こんにちは、Keikoです。

 

Story of Life 私の人生 

前回の記事はこちら 第89話:スポーツ・ジャンキー時代 Part 3 〜 スキー事始め

 

前回は、一生スキーとは縁が無いと思っていた私が、富良野の社員旅行に行くため「だけ」に、丸沼高原スキー場での合宿レッスンに行き、スキーを始めたお話をしましたが、今日は本番の社員旅行のお話からスタートしようと思います。

 

一生スキーとはご縁がないと思っていた私でしたが、冬の社員旅行は、何と「富良野」!

但し、参加条件は「スキーをする」ことと聞き、社員旅行に行くまでに何とかせねばと焦った私。

スキーの草レース常連だったテニス仲間に、富良野出発の前の週末に、2日間のスキー合宿に連れて行ってもらい、悪戦苦闘に四苦八苦しながら、コーチにも多大な迷惑(凍傷になるまで付き合わせた)を掛けながらも、意地でどうにか初級コースを滑って降りることが出来るようになりました。が、この2日間は、悲壮感と恐怖心に劣等感ばかりで、全く楽しいと思えず、単なる「苦行」でしかありませんでした。

 

東京に戻った翌日、丸沼から宅急便で荷物が戻って来ましたが、今度は富良野に送らなければならず…「スキーって、何て面倒なんだ!」とブツブツ文句を言いながらも支度をし、宅急便で送ったたことを覚えています。

その時点では「スキーなんて、どうせ年に1回のお付き合い」としか考えていなかったので、まあ仕方ないかくらいの軽い気持ちでした。

 

 

富良野の社員旅行は、土日を含んだ3泊4日。

往路は木曜の羽田発旭川行きの始発便、復路は日曜の旭川発羽田行き最終便と聞いていたのですが…

火曜日の昼過ぎに、旅行会社の手違いで、3人だけ「水曜日の旭川行き最終便」で行かなければならないことが判明!誰が先発で行くのかは、社長が決めることになりました。

会社の事務所は、木曜と金曜はお休みとなっていたので、先発隊は羽田までの交通機関が一番不便だった私(当時)、羽田まで一番近いお兄さんと、番頭さんが行くことになりました。

荷物は既に宅配で送っていましたが、北海道は中2日必要で、木曜の午前中に荷物が到着することになっていたので、水曜の朝は1泊分の着替えと洗面道具を持って出社し、午後4時まで仕事をして、そのまま羽田に向かいました。

 

羽田空港は社会科見学で来たことはありましたが、国内線の飛行機に乗るのは初めて!

最終便だから、夜間飛行。

外の景色はただただ暗かった(街があると、光が見える程度)です。

途中で機内サービスが回って来たのですが、熱いコンソメスープが配られました。

これを飲んだら、一気に空腹が襲って来ましたっけ(爆)

夜8時過ぎに旭川に到着し、1時間位バスに揺られて富良野の宿へ移動。

宿に到着してチェックインしましたが、宿での夕飯はなし。

タクシーを呼んでもらい、紹介してもらった街の居酒屋さんで夕飯を食べることになりました。

そのお店は、熊、馬、鹿などのジビエ料理がメインでしたが、どのお肉もジビエ特有の臭みもなく、とても美味しかったです。

一番印象に残っているのは「馬鹿鍋」でした。

「バカ鍋」ってどんなもんだろう?と興味本位で注文したのですが…

味噌とチーズ・バター仕立てで、馬肉と鹿肉、ジャガイモにお野菜がメインのお鍋でしたが、これがとても美味しくて♪

〆はうどんにしてもらいましたが、3人であっという間に平らげました。

お腹いっぱい食べて、幸せ気分に浸りながらタクシーで宿に戻り、お風呂に浸かって就寝。

翌朝は、ドピーカンの快晴!

とにかく、全員揃わないと何も出来ないので、朝食を食べてから宿の周りを散歩したりして、のんびり過ごしました。

宅急便も無事に到着して一安心。

レンタルスキーの手続とセッティングをしてもらい、準備万端!

