無知(むち)
最近、私自身の無知(むち)を思い知らされる事がありました。それは、百田尚樹著「日本国紀」に触発されて、日本の近現代史に興味を持ち始めた事がきっかけです。
例えば、先の戦争における日本国の戦争責任を、国際法違反と言われる東京裁判に求める不可解な現状が、未だに黙認されています。更に、戦後に、米国が日本国民を対象に行った意識調査(=米国国立公文書館の公開資料)で、当時の戦争を煽ったのは朝日・毎日等の大新聞だ...と、戦争責任をマスコミに求める圧倒的な声が、一般の日本国民の中にあったことが記載されています。
私達日本国民は、歴史の真実に無知のままではいけません。
無(む)には、ない、存在しない、欠けている等の意味があります。また、知(ち)は、心に感じ取る、物事の道理が分かる等の意味があります。すなわち、無知(むち)とは、一言で言えば、智恵がないこと。
米国国立公文書館が公開している戦前・戦後の種々の資料については、近現代史の識者の皆様が、最近よく引用されます。
歴史の裏側の真実は、時間の経過の中で、相当程度公になってきていますが、自分自身を無知から解放するためには、様々な公開情報に触れる事で、自らの歴史認識を軌道修正しなければならないと、反省しきりです。
*よろしければ、此方もご覧下さい。