国宝・重要文化財指定の建造物 -5ページ目

国宝・重要文化財指定の建造物

全国の国宝・重要文化財に指定された建造物についてのブログです。

このブログについて:

和歌山県和歌山・海南地域で国宝や国の重要文化財に指定された建造物のうち、私がこれまで訪問したものを紹介しています。
個人の備忘録みたいなものですが、実際に訪ねてみたら目当ての文化財が塀や樹木の陰で見えないといったことも時々あるので、ここでは、このあたりも詳しく書いて、閲覧してくれた方の参考になるように考えました。また、文化財の位置は国指定文化財等データベースで確認できますが、間違った情報も結構多いので、ここでは現地で実際に確認した座標を記載しています。
記載内容は訪問日時点のものです。情報が古くなってしまっている可能性もあり、修復工事が始まって見学できないこともあるので、注意してください。

和歌山市
和歌山城岡口門
加太春日神社本殿
旧谷山家住宅
旧柳川家住宅主屋、前蔵
護国院多宝塔
護国院鐘楼
護国院楼門
旧中筋家住宅主屋、長屋蔵、内蔵、北蔵、御成門、表門
天満神社本殿
天満神社末社多賀神社本殿、末社天照皇太神宮豊受大神宮本殿
天満神社楼門
東照宮本殿、石の間、拝殿、東西瑞垣(東)、東西瑞垣(西)、唐門、東西廻廊(東)、東西廻廊(西)、楼門
阿弥陀寺本堂(旧紀州藩台徳院霊屋)
郭家住宅洋館、診察棟、座敷、離れ、米蔵、東土蔵、南土蔵、風呂、外便所、表門及び石塀
海南市
地蔵峰寺本堂
福勝寺本堂、求聞持堂
三郷八幡神社本殿
善福院釈迦堂
長保寺本堂
長保寺多宝塔
長保寺鎮守堂
長保寺大門
琴ノ浦温山荘主屋、浜座敷、茶室

 

 

恵比寿や魚介など漁師町らしい意匠

加太春日神社本殿


かだかすがじんじゃほんでん
和歌山市加太
加太春日神社本殿34.275255, 135.074636
桃山
一間社流造、正面千鳥破風及び軒唐破風付、檜皮葺

加太春日神社は大阪府境に近い漁師町、加太の中心部に鎮座します。創建は明らかではありませんが、江戸時代の紀伊続風土記に、当初は天照大神を祀っていたが、中世に住吉社を合祀し、その後、嘉元年間(1303~1317)に、春日三社を合祀し、それ以降は春日神社と称するようになったと記されています。本殿は慶長元年(1596)に建立されたものです。
・檜皮葺、一間社流造で、正面に千鳥破風と軒唐破風が付く

・身舎、向拝とも柱間に二個の斗きょうを置き、斗きょう間に立体的な彫刻を施した蟇股を置く
・身舎は出組の斗きょうで、欄間にも立体的な彫刻が施されている

向拝頭貫上の蟇股:
・上段写真は向拝中央の「雲に龍」、中段写真は「竹に虎」

・身舎正面向かって左は漁業神の恵比寿

・向かって右は農業神の大国

・身舎左右側面にも柱間に立体的な蟇股を置く
・左側面(上段写真)の蟇股は貝やエビを題材としている

・左右の脇障子にも立体的な彫刻が見られる

アクセス
南海加太線加太駅下車、西700mです。
見学ガイド
加太春日神社は常時自由に参拝することができます。本殿の前面の軒から下は幣拝殿で塞がれていて、側面には霜除けが掛けられています。本殿に向かって左前方(西側)のみ立ち入ることができて、この部分から屋根を見ることができます。また、拝殿の障子が開放されているときは、その部分から本殿の前面を見ることができます。

感想メモ
訪問時は拝殿の障子が大きく開かれていて幣殿に昇殿できるようになっていました。昇殿しても良いものか迷いましたが、上り口にはスノコが置かれ、内部には来訪者向けの掲示物なども貼られていたので、昇殿しても大丈夫と考え昇殿させてもらいました。間違っていたらすみません。
いかにも漁師町らしいユニークな意匠の蟇股など、興味深い社殿でした。
(2023年3月訪問)

参考
現地解説板、和歌山県公式サイト

 

 

西国三十三所観音霊場紀三井寺

護国院


ごこくいん
和歌山市紀三井寺
護国院多宝塔34.184892, 135.190349
室町中期
三間多宝塔、本瓦葺
護国院鐘楼34.184569, 135.190068
桃山
桁行三間、梁間二間、袴腰付、入母屋造、本瓦葺
護国院楼門34.184438, 135.189072
室町中期
三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺

護国院は市街地南方、名草山の山裾に位置します。宝亀元年(770)、唐僧・為光上人によって開基されたと伝わる古刹で、歴代天皇の御幸があり、また後白河法皇が勅願所と定められて以後隆盛を極めました。江戸時代に入ると、紀州徳川家歴代藩主が頻繁に参拝しました。西国三十三所観音霊場第2番目札所、紀三井寺として知られます。


多宝塔:

・宝徳元年(1449)頃の建立
・本瓦葺の三間多宝塔で各種の絵様、彫刻、須弥壇とも室町時代中期の様式手法を示す

・亀腹上に建ち、逆蓮柱付高欄をめぐらす

・上重は二軒の平行繁垂木で四手先尾垂木付きの組物

・初重は出組で、中備は中央間が蟇股で両側間が蓑束



鐘楼:

・桁行三間、梁間二間、入母屋造で本瓦葺
・天正16年(1588)の再建とされ、細部の様式も安土桃山時代の特徴をよく示す
・切石の基壇を築き、野面石の上に4本の角柱を建て、目板張りの袴腰をつける
・軒、腰組とも三手先で、軒は尾垂木入り



楼門:

・正面(上段、中段写真)と背面(下段写真)
・室町時代末期の永正6年(1509)に建立されたとされるが、その後、何度も修理を受け、細部には安土桃山時代以降の様式も見受けられる
・入母屋造、本瓦葺の建物で、切石の礎石上に円柱を建てる
・上重中央の板扉以外を塗壁とした特殊な様式

・頭貫上の牡丹と蓮の模様の欄間が珍しい

・上重の組物(上段写真)、腰組(下段写真)ともに三手先で、上重は尾垂木入り

アクセス
JR紀勢線紀三井寺駅南500mです。護国寺の諸堂は山の中腹にあって駅から見えているので迷うことはありません。楼門から先は、かなり急な石段を231段上ります。紀伊国屋文左衛門の結縁の言い伝えのある石段です(石段横にケーブルカー開設済み)。
見学ガイド
護国院は有料で公開されています。開門時間は午前8:00~午後5:00です。開門中は重文指定建造物を自由に見学することができます。多宝塔と鐘楼は東側が山の斜面なので、朝は日陰になります。多宝塔の周囲は植栽が多いので、落葉期のほうが良く見ることができます。

感想メモ
訪問時は、紀伊国屋文左衛門の結縁の石段の横でケーブルカーの敷設工事中でした(既に完成済み)。バリアフリーは重要ですが、もう、この先、年老いた母親を背負って石段を上る第二の紀伊国屋文左衛門が出てこないと思うとちょっと複雑でした。以前から車でも上れるようになっていましたが。
各重文建造物はまだ朱の色がかなり鮮やかだったので、もう少し年月が経ってから再訪して、違った表情を見てみたいと思います。
(2021年12月訪問)

参考
紀三井寺公式サイト、和歌山市公式サイト

 

 

極彩色の桃山建築

天満神社


てんまんじんじゃ
和歌山市和歌浦
天満神社本殿34.191631, 135.164239
桃山
桁行五間、梁間二間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝三間、檜皮葺
天満神社末社多賀神社本殿34.191728, 135.164409
桃山
一間社春日造、檜皮葺
末社天照皇太神宮豊受大神宮本殿34.191740, 135.164446
桃山
二間社流造、檜皮葺
天満神社楼門34.191403, 135.164340
桃山
一間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺

天満神社は和歌浦天神山の中腹にあり、菅原道真を祀り、和歌浦一帯の氏神となっています。社殿は、天正13年(1585)の豊臣秀吉の兵火による焼失の後、慶長11年(1606)に藩主浅野幸長によって再建されたものであるとされています。


本殿:

・平入の入母屋造の正面に千鳥破風が付いた珍しい様式の社殿
・装飾には、極彩色を施し、周囲には動物、植物、波などの彫刻のある蟇股がつく

・向拝柱(上段写真)と身舎柱・繋虹梁(下段写真)にも極彩色が施されている

・妻にも彩色の装飾が施されている(写真は左側面)





・左が多賀神社本殿で右が天照皇太神宮豊受大神宮本殿
・ともに土台上に建ち浜縁を設けている



多賀神社本殿:

・一間社春日造、檜皮葺の社殿

・向拝柱の装飾(上段写真)と身舎柱の装飾(下段写真)
・向拝木鼻には進んだ象鼻が見られる。



天照皇太神宮豊受大神宮本殿:

・二間社だが向拝中央の柱は抜いている

・向拝柱の装飾(上段写真)と身舎・繋虹梁の装飾(下段写真)
・ここでも象鼻が用いられている



楼門:

・急な石段の上に建つ禅宗様式の一間一戸楼門
・入母屋造、本瓦葺、柱は円柱
・一階の柱間が一間にもかかわらず、桁行三間、梁間二間の二階をのせた珍しい構造

・禅宗様の扇型垂木と尾垂木入三手先の組物(上段写真)と腰組(下段写真)

アクセス
JR阪和線和歌山駅からバスで和歌浦口下車、900mです。和歌の浦まで入るバスがあれば歩く距離は短くなります。南海和歌山市駅からも和歌浦方面行バスが出ています。天満宮は丘の上にありかなり急で、滑りやすい石段を上ることになります。末社2殿は本殿右奥の覆屋の中にあります。
見学ガイド
天満神社の参拝時間は8時から17時までです。本殿は瑞垣越しに見学することになります。正面以外は軒まわりに覆い板が取り付けられているので、軒まわりの装飾等は見ることができません。末社の覆屋は前面が開放されているので、すぐ近くから社殿の細部を見ることができます。

感想メモ
東照宮と隣接して山の中腹にありますが、参道が独立しているので、それぞれ急坂を海面レベルから上ることになります。両者をショートカットできる裏口がないか探しましたがありませんでした。天神様は裏口を許してくれません。
本殿の軒下に保護板が取り付けられているなど、多少見学の障害はありますが、東照宮と比較すると全体的によく見ることができるので、満足度は高かったです。
(2021年12月訪問)

参考
和歌山市公式サイト

 

 

紀州日光の極彩色社殿

東照宮


とうしょうぐう
和歌山市和歌浦
東照宮本殿、石の間、拝殿34.192605, 135.165701
江戸前期
本殿 桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺
石の間 桁行三間、梁間一間、一重、両下造、檜皮葺
拝殿 桁行五間、梁間二間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝三間、檜皮葺
唐門34.192521, 135.165748
江戸前期
四脚平唐門、檜皮葺
東西瑞垣(東)34.192541, 135.165851
江戸前期
折曲り延長二十三間、檜皮葺
東西瑞垣(西)34.192494, 135.165677
江戸前期
折曲り延長二十二間、檜皮葺、掖門を含む
楼門34.192307, 135.165832
江戸前期
三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺
東西廻廊(東)34.192329, 135.165923
江戸前期
桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、本瓦葺
東西廻廊(西)34.192278, 135.165738
江戸前期
桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、本瓦葺

石の間、拝殿の構造様式について文化庁DBの記載が間違っており、これを転記したサイトも多く見られます。上表には和歌山市文化振興課に伺った情報を記載しています。

東照宮は、和歌浦権現山に鎮座しています。紀州藩初代藩主徳川頼宣が元和5年(1619)に入国した翌年に造営したもので、家康並びに頼宣の二公を祀っています。社殿は日光東照宮にならって豪華絢爛に装飾され紀州日光とも称されています。
・唐門の左右が東西の瑞垣、背後の千鳥破風が拝殿
・社殿は総檜皮葺の権現造りで、本殿と拝殿の中間に一段低い石の間を置く
・建物の細部まで彫刻・極彩色・漆塗などの装飾が施されている
・瑞垣は朱漆塗りの透塀で、東瑞垣には掖門がつく



唐門:

・平唐門で極彩色の装飾が施されている



楼門:

・三間一戸入母屋造、本瓦葺



東西回廊:

・東回廊の内面(上段写真)と西回廊の側面(下段写真)
・楼門側に半間伸ばし楼門との一体性を出している(上段写真の右)

アクセス
JR阪和線和歌山駅からバスで和歌浦口下車、600mです。和歌の浦まで入るバスがあれば歩く距離は短くなります。南海和歌山市駅からも和歌浦方面行バスが出ています。東照宮は丘の上にあり、108段のかなり急な石段を上ることになります。
見学ガイド
東照宮は有料で公開されています。拝観時間は午前9:00~午後5:00です。1時間に一度、神職・巫女による説明もあります(2021年の訪問時はコロナ対策のため休止中)。瑞垣の内側にも立ち入ることができるので本殿を間近に見ることができますが、写真撮影は禁止されています。瑞垣外では本殿の側面に回り込むことができないので、権現造りの社殿のうち瑞垣外から見ることができるのは拝殿のみです。

