こんにちは、Keikoです。

 

Story of Life 私の人生 

前回の記事はこちら 第90話:スポーツ・ジャンキー時代 Part 4 〜 富良野スキー&その後

 

4回に渡り、テニスとスキーにどハマりだった頃のお話をしてきました。

甲状腺手術をするまでの間、殆ど運動と縁がなかったことに対する反動に加えて、会社のアクティブな雰囲気も相まって、事務員さん時代は本当に色々なことにチャレンジしていましたが、中でもテニスとスキーは「別格」でした。

他のスポーツについては、また別の機会にお話ししようと思いますが、今日は母が他界するまでについてお話をしようと思います。

 

以前、第78話:青天の霹靂〜母の病第79話:まさかの結婚 、第80話:結婚後の日々で、母の病に関する経緯をお話ししているのですが、母は1986年に直腸癌が発覚、その時点でステージ4に近い状態だったため、手術で人工肛門となり、術後は抗がん剤治療と放射線治療を3クール受けて、その後は経過観察となりました。

 

私が知っている母は「気丈で強い人」なのに、直腸癌手術を機に、驚く程「気弱な人」になってしまいました。

思い返してみると、人工肛門になったことで「かたわ」になってしまったと落ち込み、抗がん剤治療と放射線治療は、母の想像以上に辛かったのだと思います。

完全に「鬱状態」で、まるで「別人28号」のよう!

その当時、まだ22歳だった私は「どう母に接して良いのか」が全く分からなくなっており、あろうことか「母の泣き言」をきっかけに、まさかの結婚をしてしまいました。

 

そんな状態の母でしたが、病院の勧めで入会した「オストメイトの会」で、同じ病気の仲間と一緒に過ごすようになり、沢山の料理を作ってイベントに積極的に参加するようになりました。

そのお陰で、入会後3年くらいの間は以前のような明るさを取り戻しており、私も内心ホッとしていました。

また、実家と同じ建物の中に住んでいたので、私は両親と一緒に、(最低限)朝食は一緒に取るという生活をしていました。

シフト勤務の旦那さんは、私よりも両親と一緒にいる時間がずーっと長かったこともあり、両親とは(私では絶対にあり得ない)かなり良い関係を築いていたので、暫くの間は、我が家で「不穏な空気」を感じることが全くありませんでした。

 

私がテニススクールに通い始めたのは、結婚2年目、つまり母の手術から2年目の時でした。

この頃、母はオストメイトの会で忙しくしており、人工肛門を除けば「以前の母」に戻っていて、毎日楽しそうに過ごしていましたので、お互いに何の干渉もせず「好きなこと」に没頭していました。

 

そんな状態が急変したのは、その翌年1989年、年号が昭和から平成に変わった年の夏のことでした。

母は「夏風邪」を引き、暫く風邪薬を飲んでいたのですが、咳がなかなか治らない状態になっていました。

その頃、防衛医大の定期通院は2ヶ月に1度だったのですが、9月の通院時に「風邪が治らない」と主治医の先生に話したようで、いつもよりも検査項目を増やして調べてもらったのですが…結果は「夏風邪」ではなく、何と「癌の再発の疑い」とのこと(驚)

肺に転移している可能性があるということで、緊急入院して、精密検査をすることになったのでした。

その時点では母本人を含め、家族全員が診断に驚いたものの、手術後既に3年が経過しており、かなり元気に動き回っていたので「きっと直ぐに良くなって元通り」程度にしか考えていませんでした。

が、検査を進めていくうちに、癌細胞がリンパ節に転移していることがわかり、だんだん雲行きが怪しくなっていきました。

 

所沢の叔父家族が、最初に防衛医大に入院した頃と同様に、毎日交代で病院に顔を出してくれたのですが、シフト勤務だった旦那さんも、平日の夜勤明けの日には、病院に直行してくれ、母の話し相手になってくれていたので、前の入院時と比べると、叔父家族に対しての肩身の狭さはかなり軽減され、その点だけは気が楽になりました。

