長崎県の国宝・重要文化財建造物 | 国宝・重要文化財指定の建造物

国宝・重要文化財指定の建造物

全国の国宝・重要文化財に指定された建造物についてのブログです。

このブログについて:

長崎県内で国宝や国の重要文化財に指定された建造物のうち、私がこれまで訪問したものを紹介しています。
個人の備忘録みたいなものですが、実際に訪ねてみたら目当ての文化財が塀や樹木の陰で見えないといったことも時々あるので、ここでは、このあたりも詳しく書いて、閲覧してくれた方の参考になるように考えました。また、文化財の位置は国指定文化財等データベースで確認できますが、間違った情報も結構多いので、ここでは現地で実際に確認した座標を記載しています。
記載内容は訪問日時点のものです。情報が古くなってしまっている可能性もあり、修復工事が始まって見学できないこともあるので、注意してください。

長崎市
崇福寺大雄宝殿
崇福寺第一峰門
崇福寺護法堂(関帝堂又観音堂)
崇福寺鐘鼓楼
崇福寺媽姐門
崇福寺三門(楼門)
清水寺本堂
旧本田家住宅
東山手十二番館主屋、附属屋
旧オルト住宅主屋、附属屋、倉庫
旧グラバー住宅主屋、附属屋
旧リンガー住宅
大浦天主堂
旧羅典神学校
眼鏡橋
聖福寺大雄宝殿、天王殿、鐘楼、山門
興福寺本堂(大雄宝殿)
旧唐人屋敷門
旧香港上海銀行長崎支店
旧長崎税関下り松派出所
旧長崎英国領事館本館、附属屋、職員住宅
本河内水源地水道施設高部堰堤、高部配水池、低部堰堤
大野教会堂
出津教会堂
旧出津救助院授産場、マカロニ工場、鰯網工場
佐世保市
黒島天主堂
旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設無線塔1、無線塔2、無線塔3、電信室、油庫
諫早市
眼鏡橋
平戸市
幸橋
田平天主堂
対馬市
主藤家住宅
五島市
江上天主堂
旧五輪教会堂
西海市
西海橋
雲仙市
旧鍋島家住宅主屋、御座敷、隠居棟、土蔵、長屋門
南松浦郡新上五島町
青砂ヶ浦天主堂
頭ヶ島天主堂

 

 

福州出身の華僑が建てた黄檗寺院

崇福寺


そうふくじ
長崎市鍛冶屋町
崇福寺大雄宝殿32.742552, 129.883513
国宝・江戸前期
桁行五間、梁間四間、二重、入母屋造、本瓦葺
崇福寺第一峰門32.742634, 129.883281
国宝・江戸前期
四脚門、入母屋造、本瓦葺
崇福寺護法堂(関帝堂又観音堂)32.742479, 129.883313
江戸中期
桁行三間、梁間五間、一重、入母屋造、本瓦葺
崇福寺鐘鼓楼32.742353, 129.883357
江戸中期
桁行三間、梁間二間、二重、入母屋造、本瓦葺
崇福寺媽姐門32.742416, 129.883534
江戸中期
三間三戸八脚門、入母屋造、桟瓦葺
崇福寺三門(楼門)32.742546, 129.882806
江戸末期
桁行三間、梁間二間、二重門、入母屋造、本瓦葺、左右脇門付

崇福寺は思案橋の繁華街の東の高台に位置する黄檗寺院で、福州出身の在留華人が中心となって創立したものです。
大雄宝殿:
・釈迦(大雄)を本尊とする仏堂で、中国で切組み、正保3年(1646)上梁建立されたもの
・当初は単層屋根であったものが後に重層に改造されている
・下層部分は前廊のアーチ形の黄檗天井など中国様式であるのに対して、上層部は日本の様式を基調とする