感想メモ
108段の石段はかなり急で、大変でした。
権現造の本殿をすぐ近くから見ることができたのは良かったけど、写真撮影できなかったのと、近すぎて権現造の社殿の全体像を見ることができなかったのは残念でした。
(2021年12月訪問)

参考
和歌山市公式サイト

 

 

熊野古道の「峠の地蔵さん」

地蔵峰寺本堂


じぞうぶじほんどう
海南市下津町橘本
地蔵峰寺本堂34.136625, 135.199268
室町中期
桁行三間、梁間三間、一重、寄棟造、本瓦葺

地蔵峰寺は熊野古道藤白坂を登った峠にあることから、「峠の地蔵さん」として信仰を集めています。
本堂の建立時期について明確な資料はありませんが、正面側柱に「永正十」(1513)の刻書があり、この頃の建立と考えられています。
・桁行、梁間ともに三間の寄棟造り本瓦葺で、禅宗様の影響が強く表れている

・柱上は和様の出三斗だが、中備は大仏様の双斗

・禅宗様の木製礎盤上に粽の付いた円柱を立てる

・堂内には総高3メートル余りの石造地蔵菩薩像が祀られている

アクセス
地藏峰寺は熊野古道の峠の頂上にあります。福勝寺からは北に2.2kmです。福勝寺の石段の前の農道を、みかん山の頂上を目指して上ります。高低差は約200mあります。案内標識が整備されているので迷うことはありません。福勝寺までのアクセスは福勝寺の欄を参照してください。福勝寺から少し下って、熊野古道を上ることもできます。
このほか海南駅から藤白神社経由で熊野古道を上るルートや、冷水浦駅からの登山道もあります。
見学ガイド
地蔵峰寺は常時自由に見学することができます。本堂は東面しています。

感想メモ
みかん山の農道はかなりの急こう配でなかなか大変でした。小堂ですが細部に大仏様が見られるなど、興味深い建物です。本堂裏の高台からは海南の海岸線のパノラマを楽しむことができます。
(2022年2月訪問)

参考
海南市公式サイト

 

 

熊野古道近くの密教修法の場

福勝寺


ふくしょうじ
海南市下津町橘本
福勝寺本堂34.128803, 135.193142
室町後期
桁行三間、梁間三間、寄棟造、本瓦及び桟瓦葺
求聞持堂34.128826, 135.193252
江戸前期
桁行9.6m、梁間5.2m、寄棟造、西面本堂に接続、本瓦葺

福勝寺は熊野古道橘本王子の西北の山の中腹に建つ高野山真言宗の古刹です。加茂谷を見下ろす境内地の西には滝があり、古くから修験の行場であったと伝えられます。
・左奥が本堂で、右手前が求聞持堂



本堂:

・墨書などから室町時代中期(15世紀頃)の建立と推測されている
・真言宗の標準的な寄棟造三間堂で本瓦葺

・柱上の組物は出三斗で、中備は間斗束



求聞持堂:

・慶安3年(1650)に初代紀州藩主徳川頼宣が虚空蔵求聞持法と呼ばれる真言密教の行法を行う場所として建立したもの
・東側を宝形造りとし、西側を両下造りとして本堂と接続している

・宝形部分の屋根には、菊水の台座に載せられた宝珠が飾られている

・軒は簡素な疎垂木で、柱上は舟肘木

・西側両下部分の内部

アクセス
紀勢本線加茂郷駅東4.5kmです。駅を出て和歌山方最初の踏切を渡って、そのまま県道を直進。橘本(きつもと)の集落で加茂川を渡る手前を左折し、坂道を300mほど進むと福勝寺の石段の下に出ます。橘本までは平日・土曜であれば、本数は少ないですが加茂郷駅からのコミュニティバスがあります。
加茂郷駅からの途中、善福院に立ち寄ることもできます。この時の合計距離は4.7kmで、小さなみかん山を一つ越えることになります。
見学ガイド
福勝寺は常時自由に参拝することができます。本堂、求聞持堂とも、やや東に面しています。求聞持堂の正面には小窓が設けられているので、中の様子も窺うことができます。

感想メモ
片道はコミュニティバスを利用することができたので、それほど苦労することなくアクセスできました。二堂が接続した珍しい造りです。
(2022年2月訪問)

参考
福勝寺公式サイト、和歌山県文化財センター、現地解説板

 

 

禅宗様定着以前の様式の国宝仏堂

善福院釈迦堂


ぜんぷくいんしゃかどう
海南市下津町梅田
善福院釈迦堂34.130554, 135.177249
国宝・鎌倉後期
桁行三間、梁間三間、一重もこし付、寄棟造、総本瓦葺

善福院は下津の谷あいの集落に位置します。健保2年(1214)栄西禅師によって創設されたといわれる広福寺五ヶ院の一つです。その後、高野山に頼り真言宗に転宗し伽藍を修復し、更に紀州藩となってからは天台宗に転宗しました。釈迦堂は、本尊釈迦如来坐像の胎内の修理銘に嘉暦2年(1327)とあることからこの頃の再建とされています。
・桁行三間梁間三間、一重裳階附き寄棟造り、本瓦葺
・禅宗様の中では木割の太い仏殿
・本瓦葺寄棟造は禅宗様定着以前の様式で、軒の反りもそれほど大きくない

・正面中央三間に桟唐戸を吊る

・粽付きの円柱や頭貫上の台輪は禅宗様

・木製の礎盤や扉の藁座も禅宗様

・組物は尾垂木付きの詰組だが、二手先であることが標準的な禅宗様と異なる
・軒は和様の平行繁垂木

・堂内は一室で、天井は化粧屋根裏で、須弥壇上は鏡天井

アクセス
紀勢本線加茂郷駅東2kmです。駅を出て和歌山方最初の踏切を渡って、そのまま県道を進むと善福院への分岐点に看板が立てられていますので左折、その先も分岐点には看板が設けられています。
見学ガイド
善福院釈迦堂は常時自由に参拝することができます。

感想メモ
この日は、熊野古道藤白峠の地蔵峰寺から福勝寺、善福院と歩き通したので、なかなか大変でした。善福院は福勝寺とは別の谷にあるので、最後に小さな峠越えがあったのは想定外でこたえました。
釈迦堂は円覚寺舎利殿のような典型的な禅宗様に発展する以前の様式ということで興味深い建築です。
(2022年2月訪問)

参考
海南市公式サイト

 

 

国宝堂宇が残る紀州徳川家の菩提寺

長保寺


ちょうほうじ
海南市下津町上
長保寺本堂34.109117, 135.165638
国宝・鎌倉後期
桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、本瓦葺
長保寺多宝塔34.108962, 135.165787
国宝・室町前期
三間多宝塔、本瓦葺
長保寺鎮守堂34.109267, 135.165934
鎌倉後期
一間社流造、檜皮葺
長保寺大門34.107805, 135.165510
国宝・室町前期
三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺

長保寺は下津の市街地東方の山裾に位置します。長保2年(1000)の創建と伝わり、現存する主要な堂宇は鎌倉時代に再建されたものです。創建当時は天台宗でしたが、その後、法相、天台と変わり、現在の堂宇が再建されたころは真言宗の寺院でした。寛文六年(1666)に紀州徳川家の菩提寺に定められ、再度天台宗に改められています。
・本堂と多宝塔



本堂:

・方五間、一重入母屋造、向拝一間、本瓦葺で、現本堂は延慶4年(1311)の再建と考えられている
・出入口の幣軸構え、連子窓、組入天井など和様を基調とするが、各所に禅宗様を取り入れた折衷様の建築
・向拝の一部などに後補がみられるが、その他はよく当初材を残す

・和様の扠首組妻飾り

・向拝の幅が正面中央間よりも広いため、虹梁が頭貫に直接接続する珍しい様式

・和様の出三斗と間斗束、頭貫の先端は禅宗様の拳鼻

・内陣の結界には和様の吹き寄せの菱格子
・柱頭の粽や肘木の笹繰、詰組は禅宗様



多宝塔:

・純和様の本瓦葺で、建立は本堂よりもやや年代が下る正平十二年(1357)と考えられている
・軒廻り、縁廻りなどを除いては各部に古い材が残っており、よく当初の姿を伝えている

・下重は方三間で、柱は円柱、四面の中央間にいずれも幣軸を廻して板戸を建て込む
・各面の両脇間は横板壁で、腰長押と内法長押の間に連子窓を飾る

・頭貫は隅柱内で止まっており木鼻は出ていない
・下重の組物は実肘木付きの出組で、柱通りの通肘木から丸桁にかけて軒支輪を架ける

・中備えは各間とも蟇股で、脚内には繊細な薄肉彫りの彫刻

・上重各間とも縦板を一枚張りとし、正背面と両側面の中央間だけは両開きの板戸に見せかける
・組物は尾垂木付きの四手先で、実肘木を置いて丸桁を受ける
・腰組の組物は上重の柱に合わせて配し、亀腹の上に直接肘木を置いて三つ斗を載せ、縁桁を受ける
・亀腹部分は非常に背が低く、漆喰塗りだが下地は縦板材



鎮守堂:

・一間社流造、桧皮葺の小規模な社殿だが梁間を二間とした本格的なもの
・和様三斗、正面の中備えに蟇股

・棟飾りは瓦積にして一角の珍しい鬼瓦を納める



大門:

・和様を基調とした三間一戸、入母屋造、本瓦葺の楼門で、南北朝時代の嘉慶2年(1388)の建造

・二軒の繁垂木で、組物は和様の三手先

・大門の腰組

アクセス
紀勢線下津駅下車、東に2.1kmです。駅を出て線路沿いを和歌山方向に進み、最初の歩道橋で線路と国道を超えて川沿いの道に入ります。その先、案内標識が整備されているので、迷うことはないように思います。
本数は非常に少ないですが、平日と土曜日は、海南駅、下津駅から門前まで入るコミュニティバスの便があります。
見学ガイド
長保寺は有料で公開されています。参拝時間は午前9時~午後4時です。4月8日の佛生会には、本堂内部に入ることもできるようです。普段は向拝から本堂内部を見ることができます。内部の写真撮影も禁止されていませんでした。大門は有料区域の手前、鎮守堂は本堂背後の紀州家墓所の門の手前を左に入ったところにあります。

感想メモ
正月二日に訪問しました。お正月の間は無料開放されるようで、お金を払わずに見ごたえのある国宝建築を堪能することができました。
(2022年1月訪問)

参考
長保寺公式サイト、和歌山県史
このブログについて:

長野県松本・安曇野・大町地方で国宝や国の重要文化財に指定された建造物のうち、私がこれまで訪問したものを紹介しています。
個人の備忘録みたいなものですが、実際に訪ねてみたら目当ての文化財が塀や樹木の陰で見えないといったことも時々あるので、ここでは、このあたりも詳しく書いて、閲覧してくれた方の参考になるように考えました。また、文化財の位置は国指定文化財等データベースで確認できますが、間違った情報も結構多いので、ここでは現地で実際に確認した座標を記載しています。
記載内容は訪問日時点のものです。情報が古くなってしまっている可能性もあり、修復工事が始まって見学できないこともあるので、注意してください。

松本市
松本城天守 天守、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓
旧松本高等学校 本館、講堂
旧開智学校校舎  
大宮熱田神社本殿  
大宮熱田神社若宮八幡宮本殿  
旧松本区裁判所庁舎  
馬場家住宅 主屋、隠居屋、文庫蔵、奥蔵、中門、表門及び左右長屋
牛伏川本流水路(牛伏川階段工)  
筑摩神社本殿  
若宮八幡社本殿  
田村堂  
大町市
仁科神明宮 本殿、中門(前殿)
盛蓮寺観音堂  
若一王子神社本殿  
旧中村家住宅 主屋、土蔵
安曇野市
松尾寺本堂  
曾根原家住宅  
東筑摩郡麻績村
神明社 本殿、拝殿、假殿、舞台、神楽殿
北安曇郡白馬村
神明社 本殿、諏訪社本殿

 

 

黒漆塗りの国宝天守

松本城天守


まつもとじょうてんしゅ
松本市丸の内
松本城天守 天守 36.238626, 137.968891
国宝・江戸前期
五重六階、本瓦葺
乾小天守 36.238808, 137.968844
国宝・桃山
三重四階、本瓦葺
渡櫓 36.238728, 137.968851
国宝・江戸前期
二重二階、本瓦葺
辰巳附櫓 36.238535, 137.968992
国宝・江戸前期
二重二階、本瓦葺
月見櫓 36.238544, 137.969091
国宝・江戸前期
一重、地下一階付、本瓦葺

 

松本城は松本の市街地中心部に位置します。
松本城の前身の深志城は戦国時代の永正年間に築城されたと考えられており、甲斐の武田氏が守護小笠原氏を追放し、信濃支配の拠点としたことから重要性を増すこととなりました。武田氏滅亡後は、徳川氏の支援を得た小笠原氏が奪取して城下町の経営を進めました。天正十八年(1590)の家康の関東移封に伴い、小笠原氏に替わって豊臣系大名である石川氏が入部し、城と城下町の建設が大きく進展しました。関ヶ原の戦後は、小笠原・戸田・松平・堀田・水野・戸田氏とめまぐるしく藩主が交代し、明治維新を迎えました。
・松本城天守は天守(写真中央)と乾小天守(いぬいこてんしゅ、写真左)を渡櫓(わたりやぐら)によって連結し、これに辰巳附櫓(たつみつけやぐら、天守の右)と月見櫓(右端)をつないだ連結複合式の天守
・現存天守としては唯一の黒漆塗り
 
