縁 -1- | 慶應義塾体育会水泳部飛込部門

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こんにちは



ブログに登場するのも最後となりました

4年石塚 菜那帆です。



先に謝っておきます。

すみません。2投稿にわたります。

文字制限に引っかかりました。

(自分でもびっくり!)


がくが言っていた噂の通り、

山に籠って執筆してたら手が止まらなくなって…🙇🏻‍♀️


…冗談です。それほど思い出があったのです。


そして超個人的話づくしなこともご了承ください🙇🏻‍♀️





先月のインカレをもって、

小学5年生から高校2年生まで

地元茨城のジョイフルで過ごした6年間、

慶應で過ごした大学4年間、

10年間の選手生活を終えました。



いまだに

家出る時には

あれ、水着とセーム持ったっけ?

寝る前には

練習ノート書いたっけ?

と自分に問いかけたり、

学校のあとは

家と反対方向の日吉へ向かうホームに

無意識に足が動いていたりしてます。


その瞬間に

あぁ生活の中心だったんだなぁ

と改めて実感します。


そして、

あぁ飛込大好きだったなぁ

としみじみします。


本当に大好きでした。


でも、私は持って生まれたセンスもなければ

言われた事をすぐ直せる器用さもなく

根本的に飛込に向いていない人でした。

10年間で大した成績を残せなかった、

これが何よりもの証拠だと思います。


「好きこそ物の上手になれ」という言葉がありますが、

私には「下手の横好き」という言葉がぴったり。

ジャイアンの歌のように(ジャイアンごめんね)



メダルや結果など

目に見えるものは残せなかったけれど、

競技を終えた今、1番強く残っているものが

「飛込が好き」ということにすごく幸せを感じています。



引退してからというもの、幾度となく

飛込人生のスタート地点に戻っては

今日までを振り返る、ということをしていますが

その度に沢山の〝縁〟に気づかされます。


人との縁。

場所との縁。

出来事との縁。

言葉との縁。


最後のブログでは

そんな縁で溢れていた私の飛込人生を

書いていきたいと思います。






そういえば始めたきっかけを

書いたことなかった気がするのでそこから。

姉の影響で2歳から水泳をやっていました。


当時の動画が出てきました。

レッスン後にある遊びの時間です。




このビデオを撮ってる母は

まさかこの子が飛込選手になる

とは思いもしなかったでしょうね。


だって、ジャンプのJの字もありませんもん🙄



その後も水泳を続け、

姉がチーム移籍すると同時に私も一緒に移籍しました。

そこがジョイフルでした。

珍しいことに競泳のほかにも

飛込、水球、シンクロがありました。


競泳に飽きてきてしまった私は

あ〜あの高いところから飛んでみたいな〜

と飛込が気になり始めました。


そんなときちょうど体験が!


グネングネンする不思議な感覚の板。

登ってみるとすごく高く感じる台。

一瞬なはずなのにスローな景色。

ジェットコースターで感じるあのフワッと感。


めっちゃくちゃ楽しかった!!

好奇心旺盛な私には、

それら全てが新鮮でたまらなかったのです。


体験後に八千代コーチからお誘いの言葉があり、

2つ返事で返し、そこから私の飛込人生がスタートしました。


小学生5年生の時のことでした。




始めた当初からみてくださったのは

選手として、人間としての基礎部分を作ってくれた

尚子コーチでした。


声も涙も出す余裕が無いほど痛い鬼柔軟。

髪の毛まで汗びっしょりになる鬼トレーニング。

厳しいプール練習。


当時の私は、なんて鬼やと思ってました。

(尚子コーチが読んでたらどうしよう🤭


あの頃の幼すぎた私に会えるなら言いたいです。

「今やってること、今言われてること

すべて後々の基盤になるからね」と。

あと「尚子コーチは鬼じゃないよ」ってことも。

礼儀面や親への感謝の気持ちを持つことなども

口酸っぱく言われてました。


あの時受けた沢山の言葉や教えの本当の意味が

やっと身に染みて分かるようになりました。

大切なことほど後になって気づくものですね。

(今柔軟に苦しんでる1年生へ。まさにこれよこれ😎




今思えば後々に繋がっていたことが多かった小学6年生。



練習ノートを見返してて思い出したのですが

八千代コーチは慶應と繋がりがあったようで

1回だけ日吉へ練習しに行ったことがありました。


まさかここがホームプールになる日がくるなんて

これを書いている当時の私は露知らず、、、




初めて県外の人の演技を見た関東jo


入水音とノースプラッシュが印象的で、

シンプルで丁寧なはるかちゃんの演技に一目惚れし

〝憧れ〟の存在になりました。

〝いつか日本選手権で戦いたい〟

という大きな目標もできました。


あの日抱いた憧れと目標は、

引退する日まで、揺るがない大きな軸となりました。



ラストイヤーのつもりでいた中学3年生。


これが最後の試合と思って出た春jo

初めて全国で入賞できました。

強豪チームが出場していなかったこともあり

運が良かっただけなのに、この結果に調子にのった私は

高校でも続けることにしました。

(後輩たちへ。神様がのセリフはここでは言わないよ😒



そして高校生になった4月、

憧れのはるかちゃんが筑波大に入学され、

なんと一緒に練習するようになりました。


自分が目指すべき演技が目の前にあって、

自分ができないことを当たり前のように

やっている人がいる、という環境は

最高すぎるほどに最高だったわけですが、

肝心の私の飛込は下がる一方。


後輩たちには追い抜かれるし

全国行ってもチームで入賞できないのは私ただ1人。

落ちこぼれでした。


でもそれは当たり前の結果でした。

いつからか、

小中学生の頃にはあった上手になりたい!という向上心よりも

怖いこと痛いことがいやだという気持ちがのほうが

大きくなっていて、苦手な2.3群から逃げていたのです。

そんな私の中にも変わらず飛込を好きな気持ちはありました。


でもそれは単純に飛込自体に対してで

点数や順位がつく飛込競技としてではないことに気づき、

わざわざ辛い思いをしてまで続ける意味も見いだせなくなり

もう勉強にシフトしようと

高校2年生で引退を決めました。





同期に感化された高校3年生の夏。


ネット配信でインターハイを観ていました。


ただただかっこよかった。

ただただ感動した。


目の前の1本に懸ける純粋な目を持って、

画面越しでも伝わってくる緊張感の中で

ベストダイブを繰り出す同期の姿が

私の目にはあまりにも眩しく映りました。

と同時に、自分で立てた目標を達成するどころか

落ちこぼれて終わった自分が

無性に恥ずかしく、情けなくなりました。


もう一度真剣に飛込をやりたい。


こうして大学で復帰することを決めました。

「復帰してくれてありがとう」

なんて言葉を同期はかけてくれたけど

もう一度飛びたいと思わせてくれたのは

紛れもなくみんなのおかげでした。


あのインターハイからもう4年も経ってしまったけど

、、、心からありがとう!



そして、慶應飛込生活がはじまりました

─────────『縁 -2- 』へつづく