このブログについて:
大阪府泉南地域で国宝や国の重要文化財に指定された建造物のうち、私がこれまで訪問したものを紹介しています。
個人の備忘録みたいなものですが、実際に訪ねてみたら目当ての文化財が塀や樹木の陰で見えないといったことも時々あるので、ここでは、このあたりも詳しく書いて、閲覧してくれた方の参考になるように考えました。また、文化財の位置は国指定文化財等データベースで確認できますが、間違った情報も結構多いので、ここでは現地で実際に確認した座標を記載しています。
記載内容は訪問日時点のものです。情報が古くなってしまっている可能性もあり、修復工事が始まって見学できないこともあるので、注意してください。
岸和田市 | |
兵主神社本殿 | |
積川神社本殿 | |
大威徳寺多宝塔 | |
貝塚市 | |
願泉寺 | 本堂、太鼓堂、表門 |
孝恩寺観音堂 | |
泉佐野市 | |
意賀美神社本殿 | |
火走神社摂社幸神社本殿 | |
奥家住宅 | 主屋、土蔵、西土蔵、表門 |
慈眼院金堂 | |
慈眼院多宝塔 | |
総福寺鎮守天満宮本殿 | |
阪南市 | |
波太神社 | 本殿、末社三神社本殿 |
泉南郡熊取町 | |
中家住宅 | |
降井家書院 | |
来迎寺本堂 | |
泉南郡岬町 | |
船守神社本殿 |
和泉大宮の桃山様式社殿
ひょうすじんじゃほんでん
兵主神社本殿
ひょうすじんじゃほんでん
岸和田市西之内町
兵主神社本殿 | 34.470752, 135.391468 桃山 三間社流造、正面軒唐破風付、檜皮葺 |
兵主神社は春木川右岸の市街地に鎮座する式内社で、加守郷12か村の総社です。大宮とも呼ばれ、雨降の神として崇敬されてきました。本殿は桃山時代の再建です。
・三間社流造、桧皮葺で、軒唐破風を有する ・桃山風の装飾が施されている |
・向拝は角柱で、身舎は粽付きの円柱 ・柱上の組物は身舎中央二本が木鼻付きの平三斗で、他は出三斗 ・中央二本の向拝柱には絵様のある手挟が付く |
・浜床に蹴込板を持つのは和泉地方の特徴だが、同じくこの地方に多い浜縁の半高欄は兵主神社本殿では見られない |
・妻は二重虹梁で、二段の蟇股が支える ・上段の蟇股の意匠は「菊水に筆」で、下段の蟇股は腸が失われている |
アクセス 南海本線和泉大宮駅下車、北東1kmです。春木駅からも距離はあまり変わりません。 |
見学ガイド 兵主神社は常時自由に参拝することができます。本殿は正面が拝殿に塞がれ、側面が漆喰塀に囲われていますが、塀がそれほど高くないので、ある程度は建物を見ることができます。 |
感想メモ 和泉大宮駅も兵主神社も何十年も前から存在は知っていましたが、駅名が兵主神社に由来することは、これまで全く知りませんでした。美しい社殿ですが側面の蟇股が取り外されており、少し痛々しかったです。 (2024年2月訪問) |
参考 岸和田市公式サイト、兵主神社公式サイト |
桁行の長い三間社
つがわじんじゃほんでん
積川神社本殿
つがわじんじゃほんでん
岸和田市積川町
積川神社本殿 | 34.425037, 135.439515 桃山 三間社流造、正面千鳥破風付、檜皮葺 |
積川神社は牛滝川右岸の丘陵地の集落に鎮座する式内社で、和泉五社の一社に数えられています。もともとは牛滝川上流の水利神として地域住民の信仰を集めた神社であったと考えられています。本殿は豊臣秀頼が再建したものであると伝えられています。
・本殿は三間社流造・正面千鳥破風付・桧皮葺き ・一般的な三間社よりも桁行方向の延長が長い横長の建築であることが特徴 |
・身舎、向拝とも柱上は出三斗で、中備に蟇股を置く ・身舎正面は各間に四枚の引違戸をはめる |
・蟇股は身舎正面(上段写真)、向拝(下段写真)とも近世的な意匠 |
