓は知っておきたいものです。







春日神社(後ほど記事UPします)から当古墳の全景を。