徳島県の国宝・重要文化財建造物 | 国宝・重要文化財指定の建造物

国宝・重要文化財指定の建造物

全国の国宝・重要文化財に指定された建造物についてのブログです。

このブログについて:

徳島県内で国宝や国の重要文化財に指定された建造物のうち、私がこれまで訪問したものを紹介しています。
個人の備忘録みたいなものですが、実際に訪ねてみたら目当ての文化財が塀や樹木の陰で見えないといったことも時々あるので、ここでは、このあたりも詳しく書いて、閲覧してくれた方の参考になるように考えました。また、文化財の位置は国指定文化財等データベースで確認できますが、間違った情報も結構多いので、ここでは現地で実際に確認した座標を記載しています。
記載内容は訪問日時点のものです。情報が古くなってしまっている可能性もあり、修復工事が始まって見学できないこともあるので、注意してください。

徳島市
一宮神社本殿
丈六寺本堂(元方丈)
丈六寺観音堂
丈六寺経蔵(旧僧堂)
丈六寺三門
三河家住宅
鳴門市
宇志比古神社本殿
福永家住宅主屋、離座敷、土蔵、塩納屋、薪納屋、納屋
阿波市
切幡寺大塔
美馬市
三木家住宅
旧長岡家住宅
三好市
箸蔵寺本殿、護摩殿、薬師堂、天神社本殿、方丈、鐘楼堂
木村家住宅主屋、隠居屋
小采家住宅
徳善家住宅
勝浦郡上勝町
田中家住宅
名西郡石井町
田中家住宅主屋、座敷、宝庫、土蔵、灰屋、番屋、味噌部屋、藍納屋、南藍寝床、北藍寝床、表門
武知家住宅主屋、離れ、伝い、宝庫、庫蔵、通門、東藍床、西藍床、寝床、倉廩、作男部屋、下部家
名西郡神山町
粟飯原家住宅
板野郡藍住町
犬伏家住宅主屋、座敷、応接室、書斎、宝庫、離座敷、北蔵、乾蔵、味噌蔵、機械工場、五番蔵、東蔵、巽蔵、前納屋、表門
板野郡上板町
戸田家住宅主屋、東座敷、土蔵、西蔵、乾蔵、灰屋、藍寝床、長屋門

 

 

阿波の法隆寺

丈六寺


じょうろくじ
徳島市丈六町丈領
丈六寺本堂(元方丈)34.005166, 134.550936
江戸前期
桁行18.7m、梁間11.8m、一重、入母屋造、本瓦葺
丈六寺観音堂34.004574, 134.550759
江戸前期
桁行三間、梁間四間、二重、寄棟造、本瓦葺
丈六寺経蔵(旧僧堂)34.004908, 134.551044
江戸前期
桁行五間、梁間三間、一重、寄棟造、本瓦葺、八角輪蔵付
丈六寺三門34.005200, 134.551390
室町後期
三間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺

丈六寺は勝浦川下流左岸にある曹洞宗の寺院で、「阿波の法隆寺」とも通称される名刹です。室町期の三門のほか、江戸前期の本堂、観音堂、経蔵が残されている。
本堂:
・寛永六年(1629)蜂須賀蓬庵が方丈を再建寄進したもの
・明治以後は本尊を安置して本堂としている
・妻は狐格子
・柱は面取り角柱で、江戸初期の特徴

・本堂の軒、身舎とも舟肘木で桁を受ける
・軒は疎垂木
・柱はすべて面取り角柱で、江戸初期の特徴

観音堂:
・桁行三間、梁間四間、二重で、大棟の短い寄棟造

観音堂上重軒廻り:
・柱上部に粽があり、貫と台輪で固める禅宗様式
・組物は禅宗様の詰組ではなく疎組で、中備も置かない

観音堂下重軒廻り:
・下重も疎組だが、中央間のみ柱間に大瓶束を立てる

観音堂内部:
・下重の柱(写真右)と上重の柱は直線的な虹梁で繋がれている

経蔵:
・室町末期の永禄十一年(1568) 細川真之が僧堂として寄進建立したものを、江戸中期の享保十二年(1727)に奥行 を一間縮小して二間後ろへ移築し、経蔵に改めたもの

