こんにちは、Keikoです。

 

Story of Life 私の人生 

前回の記事はこちら 第78話:青天の霹靂〜母の病

 

前回は、母の直腸癌発覚から手術までのお話をしましたが、今日はその続きのお話をしようと思います。

 

ステージ4に近い状態だったので、手術で可能な限り癌組織を取り除く必要があり、結果として母は人工肛門をつけることになってしまいました。

手術後、主治医の先生からホルマリンの瓶に入った直腸と肛門を見せて貰いましたが、見るからに「酷い癌」だと分かるくらい真っ黒でグチャグチャで、とてもグロテスクな状態でした。

母にこれを見せるかどうか悩みましたが、綺麗事や慰めで済む話ではないから、事実を受け入れてもらう方が良いと判断し、先生に「母が希望すれば、これを見せて欲しい」とお願いしました。

 

麻酔から醒めた母と一緒に、先生から今後の治療についての説明を受けました。

この時に、母はホルマリンの瓶に入ったものを見たいと希望し、結果的に人工肛門になったという事実を知った訳ですが、「お尻が無くなってしまった」と、大粒の涙を流していたことが忘れられません。

先生から、転移の可能性があるので、抗がん剤治療と放射線治療を併用することになるというお話があり、とりあえず1ヶ月入院することを告げられました。

余命については、今後の治療次第という話にとどめている状態でしたので、未来は明るいというよりは、どんよりした曇りから雨に近い状態でした。

先生のお話を聞いている最中、ずっと涙ぐんでいた母。

気丈で我慢強く、母が泣いた姿を見たことが全くなかったから、とても驚いたのと同時に、母のショックの度合いがかなり強いことを感じました。

 

手術の数日後から、抗がん剤治療と放射線治療が開始し、人工肛門の扱い方のトレーニングが始まりました。

元来器用な母ですから、人工肛門の扱い方は直ぐに習得しましたが、お腹から排泄するという事実がショックだったようで、精神的にかなり不安定になっていきました。

また、抗癌剤と放射線の併用治療は、副作用もかなりきつかったようで、私の顔を見る度に「辛い」と泣き言を言うようになりました。

私が約2年前に、同じ病院の無菌室に入院していた時、ミイラ状態になっている私を見て笑い転げていた母とは「別人28号」状態になっており、そんな母を見る私も、かなりショックを受けました。

 

 

本来なら、父か私が毎日病院に顔を出して、母の話を聞くべきだったのですが、2人とも仕事があるから、仕事が終わった後で面会時間内に所沢に行くことが不可能。

平日は所沢に住んでいる叔父の家族に面会してもらうことになりました。

 

「親兄弟には頼らず、ひとりで生きていく」ことを信条として生きてきた母は、叔父の家族が面会に来てくれることには感謝していたのですが、自分の感情を出すことは全く無かったようです。

その代わり、私が面会に行くと、数時間に渡って「怒り」「泣き言」「愚痴」を言い続けていました。

私が出来ることは、実家の家事と、父の食事の面倒を見ることと、母の話をずっと聴くことだけでしたが、母の気持ちは痛い程分かるだけに、私が生まれた時から知っている母と、病院のベッドの上にいる母のギャップが大きすぎて、どう接して良いのか分からず…

毎回、面会時間が終わって病院から家に戻る時に、自分も落ち込んでいました。

 

 

ある日の夜中、突然電話が鳴りました。

寝ぼけ眼で出ると、電話の主は母でした。

恐らく治療の副作用が一番強くて辛かった頃だと思うのですが、開口一番「お前のようなバカ娘でも、自分の目の黒いうちに嫁に行かないと成仏出来ない!」と言い出すではありませんか!

「唐突に何を言い出すのか!いきなりそう言われても…」と、困惑に陥った私(汗)

母の話に1時間くらい付き合って電話を切りましたが、色々と考えたら眠れなくなってしまいました。

 

 

「嫁に行く」=「結婚」と言われても、半年前に諦めていた訳で、この時点では「一生結婚しなくても良い」位に考えていた私ですが、母の余命も分からない状態だったし、お互いに「変な後悔」を残すのもどうかなぁと思い始め、とりあえず「なるべくすぐに結婚しなければ」と考えるようになりました。

 

結婚するには相手が必要な訳ですが…実はその時、1人候補がいたのです。

 

話は年明けに遡ります。

集団会の世話人仲間の同級生女子8人は、私の受講した学習会から数えて4回の学習会を卒業しており、それぞれの受講期ごとに同窓会を企画していました。

ただ、講師の先生が被っている事もあり、先生方に最大4回参加してもらうのはかなり難しい状態。

だったら「4期纏めて合同同窓会を開催しよう」という話になり、私達8人が幹事となって自分の卒業期の取り纏めをし、会の企画をすることになりました。

会場は、事務局に近いお店でということで、大人数が一緒に入ることが出来る「お好み焼き屋さん」に決まり、当日は4期の受講生32人、講師の先生3人、世話人1人合わせて36人集まるという、大きな同窓会になりました。

 

 

8人掛けのテーブルに鉄板2台だったので、幹事は各鉄板に1人。先生と世話人の方は、真ん中で固まって座ってもらい、幹事以外の受講生は、それぞれの期の方が満遍なく座れるように人数配分して、くじ引きで決めました。

 

この時、私のテーブルに座ったメンバーは男性3人だったのですが、どうやらその中の1人に気に入られたらしく(笑)

6歳年上の国鉄職員の方でしたが、特に何も考えず連絡先を教えてしまいました。

 