・壁面には鉄砲狭間(さま)・矢狭間が見られる
 
・天守の一階壁面の一部を外に張り出して石落を設けている
 
・天守(写真右)、乾小天守(左)を二層の渡櫓がつなぐ
 
乾小天守と渡櫓: 
・天守とともに戦国時代末期に築造されたもので、これらにも狭間、石落が見られる
 
辰巳附櫓(左)と月見櫓(右): 
・寛永年間に建造されたこれらの櫓は戦のための設備が簡略化されており、辰巳櫓には石落の突出がなく、月見櫓は非常に開放的な構造
 
アクセス
JR篠ノ井線松本駅下車、徒歩約20分です。バス便も多数あります。
見学ガイド
松本城は有料で公開されています。開園時間は年末を除き8:30~17:00です。GWや夏季には開園時間が延長されます。外観は、周辺の園地からいつでも自由に見ることができます。

 

感想メモ
いつ見ても黒漆塗りの天守は美しく、長居をしてしまいます。複合天守で、時代による様式の差を見ることができるのも興味深いです。
(2018年4月訪問、2020年9月再訪)

 

参考
松本城公式サイト、国指定文化財等DB

 

 

大正時代前期の大規模な木造洋風建築

旧松本高等学校


きゅうまつもとこうとうがっこう
松本市県三丁目
旧松本高等学校 本館 36.231149, 137.981986
大正
木造、建築面積1,273.05平方メートル、二階建、桟瓦葺一部鉄板葺
講堂 36.231498, 137.982088
大正
木造、建築面積637.29平方メートル、一部二階建、銅板葺、西南部玄関・南面東昇降口附属

 

旧制松本高等学校は松本城の南東に位置します。大正中期の高等教育機関拡張期に開校した文部省直轄学校のひとつで、信州大学の前身です。重文指定された本館と講堂は、当初から現位置にあり、本館が大正9年(1920)、講堂が大正11年(1922)に竣工しました。本館・講堂は、明治時代中期における旧ナンバースクール高等学校建設の後を受けて、大正時代前期に高等学校が飛躍的に増設された時期の建築様式の代表例です。これは西洋建築様式を簡略化して木造建築に応用したもので、公共建築に多く用いられました。大正時代前期の木造洋風建築例としては規模も大きく、保存も良好です。

 


本館
 
北西隅切部: 
・本館はコの字形の平面をもつ木造二階建校舎で、北西の隅切部に玄関を設ける
 
・玄関二階の三連窓上部には駒形破風が設けられている
 
・西面(上段写真)と中庭部(下段写真): 
・外壁は下見板張
 

 


講堂
 
南面:
・木造平屋一部二階建で、本館同様の外観だが、内外の装飾細部の意匠密度を高めている
・南面西端に玄関、東端に昇降口が設けられている
 
・曲線的な玄関ポーチ
 
・南面東側昇降口は舞台側の出入口になっている
 
・大棟と東側昇降口の棟との交点には塔屋が設けられている
 
西面
 
アクセス
松本駅から2km弱です。周遊バスの停留所が近くにあります。駅前のシェアサイクルも利用できます。
見学ガイド
旧松本高等学校の周囲は公園として整備されていて、いつでも自由に見ることができます。本館の内部の一部は有料で一般公開されています。講堂はイベント会場として使用されています。

 

感想メモ
明治の煉瓦建築のような重苦しさがなく、軽快で信州の風景にうまく溶け込んでいます。
(2020年9月、2023年3月訪問)

 

参考
文化遺産オンライン、松本市公式サイト

 

 

梓川の水の恩恵をうける里々の守護神

大宮熱田神社


おおみやあつたじんじゃ
松本市梓川梓
大宮熱田神社本殿 36.231003, 137.845170
室町後期
一間社流造、こけら葺
大宮熱田神社若宮八幡宮本殿 36.222243, 137.845272
室町中期
一間社流見世棚造、こけら葺

 

大宮熱田神社は松本平の西端部に鎮座します。梓川の水の恩恵をうける里々の守護神で、古くは松本平を眼下に一望できる本神山山頂に祀られていました。その後、祭事や参詣者の便のために、現在地に神殿を造営して遷座し、更に「熱田大神」「天照大神」「八幡大神」が合祀されたのが現在の神社です。

 


本殿
 
・一間社流造、こけら葺で、向拝柱も円柱であるのが特徴
 

 


若宮八幡宮本殿
 
・一間社流見世棚造、こけら葺の小規模な社殿
・身舎・向拝ともに角柱で、懸魚・向拝・紅梁などに地方色が表れている
 
アクセス
最寄駅は松本電鉄の波田駅ですが神社まで5kmほどあります。松本駅前の電動アシストのシェアサイクルを利用することもできます。松本駅から13kmで後半は軽い登りです。
若宮八幡宮本殿は、大宮熱田神社本殿から離れた場所にあるので注意が必要です。文化庁のデータベースの位置表示は間違っています。若宮八幡宮は大宮熱田神社の南1.2kmの林の中にあります。林は鳥獣避けのフェンスで囲われていますが、八幡宮の前に扉が設けられていて施錠もされていないので中に入ることができます。
見学ガイド
大宮熱田神社本殿には拝殿の右側から回り込むことができます。回り込んだところに説明板が設置されているので、ここまでは立ち入りが想定されているようです。本殿は、背が高く連子の隙間がやや狭い瑞垣に囲まれており、周囲に樹木が繁茂しているため、視角はかなり制限されます。
八幡宮本殿は残念ながら覆屋の中です。覆屋の三方に格子窓がありますが内側に目の細かい金網が張られているので、中をほとんど見ることができません。コンデジをMFにしてやっと中の様子がわかる程度です。

 

感想メモ
大宮熱田神社は公共交通の空白地帯にあって、アクセスがちょっと大変でした。これでシェアサイクルがなかったら訪問を断念していたかもしれません。せっかく辿り着きましたが、両社殿ともあまりよく見ることができず、ちょっと残念でした。
(2020年9月訪問)

 

参考
八十二文化財団HP、松本市公式観光情報HP

 

 

洋風の平面を持つ和風建築

旧松本区裁判所庁舎


きゅうまつもとくさいばんしょちょうしゃ
松本市島立
旧松本区裁判所庁舎 36.231526, 137.933782
明治
木造、建築面積742.18㎡、桟瓦葺一部鉄板葺

 

松本区裁判所庁舎は、明治41年 (1908)、松本城二の丸御殿跡に建てられましたもので、現在は市街地西方の田園地帯に移築されています。平面は横長のH形をしており、その中央正面が突き出た形になっています。中央部分に中廊下をはさんで判事室・書記室・検事室等を設け、左右の翼屋部には正面に向かって左側に支部訟廷及び書記室等を、向かって右側には区訟廷・予審廷を設けています。
庁舎正面(上)と南側面(下):
・木造平屋瓦葺で、伝統的な和風の建築様式
・全国的に地方の裁判所は和風の建築様式を基本とすることが多く、これもその例に倣ったもの
・合計5個の突出部があり、それぞれの屋根に入母屋破風をつける
・正面の屋根に2個、左右側面の屋根に各3個の千鳥破風をつける
 
訟廷: 
・裁判官席として高い段が設けられている
 
アクセス
松本電鉄大庭駅下車、徒歩20分です。
見学ガイド
松本市歴史の里の保存施設として有料公開されています。内部も見ることができます。東面しているので、早い時間の訪問がおすすめです。

 

感想メモ
和風建築ですが、平面が洋風で、屋根には洋館のペディメントのような千鳥破風を載せているのが面白かったです。
(2020年8月訪問)

 

参考
松本市公式サイト

 

 

本棟造民家の典型例

馬場家住宅


ばばけじゅうたく
松本市内田
馬場家住宅 主屋 36.167152, 137.985755
江戸末期
桁行18.8m、梁間16.4m、一部二階、切妻造、妻入、正面庇及び東側突出部付、鉄板葺、正面南方湯殿・雪隠及び北側面釜場・流し附属
表門及び左右長屋 36.167216, 137.985496
江戸末期
桁行19.9m、梁間3.7m、切妻造、中央部切り上げ、桟瓦葺、左右屋根塀附属
中門 36.167124, 137.985590
江戸末期
三間一戸薬医門、桟瓦葺、左右屋根塀附属
文庫蔵 36.167137, 137.985901
江戸末期
土蔵造、桁行7.3m、梁間4.5m、二階建、正面庇附属、切妻造、桟瓦葺
隠居屋 36.167053, 137.986039
江戸末期
桁行12.4m、梁間5.5m、入母屋造、北面東突出部 桁行5.3m、梁間4.5m、切妻造、西面流し附属、北面奥蔵に接続
奥蔵 36.167183, 137.986112
江戸末期
土蔵造、桁行12.8m、梁間4.5m、一部二階、切妻造、西面庇附属、桟瓦葺

 

馬場家住宅は、松本平の南東部、塩尻市境に近い田園地帯に位置します。
馬場家の言い伝えでは、武田信玄の家臣・馬場美濃守信春の縁者が先祖であり、天正10年(1582)頃この地に住みついたとされています。馬場家は屋号を「古屋敷」といい、江戸時代には広大な田畑を所有していたほか、高島藩主・諏訪氏と親密な関係を持つ特別な地位にありました。
・馬場家住宅は松本平の南東部、筑摩山地を背にして建つ
 

 


主屋
 
・嘉永4年(1851)の建築で、長野県中南部に分布する本棟造の典型的なもの
・間口九間,、奥行七間で、ゲンカン、ザシキ、イリカワなどの整った接客部を備える
 
・正面の棟には雀おどしを飾る
 
ザシキ
 

 


表門及び左右長屋
 
・安永6年(1859年)に中門とともに建築されたもので、馬場家の特別な家格によって藩から特に建設を許されたものと考えられている
 

 


文庫蔵
 
・弘化2年(1845)建築の文書や家財を収納するため土蔵
・妻には屋号の古屋敷の「古」の文字が見られる
 
・軒瓦には馬場家の家紋「一枚柏」が見られる
 

 


中門
 
・藩主が馬場家を訪れるときにのみ開けられた
・藩主は正面玄関からではなく、この門を通って縁側に腰掛けたと伝わる
 
本柱の桁の家紋: 
・馬場家の家紋は一枚柏だが、ここのみに三枚柏の家紋が飾られている
 

 


隠居屋
 
・当主隠居後の居宅
 

 


奥蔵
 
・隠居屋に接して建てられており、穀物や塩、味噌などの貯蔵庫として用いられた
 
アクセス
JR篠ノ井線松本駅と村井駅を結ぶバスで寿台東口下車、南1.5kmです。松本駅周辺のレンタサイクルを利用することもできます。駅からは8.3㎞で、100m程度上ります。
見学ガイド
馬場家住宅は有料で公開されています。主屋と文庫蔵は内部も見ることができます。隠居屋と奥蔵は非公開ですが公開区域から一部を見ることができます。

 

感想メモ
桜が満開の快晴の週末に訪問しました。これ以上ないベストコンディションで、美しい景観を満喫することができました。この地域の本棟造の屋敷で一般公開されているものは少ないので、内部もゆっくり見ることができてありがたかったです。
ここから4キロほど山に入ると重要文化財の牛伏川階段工がありますが、高低差300mの上りで、ここまで塩尻駅前の電動アシストなしのレンタサイクルで来て、ちょっと消耗していたので、今回は断念しました。
(2023年4月訪問)

 

参考
馬場家住宅公式サイト

 

 

室町時代の三間社流造

筑摩神社本殿


つかまじんじゃほんでん
松本市筑摩
筑摩神社本殿 36.226320, 137.982570
室町中期
三間社流造、檜皮葺

 

筑摩神社は中心市街地の南方、薄川左岸に鎮座します。古来からこの地に鎮座し、筑摩八幡宮、国府八幡宮の名でよばれてきました。中世には小笠原氏が筑摩郡に入ると、源氏の守護神として厚い信仰を受けました。
本殿は小笠原政康が永享11年(1439年)に寄進したものです。その後数回の補修がありましたが、室町時代の手法を各所に残しています。
・本殿は三間社流造で、この地域の神社建築の中では最大
 
・妻飾は虹梁大瓶束で、柱上の組物は三斗を二段に積んでいる
 
向拝: 
・直線的な繋虹梁は室町時代の特徴
・向拝柱上は前後とも出組で桁を持ち出し、三本の桁で軒を支える珍しい様式
・手挟の意匠も特異
 
アクセス
JR篠ノ井線松本駅下車、東2kmです。松本の文化財巡りにはシェアサイクルが便利です。
見学ガイド
筑摩神社は常時自由に参拝することができます。本殿は瑞垣越しに見ることができます。

 