・浜縁には半高欄を設けている |
・妻は二重虹梁で、蟇股の意匠は兵主神社と同じく「菊水に筆」 |
・三間社だが、背面(写真右側)は五間 ・背面の組物は正面、側面と同じく出三斗だが、中備は蟇股ではなく蓑束としている |
アクセス 南海本線岸和田駅下車、牛滝線のバスで積川神社前下車すぐです。 |
見学ガイド 積川神社は常時自由に参拝することができます。本殿は瑞垣に囲われていますが、正面以外は瑞垣に近づくことができるので、格子越しに本殿を見ることができます。 |
感想メモ 桁行がかなり長い立派な社殿でした。側面の二重虹梁や菊水に筆の蟇股が兵主神社と共通していて興味深かったです。背面を五間としているのも面白いです。 瑞垣の隙間から撮影したものが多く、前回も今回も斜めに傾いた写真がほとんどで苦労して撮影したことを思い出します(ここに掲載した写真は角度を補正しています)。 (2019年5月、2024年2月訪問) |
参考 岸和田市公式サイト |
寺内町を支配した貝塚御坊
がんせんじ
願泉寺
がんせんじ
貝塚市中町
願泉寺 | 本堂 | 34.448585, 135.357456 江戸中期 桁行27.8m、梁間27.0m、一重、入母屋造、向拝一間、本瓦葺 |
太鼓堂 | 34.448534, 135.357909 江戸中期 桁行三間、梁間三間、二重二階、入母屋造、本瓦葺 | |
表門 | 34.448347, 135.357777 江戸中期 四脚門、切妻造、本瓦葺 |
願泉寺は、貝塚氏の中心部に位置する浄土真宗本願寺派の寺院で、慶長15年(1610年)、徳川家康より寺内(じない)諸役免許の黒印状を与えられ、以後、貝塚寺内町の地頭となり、明治4年(1871年)までその支配が続きました。願泉寺の本堂、太鼓堂、表門の3棟が重要文化財に指定されています。
本堂: ・寛文3年(1663)から翌4年にかけて再建された桁行27.8メートル、梁間27.0メートルの規模の大きな建物 ・入母屋造、本瓦葺で、向拝一間を備える |
・本堂周囲に広縁、落縁(一段下がった外周部)を廻すなど本山格の大型真宗本堂の典型的な建築 |
・本堂広縁は格天井 ・身舎には蔀戸を吊る |
太鼓堂: ・切石積基壇上に建つ重層の入母屋造、本瓦葺の建物 ・下層は方3間で北側に入口を設け、四方に花頭窓を配置する ・上層は方2間で、中央に太鼓を備え付け、四方に彫刻入りの格狭間形の窓を配する ・享保4年(1719)の再建と考えられている |
表門: ・切妻造、本瓦葺の四脚門で、正面の冠木長押上に龍の彫物、四周組物間に透彫の彫物を置くなど、全体的に装飾性に富んでいる ・延宝7年(1679)の建設と考えられている |
アクセス 南海本線貝塚駅下車、徒歩数分です。 |
見学ガイド 表門が閉ざされていても、中町通り沿いの通用口から境内に入り、自由に見学することができます。 |
感想メモ 正面の門が閉ざされていたので諦めかけていましたが、通用口が開放されていて助かりました。寺内町を統治していた寺院の威厳を感じさせる建築です。 (2020年7月、2024年2月訪問) |
参考 貝塚市教育部 |
村人たちに守られてきた釘無堂
こうおんじかんのんどう
孝恩寺観音堂
こうおんじかんのんどう
貝塚市木積
孝恩寺観音堂 | 34.397128, 135.394537 国宝・鎌倉後期 桁行五間、梁間五間、一重、寄棟造、本瓦葺 |
孝恩寺は、水間観音の南方、木積集落に位置する浄土宗寺院で江戸時代に創建されものです。現在の本堂である国宝の観音堂は、もとは深谷山観音寺という寺院の観音堂で、明治時代に観音寺が廃寺になったことから、昭和36年(1961)に孝恩寺の本堂となったものです。
