こんにちは、Keikoです。

 

Story of Life 私の人生 

前回の記事はこちら 第91話:母との別れ

 

前回は母が他界するまでについてお話をしましたが、今日はバブル真っ只中の頃のお話をしようと思います。

 

1988年5月に派遣としてスタートした「事務員さん」生活でしたが、年号が昭和から平成に変わった1989年3月から正社員として登用してもらうことになりました。

この会社は2月が決算月だったのですが、富良野の社員旅行から戻ってすぐに、社長さんからお話をいただき、年度が変わる3月から「正式な事務員」さんになりました。

お給料の提示額は派遣時代よりもかなり上がっていたから、当然2つ返事でOKしたのですが、今考えてみると、社長さんは「派遣会社にマージンを払いたくなかった」ことが一番大きな要因だったのではないかと思います(笑)

 

1989年といえば日本でバブル景気が活発になってきた頃で、会社でも大きな受注案件が相次いで取れるようになっていました。

売上も順調に伸びており、この年の夏には「人手が足りない」ということで、職人さんを4人増員(と言っても、社長の親戚や誰かの友人)して社員総数が10人になり、会社は「大きなファミリー」となりました。

 

この年の夏のとある日のこと。

社長さんが突然「プレジャーボートを買う」と言い出しました。

言っていることが即座に理解できず「え?」と聞き返す全社員。

社長さんは「会社の福利厚生として26フィートのプレジャーボートを買うことにして、もう契約した」と言うではありませんか!

社員全員「驚愕」の状態でしたが、「支払いをするから小切手を切れ」と言われたので、どうやら嘘じゃなさそう…

代金を支払った直後に、顧問税理士の先生から「福利厚生目的というなら、全社員が自由に使えるということを税務署に証明出来ないと、社長の現物給与扱いになる」という指摘を受けてしまい、ここから会社中大騒ぎになりました。

「社員全員が、好きな時に自由に使える」ということは、「社長が居なくても、社員がいつでも自由に船を使える」ということになる訳です。

となると「社長以外の社員も、船舶操縦免許が必要」で、しかも特定の社員だけじゃダメということになってしまいます。

そこで、まずお兄さん3人が選抜され、JEIS(日本船舶職員養成協会)に「小型船舶操縦士4級(現在は2級)」を取りに行き、これで社長を含めて操縦免許の保有者が4人となりましたが、10人のうち4人だから、まだ全社員の半分以下。

そこで、第2陣として1人のお兄さんが3ヶ月掛けて1級免許の取得をすることになり、更に1人がレーダー、1人が無線の免許を取得することになりました。

これで船に関する免許保有者が7人となり、また1級免許保有者が誕生したことも相まって、翌年からは「社長さん抜き」でボートに乗る機会がどんどん増えていきました。

「社長さん抜きで」というのには理由があって、彼はすぐに「船酔い」してしまう体質で、全く楽しめなかった模様で…ボートを購入した翌年の1990年になると、社長さんはすっかりボート熱が冷めており、誘っても「行かない」と断られるようになっていました(汗)

一方、社員といえば「ボートに乗る時には、それなりのロープワークが出来ないと困る」ということで、始業前やお昼休みになると全員でロープを持って、結び方の練習をしていましたっけ(笑)

これで、会社名義で買ったプレジャーボートは「社長のおもちゃ」ではなく、正真正銘に「福利厚生目的」の役割を果たすことになったのでした。

それでも税理士の先生からは「理想は全社員だけど、せめて8割(社員総数が10人だから8人)は、船舶に関する何某かの免許を持っていないと、税務署に対抗出来ない」と言われてしまい…

何と8人目として、私に白羽の矢が立ってしまいました。

どの免許を取得するか、かなり悩んだのですが、どうせなら小型船舶操縦士1級を取得しようと思い立ち、1990年10月から12月までの毎週末、JEISの講習に通うことになりました。

学科の講習は、ちょうど平成天皇の即位の礼が行われる前に行われたのですが、講習会場である半蔵門周辺の警備がとても厳しい中、教材と一緒に練習用のロープを入れたバッグを持って講習に行く羽目になり、警備している警官達から、何度も職務質問を受けたことを、今でもよく覚えています(汗)

11月後半の土日に、実際に船に乗る実技実習が4回行われ、毎回朝早くから浦安マリーナまで通いました。

51フィートの船を使っての実習は、会社のプレージャーボートの倍の大きさ!

浦安マリーナを出航し、離着岸の練習、船の中ではロープワーク、海図実習、人命救助などを行うもので、毎回朝から夕方まで行われましたが、いきなり大きな船の運転をすることになり、かなり大変でしたが、10人のクラスメイト達と一緒で、とても楽しかったです。

最後の実技試験は12月1日だったのですが、何故か前日に季節外れの台風がやってきて、海は大荒れ。てっきり実技試験は延期になるかと思いきや「気候は選べないのだから、船長としてどんな状況にも対応出来ないといけないから」と、そのまま実施することに!

東京湾は大荒れで、台風の置き土産の冷たい風と飛沫が飛び交う中、木材が沢山散乱している(航行中の船から落ちた模様)中を航行することになりました(泣)

風は冷たいし、全身ずぶ濡れで寒いし、木材にぶつけないかとドキドキするしで、運転も人命救助も、冗談抜きでかなりキツかった!

 

出航してから4時間掛けて、10人全員の実技試験が全て終了し、終わった後は教官を交えて、マリーナで打ち上げをしました。

年末に合格通知が届き、免許の交付手続きをして、翌年1991年1月8日に免許証が交付され、晴れて「1級小型船舶操縦士」となりました。

 

これで免許保有者は社員の8割をクリアし、顧問税理士の先生にも文句を言われなくなりました。

また、1級免許保有者が2人となったことで、4級免許では行くことが出来ない大島や、初島などにも行けるようになったことで、休みの日には社員揃って「福利厚生のボート遊び」に講じるようになりました。

海岸から5海里以上に行く場合は、1級の免許保有者が同乗していれば良い(当時、今は法規が変わっているかも知れません)だけだったので、もっぱらボートの運転は「お兄さん達」がやり、私は「同乗」しているだけでしたので、ペーパードライバー状態です(爆)

(まあ、万が一事故が起きた時は、責任を被ることになったのでしょうけど…)

こんな楽しい日々は、1993年のバブル崩壊を機に終わりを告げました。

仕事の受注は大幅に減り、売上もピーク時の半分以下となり、最終的には、残念ながら船を手放すことになってしまいました。

それでも5年もの間、今では考えられないような「贅沢な遊び」をさせてもらうことが出来て、本当に幸せだったなぁと思う、今日この頃です。

今でも海を見ると、あの頃の「楽しい思い出」が、沢山蘇ってきます。

 

そうそう私の免許ですが、船を持っている訳でも無いから使い道は全くありませんが、台風の荒波にもめげず頑張って取ったのだからと、しっかりと5年毎に更新しており、今でも「現役」です(笑)

 

〜続く

 

今日はここまでです。

次回は、第93話:社員旅行 〜 1990年ハワイ編 に続きます。

 

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

またお会いしましょう♪