感想メモ
立派な三間社で、細部も珍しい意匠です。本殿の正面には拝殿があるので斜め方向から瑞垣越しに見ることになりますが、連子がやや厚いのでコンデジでもなかなか本殿全体をとらえることができませんでした。でも、拝殿の縁には上ることができるようになっていて、脇障子の横から手を伸ばして撮影することができました。ちょっと行儀が悪くて、すみませんでした。
木階が破損したようでブルーシートが掛けられていました。シートの下には室町様式の擬宝珠があるそうです。
(2023年3月訪問)

 

参考
松本市公式サイト

 

 

松本城の鎮守社を譲り受けた社殿

若宮八幡社本殿


わかみやはちまんぐうほんでん
松本市筑摩
若宮八幡社本殿 36.221232, 137.982824
桃山
一間社流造、こけら葺

 

若宮八幡社は筑摩神社南方の住宅地に鎮座します。八幡社の創建は不明ですが、古くから仁徳天皇を祀る社であったといわれます。本殿は、旧社殿が破損したのち、寛文10年(1670年)に、松本城二の丸の鎮守社の社殿を造営をした際に、旧鎮守社の社殿をもらい受け、この地へ移したものと伝えられています。この社殿が城内に建てられたのは、城郭の拡張計画が立てれた天正13年(1585)頃であると考えられています。
・一間社流造、こけら葺の小規模で簡素な社殿
・身舎も角柱であるのは珍しい
・城の鎮守社として、江戸時代以前のものは全国的にも類例がない
 
アクセス
JR篠ノ井線松本駅下車、南東2.6kmです。筑摩神社の鳥居からまっすぐ南に600mです。バス便もあります。松本の文化財巡りにはシェアサイクルが便利です。
見学ガイド
筑摩神社は常時自由に参拝することができます。本殿は瑞垣越しに見ることができます。

 

感想メモ
非常に小さな社殿で、公園の片隅にあって見過ごしてしまいそうでした。瑞垣が低く、拝殿と瑞垣の間に立ち入ることができるので、大変よく見ることができました。
この社が城内にあったのは100年弱、市井に出て既に300年以上。いろいろな情景を眺めてきたのだろうなと思います。
(2023年3月訪問)

 

参考
松本市公式サイト

 

 

厨子として作られた田村将軍を祀る神祠

田村堂


たむらどう
松本市波田
田村堂 36.191901, 137.840152
室町後期
桁行一間、梁間一間、一重、入母屋造、妻入、こけら葺

 

田村堂は松本平南西端の梓川右岸段丘上に位置します。もとは、明治初頭に廃寺となった若澤寺にあったもので、田村将軍をまつる神祠です。室町後期の製作であると考えられています。
・桁行1間、梁間1間、一重、入母屋造、妻入、こけら葺で、当初は厨子として製作されたもの
・完成当初は総金箔塗
・禅宗様の扇垂木で詰組だが、和様の長押を用いている
 
アクセス
松本電鉄渕東駅から南に徒歩10分。河岸段丘を1段上ったところです。
見学ガイド
田村堂は覆屋の中にあります。覆屋の3面が格子窓になっていて内部は比較的明るいのですが、残念ながら格子にガラスがはめられていて、ガラスの汚れと反射を気にしながら見学することになります。

 

感想メモ
ガラス越しの見学でしたが、写真にするとガラスの汚れが飛んでくれたので良かったです。
(2020年9月訪問)

 

参考
八十二文化財団HP、現地説明板

 

 

地方色豊かな架構の社殿

若一王子神社本殿


にゃくいちおうじじんじゃほんでん
大町市大町
若一王子神社本殿 36.515876, 137.853497
室町後期
一間社隅木入春日造、檜皮葺

 

若一王子神社は大町の市街地北方の田園地帯に鎮座します。嘉祥2年(849)創建と伝わる古社で、領主の仁科家が累代社殿の修造を加えて来ました。現在の本殿は戦国末期の弘治2年(1556)に仁科盛康によって造営されたものです。
・一間社隅木入春日造、檜皮葺で、棟は箱棟
・箱棟前面には鬼面を飾る
 
・向拝軒桁の前後にも桁を置き、合計三本に桁で軒を支える
・向拝柱上の複雑な斗きょうで三本の桁を支え、さらにその内側に一手出して拳鼻型の手挟を三重の斗で支える
・身舎側は二段の木鼻を出し、下段の木鼻で海老虹梁を受ける
 
・軒は二軒の繁垂木で、身舎側面中央には大きな室町風の蟇股を置く
 
・背面の妻飾は虹梁大瓶束で、頭貫上には蟇股を飾る
 
アクセス
大糸線北大町駅下車、西0.7㎞です。松本方面から便利な信濃大町駅だと北2㎞で、バス便も利用することができます。本数は多くありません。
見学ガイド
本殿脇には拝殿の左側から回り込むことができます。瑞垣に囲われていますが、瑞垣の背が低いので左右・背面から本殿全体をよく見ることができます。

 

感想メモ
独特の様式と精緻な細部意匠が見られる興味深い社殿です。境内には立派な三重塔や観音堂もあって神仏習合の不思議な雰囲気を味わうことができます。
(2020年8月、2023年8月訪問)

 

参考
若一王子神社公式サイト、現地解説板

 

 

上層農家の大規模な住宅

旧中村家住宅


なかむらけじゅうたく
大町市美麻
旧中村家住宅 主屋 36.605802, 137.888121
江戸中期
桁行25.5m、梁間10.9m、寄棟造、茅葺、西南隅もんぐち附属
土蔵 36.605579, 137.888237
江戸後期
土蔵造、桁行10.8m、梁間7.3m、二階建、切妻造、茅葺、正背面軒支柱付

 

旧中村家住宅は大町市街地の北方の山間部、旧美麻村に位置します。中村家は慶長年間に上方からこの地に移り帰農し、代々庄屋などを務めた旧家です。主屋は元禄11年(1696)に隣村の大工の手で建てられたもので、県下の住宅建築としては最古の遺構です。土蔵も安永9年(1780)の建築で、古い部類に属します。
・写真右が主屋で、左が土蔵
・土蔵は主屋と向かい合う形で屋敷入口付近(写真左端)にあったが、昭和後期の道路拡幅のため現在地に移築されている
 

 


主屋
 
・桁行14間・梁行6間の茅葺・寄棟造の大規模な建築
・非常に多くの柱で頑丈な造りとしている
 
・屋根は茅で非常に厚く葺かれている
 
・南面には縁を設けている
 
・縁は西側背面南端部(写真左)にまで続く
 
・南面東端にはもんぐちを付属させている
・もんぐちには門のほか、湯殿などを設けている
 
・正面上手には武家専用の出入口である式台を設けている
 
・屋根の一部を切り上げ、煙抜きを設けている
 
・主屋の上手には武家のみが入室を許された奥の間が設けられている
庭のある南面を正面としていることや、奥行きの浅い床の間としているのは、古い時代の特徴
・奥の間には竿縁天井が張られ、長押を回すなど上質な造りとしている
・奥座敷の周囲には畳敷きのゆりか(入側)が設けられている(中段写真)
 
・主屋の下手側は土間としている
・土間の一部には蓆を敷き、土座としている
・板敷の茶の間も、もとは土座であった
 
・最も下手側は馬屋としている
 

 


土蔵
 
・桁行6間・梁行4間の切妻造
・屋根は置き屋根で茅葺
 
・軒支柱を立てて置き屋根を支えている
 
・内側は栗の厚板を落とし込んで、頑丈な板壁としている
 
アクセス
JR信越本線長野駅と大糸線白馬駅を結ぶバスで美麻ぽかぽかランド前下車、西700mです。信濃大町駅、北大町駅からのコミュニティバスは中村家住宅の近くに停車します。
見学ガイド
旧中村家住宅は有料で公開されています。

 

感想メモ
山間部の静かな集落にありますが、非常の規模の大きな迫力のある建物です。この辺りは江戸時代の商品作物四木三草のひとつ麻の特産地であったということで、これがもたらした富の大きさを実感させられます。
(2023年8月訪問)

 

参考
現地解説板、大町市公式サイト

 

 

小型で簡素な見世棚造の社殿

神明社


しんめいしゃ
北安曇郡白馬村三日市場
神明社 本殿 36.644147, 137.860955
桃山
一間社切妻見世棚造、厚板葺
諏訪社本殿 36.644156, 137.860895
桃山北安曇郡白馬村三日市場
一間社流見世棚造、厚板葺

 

三日市場神明社は、仁科氏の氏族、沢渡九八郎盛忠がこの地に城を構えるに当り社殿の造営工事を行ったもので、神明社社殿は向拝付、屋根直線板葺の一間社、諏訪社本殿は流造、屋根板葺の一間社でたいへん簡素なものです。
アクセス
JR大糸線神城駅、南神城駅それぞれから2.3kmです。長野駅と白馬駅を結ぶバスが神明社の近くを通ります。文化庁のデータベースは全く異なる山中の位置を示しています。この地域にはいくつかの神明社がありますが、重文社殿があるのは、三日市場神明社で、位置は上表の座標に示すとおりです。
見学ガイド
神明社の本殿、諏訪社本殿とも覆屋の中にあって、外部から全く見ることはできません。

 

感想メモ
覆屋の中にあるとの情報がありましたが、隙間くらいはあるかもと期待して、大町の中村家からの帰路に立ち寄りました。大変頑丈な造りの覆屋で1ミリの隙間もありませんでした。
静かな山間の村です。ただし、熊注意の看板多数。
(2023年8月訪問)

 

参考
白馬村公式サイト


京都市南区にある国宝や国の重要文化財に指定された建造物のうち、私がこれまで訪問したものを紹介しています。
個人の備忘録みたいなものですが、実際に訪ねてみたら目当ての文化財が塀や樹木の陰で見えないといったことも時々あるので、ここでは、このあたりも詳しく書いて、閲覧してくれた方の参考になるように考えました。また、文化財の位置は国指定文化財等データベースで確認できますが、間違った情報も結構多いので、ここでは現地で実際に確認した座標を記載しています。
記載内容は訪問日時点のものです。情報が古くなってしまっている可能性もあり、修復工事が始まって見学できないこともあるので、注意してください。
京都市南区
教王護国寺金堂
教王護国寺講堂
教王護国寺五重塔
教王護国寺大師堂(西院御影堂)
教王護国寺五重小塔
教王護国寺宝蔵
教王護国寺南大門
教王護国寺東大門
教王護国寺北総門
教王護国寺北大門
教王護国寺慶賀門
教王護国寺蓮花門
教王護国寺灌頂院東門、灌頂院、北門
観智院客殿

 

 

真言密教の根本道場「東寺」

教王護国寺


きょうおうごこくじ
京都市南区九条町
教王護国寺金堂34.980367, 135.747682
国宝・桃山
桁行五間、梁間三間、一重もこし付、入母屋造、本瓦葺
教王護国寺講堂34.980757, 135.747691
室町後期
桁行九間、梁間四間、一重、入母屋造、本瓦葺
教王護国寺五重塔34.979880, 135.748718
国宝・江戸前期
三間五重塔婆、本瓦葺
教王護国寺大師堂(西院御影堂)34.981652, 135.746796
国宝・室町前期
後堂、前堂及び中門より成る
後堂 桁行七間、梁間四間、一重、入母屋造、北面西側端二間庇、すがる破風造、東面向拝一間
前堂 桁行四間、梁間五間、一重、北面入母屋造、南面後堂に接続
中門 桁行二間、梁間一間、一重、西面切妻造、東面前堂に接続、総檜皮葺
教王護国寺五重小塔34.982148, 135.747303
鎌倉前期
三間五重塔婆、本瓦形板葺
教王護国寺宝蔵34.981488, 135.748819
平安後期
桁行三間、梁間三間、校倉、寄棟造、本瓦葺
教王護国寺南大門34.979561, 135.747688
桃山
三間一戸八脚門、切妻造、本瓦葺
教王護国寺東大門34.980678, 135.749066
桃山
三間一戸八脚門、切妻造、本瓦葺
教王護国寺北総門34.984181, 135.747676
鎌倉前期
四脚門、切妻造、本瓦葺
教王護国寺北大門34.982048, 135.747704
桃山
三間一戸八脚門、切妻造、本瓦葺
教王護国寺慶賀門34.981871, 135.749057
鎌倉前期
三間一戸八脚門、切妻造、本瓦葺
教王護国寺蓮花門34.980676, 135.746321
国宝・鎌倉前期
三間一戸八脚門、切妻造、本瓦葺
教王護国寺灌頂院灌頂院34.979796, 135.746674
江戸前期
桁行七間、梁間七間、一重、寄棟造、本瓦葺
東門34.979712, 135.747021
鎌倉前期
四脚門、切妻造、本瓦葺
北門34.980126, 135.746682
鎌倉前期
四脚門、切妻造、本瓦葺
観智院客殿34.982625, 135.747900
国宝・桃山
桁行12.7m、梁間13.7m、一重、入母屋造、妻入、正面軒唐破風付
中門 桁行一間、梁間一間、一重、切妻造
総銅板葺