観音寺は、奈良時代に行基によって開創されたとされる寺院ですが、天正13年(1585)の豊臣秀吉による紀州攻めに際して伽藍の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。観音堂は、「釘無堂」とも呼ばれており、様式から鎌倉時代の建築であると考えられています。
観音寺は、奈良時代に行基によって開創されたとされる寺院ですが、天正13年(1585)の豊臣秀吉による紀州攻めに際して伽藍の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られてきました。観音堂は、「釘無堂」とも呼ばれており、様式から鎌倉時代の建築であると考えられています。
・桁行5間、梁間5間、寄棟造、本瓦葺で、向拝を付けない背の低い建築 ・伝統的な和様を基調とする落ち着いた造りだが、随所に鎌倉新様式の禅宗様と大仏様が取り入れられている ・正面の中央3間の出入口には禅宗様の桟唐戸を吊り、正面両端と側面前寄りの3間は縦桟をはめた和様の連子窓とする ・周囲に濡縁をめぐらす |
・背面(写真左)中央部1間にも桟唐戸を吊る |
・屋根瓦は、上部を細めた丸瓦を重ねて葺く行基葺き ・先代の観音堂の瓦を再利用したと考えられる平安時代の瓦も残されており、それらは令和の修理時に本堂南面西側の屋根に集められた |
・正面の桟唐戸には藁座など禅宗様の細部様式がみられる |
・軒は二軒の平行繁垂木、柱上の組物は出三斗 ・中備は正面(写真左)が透彫の本蟇股で、それ以外の三面が間斗束 |
・正面中央には梵字を刻んだ蟇股を飾る |
・蟇股は古風な左右対称に近い意匠 |
・木鼻は刳形を持つ大仏様で、獅子鼻に近い意匠 |
・内部は、前方2間を外陣(写真中央)、後方3間を内陣(写真右の結界の奥)とする ・外陣は中央の通りの柱を省くことで広い空間を確保している ・梁間方向には太い大仏様の虹梁を架けている ・身舎中心部(写真右)は禅宗様の板張の鏡天井とし、周囲は垂木を見せた化粧屋根裏としている |
・内陣(写真奥)と外陣の間は、吹き寄せの菱格子欄間と蔀戸(内陣側に開いている)で仕切られている |
・結界上には左右対称の古風な意匠の蟇股が置かれている |
・内陣は正面中央3間、側面2間で、後寄りに本尊を安置する厨子を設けている |
アクセス 水間鉄道水間観音駅下車、南東1.5㎞です。本数は少ないですが駅からのバスもあります。南海貝塚駅のレンタサイクルも利用できます。 |
見学ガイド 孝恩寺は、開門中、自由に参拝することができます。観音堂も近くから見ることができます。観音堂が開扉されているときは堂内に入ることができます。 |
感想メモ 長い間工事で拝観できませんでしたが、やっと訪問することができました。前回訪問したときは駅からかなり歩いた記憶がありますが、今回は親戚に車で送ってもらったので一瞬で着きました。たまにはこういう飛び道具もいいなと思います。 古来この辺りは周辺の山林から切り出した木材の集積地で畿内の社寺建築の現場に送り出していたとのこと。このお堂もきっと特上の木材を使っているのだろうなとか考えながら眺めていました。 正面の扉が開放されていたので、内部も見ることができました。古風な蟇股が内部にもあって見ごたえがあります。 (2024年1月訪問) 前回訪問時は日が陰っていたのと、行基葺きの瓦を見落としていたので、再訪しました。今回は貝塚駅のレンタサイクルです。孝恩寺拝観後は峠を越えて積川神社まで足を延ばすことができて、なかなか良かったです。 ちょうどご住職のお母さんが庭の草取りをされていて、釘無堂についての詳しいお話や、愛猫のことなど、いろいろ伺うことができました。 (2024年2月訪問) |
参考 貝塚市公式サイト、孝恩寺公式サイト |
雨水豊作の武塔天神を祀る