結局抗癌剤治療を1クールして、母は10月に一旦退院したのですが、入院前と比べて、明らかに体力が落ちて弱っているのが分かりました。

母本人には、あえて伝えなかったのですが、主治医の先生のお話によると、余命はせいぜい半年程度とのことで、かなり驚愕したことを覚えています。

もしかすると、母は薄々気がついていたのかもしれません。

それでも10月中は、家族と一緒に食卓を囲むことが出来ており、少しは食事も食べていたので、家族全員で「今までと何ら変わらない」生活を送っていました。

私は、毎日会社に通い、帰宅後は毎晩テニススクールに通っていましたし、父も仕事から戻ると、相変わらず「カラオケ三昧」の日々を送っていましたが、11月中旬頃になると、母は全く食べることが出来なくなり、体重は日を追うごとにどんどん落ちていき、わずか半月の間で、本当に「骨と皮だけ」のガリガリ状態になり、家の中で移動することすら出来ない状態になってしまいました。

 

この頃なると、完全に手術前後の「気弱な母」に戻ってしまい、かなり泣き言をこぼすようになっておりましたが、私は、そんな母がどうしても許せなくて。

子供の頃から知っている「母」とは、180度正反対になってしまったことが、とても信じられなかった。

その時、私は26歳の誕生日を迎えたばかりでしたが、22歳の頃に陥ったパニック状態から比べると、3年歳を重ねただけあって、かなり「マシ」な状態にはなっていたとはいえ、それでもまだ「母にどう接して良いのか」か分からず、自分なりにかなり苦しんでいました。

 

私が病気と戦っていた10代後半から20代前半の頃、入院する度に、病室でいつも私の姿を笑い飛ばしていた母。そして、いつも私に叱咤していた母。

その姿が脳裏に浮かび、今度は私が母に対して「同じような」セリフや態度を、そのままオウム返しすようになっていきました。

別に、母に対して意地悪をしている訳ではなく、ただただ「私が知っている、元の母」に戻って欲しかったのだと思います。

「甘ったれるんじゃない!」とか、「人に頼ってばかりじゃなく、自分で頑張らないとダメじゃん!」など、事あるごとにかなりキツい言葉を投げかけ、日々常々、叱咤するようになっていました。

母が「今日はテニスを休んで側にいて欲しい」と言っても、母のお願いを聞くことは一切なく、テニススクールがお休みの月曜を除いて、毎日休むことなくレッスンに通い続けていました。本当は気になっているのに「スクールは家の前だし、1時間で戻ってくるじゃん!」と突き放し、でも後ろ髪を引かれながら、母から逃げるように家を出て行く日が続きました。

母は、きっと寂しい思いをしていたのでしょうね。

当時、我が家には自家用車もなく、誰も車の運転免許を持っていなかったこともあり、叔父(母の弟)夫妻が母を車で病院まで連れて行ってくれたのですが、その時に「ポロッと」私に対する愚痴をこぼしたようで…

それを聞いた叔母が激怒し始め、私は母方の親戚から「親のことを放り出す、人間の心を持たない鬼畜同様の冷酷な奴」というレッテルを貼られ、非難轟々浴びるようになりました。

防衛医大の主治医の先生から「全身に転移しているので、痛み止めを使う以外はもう何も出来ない」と言われ、他の病院(ホスピスに近い)を紹介されて、勤労感謝の日の前日に再入院。その時、余命はせいぜい1ヶ月と告げらました。

結局、再入院から12日目の12月4日の早朝に、母は旅立ちました。

事務員さん1人の会社勤めでしたが、母が危篤ということでお休みをもらうことが出来、また12月1日が土曜日だったこともあって、亡くなるまでの3日間は母の病室で寝泊まりしました。

 

母がまだ少し喋ることが出来た12月1日の夜、母から私に「最期の言いつけ」がありました。

この時、病室には私しかおらず、他の誰も聞いていませんでしたが、内容は以下の3つ。

1. 父が喪主になるけれど、何も出来ない人だから、葬儀は全てはお前が仕切りなさい。

2. 役所の手続き、保険の手続きなどは、お前が全部速やかにやりなさい。決して他人に頼まないこと。

3. 誰が何と言おうと、全てが終わるまでは絶対に泣くな。人前で涙は絶対に見せるな。

 