経蔵軒廻り:
・疎垂木で平三斗、中備は設けない

・経蔵内部には八角輪蔵が安置されている

三門外面(上段写真)と内面(下段写真):
・各間とも開放された三間三戸の折衷様二重門

・上重、下重とも二軒の繁垂木

・三門の柱は上下に粽を持ち、礎石上の礎盤の上に立つ

三門上重:
・花頭窓、渦巻き模様の木鼻、台輪、扉の藁座、詰組、柱の粽など、禅宗様の特徴が見られる

三門下重:
・上重と同様に出組の詰組

アクセス
JR牟岐線地蔵橋駅下車、南3㎞です。徳島駅からのバス便もあります。
見学ガイド
丈六寺は日中自由に参拝することができます。重文指定の建造物も近くから見ることができます。

感想メモ
周辺の道路は交通量が意外とありましたが、境内は深い緑に囲われていて、大変静かでした。お寺で何か動物を飼育されているのか、鳴き声が聞こえました。
本堂は巨大ですが、住宅風の落ち着いた建築でした。観音堂は横幅に比べて高さが高く、不思議な表情の建築でした。屋根が高く、大棟が非常に短いところや、軒廻りがすっきりしているところが不思議な感じを生み出しているのかもしれません。正面の格子の裏の金網がない部分があって、堂内をよく見ることができました。
経堂正面からは内部をよく見ることはできませんが、背面の格子の隙間から輪蔵を見ることができました。三門は折衷様ということですが、禅宗様が色濃く出ていました。
(2023年5月訪問)

参考
徳島県観光情報サイト、現地解説板

 

 

江戸時代の製塩場

福永家住宅


ふくながけじゅうたく
鳴門市鳴門町高島浜中
福永家住宅主屋34.205550, 134.589311
江戸後期
桁行13.4m、梁間10.0m、一部二階、切妻造、四面庇付、本瓦葺
離座敷34.205558, 134.589158
江戸末期
桁行5.7m、梁間6.0m、切妻造、南面及び東面庇付、本瓦葺
土蔵34.205618, 134.589174
江戸末期
土蔵造、桁行6.4m、梁間5.2m、二階建、切妻造、東面庇付、本瓦葺
納屋34.205531, 134.589447
江戸末期
桁行6.8m、梁間4.0m、切妻造、本瓦葺
塩納屋34.205368, 134.589454
明治
桁行9.3m、梁間4.2m、切妻造、本瓦葺
薪納屋34.205446, 134.589308
江戸末期
桁行4.2m、梁間3.4m、切妻造、本瓦葺

福永家住宅は、かつて広大な塩田が広がっていた鳴門町高島地区の西端に位置し、敷地内に製塩施設を有しています。福永家は、寛文年中(1661~1673)に高島村で塩田を開き、代々塩業を営んできました。
建物は、棟札により主屋が文政11年(1828)、離座敷が天保3年(1832)、土蔵が天保4年(1833)に建てられたことが知られています。塩納屋は明治42年(1909)に改築されていますが、そのほかの建物は主屋が建てられた文政11年から天保4年に建てられたと考えられています。
敷地南面:
・右端が塩納屋で、その左の護岸の切込みが塩の積出場
・積出場の左の妻を見せた小屋が薪納屋で、その右背後が主屋
・左の漆喰の妻が離座敷で、その奥の一段高い屋根が土蔵

敷地西面:
・中央右が離座敷で左が土蔵、離座敷の右奥が主屋

敷地東面・北面:
・中央が主屋で、右が土蔵、左が納屋

主屋:
・文政11年(1828)の建築で、ミセ・オモテ・ナイショ・オクの4部屋とカマヤ・ニワの土間で構成されている
・二階部分の背が低く、錣屋根のように見える

主屋北面(右奥が土蔵)

離座敷:
・天保3(1832)年の建築で、床の間を持つ6畳と4畳の2部屋ある
・主屋と渡廊下(下段写真右側)で接続し、前庭に面する所には濡縁が廻らされ書院風になっている