・大雄宝殿の軒回りには中国様式の逆凝宝珠束が見られる

・大雄宝殿内部は床を設けず、四半敷

第一峰門:
・中国寧波で材を切組み、元禄8年(1695)に現在地に再建された
・組物は四手先三葉栱と呼ばれる複雑巧緻な詰組で他に例のないもの
・垂木を平に使った二軒の扇垂木・鼻隠板・挿肘木・柱上部の籘巻等が特徴で、これは境内の他の建物にも見られる

護法堂:
・一般に黄檗寺院では大雄宝殿の前に門形式の天王殿を配するが、崇福寺では地形上の理由から通り抜けのできない通常の堂形式の護法堂が配置されている
・享保16年(1731)に建立されたもので、柱割りは天王殿形式に類似
・全般的に黄檗様式の建築だが、妻飾は和様で日本人工匠の参加がうかがえる

・護法堂の軒は黄檗様の挿肘木で支え、柱上部には籘巻もみられる

鐘鼓楼:
・鐘鼓楼は中国で材を切組み、享保13年(1728)に日本人棟梁の手により建立されたとされる
・妻の懸魚や破風等の細部に日本風の様式が混入している
・上重は丸窓・火灯窓等の開口部が多い
・下重(中段写真)には挿肘木・柱上部の籘巻など黄檗建築の特徴が見られる

媽祖門の外面(上段写真)と内面(下段写真):
・媽祖門は媽祖堂の前にあり、大雄宝殿と方丈玄関をつなぐ渡廊下も兼ねている
・現在の媽祖門は文政10年(1827)に再建されたもの
・三間三戸の八脚門で、前面は黄檗天井、背面は山形天井になっている
・細部に僅かの塗料を用いるほかすべて素木
・建築様式は日本風の様式を基調とする

三門の外面(上段写真)と内面(中段写真):
・基部を石の練り積み漆喰塗りとし、これに屋根を架し、その上に入母屋屋根の上層をのせ、勾欄をめぐらした竜宮門形式
・上層は柱から垂木に至るまで装飾で埋め尽くされている
・日本人工匠の手により嘉永2年(1849)に再建されたもの

アクセス
長崎電気軌道崇福寺駅下車すぐです。
見学ガイド
崇福寺は有料で公開されています。開門時間は8:00~17:00で無休です。建物が密集しているので視角は限られます。三門は北西に面し、護法堂と鐘鼓楼が東面、その他は西面しているので、光の具合の良い時間帯が朝と夕刻に分かれてしまいます。

感想メモ
宇治の萬福寺は徹底して黄檗様式が用いられていますが、こちらの方は全体として黄檗様式でありながら日本の様式も折衷していて興味深いです。
(2021年3月訪問)

参考
長崎市公式サイト、長崎県公式サイト、現地解説板

 

 

黄檗様式を取り入れた真言宗寺院

清水寺本堂


きよみずでらほんどう
長崎市鍛冶屋町
清水寺本堂32.741057, 129.884109
江戸中期
桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、本瓦葺、南面下屋附属、桟瓦葺

清水寺は崇福寺の南隣の高台に位置する真言宗の寺院です。元和9年(1623)に京都清水寺の僧によって創建され、島原藩主らの支援を得て京都清水寺を模した懸造の舞台を持つ本堂が完成しました。懸造の本堂は寛文3年(1663)に消失し、寛文8年(1668)に唐商何高材が行った寄進を基に再建されたものが現在の本堂です。
・真言宗の寺院だが、扁平な垂木や太鼓型沓石を用いるなど唐寺の細部様式が混入している
・屋根は母屋部分が入母屋造で、その四周に下屋屋根を架けている
・懸造の本堂は失われたが、現在も本堂前面に石造の舞台が残されている

・外陣には黄檗天井が見られる

アクセス
長崎電気軌道崇福寺駅下車500mです。
見学ガイド
清水寺本堂はいつでも自由に見学することができます。外陣内部も見ることができます。

感想メモ
真言宗の寺院に黄檗様式が取り入れられているのは、いかにも長崎らしくて興味深いです。
(2021年3月訪問)