教王護国寺(東寺)は九条通りに面した市街地に位置します。
延暦13年(794)に桓武天皇により築かれた平安京の両翼に建立されたのが、東寺と西寺で、東寺は東国の王城鎮護を担う官寺でした。桓武天皇のあとに即位した嵯峨天皇は、唐で密教を学んで帰国した弘法大師空海に東寺を託し、東寺は真言密教の根本道場となりました。
平安末期には東寺、西寺ともに衰退の一途をたどりましたが、鎌倉時代には後白河法皇の皇女、宣陽門院の支援などにより東寺は復興していきました。桃山時代になると、焼失した金堂が再建され、東寺は、ほぼ元の姿に復されました。子院観智院は、徳川家康によって真言一宗の勧学院に定められました。


金堂

・創建当初の金堂は文明18年(1486)に焼失
・現在の建物は、慶長8年(1603)に豊臣秀頼によって再建されたもの
・旧堂の規模を踏襲した大型の仏堂
・大仏様と禅宗様、和様の折衷様式

・元旦早朝、金堂の屋根には大晦日の夜の雪が残る

・上層は、多宝塔以外では珍しい和様の四手先

・裳階の柱上は大仏様の差し肘木の三手先で、柱間に平三斗を禅宗様の詰組のように置く

・正面中央の切り上げは東大寺大仏殿や平等院鳳凰堂にも見られる形式
・大仏殿や鳳凰堂と同様に切り上げ部には観相窓が開かれているが、本尊の高さと一致していないため、この部分から本尊の尊顔を拝むことはできない



講堂

・空海が密教の伝教の中心としたもので、大伽藍の中心に位置する
・大伽藍は文明18年(1486)に焼失したが、講堂は焼失の5年後に、金堂などよりも優先して再建された

・妻の装飾

・二軒の平行繁垂木、和様の尾垂木付き三手先の組物と間斗束



五重塔

・落雷などによって4度焼失し、現在の五重塔は、寛永21年(1644)の再建
・高さ55mで、木造建築としては日本一の高さ
・伝統的な和様建築で近世初期の復古的建築の代表例

・各重とも二軒の平行繁垂木

・柱は長押で固める
・組物は和様の尾垂木付き三手先

・初重板戸の内側に引き違い戸と吹寄菱格子の欄間を備える
・両側間は連子窓

相輪



大師堂(西院御影堂)

・屋根の雪に元旦早朝の朝日が射す御影堂
・御影堂の前身は弘法大師空海の住居で、後堂(写真左の入母屋)、前堂(中央の入母屋)、中門(上段写真の前堂の右の切妻)から構成される
・落ち着きのある檜皮葺の和様建築

・後堂には和様の蔀戸や妻戸(側面の両開きの扉)が吊られる
・東側面(中段写真)には向拝が付く

・後堂の軒まわりは簡素な疎垂木で、隅柱のみに舟肘木を置く
・縁には跳高欄を巡らす
・垂木端や高欄の跳部などを金物で装飾を施している

・後堂の妻飾も金物で装飾している

・写真右が後堂で、左の檜皮葺切妻が中門
・後堂北端は古風な縋破風(すがるはふ)が付く

・中門(写真中央の切妻)の左が前堂で、右奥が後堂



五重小塔(撮影禁止)

・五尺三寸余の小型の五重塔で、細部まで精巧にできている
・延応二年(1340)に宣陽門院(後白河天皇御子)が施入したもの



宝蔵

・東寺創建に近い年代の建築と考えられており、密教法具や両界曼荼羅、仏舎利などの寺宝を納めていた
・周囲は堀で囲まれ、火事による延焼に備えている
・扉の取付け方法は、平等院鳳凰堂と同じで、現在使われている瓦の多くは平安時代のもの
・床板は大規模な建物の扉を転用したもので、金堂の扉とも羅城門の扉ともいわれている



南大門

・桃山時代の豪壮な八脚門で、もとは蓮華王院(三十三間堂)の西門であったものを明治時代に移築

妻の意匠



東大門

・常時閉鎖されており不開門とも呼ばれる
・教王護国寺の4棟の八脚門(東大門、北大門、慶賀門、蓮花門)は、ほぼ同形で、三間一戸、切妻、二軒、二重虹梁蟇股



北総門

・境内を区画する他の門が八脚門であるのに対し、この門は四脚門

・妻には輪郭のはっきりとした大きな板蟇股が見られる
・頭貫の木鼻は大仏様

・天井は化粧屋根裏



北大門

外面(上段写真)と内面(下段写真): 
・北大門を出て北総門に至る参道(上段写真手前、下段写真奥)は、櫛笥小路(くしげこうじ)と呼ばれ、平安時代以来そのままの幅で残っている京都市内ただひとつの小路

・二重虹梁蟇股の構架



慶賀門

・東大門が不開門であるため、この門が境内東側に開かれた唯一の門

・二重虹梁蟇股の構架で、特殊な形状の懸魚を付ける

・外面は二重虹梁蟇股だが、内部は妻部分(写真右下奥)を含め、中備は間斗束
・天井は組み入れ天井で、裏板が張られていない
・裏板のない組み入れ天井は東大寺転害門にも見られる古い様式



蓮花門

・天皇を迎える小子房の西側、庭の奥に位置する純和様の門
・弘法大師空海が晩年この門から隠棲のため高野山に向かったと伝わる

・二重虹梁蟇股の構架と特殊な形状の懸魚
・懸魚は慶賀門を倣い大正時代に復元されたもの

・二軒の繁垂木で、飛檐垂木の先端は細く削られている
・組み入れ天井の格子には裏板が設けられていない



灌頂院

・上段写真が南側正面で、中段が東側面、下段が北側背面
・灌頂院は真言宗において特に重視される修業の場
・現在の建物は寛永年間の再建

・二軒の繁垂木で、柱上は出三斗、中備は間斗束

・毎年1月には後七日御修法(みしほ)が執り行われる
・元来は宮中真言院で行われた宮中行事で、空海の奏上によって承和2年(835)に始められたもの
・十八本山が一堂に会する真言宗最高の法儀
・上段写真は儀式を終えて東門から運びがされる天皇の御衣で、下段写真は退出する高僧の方々



灌頂院東門

・木割の太い古式を伝える鎌倉時代の四脚門

・古風な梅鉢懸魚と板蟇股が見られる



灌頂院北門

・東門と同様、鎌倉時代の建立
・本来棟門であったものに控柱が加わり四脚門となった

・板蟇股は東門と同様だが、垂木は簡素な疎垂木で、小舞裏



観智院客殿

・客殿は桃山時代の書院造

アクセス
JR東海道本線京都駅南口から西に1kmです。近鉄京都線東寺駅から西に500mです。
見学ガイド
東寺は午前5時に開門し、午後5時に閉門します。開門時間中は自由に参拝することができます。金堂、講堂、五重塔は有料で公開されています。公開時間は午前8時〜午後5時です。これらの建物の外観は境内西側の無料区域からも見ることができます。灌頂院は非公開です。塀越しに一部のみ見ることができます。毎年1月14日の後七日御修法結願日の後拝みの際に立ち入りが許されます。五重小塔は宝物館に収蔵されています。宝物館は企画展等のある時のみ開館します。五重小塔の撮影は禁止されています。観智院は有料で公開されています。公開時間は午前9時〜午後5時です。

感想メモ
この日は京都駅集合で舞鶴出張ということで、早朝集合前と夕刻帰着後の2回、東寺を訪問しました。朝の静かな境内も素晴らしいし、夕刻は伽藍に西日が射して美しい姿を堪能することができました。特に、境内南西の歩道橋からの、東山を背景とした五重塔や南大門の姿は本当に素晴らしかったです。
(2021年12月訪問)
東大寺で除夜の鐘を聴き、春日大社に初詣、近鉄奈良で仮眠して始発の近鉄で東寺を訪問しました。大晦日の雪が堂宇の屋根に残り、それに元旦の朝日が射して、心が引き締まる美しい姿でした。
(2022年1月訪問)
「東寺のすべて」の開催期間中に訪問しました。普段立ち入ることができない灌頂院の境内に入り建物内部も見ることができて大変ありがたかったです。
(2023年5月訪問)
灌頂院が開門される後七日御修法の結願日に訪問しました。真言宗の高僧が集まり一週間にわたり法儀を執り行った直後で、堂内には僧侶の方々の熱気がまだ残っているように感じました。このような伝統行事に伴う特別公開は建物の生きた姿を見ることができて、大変ありがたく思います。
(2024年1月訪問)

参考
東寺公式サイト、京都古建築(藤原義一)、現地解説板、解説版新指定重要文化財11、総覧日本の建築6-I
このブログについて:

愛知県犬山・尾張北部地域で国宝や国の重要文化財に指定された建造物のうち、私がこれまで訪問したものを紹介しています。
個人の備忘録みたいなものですが、実際に訪ねてみたら目当ての文化財が塀や樹木の陰で見えないといったことも時々あるので、ここでは、このあたりも詳しく書いて、閲覧してくれた方の参考になるように考えました。また、文化財の位置は国指定文化財等データベースで確認できますが、間違った情報も結構多いので、ここでは現地で実際に確認した座標を記載しています。
記載内容は訪問日時点のものです。情報が古くなってしまっている可能性もあり、修復工事が始まって見学できないこともあるので、注意してください。

犬山市
大縣神社本殿、祭文殿及び東西回廊
犬山城天守
旧正伝院書院
如庵
旧伊勢郵便局舎(宇治山田郵便局舎)
旧呉服座
旧札幌電話交換局舎
旧三重県庁舎
旧山梨県東山梨郡役所
旧菅島燈台付属官舎主屋、倉庫
旧西郷従道住宅
旧東松家住宅
旧日本聖公会京都聖約翰教会堂
旧品川燈台
旧西園寺家興津別邸(坐魚荘)主屋、警衛詰所、供待及び門
江南市
曼陀羅寺正堂
曼陀羅寺書院
北名古屋市
高田寺本堂

 

 

国宝三茶室の一つ

如庵


じょあん
犬山市犬山御門先
如庵35.388012, 136.942334
国宝・江戸前期
茶室二畳半台目、水屋の間三畳、廊下の間より成る、一重、入母屋造、こけら葺

如庵は犬山城近くの有楽苑内にあります。織田信長の実弟織田有楽が京都・建仁寺の塔頭・正伝院を再興した際に建てた茶室で、東京の三井本邸などを経て、現在地に移築されています。京都の妙喜庵待庵(たいあん)と、大徳寺龍光院の密庵(みつたん)とともに国宝指定の三茶室の一つです。
・こけら葺で入母屋風の格調高いたたずまいを示す
・躙口(にじりぐち)を正面に見せず、左端に土間庇をつくっている
・土間庇の正面に2本引の腰障子を立て小部屋を設け、置刀掛を据えている

・躙口に対面して歪んだ円形の下地窓をあけ、端に寄せて力竹が添えられている
・袖壁に円窓が切られていることにより、土間庇を広く感じさせている

・躙口は土間庇の側方に開けられている

・勝手は旧正伝院書院の縁(写真左)と結ばれている

・正面の妻には如庵の扁額が掲げられている

アクセス
如庵は有楽苑のなかにあります。有楽苑は名鉄犬山遊園駅南西800mです。犬山城の手前です。
見学ガイド
如庵内部への立入りはできませんが、窓から内部を見ることができます。内部は写真撮影が禁止されています。

感想メモ
国宝の茶室というと見学にいろいろと制限が付くのかなと思いましたが、間近から内部をのぞき込むことができて、外観は写真も自由に撮ることができました。このあたりは、移築文化財の有難いところです。
(2022年12月訪問)

参考
文化財ナビ愛知(愛知県公式サイト)

 

 

国宝如庵とともに京都建仁寺に建てられた書院

旧正伝院書院


しょうでんいんしょいん
犬山市犬山御門先
旧正伝院書院35.388039, 136.942240
江戸前期
七畳(床付)、六畳四室及び縁より成る、一重、入母屋造、銅板葺

旧正伝院書院は犬山城近くの有楽苑に移築されています。豊臣家滅亡前に大坂を退去し、京都で余生を過ごすことになった織田有楽(うらく)は、建仁寺正伝院を再興し、そこを隠居所と定めました。このときに建てられたのが書院とこれに連なる数寄屋(如庵)です。明治41年(1908)に旧正伝院の建物は売却され、四散しましたが、そのうち、如庵、書院は東京の三井家へ引き取られ、昭和47年に現在地に再移築されました。この時、如庵勝手を書院の縁に直結させています。
・中央が旧正伝院書院で、右の土壁が国宝の如庵

書院南面:
・三方に縁をめぐらし、南面に細長い沓脱石を据え、主室の前に簡素な手摺をつけ、室と縁の境には腰高障子と舞良戸を立てる
・手摺は再移築時に復元されたもの
・屋根は軽いむくりをつけた銅板葺入母屋造

書院西面

アクセス
旧正伝院書院は有楽苑の中にあります。有楽苑は名鉄犬山遊園駅南西800mです。犬山城の手前です。
見学ガイド
旧正伝院書院は外観のみ見ることができます。

感想メモ
何度か移築された建造物ですが、江戸時代の図面に基づき忠実に修復されているそうです。正伝院にあった如庵とともに移築されているので、移築建築にありがちな不自然さはありませんでした。
(2022年12月訪問)

参考
文化財ナビ愛知(愛知県公式サイト)

 

 

伊勢神宮外宮前の木造郵便局舎

旧伊勢郵便局舎(宇治山田郵便局舎)


