また『日本三代実録』同年5月26日条には「摂津国従五位下伴馬立天照神、伴酒着神並授正五位下」とあるが、摂津国の「天照神」として知られるのは当社だけであり、天照御魂神は既に「従四位下」に叙されているわけなので、この「天照神」は残りの2座中の1座であり、「伴酒着神」が最後の1座であると推定できる。なお、それ以前、「続日本後記」嘉祥2年(849年)12月15日条に「奉授伴馬立天照神、伴酒著神從五位下」とあって、これは国名を欠くものの、神名と神階の両者から、当社の伴馬立天照・伴酒着2神に該当することが分かる。すなわち本来の当社祭神は、■新屋(坐)天照御魂神 - 名神大社で月次、新嘗、相嘗祭に預る■伴馬立天照神 名神大社で月次・新嘗祭に預る■伴酒着神 - 名神大社で月次・新嘗祭に預るであったと考えられている。
これが正解なのでしょうか。ところが南北朝時代の資料には島下郡には4郷あり、うち「新屋」は西川原の辺りとされています。真相は不明、上川原に比べると西川原は現在に限っていえば規模も大きく、境内社であった疣水磯良神社までが独立。
ところで、天照神を祀り「日降丘」(写真は下部に)とも称していることから日祀りが考えられます。当社から見て冬至の日の出の方向に西川原の社が鎮座(旧社地の疣水磯良神社はその延長線上)、上川原の社から見て夏至の日の出の方向に当社が鎮座。また当社からぴったり南東45°の方向に溝咋神社、60°の方向に天石門別神社(茨木神社奥宮)が鎮座しています。