その時から、手紙や電話が頻繁に来るようになっていましたが、私の中では恋愛感情は全くなく、ただ「仲間のひとり」くらいの感覚しかない状態。

彼は車掌さんだからシフト勤務で、私は当時事務局のお手伝いと学校に通っていたから、昼間の時間が合えばランチをするような感じの付き合いでした。

余談ですが、彼は全くの下戸で、お酒は1滴も飲めないので、夜に居酒屋に行くということは無かったです(爆)

ランチでも私はビールを注文したりしましたが、どの店でも、店員さんは彼の前にアルコールを置く訳で…

グラスを交換して、私がビールを飲み、彼がジュースを飲んでいるのを見て、毎回驚かれていました(汗)

 

話を元に戻します。

私が3月末に引越しをした頃から、彼は「いいなぁ、東京人になりたいなぁ」と、しきりに口にするようになりました。

住まいも、ご実家も千葉でしたし、職場も千葉だったから、あえて東京に来る必要は全くない訳ですが、彼は彼なりに「考え」があった模様です。

当時、彼の職場では結婚ブーム。同い年の同僚が次々と結婚していき、周りから「お前もそろそろ」と言われていたようでした。

そのせいもあったのでしょうが、私が就職して社会復帰した頃から「結婚したい」と言うようになっていたのでした。

半年前のショックから立ち直っていない私は、もう2度と恋愛は出来ないし、一生ひとりで良いと真面目に思っていたから、何度「結婚したい」と言われても、右から左へスルーして聞き流していたのですが…

 

母の手術をきっかけに、ある意味「追い込まれてしまった」私は、彼との付き合い方を考え直すことにしました。

「友達」として半年程度の付き合いだけど、決して「恋人」ではない。

どちらかといえば「お兄ちゃん」のような感じ。

でも、彼は私と「結婚したい」と迫ってくる。

家は幸か不幸か「新築の2DK」だし、彼は東京に引っ越したいと言っている。

どちらも給料は安いけれど、2人の収入を合せれば、実家に「おんぶに抱っこ」から解放される(かも?)

彼は車掌さんでシフト勤務だから、普通のサラリーマンとは違い、宿泊を伴う勤務で週の半分くらいは家に居ないから、夕飯の用意などについては気が楽…などなど。

言葉は良くありませんが、この時の「需要と供給」が噛み合っている状態でした。

 

母からの電話から数日後、彼から電話が掛かってきた時に、母の話をして「結婚しても良いよ」と告げました。ここからが忙しかった!

彼との結婚を決めた数日後の5月最後の週末、父と一緒に母の面会に行くことにし、彼に来てもらって紹介し、その場で「彼と結婚することにした」と報告しました。

突然の報告に両親は驚いていたものの「あ、そう」という感じで、簡単に承諾(笑)

翌日彼の実家に伺って、ご両親に会い「結婚することにした」と報告しました。

結婚式は母の病状の事もあるから、お式はせずに入籍だけのつもりでしたが、双方の両親から「親戚に報告するのに、写真を送らないといけない」と言われ、写真だけ撮ることになり、最終的に半蔵門の東條会館の写真館にお願いすることになりました。

 

彼は2週間後に我が家に引越ししてきて、一緒に暮らすことになりました。

この時点で母はまだ入院中だったので、食事は父を含めて3人で一緒にすることになり、彼が泊まりでない日は、父と2人で先に夕食を食べるようになりました。

幸い、父と彼は性格が似ていて、かなりウマが合っていたのが幸いでした。

 

母の退院が6月18日に決まり、翌日の19日に入籍することになりました。

会社は、結婚休暇として2日お休みをもらうことが出来ましたので、18日は母を病院まで迎えに行くことが出来ました。

19日は、確か「大安吉日」だったと思います。

母の退院後、1週間くらいは、私が引き続き実家の家事と食事の準備をしていたので、4人で一緒に朝ごはんを食べて「練馬区役所に婚姻届を出してくる」と、2人で出掛けました。

婚姻届を出してから東條会館に向かい、和装と洋装の写真を撮ってもらいました。

それで「まさかの結婚」があっけなく終了したのでした。

 

 

7月に入り、母が自分で家事をするようになった頃に、彼のご両親を実家に招いて、改めて両家のご挨拶をすることになり、両家親子だけの「披露宴」=「食事会」をすることになりました。

母は、披露宴で出すような料理を全て手作りして振る舞ってくれました。

彼のご両親も喜んで下さり、とても和やかな「ジミ婚」となりました。

 

 

また、集団会や学習会の友人達も、お祝いのパーティを企画してくれ、沢山の方が集まってくれました。とても嬉しかったし、有り難かったです。

そうそう、夜間集団会の活動は、結婚後もそのまま続けていきました。

仲間8人揃って集団会の幹事となり、その後皆が結婚する頃まで一緒に活動しました。

余談ですが、私達が企画した「合同同窓会」で、他に2組のカップルが誕生し、結婚しました。どちらもお子さんが生まれ、幸せに暮らしています。

全員が関東圏にいる訳ではないのですが、今でもLINEグループで繋がっており、関東で揃う機会があると、食事をしたりしています。

 

話を元に戻します。

とはいえ、お互いの生活習慣も分からない状態だったし、価値観も全く違う訳で、そこを見極める前に「打算」で結婚したのですから、「赤の他人と一緒に住む」ということは、寮生活や入院生活とは違うストレスがあるということが、だんだん分かってきて、様々な葛藤に悩まされるようになっていき、喧嘩も増えていきました。

 

結婚後のお話は、次回にしようと思います。

 

〜続く

 

今日はここまでです。

次回は、第80話:結婚後の日々 に続きます。

 

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

またお会いしましょう♪