きゅういせゆうびんきょくしゃ(うじやまだゆうびんきょくしゃ)
犬山市内山
旧伊勢郵便局舎(宇治山田郵便局舎)35.344384, 136.990678
明治
木造、建築面積601.9m2、銅板葺

旧伊勢郵便局舎は犬山市の明治村に移築保存されており、もとは伊勢神宮外宮前に建てられていたものです。
・木造平屋建ての銅板葺きで、中央の頂きには円錐ドーム形の屋根、両翼には寄棟の屋根を置く
・正面の左右には、小さなドームをのせた角塔を有する
・外部の装飾はハーフティンバー様式で、漆喰塗りと下見板張りの壁が使い分けられている

・背面は下見板張りの壁が用いられている

ドーム内部:
・この下が客だまりになっている

アクセス
旧伊勢郵便局舎(宇治山田郵便局舎)は明治村の中にあります。明治村には名鉄犬山駅からバスが出ています。
見学ガイド
旧伊勢郵便局舎(宇治山田郵便局舎)は内部も公開されています。

感想メモ
修復工事が終わってすぐの訪問でしたが、古色が損なわれておらず良かったです。規模が大きく、美しい建築です。
(2022年12月訪問)

参考
文化財ナビ愛知(愛知県公式サイト)

 

 

大阪池田の芝居小屋

旧呉服座


きゅうくれはざ
犬山市内山
旧呉服座35.345066, 136.989630
明治
桁行25.7m、梁間14.3m、一部二階、切妻造、妻入、正面及び側面庇付、杉皮葺、木戸廻り側面及び舞台廻り側面突出部附属

旧呉服座は犬山市の明治村に移築保存されています。明治初年(1868)大阪府池田に建てられ、戎座と呼ばれていましたが、明治25年(1892)に同じ池田市の西本町猪名川の川岸に移され、名も呉服座と改められました。
・木造二階建杉皮葺で、舞台、客席部分には一続きの大きな切妻屋根を架け、その前に軒の高い下屋を降ろして、小屋の入口にしている
・正面の高い切妻には太鼓櫓を突き出している
・正面の壁は黒漆喰塗で、腰には和風の下見板が立て込まれている

・舞台両側に囃子部屋を設ける
・客席は中央に平土間、周囲に二階建の桟敷がめぐらされている

アクセス
旧呉服座は明治村の中にあります。明治村には名鉄犬山駅からバスが出ています。
見学ガイド
旧呉服座の内部については入口部分のみ見学することができます。ガイドツアーに参加すれば客席や舞台なども見ることができます。

感想メモ
一見伝統的な建築ですが、洋小屋で広い内部空間を確保しています。控えめですが細部に装飾も施されています。
(2022年12月訪問)

参考
文化財ナビ愛知(愛知県公式サイト)

 

 

地元石材を用いた局舎

旧札幌電話交換局舎


きゅうさっぽろでんわこうかんきょくしゃ
犬山市内山
旧札幌電話交換局舎35.341594, 136.990339
明治
石造、建築面積131.7m2、二階建、桟瓦葺

札幌電話交換局は犬山市の明治村に移築保存されています。明治31年(1898)に小樽電話交換局と共に竣工、翌年から交換業務を開始しています。
・外回りの壁を地元定山渓産の厚い石で築き、小屋組を木造で組み上げ、屋根には桟瓦を葺いている
・1階の窓は葉飾りを刻んだ要石を持つ櫛型アーチ窓、2階はまぐさ式の窓に小庇が付けられている
・壁面を胴蛇腹で上下に分け、上下階の窓のデザインをかえる手法は、ルネッサンス以降西欧でよく用いられたもの

・2階窓下の胴蛇腹には大きな円形の花紋が連続して刻まれ、全体の雰囲気を和らげている

アクセス
旧札幌電話交換局舎は明治村の中にあります。明治村には名鉄犬山駅からバスが出ています。
見学ガイド
旧札幌電話交換局舎は内部も公開されています。

感想メモ
大規模な建築の多い明治村の中では、比較的小規模でそれほど人目を惹きませんが、様々な工夫で石造建築をリズミカルに仕上げています。
(2022年12月訪問)

参考
文化財ナビ愛知(愛知県公式サイト)

 

 

地方技師の手による大型擬洋風建築

旧三重県庁舎


きゅうみえけんちょうしゃ
犬山市内山
旧三重県庁舎35.340934, 136.989141
明治
木造、建築面積883.3m2、二階建、桟瓦葺

三重県庁舎は犬山市の明治村に移築保存されています。明治12年(1879)、県令岩村定高によって計画され、3年後の12年に完成したものです。
・間口が54mに及ぶ大規模な木造建築で、玄関を軸に左右対称となっており、正面側に2層のベランダが巡らされている
・この構成は内務省庁舎にならったもの

・正面に突き出した車寄の屋根には手摺を揚げ、大屋根正面の入母屋破風には菊花紋章を飾るなどして、建物の正面を引き立てせる(写真は2008年撮影)

右翼部側面:
・内外とも柱を見せない漆喰塗大壁で、屋根は桟瓦葺
・両翼の壁面角には黒漆喰で太い柱型を塗りだし、全体を引き締めている

左翼部

・出入口や窓も洋風で、半円アーチや円弧アーチが用いられている

アクセス
旧三重県庁舎は明治村の中にあります。明治村には名鉄犬山駅からバスが出ています。
見学ガイド
旧三重県庁舎は内部も公開されています。

感想メモ
非常に規模の大きな木造の擬洋風建築です。明治の地方官吏の気概を感じます。
正面ベランダが工事中だったため、2008年に撮った写真を引っ張り出してきました。
(2008年7月、2022年12月訪問)

参考
文化財ナビ愛知(愛知県公式サイト)

 

 

地元職人の手による擬洋風建築

旧山梨県東山梨郡役所


きゅうやまなしけんひがしやまなしぐんやくしょ
犬山市内山
旧山梨県東山梨郡役所35.341625, 136.988628
明治
木造、建築面積286.4m2、二階建、両翼一階建、桟瓦葺

旧山梨県東山梨郡役所は犬山市の明治村に移築保存されています。明治11年(1878)郡区町村編成法が施行され、県令の任命する郡長が、郡内の町村の行政を指揮監督することになり、東山梨郡では、当初仮庁舎を使って業務が開始されましたが、明治18年(1885)この建物が落成しました。当時の県令藤村紫朗は地元に多くの洋風建築を建てさせ、この建物もその一例です。この建物は地元の職人の手によるもので、木造桟瓦葺の外形に伝統技法を駆使してさまざまな洋風意匠を施しています。
・中央棟、左右翼屋正面をそれぞれ入母屋屋根として洋風妻面になぞらえ、中央棟は二層の回廊を廻らす
・この形は当時の官庁建築の特徴

・出入口は半円アーチにくり抜いて欄間を付ける
・窓は上げ下げ窓で、黒漆喰の縁を回す
・壁面の出隅には黒漆喰を用いて隅石積みの形を塗りだしている

・ベランダの柱は洋風の束ね柱を模して凸面の襞(ひだ)を入れた胡麻殻しゃくりの丸柱とする

・背面は簡素な意匠としている

アクセス
旧山梨県東山梨郡役所は明治村の中にあります。明治村には名鉄犬山駅からバスが出ています。
見学ガイド
旧山梨県東山梨郡役所は内部も公開されています。東面しているので午後は逆光になります。

感想メモ
擬洋風建築としては規模が大きく、見ごたえがあります。
(2022年12月訪問)

参考
文化財ナビ愛知(愛知県公式サイト)

 

 

灯台を管理した外国人の住宅

旧菅島燈台付属官舎


きゅうすがしまとうだいふぞくかんしゃ
犬山市内山
旧菅島燈台付属官舎主屋35.341730, 136.993917
明治
煉瓦造、建築面積119.3m2、一階建、桟瓦葺
倉庫35.341714, 136.993780
明治
煉瓦造、建築面積11.4m2、一階建、桟瓦葺

旧菅島燈台付属官舎は犬山市の明治村に移築保存されています。菅島燈台は、伊勢湾の入口、鳥羽沖合の菅島にある現役の灯台で、重要文化財に指定されているものです。付属官舎は灯台を管理した外国人のために建てられたものです。煉瓦や瓦は地元産のものが用いられています。
・写真左手前が旧菅島燈台付属官舎の倉庫で、その奥が主屋
・右に見える灯台は重要文化財の旧品川燈台
・菅島灯台はブラントンら英国人技術者の手によるもので、品川燈台はフランス人技術者が設計したもの



主屋

・煉瓦造桟瓦葺の洋式住宅で、正面ベランダの左端に便所が作られ、建物内は主要5部屋と台所と小さな物入れに別れている

・壁はイギリス積煉瓦造で、各窓上部の煉瓦積みは水平アーチとして積まれている
・ベランダの出入口には外開きの鎧戸を備え、上部に半円形の欄間を開ける



倉庫

・煉瓦造桟瓦葺の倉庫で、油庫として利用された

アクセス
旧菅島燈台付属官舎は明治村の中にあります。明治村には名鉄犬山駅からバスが出ています。
見学ガイド
旧菅島燈台付属官舎は内部も公開されています。

感想メモ
現役の菅島灯台に訪問したことがありますが、崖の上の狭い平坦地で周囲に草木が繁茂している場所に建てられていて、移築先の明治村の高台はこれによく似せているように思います。隣接する灯台がフランス人技術者の手によるといったところは違っていますが。
(2022年12月訪問)

参考
文化財ナビ愛知(愛知県公式サイト)

 

 

外国要人等の接客の場

旧西郷従道住宅


さいごうつぐみちじゅうたく
犬山市内山
旧西郷従道住宅35.340105, 136.990222
明治
木造、建築面積253.2m2、二階建、銅板葺

旧西郷従道住宅は犬山市の明治村に移築保存されています。明治10年代のはじめ西郷隆盛の弟西郷従道が、東京上目黒西郷山の自邸内に在日外交官らの接客の場として建てたもので、明治天皇の行幸も仰いでいます。
・木造銅板葺の洋館で、在日中のフランス人建築家レスカスの設計と考えられている
・壁の下方に煉瓦を錘代わりに埋め込むなど、耐震対策の工夫がなされている

アクセス
旧西郷従道住宅は明治村の中にあります。明治村には名鉄犬山駅からバスが出ています。
見学ガイド
旧西郷従道住宅の一階部分は内部も公開されています。ガイドツアーに参加すれば二階部分も見ることができます。

感想メモ
非常に規模が大きく、存在感のある邸宅です。移転先も西郷山の面影があるように思います。
(2022年12月訪問)

参考
文化財ナビ愛知(愛知県公式サイト)、明治村公式サイト

 

 

黒漆喰の三階建の町屋

旧東松家住宅


とうまつけじゅうたく
犬山市内山
旧東松家住宅35.341642, 136.989823
明治
桁行7.8m、梁間15.0m、三階建、切妻造、背面寄棟屋根突出、桟瓦葺、南面庇付、桟瓦葺、北面庇付、銅板葺、東北面風呂場及び便所附属

旧東松家住宅は犬山市の明治村に移築保存されており、もとは名古屋の中心部にあった商家です。東松家は明治20年代後半までは油屋を生業とし、その後昭和のはじめまで堀川貯蓄銀行を営んでいました。明治28年(1895)に2階の前半分を増築して現在の店構えを完成させ、明治34年(1901)に3階以上を増築しています。
・正面を黒漆喰で塗り上げ、窓に太い額縁を巡らし、防護の格子をはめている
・間口が狭く奥行の深い典型的な町家建築

・1階左側に通り土間を通し、右側に店、座敷などを連ねている
・通り土間の上を3階までの吹き抜きとし、高窓から明かりを入れている
・2階3階は居住スペース

アクセス
旧東松家住宅は明治村の中にあります。明治村には名鉄犬山駅からバスが出ています。
見学ガイド
旧東松家住宅は外観のみ見学することができます。

感想メモ
黒漆喰の三階建の町屋が名古屋の市中にあったときは、かなり異彩を放っていたのかと思います。
(2022年12月訪問)

参考
文化財ナビ愛知(愛知県公式サイト)

 

 

ロマネスク様式を基調とした教会建築

旧日本聖公会京都聖約翰教会堂


にっぽんせいこうかいきょうとせいよはねきょうかいどう
犬山市内山
旧日本聖公会京都聖約翰教会堂35.339115, 136.989106
明治
煉瓦及び木造、建築面積206.7m2、二階建、銅板葺

旧日本聖公会京都聖約翰教会堂は犬山市の明治村に移築保存されています。もとは京都市下京区河原町にあったもので、2階が会堂、1階は日曜学校や幼稚園として利用されました。立教学校の校長で建築家であった米国人ガーディナーの設計です。
・中世ヨーロッパのロマネスク様式を基調に、細部にゴシックのデザインを交えた外観
・正面左右に高い尖塔が建てられ、奥に十字形大屋根がかかる会堂が配されている
・正面の妻と交差廊の両妻には大きな尖塔アーチの窓が開けられている
・1階が煉瓦造、2階が木造で、屋根は鉄板葺であったが、移築時に銅板葺に改められた

