新屋坐天照御魂神社(福井)
(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)

摂津国島下郡
大阪府茨木市西福井3-36-1
(P完備)

■延喜式神名帳
名神大 新屋坐天照御魂神社 三座の論社

■旧社格
郷社

■祭神
天照皇御魂大神
天照国照天彦火明大神


同名他社が三社、福井(当社)、西川原上川原にありいずれも名神大社の論社とされています。
崇神天皇の御代、当社が鎮座する奥山の「日降丘」に神が降臨、伊香色雄命に勅して祀らせたのが創祀とされています。
景行天皇の御代には天照皇大神であるとして、五百野皇女に祀らせたとあります。
神功皇后の三韓征伐の際には当地の川原で禊を行い、凱旋後には当社祭神の幸魂を西川原(川下)、荒魂を上川原(川上)に分祀したとされます。
神名帳では三座となっているのでこの三社をもって三座とする説もありますが、素直に元々三座(三柱)あったとするのが正しいのでしょうか。
[以下Wiki引用]
『延喜式神名帳』には「新屋坐天照御魂神社 三座 並名神大 月次新嘗 就中天照御魂神一座預相嘗祭」と記載されており、3座中の1座が天照御魂であることが判明する。この天照御魂神については日本三大実録正月27日条に、「奉授…摂津国…従五位下勲八等新屋天照御魂神、並従四位下」とある。

また『日本三代実録』同年5月26日条には「摂津国従五位下伴馬立天照神、伴酒着神並授正五位下」とあるが、摂津国の「天照神」として知られるのは当社だけであり、天照御魂神は既に「従四位下」に叙されているわけなので、この「天照神」は残りの2座中の1座であり、「伴酒着神」が最後の1座であると推定できる。なお、それ以前、「続日本後記」嘉祥2年(849年)12月15日条に「奉授伴馬立天照神、伴酒著神從五位下」とあって、これは国名を欠くものの、神名と神階の両者から、当社の伴馬立天照・伴酒着2神に該当することが分かる。すなわち本来の当社祭神は、■新屋(坐)天照御魂神 - 名神大社で月次、新嘗、相嘗祭に預る■伴馬立天照神 名神大社で月次・新嘗祭に預る■伴酒着神 - 名神大社で月次・新嘗祭に預るであったと考えられている

これが正解なのでしょうか。ところが南北朝時代の資料には島下郡には4郷あり、うち「新屋」は西川原の辺りとされています。真相は不明、上川原に比べると西川原は現在に限っていえば規模も大きく、境内社であった疣水磯良神社までが独立。

ところで、天照神を祀り「日降丘」(写真は下部に)とも称していることから日祀りが考えられます。当社から見て冬至の日の出の方向に西川原の社が鎮座(旧社地の疣水磯良神社はその延長線上)、上川原の社から見て夏至の日の出の方向に当社が鎮座。また当社からぴったり南東45°の方向に溝咋神社、60°の方向に天石門別神社(茨木神社奥宮)が鎮座しています。