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わたみ

今日久しぶりにテレビ見て感動した。 テレビ東京の 「カンブリア宮殿」(http://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/bn/060515.html) と言う番組に「わたみ」の社長の渡辺さんがでてた。 遅めのご飯を食べたながら、口が動かすのを忘れて釘付けになった。 心を打った言葉 「悩みは迷ってるんだ。悩んでる暇なんてない。悩みを分析し、悩んでる時間をつぶす時間にまわせ。」 またフリーターでミュージシャン目指している男の人には、真剣なまなざしで 「あと五センチがんばってごらん。」 自分が夢をあきらめるのだ。誰のせいでもない。みんなもうちょっとのがんばりの前にあきらめる。 だからあと五センチと表現したのだと思った。 ちょっと感動した。

地球探検隊の本

少し前に、地球探検隊の中村隊長(http://ameblo.jp/expl/ )が本を出した。


タイトル:「感動を売る!「人とお金」が集まる仕事術



以前どうしてもアラスカに行きたくてたまらなかった。

アラスカという大地がなぜかどうしても気になって気になって。

アジア、ヨーロッパと旅行してきたが、学生最後に選んだのがアラスカだった。


地球探検隊の「大人の修学旅行」のツアーがばっちり修論終了後の期間にはまっていた。

が、大学院の卒業式があった。

どうしても気になって仕方がなかったアラスカ。なぜか心引かれるアラスカ。

しかし、卒業式が、これまで支援してくれた両親へのけじめが、頭をよぎった。


そんなとき親友が突然、交通事故で亡くなった。

忘れもしない節分の日だった。

これまでの人生の中で一番ショックだった。


自分は親友の死をしばらく受け入れることができなかった。

多くの彼との思い出がそうさせたのだろう。


受け入れるためにアラスカに行ったのかもしれない。

死というものはどういうことかゆっくり考えたかったのかもしれない。


アラスカは人間本来の本能を呼び覚ます力のある土地だ。

不自然な人間社会の状態に慣れきった自分では、自然と人間に訪れる死というものを受け入れられなかった。

だが、アラスカは一時だけ五感を開放させ、死を受け入れる猶予を与えてくれた。


旅の仲間の存在が受け入れる勇気を与えてくれた。

死を受け入れたとき、涙が”泣いて”いるように泣いた。

それはアラスカでの”卒業式”のときだった。


この旅が生きるとはどういうことか考えつづける原点になった。

いまだに答えは見出せない。一生見出せないかもしれない。

ただ、ひとつだけ言えることは誰にでも必ず死は訪れるということ。

それ以外、確実なのはこの世の中に何一つない。



辛いときや苦しいときが今後あるだろう。

中村隊長が本の中でそのときのエピソードを載せてくれたことでいつでも原点を思い出すことができる。


中村隊長に感謝!

興味を引かれる記事

「PRESIDENT」という雑誌をご存じだろうか?

雑誌自体は1回ぐらいしかかったことがないが、読んでいてかなりおもしろかった記憶がある。


インターネットでもある程度の記事は後悔されており、以前「お気に入り」のフォルダーに入れていた記事を読み返してみた。


タイトル

「なぜ人は困難から逃げたようとするのか」(http://www.president.co.jp/pre/20020513/02.html )


よくまとまっている文章でおもしろい。


先日の林慎太郎塾(http://ameblo.jp/hayashishintaro )で教わったことの復習になった。



最後の井原西鶴の「日本永代蔵」がビジネスの心理学の先駆けとなる本だというのには驚いた。


ぜひ買って読んでみたい。

マサミツさんいってらっしゃい会

今日は世界一周に旅立つマサミツさんの行ってらっしゃいBBQだった。


40人ぐらい集まった。びっくり!みんなノリが軽い(悪い意味ではなく)。


いろんな人との出会いに感謝!


一期一会をかみしめています。


それにしてもマサミツさんの家族みんなそっくりやったな~犬まで(^^)\


久しぶりにいいBBQでした。

夢を実現するためのセミナーに参加してきた。

第四回目だが、自分は初めて参加した。


主催はわが先輩松江さん(http://ameblo.jp/kazu-ono11/ )の(有)背番号11であり、講師は林慎太郎先生(http://ameblo.jp/hayashishintaro )だった。


今回のテーマは”モチベーション”だった。


最初に経済の話、教育の話があった。

印象的だったのが、日本型教育と欧米型教育の違いだった。

日本型教育:1+2=3

欧米型教育:○+○=3


この話は非常に簡単で頭にその違いがすーっと入ってきた。

そこひねくれもののわたしはふと思った。

”1+2=”って見方を変えれば11022ではないか?