参考
長崎県公式サイト、清水寺公式サイト

 

 

わが国最古の大規模な石造アーチ橋

眼鏡橋


長崎市魚の町、古川町、諏訪町
眼鏡橋32.747193, 129.880065
江戸前期
石造二連アーチ橋、高欄付

眼鏡橋は市街地中心部を流れる中島川に架けられた石造アーチ橋です。興福寺唐僧黙子如定が寛永11年(1634)に架けたと伝えられるもので、規模の大きな石造アーチ橋としてはわが国最古です(小規模なものを含めると沖縄の天女橋が最古)。
・中間に橋脚の入る二径間アーチであるため水害に弱く、幾度か被災しているが、その都度修理されている
・二径間としたのは、当時の技術では一径間だと太鼓橋になってしまい利便性に問題が生じたためであると考えられている
・長崎大水害復旧工事の際、左右両岸端部の段石が現れ、昭和58年に明治以前の姿に復元されている

アクセス
長崎電気軌道めがね橋駅下車300mです。
見学ガイド
眼鏡橋はいつでも自由に見学することができます。

感想メモ
眼鏡橋は大水害の後、奇麗に復旧されていますが、中島川の他の石橋は失われたものも多く、大変残念です。
(2021年3月訪問)

参考
長崎県公式サイト、建設コンサルタンツ協会公式サイト

 

 

わが国最初の唐寺

興福寺


こうふくじ
長崎市寺町
興福寺本堂(大雄宝殿)32.747872, 129.883908
明治
桁行三間、梁間四間、一重もこし付、切妻造、本瓦葺
旧唐人屋敷門32.748127, 129.883915
江戸中期
桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、本瓦葺

興福寺は、長崎の市街地東側、風頭山の山麓に延びる寺町通りに面した黄檗宗寺院です。中国江西省の劉覚が元和6年(1620)頃長崎に渡来、僧となり真圓と称してこの地に小庵を営んだのが始まりです。我が国最初の唐寺で、隠元禅師が、中国より初めて日本に渡海し住持した寺院です。
興福寺本堂(大雄宝殿):
・元禄2年(1689)に再建された大雄宝殿が慶応元年(1865)暴風で大破したため、明治16年(1883)に再建されたもの
・中国工匠の手になる純粋な中国南方建築で、巧緻な彫刻・華麗な彩色が特徴
・正面の「大雄宝殿」は隠元禅師の筆

・本堂前廊奥の結界には精緻な意匠が施されている

・本堂前廊の天井は蒲鉾型の黄檗天井としている

・本堂正面側間の丸窓の周囲は氷裂式組子で装飾されている

・本堂上層の組物も日本建築には見られない様式を用いている

・本堂の懸魚も中国式の円形で細かな意匠のものを用いている

旧唐人屋敷門:
・唐人屋敷内にあった一般唐人住宅の門であったとされるもので、昭和35年に興福寺境内に移築された
・使用木材は中国特産の杉材で、桁行一間、梁間一間の小規模なもの
・前後非対称で、扉を前後二重に設けている
・軒は挿肘木と花斗によって支えられ、懸魚は異形のものを用いる
・中国南部の建築様式に近似しており、中国人工匠の手によるものと考えられている

アクセス
長崎電気軌道市民会館駅下車500mです。
見学ガイド
興福寺は有料で公開されています。開門時間は7:00~17:00で、年中無休です。

感想メモ
本堂は明治時代の建築で、古いものではありませんが、細部意匠が大変上品で、美しい建築です。戦前から国宝に指定されていたことも頷けます。、
(2021年3月訪問)

参考
長崎市公式サイト、長崎県公式サイト、興福寺公式サイト

 

 