11時過ぎに、後発隊の皆さんが到着しました。

皆さんは一刻も早く滑りたいらしく、バタバタと支度をして、あっという間に出発準備が完了(驚)

お昼は、時間をずらしてゲレ食で食べることになり、スキー場に向かうことになりましたが…

宿からスキー場までは、徒歩5分程度でしたが、スキー板を担いだ状態でストックを持ち、しかもスキーブーツで歩くとは全く知らなかった私は、この時最初のパニックに陥りました。

平らな道はともかく(それでも凍っていてデコボコが多い)、坂になっているところは、どうしたら良いのか見当も付かず…

坂道でモタモタしていたら、お兄さんが板を持ってくれたので、ストックを使いながら、それこそ「カニ歩き」で坂を上る始末。

やっとゲレンデに到着すると、最初の1本だけは全員で「初級者コース」に付き合ってくれましたが、その後はお兄さん達が交代で「子守役」として付いてくれ、一緒に滑ってはくれたものの、皆さんとレベルが全く合わないから「見捨てられた」状態で…

富良野スキー場はW杯の開催地、広々として眺めも良い素晴らしいスキー場なので、皆さんはあちらこちらを「ツアー」しながら楽しんでいましたが、私にはとても無理。

せめて「足手纏い」だけにはなりたくないという気持ちが大きくて、かなり辛かったです。

ゲレンデにいる時は全然楽しくなかったのですが、夜はみんなで地元のお店に繰り出して、毎晩大宴会!とても楽しかったし、食べ物も本当に美味しかったです(笑)

それでも、正味3日間(初日と最終日は半日づつ、2日目と3日目は丸1日)スキーをしたら、前の週と比べて格段に上達しており、またゲレンデの横幅が広いことと、人が少ないこともあって、3日目には中級コースもノロノロ滑れるようになっていました。

ただ、人が近くにいると「ぶつかるのではないか?」という恐怖心が出てきて、滑り出せない。

少しボコボコしている所だと、腰が引けてしまうなど、「怖がりの小心者」の自分が思い切り顔を出した状態で、やっぱり「全く楽しくない」のです。

そんな私を180度変えたのは、お兄さん達からの「あんな状態じゃ、同じ斜面を滑れるようになるまで10年掛かるな」と言われたことでした。

その一言を聞いた途端、私の中の「負けず嫌い」が思い切り顔を出してきて、「来年は、絶対にギャフンと言わせてやる!」と心に誓いながら、東京に戻ったのでした。

東京に戻ると、即座にテニス仲間の例の友人に頼み、富良野から戻ってからの6週間、週末スキー合宿に3月末まで毎週通うことにしました。

俗にいう「コソ練」です(笑)

このスクールではポールを滑ることが多く、検定もスピードで級が決まるのですが、3月の終わり頃には、6つある級の上から3つ目まで取れるようになったところで、最初のスキーシーズンは終わりました。

スキーシーズンがオフになってから、神保町のスキーショップに行き、自分のスキー板とストックをバーゲン価格で買い、ブーツもフロントバックルのものにしました。

そして平成元年の12月、2度目のシーズンを迎えましたが…

実は、12月4日に母が他界したことで(このお話は後日詳しくしますので、今回は割愛します)、年末年始は喪中です。

当然、お祭り騒ぎは出来ませんし、旦那さんはずっと仕事だし、父のカラオケ三昧に付き合う気もなく。テニススクールもお休みだから、テニスにも行けない。

会社のお兄さん達は、年末年始の休みをフルに使った、スキー旅行の企画をしていましたが、私はレベルが違うからとメンバーに入れてもらえず。

何もすることがなくて「つまらないなぁー」と思っていたそんな時、知り合いから「年末年始にスキーに行こう」と誘われ、どこに行くのかも全く知らない状態にも関わらず、2つ返事でOKしたのでした。

 