つまり”+”を漢字の”十”、”=”は漢字の”二”とも見える。

数学という枠をはずして考える。つまり固定観念をはずして考える教育も「創造的教育」となりうるのではないかと思った。(別名アーティスト養成教育とでも言うか。)


新しい参加者の私に慎太郎先生はこういう言葉を投げかけていただいた。


「君の夢はアーティストになるそうだね。今夢の何合目かな?」


「3合目あたりですかね。」


「そう、それならもうすぐだね頂上は」


今回の”モチベーション”というテーマの内容をまさに端的に表した会話だった。

半分この会話で講義の内容がわかったような気がした。

「出来事の受け取り方」


「まだ三合目」とらえるか「もう三合目」ととらえるかでモチベーションが変わる。

前者は「こんな努力して三合目か~しんどいな。やめようかな夢追うの」って考え方。

後者は「もう三分の一もきたのか、もう少しで頂上だ」って考え方。


講義を受ける前の自分のスタンスは前者:後者=6:4だった。

講義後は前者:後者=0:10になった。


ゴールを決める、森を見て木を見る、子供は環境を選べないが大人は環境を選ぶことができる等の言葉が印象的だった。


はっきりわかりました。自分が動かなければならないことを。

はっきりわかりました。ゴールをもつことが大切なことを。

はっきりわかりました。自分が言う言葉が自分の現実だということを。


だから私はここで宣言します。


世界最高のデザイン会社「IDEO」(http://www.ideo.com/ideo.asp )に入る!

そして自分のひらめきを形にして世界中の人に少しでも生活の視点を変える喜びを知ってもらう!

(IDEOって何という人はここ→http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/415208426X/249-6544955-1762717 。この本で私に雷が落ちました。)


講義を受けてはっきりわかりました。


私のドーパミン(脳内快感物質)が最も出るのはひらめいたときなのだ!


あとはそのひらめきを形にするスキルを少し見につけるだけだと思いました。


だから、今デザインの基礎であるデッサン・着彩の学校に通ってもう1年たちます。

平日は行けないので土日のみ(土:PM2時~PM11、日:AM10時~PM4時)です。休みはありませんが、しんどくはないです。

なぜなら進歩が見えるから。

ゴールからの落とし込みが少しずつできてきたような気がします。

あとは英語です。


今日は本当にためになりました。林慎太郎先生!ありがとうございました!


働く

働くってなんやろー?


最近働くことの意味がわからなくなってきた。


生きるため=食べるため なので 働く?


働くって 「人が動く」と書く。


昔は自分たちの食べ物を自らの体で動いて取って食べていた。

そこに生きる充実感、生死を感じる飢餓感があったのではないか。


現代はどうか。

パソコンの前で日がな一日、外は天気がいいのに、部屋の中で一歩も動かずカタカタキーボードをたたいている。

誰とも面と面をあわして会話しなくても物事が成り立っていく時代になってしまった。

そこに働く充実感はあるのだろうか?

人間は感情の動物なのに、ある意味感情を放棄してしまっている。

感情の制御機能が麻痺してしまった人間社会がぎすぎすした人間関係を生み、それがストレス社会といわれる所以だろか。


充実感を得たければ、自ら「動く」しかない。

昔と今とは「動く」意味は違うけれど、根本は同じだと思う。

結局自分が動かなければ何も得られないのではないだろうか。






ひらめき

   ひらめきを脳の観点から見た本に今はまっている。 「ひらめき脳」 茂木健一郎著(新潮新書) 「創造することと思い出すことは似ている」ロジャー・ペンローズ 世界的数学者の言葉が出てきた。 自分はひらめきが大好きだ。 何かをずーっと考えていてパッとひらめくときの快感がすきだからだ。 この本はそのメカニズムがわかりやすくかかれていた。 創造するには材料となる知識が必要みたいだ。 本当に0からは何も生み出せないようだ。興味深い。 だから、いろんな物にふれてかつ記憶させることが必要だ。 そのときに感情が加わると記憶が定着しやすいそうである。 いろんな物にふれて「感動」することが何かを創造するときの材料となる。 今後役に立つ情報だ。 まだ途中なので、最後まで読み切りたい。

列車事故から1年

列車事故から1年がすぎた。

感覚的にはもう2,3年経っているような気がする。


あの事故で生き残った人たちは口々に


「生きていて申し訳ない。」


と言っていたのが心に響いた。


日常生きていて、生き残った人たちは「命」についてこれほどまでに考えたことはこれまでなかったのではないかと思う。


自分がもし事故にあって生き延びたならばどうかんがえるだろうか?

「生きていて申し訳ない。」っと思うだろうか?


今の自分の状況で事故にあって生き延びたなら、出家するか医者を目指すと思う。


「死」を意識することで「生」を意識するようになる。

誰にでも普遍に訪れる「死」を考えることが生きることの証ではないかと最近思う。


「人間は考える葦」である。デカルトが行ったこの「考える」は生きることでないかと思った。

もし、葦に意識があるなら、「こんな動けないしがない草で、なんでオレ生きてるんだろう」ってきっと思うだろう。

ちょっと葦になって考えてみたくなった。。。






初BLOG

なんかええとしこいて、BLOGつくってドキドキしてしまった。 なんか新しいことが起こり高な予感。 これから毎日書くぞ!