海軍の長波無線通信施設

旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設


きゅうさせぼむせんでんしんじょしせつ
佐世保市針尾中町
旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設無線塔33.067726, 129.749890
大正
1号無線塔、2号無線塔、3号無線塔の3基よりなる
各鉄筋コンクリート造、建築面積102.56㎡
無線塔33.067513, 129.753165
大正
無線塔33.065261, 129.751287
大正
電信室33.066764, 129.751419
大正
鉄筋コンクリート造、建築面積778.84㎡、2階建
油庫33.066623, 129.750706
大正
鉄筋コンクリート造、建築面積16.88㎡、切妻造、スレート葺

旧佐世保無線電信所(針尾送信所)は、佐世保市南部の西海橋に近い高台にあります。海軍が建設した長波無線通信施設で、大正11年に竣工したものです。真珠湾攻撃の暗号電文「ニイタカヤマノボレ1208」は、この無線塔でも中継されたともいわれています。針尾送信所には三基の無線塔と、電信室、油庫の合計5棟の重文建造物があります。
・無線塔は第一無線塔(写真右)、第二無線塔(写真左)、第三無線塔(写真中央奥)の三基からなる
・三基の無線塔は正三角形の頂点に配置されている
・いずれも円形平面の鉄筋コンクリート造で、基部の直径が12.1m、高さが136m
・きわめて精巧な施工のコンクリート打放し仕上げとし、大正期におけるわが国のコンクリート技術の高さを伝える

第三無線塔の外壁と内面

電信室:
・半地下式の建物で、正面と背面を石張で仕上げる
・内部には通信業務を担う発電機室や送受信機室などが設けられていた

油庫:
・ガソリンなどの保管に用いるため、爆発に耐えうる窓の少ない鉄筋コンクリート造りで、外壁は切石で構成されている

アクセス
JR佐世保駅、JR早岐駅から西海橋方面行きのバスで針尾公民館前下車。徒歩で30分弱です。佐世保駅からのバスは大塔駅前も通ります。
見学ガイド
駐車場近くの一号無線塔と、見学受付手前の油庫はいつでも見ることができます。油庫は喫煙所として利用されているので、内部も見ることができます。三号無線塔と電信室は公開時間が定められており、昼休みもあるようなので、注意が必要です。三号無線塔は内部も見学できます。二号無線塔には電信室周辺からのアクセスはありません。一旦敷地外に出て外周道路を回り込むと近くまで行くことができるようです。2023年以降は電信室内部も見学できるようになりました。

感想メモ
バス停から無線塔が見えているので方向を誤ることはありませんが、案内標識がなく出入口までの経路が少しややこしいので、googleに頼って歩きました。崖越えルートを案内されたら相当な時間ロスになるので、慎重に経路検索をしました。
(2020年8月訪問)

参考
国指定文化財等DB

 

 

石造アーチ橋として重文指定第一号

眼鏡橋


めがねばし
諫早市高城町
眼鏡橋32.845439, 130.049098
江戸末期
石造二連アーチ橋、高欄付

諫早の眼鏡橋は諫早の中心部を流れる本明川に架けられていたものですが、昭和32年(1957)の諫早大水害後の本明川の河川拡幅に伴い、現在は本明川右岸の諫早公園内に移設されています。1958年に石造アーチとしては最初に重文指定されました。
・度重なる本明川の氾濫にも耐えるよう計画された堅牢な石橋で、天保10(1839)年に完成したもの
・階段式の石造り二連アーチ橋で、長さ約50mは現存する江戸時代の石造二連アーチ橋では日本最長

アクセス
長崎本線諫早駅南東1.2kmです。眼鏡橋は、本明川下流側右岸にある諫早公園内の池に移設されています。橋は南北方向にかけられていますが、南から西にかけて小高い丘に囲まれているので、午前中の方が日当たりが良いと思います。
見学ガイド
眼鏡橋は常時自由に見学することができます。橋を渡ることもできます。

感想メモ
住民の悲願であった流されない橋が、諫早大水害では川をせき止めて被害を拡大させてしまったのは皮肉なことです。今は川の近くの公園の池で静かに余生を送っているようです。
(2021年11月訪問)

参考
長崎県公式サイト

 

 