土蔵:
・天保4(1833)年の建築で、床および内壁は板張りで、離座敷に接して建っている

納屋:
・4室に区切り、更に南の間を2室に区切っている
・風呂場、便所、漬物置き場、板敷の物置として利用された

塩納屋:
・イダシ場と塩の計量・袋詰場(下段写真)の2部屋からなり、イダシ場では釜屋から運ばれた塩が一週間程度貯蔵され、自然に苦汁の除去と乾燥が行われる

薪納屋:
・石炭の付火用の薪を貯蔵するための納屋

アクセス
JR徳島駅から、鳴門駅経由ウチノ海総合公園行のバスで高島下車、すぐです。
見学ガイド
福永家住宅の周辺は公園整備されており、敷地周辺から見学することができます。通常は敷地内に立ち入ることはできませんが、春と秋には建物内部を含め特別公開されます。

感想メモ
特別公開の機会に訪問しました。ボランティアガイドさんから住宅や製塩工程について分かりやすい説明がありました。お客さんの中に「塩の先生」がいて、飛び入りでかな~~り詳細に説明してもらえました。帰りのバスまで時間があったので、良かったですが。。。
(2023年10月訪問)

参考
鳴門市公式サイト、総覧日本の建築8

 

 

金刀比羅宮の奥の院

箸蔵寺


はしくらじ
三好市池田町州津
箸蔵寺本殿34.049156, 133.841760
江戸末期
奥殿 正面三間、背面四間、側面六間、一重、入母屋造、正面千鳥破風及び軒唐破風付
内陣 前方 桁行三間、梁間四間、一重、両下造、背面取合及び物置附属
外陣 桁行五間、梁間四間、一重、入母屋造、前後千鳥破風付、向拝三間、軒唐破風付、背面取合附属 総銅板葺
護摩殿34.048064, 133.841325
江戸末期
奥殿 正面三間、側面三間、一重、宝形造、向拝一間
内陣 前方 桁行三間、梁間三間、一重、切妻造、妻入、左右庇付、後方 桁行三間、梁間三間、一重、両下造、左側面庇付
外陣 桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造、前後千鳥破風付、向拝一間、軒唐破風付、背面取合附属 総桟瓦葺
方丈34.047826, 133.840983
江戸末期
桁行41.9m、梁間14.1m、一重、入母屋造、四面庇付、桟瓦葺、正面唐破風玄関付、銅板葺
薬師堂34.048508, 133.842105
江戸末期
桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、向拝一間、桟瓦葺
鐘楼堂34.048232, 133.842142
江戸末期
桁行三間、梁間二間、楼造、入母屋造、桟瓦葺
天神社本殿34.048640, 133.841369
江戸末期
一間社流造

箸蔵寺は讃岐山脈西端近くの箸蔵山南斜面に位置します。神仏習合を色濃く残す真言宗の寺院で、金刀比羅宮の奥の院として庶民の信仰を集め、寺観を整えたと考えられています。文政九年(1826)に全山焼失し、現存する建築群は、この火災後に再建されたものです。
本殿は山頂付近の最高部の平地に南面して建ち、これより南に下る石段の東側に薬師堂と鐘楼堂、西側に天神社本殿があります。鐘楼堂前より石段が西に折れて一段下った平地には、護摩殿が南面して建ち、この南西に方丈があります。建設年代は、方丈が安政三年(1856)頃、他は文久元年(1861)頃、本殿は江戸最末期と考えられています。
本殿:
・奥殿(写真左)と外陣(右)を内陣でつなぐ複合建築で、階段状の石積基壇上に建つ独特な構成
・木鼻・拳鼻・尾垂木鼻をはじめ、中備や板支輪も彫物とし、丸彫、籠彫、浮彫など多彩な技法が駆使されている

本殿外陣軒廻り:
・軸部は円柱を長押・頭貫・台輪で結び、組物は拳鼻・尾垂木付の三手先で中備は蟇股

本殿外陣向拝軒唐破風

本殿外陣向拝:
・角柱を虹梁型頭貫で結び、三斗で桁・手挟を受ける

本殿外陣内部

本殿内陣:
・桁行三間、梁間四間、二軒繁垂木で、組物は出組、中備は蟇股

本殿奥殿:
・正面三間、背面四間、側面六間で、両側面に擬宝珠高欄付の切目縁を廻す
・軸部は円柱を長押・頭貫・台輪で結び、拳鼻・尾垂木付の五手先組物の詰組とする
・軒は二軒繁垂木