おがみじんじゃほんでん
意賀美神社本殿
おがみじんじゃほんでん
泉佐野市上之郷
意賀美神社本殿 | 34.368833, 135.328216 室町中期 一間社春日造、正面軒唐破風付、檜皮葺 |
意賀美神社は泉佐野市の樫井川左岸の高台にあり、武塔天神とも呼ばれ、雨水豊作の神として地域の信仰を集めています。本殿は、嘉吉二年(1442)の建立です。
・一間社春日造の向拝に唐破風を付けた様式
向拝の装飾 |
身舎左側面の装飾 |
アクセス JR阪和線長滝駅南東1.8kmです。この地域の文化財巡りには日根野駅近くのシェアサイクルが便利です。神社では日根野から2.7kmです。 |
見学ガイド 本殿は常時自由に見学することができます。本殿は石垣の上にあり、周囲に瑞垣が設けられています。正面の石段を上って拝所の格子の隙間から見学することができるほか、左の摂社の前の石段などからも見ることができます。 |
感想メモ 極彩色ではありますが、色彩の調和も考慮された落ち着いた社殿です。 (2021年12月訪問) |
参考 泉佐野市文化財保存活用地域計画 |
極彩色の春日造
ひばしりじんじゃせっしゃみゆきじんじゃほんでん
火走神社摂社幸神社本殿
ひばしりじんじゃせっしゃみゆきじんじゃほんでん
泉佐野市大木
火走神社摂社幸神社本殿 | 34.351910, 135.369387 室町後期 一間社春日造、銅板葺 |
火走神社は泉佐野市の山合に位置する式内社です。摂社幸神社本殿幸社は本社本殿の向かって右側のに建てられています。
・一間社春日造で、細部に古制が良く保存され、組物は柱にくらべて大きく力量感にあふれる ・柱の大きな面取や繋虹梁、木鼻・蟇股の様式、軒桁の反り増し、刎高欄などに室町時代の特色がよく表れて いる ・部材・壁面に彩色が施されている |
アクセス JR阪和線日根野駅から犬鳴線のバスで中大木下車すぐです。日根野駅からの距離は6.4kmで日根野駅のシェアサイクルも使える距離ですが、110mの登りです。日根野のシェアサイクルには電動アシストがついていないので、ちょっと大変でした。 |
見学ガイド 幸神社本殿は、常時自由に見学することができます。社殿は瑞垣に囲まれているので、瑞垣の格子の隙間からの見学です。隣接の社殿や、覆い屋根の支柱などがあって視角は限られます。瑞垣の左側面から背面を通って右側面に回り込むことができます。 |
感想メモ 修復工事が終わり、奇麗に整備されていました。 (2021年12月訪問) |
参考 現地解説板 |
熊野街道沿いに建つ豪農の館
おくけじゅうたく
奥家住宅
おくけじゅうたく
泉佐野市南中樫井
奥家住宅 | 主屋 | 34.383617, 135.299546 江戸前期 居室部 桁行18.4m、梁間12.1m、二重、南面庇付、入母屋造、 北面突出部 桁行8.7m、梁間5.8m、入母屋造 客室部 桁行11.8m、梁間5.9m、入母屋造、西面居室との取合部、 南面玄関、東面便所及び風呂場附属 総本瓦葺 |
土蔵 | 34.383730, 135.299572 江戸中期 土蔵造、桁行5.5m、梁間4.0m、二階建、切妻造、南面庇付、本瓦葺 | |
西土蔵 | 34.383718, 135.299509 江戸末期 土蔵造、桁行5.0m、梁間3.4m、二階建、切妻造、南面庇付、本瓦葺 | |
表門 | 34.383442, 135.299484 江戸中期 長屋門 桁行10.1m、梁間3.0m、東端入母屋造、西端附属屋に接続 附属屋 桁行10.8m、梁間5.0m、南端入母屋造、北端切妻造 総本瓦葺 |
奥家住宅は、樫井川右岸の熊野街道沿いに建てられた江戸時代の豪農の館です。主屋は広い土間と、泉州地域に多い食違い四間取りで、後から三間続きの奥座敷が増築されています。
