いまひとたびの『椋鳥通信』 | けいあゆうさぎの退屈のない毎日

この記事についたコメント

  • けいあゆうさぎ

    >のり巻きおにぎりさん
    鴎外は何しろ優秀だったので
    地方出身といっても椋鳥扱いはされなかったでしょうが、
    ドイツ留学を経験して
    ヨーロッパと比べて極東の日本を
    遅れた国と意識し自らを椋鳥になぞらえたのでしょう。
    『椋鳥通信』はそんな彼のヨーロッパ通信です。

    墓石に刻む文言は彼の遺言で
    石見国森林太郎のみになったと聞いています。
    文豪でも軍医総監でもなく
    一石見人として眠りたいということでしょうね。

  • のり巻きおにぎり

    森鴎外も椋鳥呼ばわりされていたのでしょうか…
    石見の国、津和野はとても田舎ですからね。
    森林太郎(鴎外)の墓石も驚くほど質素ですが彼の遺言だと聞きました。

  • けいあゆうさぎ

    >yuruyurumamaさん
    椋鳥は群れると実にかしがましいものです。

    東北や信州のような雪国からの出稼ぎ人の群もやはり江戸っ子からうるさがられ
    それが
    彼らが椋鳥と蔑称された理由のようです。
    ひとも鳥もとかく群れるとロクなことはありませんね。

    大堀公園の椋鳥たちはお行儀が良くて幸いです。

    私青鷺の声は聞いたことがありません。こちらは単独でも煩いのかしら?もしかしたら求愛?
    それもご遠慮したいですね。


  • yuruyurumama

    椋鳥が田舎者の代名詞だったとは初耳です。
    その語源は何なんでしょうね。
    大濠公園にたくさんいますが鳴き声はあまり聴きません。
    餌をさがすのに必死なようです
    先日、アオサギの鳴き声をききました。
    けいあゆさんがおっしゃってたのかな?書いてらっしゃったのかな?ものすごい声で鳴くと。
    確かに「ギャーギャー」でした。
    あの姿からは想像できない声で驚きましたよ。

    あ~なんて豪華な朝昼ごはんですこと!!

  • けいあゆうさぎ

    >ageの日記さん
    糞害に遭えばやはりキライになっても致し方ないですよね。
    知己にもおしゃれして渋谷に出て鳩に頭から糞を浴びて
    鳩も渋谷もキライになった人がいます。
    幸い私はまだそんな目にあったことはありませんが
    煩く鳴かれるのはやはりイヤですね。

    鷗外の「椋鳥通信」
    是非お楽しみください。

  • ageの日記

    私自転車で通勤の帰り宿の竹やぶの傍の電線から自転車の籠に入れた鞄の上に糞害直撃されたことがあって以来その時間は遠回りして帰りました。
    鴎外が自らを「ムクドリ」と称したのにはずいぶん鬱屈した思いがあったのでしょうね。読んでみたい気がします。

  • けいあゆうさぎ

    >のり巻きおにぎりさん
    のり巻きさんの畑に遊びにくるムクドリたちはきっといい子たち。
    ムクドリは歴史的にも害虫駆除の益虫のはずなのに
    都会ではキラワレモノ、
    大群で鳴き騒ぐ様はあちこちで見かけましたが、
    とにかく煩く糞害まであっては駆除対象となるのもやむを得ないところです。

    大挙して都会にやって来るムクドリに擬えて
    江戸の昔も出稼ぎ労働者は差別を受けていたのですね。

    知りたいことは際限なく
    楽しみは尽きません。

    そうそう鷗外のふるさと、石見国津和野は美しい街でした。
    早くにふるさとを出た鷗外にはさぞかし懐かしい街だったでしょうね。
    墓標には軍医総監でも文学者森鷗外でもなくただ「石見国森林太郎と記すべし」という遺言だったそうです。

  • けいあゆうさぎ

    >ekopapaさん
    いつもお読みいただき
    ほんとうにありがとうございます。
    愉しんでいただけていたら
    嬉しいです。

  • けいあゆうさぎ

    >みずほさん
    屋根裏にムクドリの巣‼️
    それはずいぶんショックでしたね。
    烏ほど無粋な鳥ではなくても
    群れるとやはり騒がしく迷惑なものです。

    昨日のムクドリたちはどうやら小休止だったようで
    午後にはいなくなりました。
    今朝は雨で彼らの姿はありません。

    ほんとうに此処は東京?
    という緑と鳥がいっぱい。
    楽しくもあり煩くもありです。

    椋鳥通信…当時のヨーロッパが窺え、それを切り取る鷗外の筆致も軽妙で楽しいです。


  • けいあゆうさぎ

    >ハバネロ麗子さん
    松本清張さんの方が身近なのは
    活躍の時代がリンクしているからでしょうね。
    鷗外が陸軍の軍医長として小倉で過ごしたのは明治32年からの3年弱ですから麗子さんが縁遠く感じられるのはむりからぬことかもしれません。
    ただ小倉時代の彼もそれ以前やそれ以後と繋がる仕事をしていますから
    その足跡を追う人たちには大切でしょうね。
    津軽の太宰治の実家や松江のラフカディオハーン(小泉八雲)の住居跡と同様に。