護摩殿:
・外陣(上段写真、中段写真左)、内陣(中段写真右)、奥殿(下段写真)からなる複合建築
・外陣、内陣、奥殿の順で階段状の石積基壇上に建ち、相互を巧みに連結した独特な構成
・本殿と同様に多くの彫刻で飾られている
・外陣は、桁行五間、梁間三間、正面に向拝一間を設け、屋根は入母屋造で、前後に千鳥破風、向拝に軒唐破風を付ける
・内陣は、桁行三間、梁間三間で、組物は用いず、軒は一軒繁垂木
・奥殿は、正面三間、側面三間で、向拝一間を設け、四周に逆蓮頭擬宝珠高欄付の切目縁を廻す
・奥殿軸部は円柱を長押・頭貫・台輪で結び、組物は拳鼻・尾垂木付の三手先組物、軒は二軒繁垂木、屋根は宝形造

護摩殿外陣軒廻り:
・軸部は円柱を長押・頭貫・台輪で結ぶ
・組物は拳鼻・尾垂木付の三手先で、中備に蟇股を入れる
・軒は二軒繁垂木

護摩殿外陣向拝:
・角柱を虹梁型頭貫で結び、三斗で桁・手挟を受ける

護摩殿外陣内部:
・天井は格天井で、柱上は出組、中備は蟇股
・西面(下段写真左端)には方丈と連絡する廊下が取り付く

方丈:
・桁行四二メートルの長大な建築で、正面ほぼ中央に唐破風造の玄関を設ける
・屋根は入母屋造、四面に庇を廻し、桟瓦葺で、妻飾は狐格子とする

方丈玄関の唐破風

薬師堂:
・桁行三間、梁間三間、四周に擬宝珠高欄付の切目縁を廻し、正面に向拝一間をつける
・軸部は角柱を長押・頭貫・台輪で結び、組物は三斗、中備蟇股とする
・二軒繁垂木、宝形造、桟瓦葺

鐘楼堂:
・桁行三間、梁間二間の楼造で、下層は隅柱四本を内転びとした袴腰風の外観で、独創的な形式
・高欄付縁の下に疎らの支輪を設ける
・軒は一軒疎扇垂木
・装飾の少ない簡素な建築

天神社本殿:
・一間社流造、銅板葺で、切石積基壇上に建つ

天神社本殿妻面:
・円柱を長押・頭貫・台輪で結び、組物は三手先で中備を二手先組物とし、軒支輪をつける
・妻飾は二重虹梁

天神社本殿向拝外面(上段写真)と内面(下段写真)

アクセス
JR土讃線箸蔵駅下車、西700mのロープウエイ乗場から5分程度です。方丈は山頂駅下車すぐですが、ここから本殿までは般若心経の文字数と同じ278段の石段を上ります。箸蔵駅に停車する列車は一日数本で参拝に使えそうなのは2本程度しかありません。阿波池田駅からロープウエイ駅まで入るバスもあります。
見学ガイド
箸蔵寺は常時自由に参拝することができます。重文指定の建造物も自由に見学することができます。

感想メモ
神仏習合の不思議な空間でした。お寺なのに本堂ではなく本殿です。巨大で奇抜な構造の本殿には圧倒されました。触るとチクチクしそうなコテコテ系の彫刻は好きではないですが、ここまで徹底されると、まあ、もう良いのかなと思ってしまいます。
帰路はロープウエイ代を節約して、歩いて下山しました。中腹の山門までは急な石段や坂道を調子よく降りてきましたが、その先の車道がものすごく大回りで、中々下界にたどり着けません。直線距離数百メートルのところを4km程度歩くことになりました。本数が極端に少ない土讃線に遅れそうになって焦りました。
(2022年7月訪問)

参考
国指定文化財等DB

 

 