鉄川與助の手によるレンガ造りの教会堂

青砂ヶ浦天主堂


あおさがうらてんしゅどう
南松浦郡新上五島町奈摩郷
青砂ヶ浦天主堂33.027632, 129.087473
明治
三廊式教会堂、煉瓦造及び木造、建築面積264.9m2、左右側面出入口付、桟瓦葺

青砂ヶ浦天主堂は上五島中通島の奈摩湾に面した高台に位置します。長崎に多くの教会建築を残した鉄川与助の設計施工はよるもので、明治43年(1910)に竣功しました。
正面(上段写真)と右側面(下段写真):
・煉瓦造の重層屋根構造
・正面は、煉瓦による帯状装飾によって3分割され、薔薇窓や縦長アーチ窓によって飾られている

正面ペディメントのイギリス積みの壁面

・正面入□の石造アーチは、葡萄をモチーフとした柱頭飾を有する円柱によって支えられている

正面左側の薔薇窓と縦長アーチ窓

右側面の装飾

奈摩湾越しに見た天主堂

アクセス
長崎・佐世保からの船が着く有川港からは、上五島高校前で津和崎方面行バスに乗り換え青砂ヶ浦教会前下車すぐです。博多からのフェリーが着く青方港からは青方BTで津和崎行きに乗り換えることになります。途中の青砂浦別道までは循環バスが入るので本数が少し多くなります。別道バス停からは1.2kmです。
見学ガイド
青砂ヶ浦天主堂は常時自由に見学することができます。天主堂は西面しています。

感想メモ
帰路は別道バス停まで歩きました。奈摩湾越しに天主堂を遠望することができました。地域と教会の結びつきの強さを感じることができる景観です。
(2021年8月訪問)

参考
現地解説板

 

 

意匠を凝らした石造教会

頭ヶ島天主堂


かしらがじまてんしゅどう
南松浦郡新上五島町友住郷
頭ヶ島天主堂33.012453, 129.182864
大正
単廊式教会堂、石造、建築面積131.61m2、正面塔屋付、桟瓦葺

頭ヶ島天主堂は、上五島の中通島と橋で結ばれた小島、頭ヶ島に位置します。幕府の禁教令で、五島のキリシタンは一度は途絶えましたが、江戸時代後期の1797年、五島藩が大村藩に荒地開墾要員の移住を要請したことをきっかけに、外海から潜伏キリシタンが海を渡り、五島各地には再びキリシタン集落ができました。頭ヶ島には、1859年頃から入植が始まり、へき地であることから潜伏キリシタンが増加しました。
1887年には頭ヶ島に木造教会が建てられ、1919年に現在の石造り教会が完成しました。鉄川与助の設計施工で、信者らが近傍から砂岩を船で運び組み立てました。
・小規模ながら類例の少ない石造で、内外とも斬新な意匠をもつ

・壁面は表面の粗い切り石を積んだルスティカ様式
・ブラインドアーチ列の装飾が特徴

・石材に刻まれた数字は寸法を示す

・写真中央下の赤い屋根とドームが天主堂で、正面のロクロ島は教会建築に用いた石材の調達地のひとつ。

アクセス
長崎・佐世保からの船が着く有川港からは、頭ヶ島天主堂行きバスで終点下車すぐです。博多からのフェリーが着く青方港からは青方BT、有川港でバスを2回乗り換えることになります。
見学ガイド
外観の見学も含め、見学するためには前日以前に予約する必要があります。見学できるのは 9:00~17:00までです。北面しているので、昼間は逆光になります。

感想メモ
隠れキリシタンにとってこれ以上居心地の良い場所はないような環境です。天主堂は細部意匠も素晴らしいです。
帰路はバス道を徒歩で戻りました。途中2カ所で天主堂を遠望することができ、このうち頭ケ島バス停を過ぎたあたりからは、海を背景に天主堂を望むことができました。
(2021年8月訪問)

参考
長崎の教会群インフォメーションセンター公式サイト、現地解説板、文化遺産オンライン