この時の母は、私の小さい頃から知っている「誰にも頼らず、1人で生きていく」を信条として育ててくれた「気丈な元の母」でした。

人間の死亡率は100%なのだから「いつかその日を迎えるのだ」ということは、頭では良く理解しているものの、実際に母の望む通りにやり切れるのかと、不安になりました。

「両親に何かがあった時にどうすべきか」ということについては、父が足の手術をした中学生の頃からみっちりと手順を叩き込まれていたので、それを粛々と遂行すれば良いと分かってはいましたが、やっぱりかなりの重荷を感じ、悲しく、寂しくなりました。

 

母の最期の時、私は母の枕元で「お母さん、もうこれ以上頑張らなくていいよ」と言葉を掛けました。意識が朦朧としていた母に聞こえていたかどうかは分かりませんが、1回大きく息を吸って、母は旅立ちました。

そこから3日間、私は葬儀の手配を手始めに「母の言いつけ」をしっかりと遂行することに専念しました。

通夜は翌日の5日、葬儀は6日に決まったので、4日の日は、母の遺体が病院から家に戻るだけ。それは父と旦那さんに任せ、朝から親戚や母の友人達への連絡をし、役所の手続き、簡保の生保手続き、お寺や葬儀社との打ち合わせ、銀行関連の手続きと、髪を振り乱して自転車で1日中あちらこちら駆け回りました。

 

葬儀社の支払いは後日銀行振込でしたが、お寺への支払いは金額がかなり大きく、かつ通夜開始前に、全額現金で支払う必要があると分かり、正直なところかなり焦りました。

翌日までにお金の工面が出来るかとても不安でしたが、そこを救ってくれたのが、郵貯と簡易保険でした。

死亡証明を入手した後、その足で隣の郵便局に行き、母が亡くなったと話をしたら、今では絶対に考えられないのですが、まず母名義の預金をその場で全部解約してくれ、次に死亡保険請求の手続きをしてくれ、翌日の午前中に自宅まで保険金を現金で持ってきてくれました。

お陰で、お寺への支払いは辛うじて何とか確保出来たのですが、直ぐに使える「現金」はある程度必要だと、身を持って知る良い教訓となりました(汗)

また、十条にいる父の姪が「万が一のために、少し現金を」と工面してくれたので、4日の夜、久しぶりに十条に赴き、有り難くお金をお借りしましたが、結果として母の死亡保険金で賄えたので、手をつけずにお返しすることが出来ました。

葬儀の方は、私の会社の計らいで、お兄さん達が通夜と葬儀の手伝いをしてくれることになり、とても助かりました。

父は母の想像通りで、ただオロオロしているだけで、何もすることが出来ず…

叔父や叔母(実の姉兄)に慰められていましたっけ。

葬儀一連の行事が終わり、火葬した母の遺骨を持って帰宅。

冗談抜きで「泣いている暇」は全くない、バタバタ状態の3日間でしたが、その間は涙1粒も出ず粛々とやることをこなしていましたが、私の姿を見ていた所沢の叔母(母の愚痴を聞いて激怒した彼女)は、最後まで親戚の前で私のことを「親が死んでも涙1つ出さない、人でなしの冷血娘」と罵っていました。

私は、親戚からどう思われようが構わないという気持ちで、それよりも「母の言いつけ」を守る方がずっと大切だったのです。

 

全てが終わって自分の家に戻り、1人になったところで、初めて泣けてきました。

誰も居ない真っ暗な部屋で、涙が出なくなるまで思い切り泣きました。

素直に母と向き合えず、ひたすら逃げ続けていた自分が、本当に情けなくなりました。

本当に、酷いことをし続けて、母を悲しませてしまったと後悔の念が湧いてきました。

あれから33年経った今、もし母と話すことが出来るなら、当時のことを心からお詫びしたいです。

お母さん、本当に親不幸な娘でごめんなさい。

親孝行はもう出来ないけれど、今後は「恩送り」をして生きて行こうと思います。

 

〜続く

 

今日はここまでです。

次回は、第92話:プレジャーボート に続きます。

 

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

またお会いしましょう♪