豪壮な城構えの藍屋敷

田中家住宅


たなかけじゅうたく
名西郡石井町藍畑高畑
田中家住宅主屋34.090196, 134.446486
江戸末期
桁行16.7m、梁間12.0m、寄棟造、茅葺、四面庇付、本瓦葺、北面下屋附属、鉄板葺
北面突出部 桁行5.0m、梁間4.8m、切妻造、北面庇付、本瓦葺
座敷34.090310, 134.446503
明治
桁行6.8m、梁間4.2m、東面入母屋造、西面切妻造、本瓦葺、東面庇付、鉄板葺、西面庇付、本瓦葺
宝庫34.090361, 134.446469
江戸末期
土蔵造、桁行8.9m、梁間5.0m、二階建、切妻造、本瓦葺
表門34.089965, 134.446503
明治
長屋門、桁行8.6m、梁間5.0m、東面切妻造、西面入母屋造、本瓦葺、北面庇付、本瓦葺
土蔵34.089976, 134.446607
明治
土蔵造、桁行8.9m、梁間7.4m、切妻造、北面庇付、本瓦葺
藍納屋34.090092, 134.446757
明治
桁行21.5m、梁間8.4m、二階建、切妻造、西面庇付、本瓦葺
北藍寝床34.090311, 134.446330
明治
土蔵造、桁行15.7m、梁間7.0m、二階建、切妻造、本瓦葺
南藍寝床34.090184, 134.446325
江戸末期
桁行17.0m、梁間6.9m、二階建、切妻造、東面庇付、本瓦葺
味噌部屋34.090082, 134.446352
明治
桁行5.6m、梁間2.5m、切妻造、本瓦葺
番屋34.090016, 134.446377
明治
桁行9.3m、梁間2.5m、切妻造、本瓦葺
灰屋34.089834, 134.446391
明治
桁行2.6m、梁間2.4m、切妻造、鉄板葺

田中家住宅は吉野川右岸、石井町の田園地帯に位置します。吉野川の氾濫原であったこの地域は、稲作が困難であった一方で、洪水と伏流水がもたらした肥沃な土壌が藍の栽培に適していたため、江戸時代以前から阿波藍が作られてきました。田中家は、寛永年間から続いた藍商で、現在の住宅は安政元年(1864)から約30年の歳月を費やし完成されたものです。南北約五十メートル、東西約四十メートルの広大な屋敷地は、主屋とオモテニワを中心に、周囲を納屋や寝床、土蔵、門長屋と塀により囲まれ、城郭の様な構えとなっています。
敷地北面(写真左)と西面(写真右):
・北面には左から宝庫と北藍寝床が建ち、西面には左から南藍寝床、味噌部屋と番屋が並び(番屋の奥は表門)、少し離れた木陰に灰屋が建つ
・味噌部屋は70人の職人の食料を保管したもの
・番屋は職人の休憩所で、夏の西日で室内温度が上がらないよう、西面には窓を設けていない

敷地北面:
・右端が北藍寝床で、その右に宝庫が並び、左奥に主屋の藁葺き屋根が見える

敷地西面:
・建物は地元の青石・撫養石でできた石垣の上に建ち、吉野川の氾濫に備えている

北藍寝床(左)と南藍寝床(右)

敷地南面:
・左端の軽自動車の後ろが表門、その右が土蔵で、背後の茅葺が主屋、右端が藍納屋

主屋(右の小ぶりな瓦葺きが座敷で、奥が宝庫)

主屋:
・茅葺屋根は洪水時に切り離し、舟として利用することができる

座敷(写真中央)と宝庫(右奥)

敷地内西面:
・漆喰の妻が南藍寝床で、その右は味噌長屋と番屋

表門(右は土蔵):
・門の左部分は馬屋として利用された

北藍寝床

藍納屋(写真上段から、南面、東面、西面):
・西面には広い下家「オブタ」を備える

灰屋

アクセス
JR徳島駅から竜王団地線のバスで高畑東下車、すぐです。団地線のバスの本数は多くありませんが、南西1.2㎞のフジグラン石井までは別路線のバスも利用できます。
見学ガイド
田中家住宅は、日曜休日のみ有料で一般公開されています。重文指定建造物の多くは敷地外から見ることができます。

感想メモ
洪水から守るため石垣の上に建つ規模の大きな屋敷です。2023年の訪問時は内部の公開日ではなかったため2008年に訪問した時の写真を引っ張り出してきました。立派なお屋敷という記憶は残っていますが、内部の様子などは記憶がかなりあいまいです。
(2008年3月、2023年10月訪問)

参考
石井町公式サイト、日本遺産公式サイト、徳島県立図書館公式サイト、現地解説

 

 