主屋西面 |
敷地北側より: ・左が土蔵で、その右が西土蔵、奥の建物が主屋 |
・手前が西土蔵で奥が土蔵 |
表門: ・熊野街道に面した長屋門(写真右奥が主屋) |
表門の附属屋 |
アクセス JR阪和線新家駅の北1.5kmです。旧紀州街道に面して建てられています。この地域の文化財巡りには日根野駅近くのシェアサイクルが便利です。奥家住宅までは日根野から3.6kmです。 |
見学ガイド 奥家住宅は非公開ですが、公道から重文指定された建造物を見ることができます。 |
感想メモ 存在感のある立派なお屋敷です。熊野街道沿いはきれいに整備されていますが、それ以外は少し荒廃が進んでいます。 (2021年12月訪問) |
参考 泉佐野市公式サイト |
岸和田藩七人庄屋の大型住宅
なかけじゅうたく
中家住宅
なかけじゅうたく
泉南郡熊取町五門西1丁目
中家住宅 | 34.400741, 135.348430 江戸前期 桁行24.5m、梁間16.1m、入母屋造、妻入、茅葺、四面庇付、西面及び東面突出部附属、本瓦葺、 北面突出部 桁行9.1m、梁間5.9m、入母屋造、本瓦葺 |
中家住宅は熊取の中心部に位置します。中家は、江戸時代、岸和田藩の七人庄屋をつとめた家柄で、主屋は、江戸時代初期の建築です。
主屋正面: 入母屋造り、茅葺き、妻入りの建物で、南面している |
主屋東面 |
・間取りは、泉南地方や紀ノ川筋に特徴的にみられる喰違三間取りを原型としたもの |
主屋西面: ・縁の内側に座敷が並ぶ |
・写真手前から六畳、ツギノマ、ザシキが並ぶ |
ダイドコロ: ・ダイドコロは板敷で、広い土間に突き出して設けられている ・ダイドコロの奥、向かって左側の列はザシキで、右側の列がナンド ・下段写真はダイドコロの化粧屋根裏 |
・薬医門形式の表門(上段写真)と唐門(下段写真)は、ともに重要文化財に附指定されている |
アクセス JR阪和線熊取駅南東1.2kmです。 |
見学ガイド 中家住宅は無料で公開されています。公開時間は午前10時~午後4時30分で、1、2、8月は土日祝のみの公開、それ以外は水曜休館です。 |
感想メモ 切妻の妻飾りに大きな家紋を掲げ、存在感の強い建物です。内部の造りも豪壮です。 (2021年12月、2023年11月訪問) |
参考 熊取町公式サイト |
江戸時代の庄屋の邸宅の書院
ふるいけしょいん
降井家書院
ふるいけしょいん
泉南郡熊取町大久保中2丁目
降井家書院 | 34.401894, 135.343916 江戸前期 桁行15.9m、梁間8.2m、一重、寄棟造、茅葺、北面庇付、桟瓦葺 |
降井家書院は熊取の中心部、中家住宅の西方に位置します。降井家は、中家とともにこの当地方の豪族で、庄屋を務めたと伝えられています。書院は元は広間に接続していたようですが、広間と切放して現在地に移されています。書院の建設は江戸時代初期と考えられており、その後、柱、縁廻り等相当大きな修理を受けています。
・写真上段から、南面、東面、北面、北面及び西面 ・南北棟の寄棟、茅葺の建築 ・内部は北側の8帖の上段の間と南側の12帖の次の間から成り、その南北東の三方に畳敷の入側を持ち、さらに四週に縁側がある |
東側の縁: ・障子の奥の畳敷きが入側で、座敷はその奥の障子の向こう側にある |
アクセス JR阪和線熊取駅南東900mです。 |
見学ガイド 降井家書院は通常非公開です(毎年、秋に特別公開されるようです)。公道から屋根の一部を見ることができます。 |
