賣太神社
(めたじんじゃ)


大和国添上郡
奈良県大和郡山市稗田町宮ノ森319
(道路向かいに大型駐車場有)

■延喜式神名帳
賣太神社の比定社

■旧社格
県社

■祭神
稗田阿礼命
[副斎神] 天宇受賣命 猿田彦神 


「古事記の語り部」(古事記編纂に関わった)稗田阿礼(ヒエダノアレイ)を祀るとする社。2012年には古事記編纂1300年を記念した事業の中心の一社として、大いに盛り上がりを見せました。
◎稗田阿礼とは天武朝から舎人として仕えた下級役人。天武天皇に記憶力の良さから「帝記」「旧辞」の誦習を命じられ、元明天皇の御宇に阿礼が誦するのを太安万侶が筆録し、古事記が編まれたとされます。
◎ところがおそらく本来のご祭神は、別の神であろうと考えられています。そもそも古事記自体、本居宣長が「古事記伝」で大々的に取り上げるまでは眠っていたようなもの。稗田阿礼の名が世に知られるのはその時のこと、主祭神となり得たのもそのとき以降かと思われます。
◎記に記されるようなことが仮に史実であったとしても、下級官僚(舎人であった)の人物を祀る神社、まして式内社などということはあり得ません。
◎当地は猿女君たちが居住していたところ。朝廷より養田を賜り、それを「猿女田」と呼んでいました。いつの頃か「猿」が消え、「女田(賣太)」だけが残ったとする説があります。猿女氏は稗田氏と同族と考えられています。
◎ところが多くの資料は「比賣陀君(氏)」が斎祀る神社であり、「比」が脱落したものとしています。「神社覈録」「神名帳考証」「大和志料」「特撰神名帳」など。稗田氏は姓に関して記される史書が見当たらず、比賣陀氏の「M」が脱落したものかもしれません(Wikiは無姓としています)。そして諸資料では比賣陀氏の祖神 菟上王(ウナカミノミコ)をご祭神としています。
◎菟上王は日子坐王の孫神で、記にのみ表される神。曙立王(アケタツノミコ)とともに垂仁天皇の御子で言葉を話せなかったホムチワケ神を出雲に連れて行った神(→ 「モノ言わぬホムチワケ皇子のためなら…」の記事参照)。結局、話せるようになり菟上王は「出雲の神宮(熊野大社か)を造らせた」と記されます。
◎当地「稗田」は、大和を南北に走る古代幹線道路「下ツ道」沿い。紀の天武天皇即位元年七月の条に、「将軍大伴連吹負(オオトモノムラジフケヒ)が乃楽(なら)での決戦に向かい稗田に到着。河内から援軍が多数到着しているとの報告を受けた」(大意)とあります。野営地となったのでしょうか。わざわざ地名を記す限りは、特別な地であったのではないかと考えたいところ。
◎平城京の羅城門跡から真南へ1kmほど下った地。極めて重要な場所であったと思われます。以下は個人的思量となりますが、朝廷に上手く取り入った猿女氏がこの重要な地を与えられたのではないかと考えます。
◎猿女氏は宇治土公(ウジトコ)の庶流であり、天宇受女神の末裔であるとするのは柳田国男氏。宮中祭祀を行う際に神楽舞など重要な役職を担う猿女氏、その一部が伊勢から当地へ移ったものとされます。近くに住まわせることで便宜を図ったのでしょうか。それとも猿女君たちが斎祀る猿田彦大神が、この頃には塞神的な神格を持ち合わせていたたゆえ、この場所でその役割を担わせたのでしょうか。
◎神名帳はさらに後の時代の書であり、すでにその頃には天宇受女神(猿田彦大神もか)が祀られる神社となっていたのではないか、多くの資料に反することですが個人的にはこのような可能性も考えています。

*写真は2018年6月と2021年9月撮影のものとが混在しています。













磐座らしきものが覆われている境内社、祭神等は確認できていません。