・交差廊妻の尖塔アーチ窓で堂内の採光を図っている

・ドーマー窓にも尖塔アーチ窓が用いられている

・塔屋も窓や開口部は尖塔アーチ

・2階会堂内部は小屋裏を見せる
・アーチ形の方杖と鉄筋を巧みに生かした独特な小屋組み
・京都の風土に合せて使ったといわれる天井の竹の簾も明るい窓の光を反射させ、より開放感を増している

ドーマー窓内部

ステンドグラス

会堂内の扉上部の意匠

アクセス
旧日本聖公会京都聖約翰教会堂は明治村の中にあります。明治村には名鉄犬山駅からバスが出ています。
見学ガイド
旧日本聖公会京都聖約翰教会堂は内部も公開しています。

感想メモ
規模が大きく、構造美を感じさせる素晴らしい建築です。広い明治村を廻っていて最後の訪問になりました。日はすっかり傾いて教会堂正面が逆光になってしまっていました。
(2022年12月訪問)

参考
文化財ナビ愛知(愛知県公式サイト)

 

 

現存最古の洋式灯台

旧品川燈台


きゅうしながわとうだい
犬山市内山
旧品川燈台35.341633, 136.994131
明治
煉瓦造(現在鉄筋コンクリート造)、円形灯台

旧品川燈台は犬山市の明治村に移築保存されています。慶応2年(1866)の改税約書第11条に基づき、明治3年(1870)に欧米列強の要求を受けて立てられたもので、もとは品川沖の第二台場の西端にありました。江戸幕府と明治政府は燈台建設のための技術援助をフランスとイギリスに依頼し、東京湾沿岸の4つの洋式燈台はヴェルニーを首長とするフランス人技術者の手によって建設されました。
・避雷針先端までの高さ約9m
・煉瓦造漆喰塗(現在は鉄筋コンクリート製)で、基礎、入口周り、デッキの支えなどに石材を組み入れている
・燈室の枠は砲金製、屋根は銅板製
・金属部、ガラスはいずれもフランス製

・方位はフランス語の頭文字で示され、西はOuestの「O」

アクセス
旧品川燈台は明治村の中にあります。明治村には名鉄犬山駅からバスが出ています。
見学ガイド
旧品川燈台は外観のみ見学することができます。

感想メモ
灯塔が鉄筋コンクリート製に改変されているのと、山の中に移設されているのは残念ですが、美しい灯台です。
(2022年12月訪問)

参考
文化財ナビ愛知(愛知県公式サイト)

 

 

駿河湾の風光明媚な海岸に建てられた屋敷

旧西園寺家興津別邸(坐魚荘)


きゅうさいおんじけおきつべってい(ざぎょそう)
犬山市内山
旧西園寺家興津別邸(坐魚荘)主屋35.341064, 136.993351
大正
木造、建築面積219.13平方メートル、一部2階建、桟瓦葺
警衛詰所35.341092, 136.993133
大正
木造、建築面積27.02平方メートル、桟瓦葺
供待及び門35.341037, 136.993146
大正
供待 木造、建築面積3.14平方メートル、桟瓦葺
門 一間腕木門、桟瓦葺及び銅板葺

旧西園寺家興津別邸は犬山市の明治村に移築保存されています。明治の元老西園寺公望(1849-1940)の別邸として駿河湾奥の静岡県興津に建てられたもので、坐漁荘と命名されています。主屋は大正8年に上棟されています。
・写真中央奥が主屋で、左手前が警衛詰所、右手前が供待及び門



主屋

・端正な数寄屋の意匠を基調とし,吟味された良材と精緻な技術が駆使されている
・周囲に庇や突出部を付けて変化に富む屋根構成
・外壁は、杉皮を張り丸竹で押えている



警衛詰所

・桁行6.8m、梁間3.6mの寄棟造桟瓦葺



供待及び門

・門は切妻造桟瓦葺の腕木門で、軒先を銅板葺とし、左右には袖塀が付く
・門の左奥が供待で、桟瓦葺の切妻屋根の一方を長くし、片方の屋根を短くした形状

アクセス
旧西園寺家興津別邸(坐魚荘)は明治村の中にあります。明治村には名鉄犬山駅からバスが出ています。
見学ガイド
旧西園寺家興津別邸(坐魚荘)の内部はガイドツアー参加者に公開されています。

感想メモ
駿河湾に見立てた池を望む明るい高台に移設されていて、往時の風情を偲ぶことができます。
(2022年12月訪問)

参考
明治村公式サイト、文化遺産オンライン、重要文化財指定時広報資料(愛知県)

 

 

中世の密教仏堂

高田寺本堂


こうでんじほんどう
北名古屋市高田寺屋敷
高田寺本堂35.241672, 136.891795
室町中期
桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、檜皮葺

高田寺は名古屋の北郊、小牧空港の西方に位置します。行基の開基と伝わる寺院で、平安時代初期に編纂された続日本紀にその名を見ることができます。その後、大同年間、伝教大師が東国巡鍚の折、天台宗となり、室町時代に最盛期を迎えたとされます。現存する本堂の建立は建築様式から鎌倉時代末期から室町時代中期頃の建立と考えられています。
・桁行五間、梁間五間、入母屋造檜皮葺の密教仏堂

・粽のない円柱を貫で固め、長押は打たない
・軒は二軒の平行繁垂木で、柱上は出三斗、中備は撥束
・正面各間には藁座付きの桟唐戸を吊る

・外陣内(写真手前)には柱を立てず、内陣正面の柱から外陣正面の柱へ梁行2間の虹梁を渡す
・内陣正面には中央間に蔀戸、両脇間にはめころし格子戸を入れ、内法上は吹寄菱格子欄間として、外陣との境を厳格に区画する

・本堂内の厨子も附指定されている
・禅宗様の木鼻や詰組の三斗を確認することができる

アクセス
名鉄犬山線西春駅下車、東2.2㎞です。西春駅から小牧空港行のバスを利用することもできます。
見学ガイド
高田寺は常時自由に参拝することができます。本堂はすぐ近くから見ることができます。

感想メモ
全くの不勉強で、高田寺ということ名称から、真宗の近世的な仏殿をイメージしていましたが、訪れてみると中世密教仏堂で驚きました。それにお寺の名前も「たかだでら」ではなく「こうでんじ」。思いもよらず美しい仏堂に出会うことができました。
(2024年11月訪問)

参考
文化財ナビ愛知(愛知県公式サイト)
このブログについて:

広島県広島・安芸・県北地域で国宝や国の重要文化財に指定された建造物のうち、私がこれまで訪問したものを紹介しています。
個人の備忘録みたいなものですが、実際に訪ねてみたら目当ての文化財が塀や樹木の陰で見えないといったことも時々あるので、ここでは、このあたりも詳しく書いて、閲覧してくれた方の参考になるように考えました。また、文化財の位置は国指定文化財等データベースで確認できますが、間違った情報も結構多いので、ここでは現地で実際に確認した座標を記載しています。
記載内容は訪問日時点のものです。情報が古くなってしまっている可能性もあり、修復工事が始まって見学できないこともあるので、注意してください。

広島市中区
広島平和記念資料館  
世界平和記念聖堂  
広島市東区
不動院金堂  
不動院鐘楼  
不動院楼門  
國前寺 本堂、庫裏
広島市南区
旧広島陸軍被服支廠倉庫施設 一〇番倉、一一番倉、一二番倉、一三番倉
呉市
旧呉鎮守府司令長官官舎(呉市入船山記念館) 洋館、和館
本庄水源地堰堤水道施設 堰堤、丸井戸、第一量水井
桂濱神社本殿  
旧澤原家住宅 主屋、前座敷、表門、元蔵、三角蔵、三ツ蔵(上蔵)、三ツ蔵(中蔵)、三ツ蔵(下蔵)、新蔵
竹原市
復古館賴家住宅 主屋、表屋及び玄関、米蔵、臼場
春風館賴家住宅 主屋、長屋門、裏座敷、納戸蔵、米蔵
三次市
奥家住宅 主屋、土蔵
旙山家住宅  
旧真野家住宅  
庄原市
堀江家住宅  
荒木家住宅  
円通寺本堂  
東広島市
竹林寺本堂  
旧木原家住宅  
福成寺本堂内厨子及び須弥壇  
廿日市市
厳島神社 本社本殿、幣殿、拝殿、本社祓殿、摂社客神社本殿、幣殿、拝殿、摂社客神社祓殿、廻廊 (東廻廊)、廻廊 (西廻廊)、朝坐屋、能舞台、揚水橋、長橋、反橋
厳島神社大鳥居  
厳島神社五重塔  
厳島神社摂社大元神社本殿  
厳島神社摂社大国神社本殿  
厳島神社摂社天神社本殿  
厳島神社多宝塔  
厳島神社宝蔵  
厳島神社末社荒胡子神社本殿  
厳島神社末社豊国神社本殿(千畳閣)  
林家住宅 主屋、表門
紅葉谷川庭園砂防施設  
山県郡北広島町
竜山八幡神社本殿  

 

 

安芸の安国寺の遺構

不動院


ふどういん
広島市東区牛田新町3丁目
不動院金堂 34.427011, 132.471119
国宝・室町後期
桁行三間、梁間四間、一重もこし付、入母屋造、こけら葺
不動院鐘楼 34.426754, 132.471056
室町中期
桁行三間、梁間二間、袴腰付、入母屋造、こけら葺
不動院楼門 34.427002, 132.470813
桃山
三間一戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺

 

不動院は、広島市の市街地北部の太田川左岸に位置します。不動院の草創は明らかにされていませんが、平安後期にはこの地に伽藍が存在したと考えられており、室町時代、足利尊氏が南北朝の戦乱の死者の霊を慰めるため、諸国に安国寺を建立し、安芸国ではこの寺を安国寺としたとされています。大永年間の戦禍により伽藍が焼失しましたが、安国寺恵瓊(えけい)が再建に尽力し、現存する建物の多くが恵瓊によって建てられたといわれています。関ヶ原の戦の後、恵瓊は西軍の首謀者の一人として処刑され、安芸安国寺も禅宗から真言宗に改められ、寺号も不動院と呼ばれるようになりました。

 

・右が楼門で、左が国宝の金堂、楼門の左に朱塗りの鐘楼が見える
 
・鐘楼の左が楼門で、右が金堂
 

 


金堂
 

 

・大内義隆が周防山口に建てた建物を安国寺恵瓊が安芸安国寺仏殿として移築したと伝えられる禅宗様建築
・天井墨書から天文9年(1540)頃建立と推定される
・禅宗様の建築としては規模の大きな遺構で、繊細な禅宗様の手法を用いながら、容姿には雄大な気風がうかがわれる
・正面一間通りを吹放しとしていることが特徴
 
・吹放ち部分の前面の柱と身舎柱は海老虹梁で繋ぎ、中備部分には手挟みを入れる
・これは屋内の裳階部分と同様の構造
 
・身舎は禅宗様尾垂木付三手先の詰組で、柱間に正面(上段写真)は二個、側面(下段写真)は一個の組物が入る
・粽付きの円柱を貫と台輪で固め、禅宗様の木鼻を持つ
 
・裳階は平行垂木であることが多いが、ここでは裳階も身舎と同様に二軒の扇垂木
 
・裳階は出三斗の詰組
・粽付きの円柱を貫と台輪で固め、禅宗様の木鼻を持つ
 
・正面三間には桟唐戸を吊り、藁座で支える
・両側間は花頭窓で、欄間は弓型
 
・基礎上に礎盤を置き、柱を支える
 
・内部は柱を省き、広い空間を確保している
 
・天井は禅宗様にみられる鏡天井だが、前後二区画に分けているのは珍しい
・天井には天女と龍の絵が描かれている
 
・天井を区画する上段の梁は絵様入りの大瓶束で支えられている
 
・鏡天井の周囲は扇垂木を見せる化粧軒裏としている
・天井は複雑に配置された三斗でせり上げられている
 
・裳階部分(写真左)は、吹放ち部と同様に、海老虹梁で身舎柱と繋ぎ、中備部分には手挟みを入れる
 
・裳階の手挟みには精緻な彫刻が施されている
 

 


鐘楼
 

 

・室町時代の永享5年(1433)に建立された白壁塗の袴腰付鐘楼で、後補の痕は少ない
・安国寺恵瓊が住持であった天正16年(1588)頃に,修理・移築されたと考えられている
・不動院の建築の中では最も古い
 
・和様三手先の組物を用いているが、軒は禅宗様の二軒扇垂木としている
 
・和様の刎高欄付きの切目縁を三手先の腰組で支える
 

 


楼門
 

 

・文化財としての名称は楼門だが、構造は楼門ではなく、三間一戸二階二重門
・上層の尾垂木に「朝鮮木文禄三」の刻銘や斗供,縁長押などに「朝鮮」の墨書があることから,一部の材料に朝鮮半島の木材を使い,文禄3年(1594)頃に建立または修理したものと考えられている
・禅宗様を基調とし。和様を折衷している
 
・上重は、二軒の扇垂木、三手先の詰組、貫と台輪など禅宗様の特徴が顕著にみられるが、柱上部の粽は明確には見られない
 
・下重は柱にわずかに粽を持ち、組物は出三斗の詰組、軒は二軒の平行繁垂木
 
アクセス
アストラムライン不動院前下車すぐです。
見学ガイド
不動院は常時自由に参拝することができます。指定文化財もすべて近くから見ることができます。金堂内部は通常非公開ですが特別公開されることもあります。

