牛鼻神社
紀伊国牟婁郡
三重県南牟婁郡紀宝町鮒田1509
(境内に停められるが坂が急、社前道路がかなり広いのでいつも停め置きしています)
■祭神
國靈比女命
高倉下命
大屋島子
譽田別命
天兒屋根命
◎これは「熊野権現御垂迹縁起」に記される「北の石淵(いわぶち)の谷」を当社に宛てるもの。
◎阿須賀社の「北」に神社は見当たらず、当社は北西。そして有力な候補地である貴禰谷神社
も北東。ただし「新宮川(熊野川)」を挟んでほぼ正対するのが貴禰谷神社、正確には「北」でないもののそちらの社とするのが妥当でしょうか。
◎社頭案内には以下の由緒を掲げています。
━━当社の創建は、今を去る五千年と言い伝えられ紀州地方最古と言われる。
江戸時代役牛による耕作が始まった頃より、牛の守り神として、字名にちなんで牛鼻と呼ばれるようになった。
また神武東征の折に牛の鼻を繋いだとも伝えられる。
日本紀に曰く、景行天皇重ねて南方の悪神を征し給う時、三輪崎荒坂山に軍立し給い、御陣を秋津野に召されて日久しく御粮尽きける時に、熊野村の千翁命稲千束奉りて奉敬す依って御陣堅固になり悪神共無為に治まる也。天皇御感のあまり千翁命姓を給い穂積と号す。命に三子あり、榎本、鈴木、宇井、日本武尊熊野村に御鎮座の時、大成榎木の元に檀を築き鈴をもって奉迎するに、右の功を称して三子の屋号とするという。故に本社の祭神は熊野三苗はじめ熊野地方一帯の祖神を祀るところ也━━
◎先ず神武東征の折の牛の鼻…というのは後世の附会でしょうか。
次に「日本紀に曰く…」として「南方の悪神」退治の説話が語られていますが、紀にこのような記述は存在しません。「熊襲」を「熊野」と取り違えたのでしょうか。だとしても紀には「筑紫」「日向」等の九州の地名が記されており、九州遠征であったことは明白。「三輪崎荒坂山」等の記述は一切ありません。おそらくでっち上げたものでしょうが、それにしても甚だお粗末な創作話。「日本武尊御鎮座…」ともありますが、こちらもお粗末な創作話。そのような記述は一切見られません。
熊野速玉大社の創建が景行天皇の御宇とされているため、それを悪用してでっち上げたのでしょうか。
◎なお「北の石淵の谷」へ遷ったのは熊野権現3柱のうち家津御子大神の1柱のみ、残る熊野速玉大神と熊野夫須美大神の2柱が、熊野速玉大社へ遷ったとされています(2柱は阿須賀社へ遷ったとも)。そして熊野夫須美大神は「御船島」へ。
◎「熊野川」河口で盛大に行われる「御船祭」が、遷座の経緯を反映していると言われます。熊野夫須美大神の神霊を乗せた御輿が熊野速玉大社から「御幸船」へ。阿須賀社と貴禰谷神社の間に進みここで船は転回、「御船島」へと遡り島を周回した後に熊野速玉大社に戻ります。当社前は通過するのみ。
◎公にされているご祭神のうち「國靈比売命」と「大屋島子」が不明。國靈比売は当地を統べていた族長を祖神(女神)として崇めたものかと。丹敷戸畔ではないかと考えるのは飛躍し過ぎでしょうか。大屋島子についてはまったく不明、「大八州(オオヤシマ)」子ともとれそうですが。
◎創建由緒については度の過ぎた甚だお粗末極まりない内容であるものの、以上のように熊野の歴史を探る上では重要な由緒を抱えているのではないかと思います。
*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。