12月28日の夜中に車で東京を出発し、連れて行かれたのは妙高の「燕温泉」という所で、ここで知り合った某国立大学の外科の先生グループに入れてもらい、毎日スキーレッスンに参加させてもらいました。教授のお嬢さんと名前が同じだったことと、朝晩の「お酒」に問題なく付き合うことが出来たこともあり、とても可愛がってもらいました(笑)

2年目のシーズンは、年末年始から「コソ練」を開始、またスキー指導員の外科の先生方にみっちりとレッスンをしてもらったお陰で、2月の富良野の社員旅行では、前の年とは大違いでそこそこ皆さんと一緒にツアーを楽しめるようになっており、心の中でガッツポーズしていました。

 

余談ですが、外科の先生グループには、その後5年くらいお世話になりました。

年3回の燕温泉でのスキーだけではなく、東北遠征にもお声掛けいただき、1人では行けないようなスキー場に連れて行って頂きました。

また、燕温泉には東京のスキークラブの方もいらっしゃっており、毎回行き帰りの電車が一緒だったこと、指導員の先生がご近所だったこともあり仲良くしてもらうようになりました。そして6年目のシーズンから、クラブの皆さんと一緒に、週末は燕に行くようになりました。

話を元に戻します。

最初に行った合宿スクールはSIAというスキー団体、2年目からはSAJというスキー団体のレッスンを受けるようになりましたが、当然「検定」というものがある訳です。

東京のスキークラブの皆さんと一緒に、週末は燕温泉に通うようになった、スキーを始めてから5年目のシーズンに、SAJ2級を貰うことが出来ました。

膝の前十字靭帯損傷の1年前のことです。

この頃には「スキーは楽しい」と思えることが多くなってはいましたが、そもそも鈍臭い上に、異常な「怖がり・小心者」なので、その後しばらくの間、何のチャレンジもせず、ひたすら逃げ回っていました。また「膝も壊れちゃったから、その上(1級)を目指すことは絶対に無理」だと思っていたのも理由の1つでした。

そんな私でしたが、1999年3月にどうにかギリギリで1級を頂くことが出来ました。

スキーを始めてから10年目のシーズンで、同時期にスタートした仲間の中では、やっぱり一番最後の合格でした(笑)

それでも、会社のお兄さん達には、まだまだ追いつかない状態でしたが、少なくとも「足手纏い」からは卒業出来ました。

その後、燕温泉スキー場は2006年のシーズンをもって閉鎖となりました。

最後のシーズンは、仲間たちから「別人か⁈」と言われた位、真面目に滑った気がします。

翌シーズンからは、定宿から別のスキー場に送迎してもらうことになりましたが、同時期に会社の組織変更や、システムの大幅な変更があり、金曜夜の集合時間に間に合わない事が多くなり、また、年末年始も出社しなければならない状況が続き、以前のように頻繁に行くことが出来なくなっていきました。

2010年台前半は、それでも年間滑走日数が10日位ありましたが、その後は年間5日程度が続きました。2018年のシーズンは3日だけ。翌年は2日だけ。2020年は元日に滑っただけ。

そしてコロナ禍…ここ2年間は全く滑っていません。

 

 

ほぼ1年中、毎日コートに立てるテニスとは違い、スキーは冬場の決まった時期にしか出来ないスポーツですが、それにしても、まさか35年も続けるとは思ってもいませんでした。

仲間に恵まれたこと、良い温泉とアフタースキーが楽しいこと、そして「人と勝負する必要がない」自己責任のスポーツだからかもしれません。

 

そうそう、富良野の社員旅行には、退職するまでに5回連れて行ってもらいました。

最後に行ったのは1993年のシーズンでしたので、もう30年近く前なのですね(驚)

今、どうなっているのだろうか?

アラカンの今、昔のように「ガシガシ」滑る気も起こりませんが、せめて身体が動くうちに、「行きたい」スキー場に、仲間と一緒に足を運びたいと思う今日この頃です。

 

〜続く

 

今日はここまでです。

次回は、第91話:母との別れ に続きます。

 

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

またお会いしましょう♪