 

感想メモ
室町以降の戦乱の世を潜り抜けてきた風格のある堂宇が立ち並んでいます。不動院に限らず乱世の権力者が関与した寺院の堂宇は寄せ集めであることが多いですが、不動院は一つ一つの堂宇が非常に質の高い造りであり、それほど違和感は感じません。
原爆の爆心地からは山かげになっているので、建物の被害そのものは大きくなかったようですが、重い火傷を負った人や家を失った人が境内にあふれ、大変な状況だったとのことです。静かな境内に居ると平和のありがたさを感じずにはおれません。
(2022年4月訪問)
新年の金堂開扉期間中に訪問しました。それほど混雑していなかったので、ゆっくりと見学することができました。
同じ禅宗様の仏殿でも東京の正福寺地蔵堂と比較すると、天井のせり上がりがすっきりとしており、力学的な合理性を追求しているように見受けられました。
(2025年1月訪問)

 

 

参考
広島県の文化財(広島県公式サイト)、ひろしま観光公式サイト

 

 

 

城郭のような堂宇

國前寺


こくぜんじ
広島市東区山根町
國前寺 本堂 34.403112, 132.481227
江戸中期
桁行24.0m、梁間14.0m、二重、寄棟造、唐破風造向拝一間、背面仏間突出 桁行5.3m、梁間9.8m、一重、寄棟造、本瓦葺
庫裏 34.403055, 132.481489
江戸中期
桁行17.7m、梁間13.2m、一重、切妻造、妻入、東側面庇付、本瓦葺、正面庇、本堂間廊下及び正面東方土塀附属

 

國前寺は広島市の市街地北側の山裾に位置する日蓮宗の寺院です。南北朝時代初期の暦応3年(1340)に開かれたもので、当時は暁忍寺と呼ばれていました。その後、江戸時代初期の明暦2年(1656)に、2代藩主浅野光晟正室満姫が菩提寺とし、本堂、庫裏等の諸堂を建立一新し、寺名も國前寺と改めました。

 

右が庫裏で、左奥が本堂
 

 


本堂
 

 

・寄棟造二重屋根で、外壁を土塗とした塗籠
・棟札より寛文11年(1671)の建築であることが知られている
・向拝を除いて、上下重とも組物は用いていない
・藩のお抱え城大工の手によるもので、城郭建築の技術をもって建てられたもの
 
・背面には錣(しころ)葺きの屋根をもつ仏間が突出している
 
上重軒廻り:
・垂木、貫、長押など全てが塗り込められ、組物は用いていない
 
下重軒廻り:
・疎垂木で組物は用いず、素木造りで柱は角柱であるなど、住宅風の意匠
 

 


庫裏
 

 

・細部の建築手法や材料が本堂と酷似していることから、本堂と同時代のものであると考えられている
・切妻造の屋根が本瓦錣葺となっており、非常に珍しい
 
・本堂と同じく外壁を塗籠ており、破風や懸魚まで漆喰で白く塗っているのは大変珍しい
 
アクセス
JR山陽本線広島駅下車、北東900mです。
見学ガイド
國前寺は常時自由に参拝することができます。本堂及び庫裏も自由に見学することができます。

 

感想メモ
城大工が建てたとのことで、城郭のような珍しい寺院建築です。軒廻りが非常にすっきりしていて、逆に落ち着かないくらいです。
爆心地から3キロ弱で原爆の大きな被害を受けたとのことですが、倒壊や炎上することはなかったそうです。城大工の高い技能が窺われます。
(2023年12月訪問)

 

 

参考
広島県の文化財(広島県公式サイト)、ひろしま観光公式サイト

 

 

 

最大規模の被爆建造物

旧広島陸軍被服支廠倉庫施設


きゅうひろしまりくぐんひふくししょうそうこしせつ
広島市南区出汐2丁目
旧広島陸軍被服支廠倉庫施設 一〇番倉 34.373903, 132.472900
大正
鉄筋コンクリート造及び煉瓦造、建築面積2,711.04㎡、三階建、桟瓦葺
一一番倉 34.374340, 132.472108
大正
鉄筋コンクリート造及び煉瓦造、建築面積2,340.09㎡、三階建、桟瓦葺
一二番倉 34.375277, 132.472312
大正
鉄筋コンクリート造及び煉瓦造、建築面積2,340.09㎡、三階建、桟瓦葺
一三番倉 34.376281, 132.472499
大正
鉄筋コンクリート造及び煉瓦造、建築面積2,340.09㎡、三階建、桟瓦葺

 

旧広島陸軍被服支廠倉庫施設は比治山公園南方の住宅地に位置します。東京にあった陸軍の被服本廠の支部で、陸軍兵士の軍服・軍靴等の製造・貯蔵を担う施設として大正3年(1914)にしゅん工したものです。被爆直後は、被爆者の臨時救護所として使用され、この場所で多くの方が亡くなりました。旧広島陸軍被服支廠倉庫施設は最大規模の被爆建造物です。

 

 


一〇番倉
 

 

・柱や梁、スラブなど主な構造を鉄筋コンクリート造、外壁などを煉瓦造とする珍しい構造
・屋根はモルタル製の桟に引掛桟瓦を葺くなど、先駆的な技術を用いる
 

 


一一番倉
 

 

・レンガはイギリス積み
・原爆の爆風で変形した鉄扉が残されている
 

 


一二番倉
 

 

 


一三番倉
 

 

アクセス
広島電鉄5号線皆実二丁目駅下車、東700mです。
見学ガイド
旧広島陸軍被服支廠倉庫施設は非公開ですが、重文指定建造物はすべて公道に面しているので、外観を見ることができます。

 

感想メモ
大変重い歴史を背負った建物です。現地に着いたときはみぞれまじりで、建物は本当に暗い表情をしていました。
利活用に向けて再整備中とのこと。商業主義の安っぽい改修にならないよう願うばかりです。
(2025年1月訪問)

 

 

参考
広島県公式サイト、国指定文化財等DB

 

 

 

海軍の英国風建築

旧呉鎮守府司令長官官舎(呉市入船山記念館)


きゅうくれちんじゅふしれいちょうかんかんしゃ
呉市幸町
旧呉鎮守府司令長官官舎(呉市入船山記念館) 洋館 34.240315, 132.564035
明治
木造、建築面積223.0m2、一階建、スレート葺
和館 34.240462, 132.563885
明治
木造、建築面積304.1m2、一階建、桟瓦葺

 

旧呉鎮守府司令長官官舎(呉市入船山記念館)は、呉港に面した丘陵地、入船山に位置します。明治22年(1889)に呉鎮守府が開庁し、その翌年に現在地に軍政会議所兼水交社が建てられ、後に長官官舎として利用され始めましたが、明治38年(1905)の芸予地震で建物が倒壊しました。現在の建物は、同年に廃材の一部を利用して再建されたものです。官舎は洋館部と和館部からなります。設計はコンドル門下生で、英国で建築士資格を取得した呉鎮守府建築科長・桜井小太郎

 

 


洋館
 

 

・英国風を取り入れ、柱や梁など木造の骨組みの間をレンガや漆喰で埋め、木材を外部に見せるハーフティーバー様式を採用している
・一階建てとしては非常に背の高い建物
 
・ファサードはハーフティンバーで、その意匠は、正面北側(上段写真)、正面南側(中段写真)、南面(下段写真)でそれぞれ異なるものとし、変化をつけている。
 
玄関ポーチ:
・玄関扉の上部と左右にはイギリス製のステンドグラスが嵌め込まれている
 
・窓は上げ下げ式
 
・正面中央には三連のドーマー窓を置く
 
・屋根は、宮城県雄勝産の天然スレート(粘板岩)を鱗状に葺いている
 
洋館内部:
・上段写真が食堂で、下段写真が応接室
・ともに壁面には金唐紙が復元されている
・洋館は接客施設であり、洋館内に居室部は設けられていない
 

 

 

・和館(写真右奥)は洋館(写真左)の背面(西面)に接続する
 

 


和館
 

 

・上段写真が北面、下段写真が南面で、下段写真の右奥が洋館の西面
・長官とその家族の住居として使われていたとされ、表座敷と裏座敷、離れ座敷などからなる
 
アクセス
JR呉線呉駅下車南東1.2㎞です。路線バスを利用することもできます。
見学ガイド
旧呉鎮守府司令長官官舎は有料で公開されています。内部も見ることができます。洋館は東面してていますので、正面から日が差すのは午前の早めの時間帯です。

 

感想メモ
早朝に倉橋島の桂浜神社を訪問し、その帰路に立ち寄りました。東面した建物に正面から日が射していて、美しい姿を見ることができました。
(2024年1月訪問)

 

 

参考
呉市公式サイト、広島県公式サイト

 

 

 

前室付きの三間社流造

桂濱神社本殿


かつらはまじんじゃほんでん
呉市倉橋町
桂濱神社本殿 34.101515, 132.513282
室町後期
三間社流造、こけら葺

 

桂濱神社は呉市の倉橋島南岸桂浜に面した丘の上に鎮座します。本殿は戦国時代の文明12年(1480)の再建です。柱を円柱とするのは珍しい。

 

・三間社流造、こけら葺で、庇を高床張りの前室とし庇の三方に縁を巡らす
 
・向拝柱も円柱としているのは珍しい
 
・繋ぎを海老虹梁とする社殿の中では時代が古い
 
アクセス
JR呉線呉駅から桂浜温泉館行バスで終点下車すぐです。
見学ガイド
桂濱神社は常時自由に参拝することができます。本殿も近くから見ることができます。

 

感想メモ
広島を始発で出て、呉でバスに乗換。倉橋島に入ったあたりで島の向こうから日が昇り、素晴らしい景観を楽しむことができました。
入江に面した砂浜に鳥居が立ち、本殿に向けて参道がまっすぐ延びでいます。規模の大きな本殿ですが木割りが細く、繊細な印象を受けました。
(2024年1月訪問)

 

 

参考
文化遺産オンライン、広島県公式サイト

 

 

 

庭師が築いた砂防施設

紅葉谷川庭園砂防施設


もみじだにがわていえんさぼうしせつ
廿日市市宮島町
紅葉谷川庭園砂防施設 34.292291, 132.325926
昭和
石造及びコンクリート造、延長六八八・二メートル

 

紅葉谷川庭園砂防施設は宮島の集落から紅葉谷を少し上った奥紅葉公園にあります。紅葉谷川周辺は1934年に砂防指定地に指定され、その後、練積の砂防堰堤を築きましたが、1945年の枕崎台風で発生した土石流を抑え込むことはできず、巨石や流木が中下流部と厳島神社境内に流入しました。復旧工事では現場のを重機を用いずに運搬して、加工を施さないまま構造物のコンクリート面が露出しないようう野面積みし、施工には庭師を用いるなどの方針がとられました。

 

紅葉橋付近の流路工
 
第二号堰堤
 
第四号堰堤
 
第五号堰堤
 
第四号堰堤
 
第三号堰堤
 
アクセス
宮島桟橋の南2㎞です。
見学ガイド
紅葉谷川庭園砂防施設は常時自由に見学することができます。

 

感想メモ
紅葉の終わった季節の早朝に訪問したので、鹿しかいない大変静かな環境でした。自然石を利用した美しい土木遺産です。
(2023年12月訪問)

 

 

参考
広島県砂防ポータルサイト

 

 

 

美しい蟇股を持つ社殿

竜山八幡神社本殿


たつやまはちまんじんじゃほんでん
山県郡北広島町新庄
竜山八幡神社本殿 34.765845, 132.490435
室町後期
三間社流造、銅板葺

 

竜山八幡神社は県北部の山間に開けた平地に鎮座します。鎌倉時代末期(14世紀前半)に吉川氏が大朝庄地頭として入封した時、本貫地の駿河国から勧請と言われています。本殿は墨書から戦国時代の永禄元年(1558)造営であると考えられています。

 

・本殿は三間社流造で前室が付く
 
本殿正面(写真右):
・向拝柱は面取り角柱で柱上は出三斗、中備は蟇股
 
本殿向かって左側の蟇股:
・肩の張った輪郭や斗下の部分の一文字に近い線、足先と肘木の絵文様化、股内の平面的彫刻など、その図案は室町時代の特色が表れている
 
本殿向かって右側の蟇股
 
本殿右側面:
・身舎柱は円柱で長押と貫で固め、平三斗を載せ虹梁を支える
虹梁上の笈形付き大瓶束が三斗を介して棟を支える
 
向拝右側面
 
アクセス
広島浜田間の高速バスで大朝IC下車、北800mです。
見学ガイド
竜山八幡神社は常時自由に参拝することができます。本殿前面は幣殿に隠されていますが、側面と背面は近くから見ることができます。

 

感想メモ
島根県境に近い山間部に位置しますが、高速バスの停留所が近くにあるので意外と簡単に訪問することができました。全体にすっきりとしたスタイルで、蟇股など細部の意匠が素晴らしかったです。
(2023年12月訪問)

 

 

参考
広島県の文化財(広島県公式サイト)、ひろしま文化大百科(広島県公式サイト)