感想メモ 公開日ではなかったので表通りから拝見しました。のぞき見をしているようで、気が引けました。 (2021年12月訪問) 特別公開が行われたので再訪しました。専門の先生や修理を担当した技師の方から説明を聞くことができて勉強になりました。中家での講演が終わって降井家に着いたころには、もう陽が傾いていましたが、快晴だったので何とか光がありました。内部は撮影禁止ですが、襖絵など大変素晴らしい美術品が残されています。 (2023年11月訪問) |
参考 熊取町公式サイト |
雨山城の遺構とも伝わる行基葺の小堂
らいごうじほんどう
来迎寺本堂
らいごうじほんどう
泉南郡熊取町和田3丁目
来迎寺本堂 | 34.386596, 135.361631 鎌倉後期 桁行三間、梁間三間、一重、寄棟造、本瓦葺 |
来迎寺は和泉山脈の山裾に位置します。寺伝によれば、来迎寺はもとは天台宗に属し、のちに真言宗となり、元禄二年(1689)に曹洞宗梅渓寺の末寺となったとされています。本堂は、嘉暦四年(1329)建立と伝えられ、もと雨山城にあった祈願堂であるともいわれています。
・鎌倉時代の様式を備えた三間四方の小堂で、屋根は寄棟造、基壇はなく野面石上に柱を建てる |
・屋根は、本瓦葺の丸瓦の上端を細くして、上の瓦の下端に差し込む行基葺 |
・円柱上に置かれた質素な舟肘木で軒を受ける |
アクセス JR阪和線熊取駅からバスで朝代下車、東に1kmです。この地域の文化財巡りには日根野駅近くのシェアサイクルが便利です。来迎寺までは日根野から4kmです。 |
見学ガイド 来迎寺本堂の外観は常時自由に見学することができます。 |
感想メモ 古風な鎌倉建築です。本堂右側が上り坂なので、行基葺を間近に見ることができます。 (2021年12月訪問) |
参考 現地解説板 |
紀州の豪族紀氏を祀る桃山様式の社殿
ふなもりじんじゃほんでん
船守神社本殿
ふなもりじんじゃほんでん
泉南郡岬町淡輪
船守神社本殿 | 34.331330, 135.172290 桃山 三間社流造、正面千鳥破風及び軒唐破風付、檜皮葺 |
船守神社は和歌山県境に近い淡輪の鎮守で、社伝によれば911年醍醐天皇の勅命で創建されたとされ、藤原仲麻呂の乱で戦功を挙げた紀船守(きのふなもり)を主祭神として祀ります。この地は古来より紀州の豪族紀氏との関係が深く、紀船守もこの地域に葬られたとされています。土佐日記で知られる紀貫之は紀船守の5世の孫に当たります。
本殿(祭礼時に撮影): ・桃山様式の三間社流造で、屋根は檜皮葺きで正面に千鳥破風と軒唐破風を有する ・豊臣秀頼の命により片桐且元が造営したものであると伝えられている |
・通常は拝殿の馬道の扉が閉じられているので、本殿は扉の菱格子越しにしか見ることができない ・軒唐破風をわずかに確認することができるが、屋根は見えない |
アクセス 南海本線淡輪駅下車、徒歩約10分です。駅前通りを直進し、最初の信号を左折して進むと神社の前に出ます。 |
見学ガイド 船守神社は常時自由に参拝することができます。本殿は拝殿の扉の菱格子を通して一部を見ることができます。毎年10月14日、15日の祭礼の際には、拝殿の扉が開放され、本殿に近づくことができます。ただし、本殿周囲は植栽が多く、視角は限られます。 |
感想メモ 本殿はかなり厳重にガードされていて、拝殿の馬道を通る以外にアクセスできませんが、馬道の扉は閉ざされています。扉の菱格子を通して本殿の一部を見ることはできますが、拝殿の屋根が遮って、本殿の屋根などは見えません。 (2020年12月訪問) 秋の祭礼の日に再訪しました。今度は拝殿の扉が開かれていて、本殿を近くから見ることができました。当番の方が本殿前におられて、ちょっと写真を撮る雰囲気じゃないと思って、しばらく本殿を眺めていたら、「どうぞ写真も撮って行ってください」と声をかけていただけました。ありがとうございました。 (2023年10月訪問) |
参考 岬町公式サイト、淡輪漁協公式サイト |