吉野川下流域で最大級の藍商の住宅

武知家住宅


たけちけじゅうたく
名西郡石井町高川原天神
武知家住宅主屋34.086990, 134.442366
江戸末期
桁行20.3m、梁間14.8m、入母屋造、四面下屋付、北面突出部 桁行1.6m、梁間6.0m、切妻造、北面及び西面庇付、南面玄関及び西面便所附属、本瓦葺、北面浴室附属、切妻造、桟瓦葺
離れ34.087171, 134.442396
明治
桁行7.9m、梁間5.0m、二階建、東面入母屋造、西面切妻造、本瓦葺、南面及び東面下屋附属、桟瓦葺、北面土塀附属、本瓦葺
伝い34.087095, 134.442391
明治
桁行5.7m、梁間4.2m、切妻造、北面及び南面張出部附属、桟瓦葺、北東南面下屋附属、銅板葺
宝庫34.087170, 134.442302
江戸末期
土蔵造、桁行7.4m、梁間4.9m、二階建、切妻造、南面庇付、本瓦葺
庫蔵34.087169, 134.442179
江戸末期
土蔵造、桁行11.8m、梁間4.9m、二階建、切妻造、南面庇付、本瓦葺
通門34.086853, 134.442572
明治
長屋門、桁行12.7m、梁間4.9m、二階建、入母屋造、西面下屋附属、本瓦葺
東藍床34.086734, 134.442531
江戸末期
桁行12.7m、梁間7.9m、二階建、切妻造、北面下屋付、本瓦葺
西藍床34.086726, 134.442348
江戸末期
桁行20.8m、梁間4.9m、二階建、切妻造、北面馬屋附属、桁行4.8m、梁間4.9m、北面下屋附属、本瓦葺、南面板塀附属
寝床34.086953, 134.442140
江戸末期
土蔵造、桁行15.7m、梁間7.9m、二階建、切妻造、東面下屋付、本瓦葺
倉廩34.086962, 134.442139
江戸末期
土蔵造、桁行11.8m、梁間5.0m、二階建、切妻造、東面下屋附属、桁行12.0m、梁間3.0m、南面土塀附属、本瓦葺
作男部屋34.086716, 134.442157
江戸末期
桁行折曲り延長24.5m、梁間2.4m、切妻造、本瓦葺
下部家34.086841, 134.442144
江戸末期
桁行4.9m、梁間3.9m、切妻造、本瓦葺、東面玄関附属、桟瓦葺

武知家住宅は石井町の田中家住宅に近い田園地帯に位置します。嘉永4年(1851)から明治9年(1876)にかけて約25年かけて完成した藍屋敷です。南北約80m、東西約70mの高石垣の敷地に、中央に配置した主屋の周りを建物が取り囲む藍屋敷独特の屋敷構えが完存しています。
敷地東面:
・写真左が主屋で右が離れ、両者をつなぐ低い屋根が伝い

敷地東面:
・中央が通門で、左に見える妻が東藍床、右の二重屋根が主屋

主屋:
・文久2年(1862)に建てられた大規模な建物で、当地の伝統的民家形式を基軸としつつ、二重の本瓦葺屋根や雄大な式台玄関など高い格式を備える

通門

敷地西面(2008年撮影):
・左端の妻が庫蔵、その右に倉廩、寝床、板張りの下部屋、作男部屋が建ち、右端奥に西藍床の妻が見える

敷地西面(2008年撮影)

敷地西面

下部屋(写真中央)と寝床(左の土蔵造り)

下部屋(写真左)と作男部屋(写真右)

敷地南面:
・写真手前が東藍床で、左奥が西藍床

東藍床

西藍床

敷地北面:
・中央が庫蔵で、その左が宝庫、屋根のみ見えているのが座敷

宝庫

アクセス
JR徳島駅から竜王団地線のバスで天神東下車、すぐです。団地線のバスの本数は多くありませんが、700m南のフジグラン石井までは別路線のバスも利用できます。
見学ガイド
武知家住宅は現住民家で、非公開ですが、重文指定建造物の多くは公道に面しているので見ることができます。

感想メモ
2008年に田中家住宅を訪問した際に立ち寄っていたようです。当時は重文未指定で、ここを目指して立ち寄ったのか、それともたまたま通りがかってあまりにも存在感の大きな屋敷なので足を止めたのか、記憶が完全に消えています。当時は西側の土蔵がパッチワークのようでなかなか面白いです。
(2008年3月、2023年10月訪問)

参考
石井町公式サイト、日本遺産公式サイト、文化遺産オンライン