このブログについて:
埼玉県川越・比企地域で国宝や国の重要文化財に指定された建造物のうち、私がこれまで訪問したものを紹介しています。
個人の備忘録みたいなものですが、実際に訪ねてみたら目当ての文化財が塀や樹木の陰で見えないといったことも時々あるので、ここでは、このあたりも詳しく書いて、閲覧してくれた方の参考になるように考えました。また、文化財の位置は国指定文化財等データベースで確認できますが、間違った情報も結構多いので、ここでは現地で実際に確認した座標を記載しています。
記載内容は訪問日時点のものです。情報が古くなってしまっている可能性もあり、修復工事が始まって見学できないこともあるので、注意してください。
川越市 | |
大沢家住宅 | |
喜多院 | 書院、客殿、庫裏、慈眼堂、鐘楼門、山門 |
東照宮 | 本殿、瑞垣、唐門、拝殿及び幣殿、随身門、鳥居 |
日枝神社本殿 | |
旧山崎家別邸 | |
東松山市 | |
光福寺宝篋印塔 | |
箭弓稲荷神社本殿・幣殿・拝殿 | |
比企郡小川町 | |
吉田家住宅 | |
比企郡川島町 | |
広徳寺大御堂 | |
旧遠山家住宅 | |
比企郡ときがわ町 | |
慈光寺開山塔 |
川越の蔵造り商家のさきがけ
おおさわけじゅうたく
大沢家住宅
おおさわけじゅうたく
川越市元町1丁目
大沢家住宅 | 35.924471, 139.483168 江戸後期 土蔵造、桁行10.9m、梁間8.5m、二階建、切妻造、正面庇付、桟瓦葺 |
大沢家住宅は川越の中心部、川越伝統的建造物群保存地区に位置します。呉服太物商、西村半右衛門が寛政4年(1792)に建てられたもので、明治の川越大火でも焼け残り、川越商人に蔵造りを建てさせるきっかけになった建物の一つです。
・間口6間、奥行4間と大きな店で平入 ・桟瓦葺・切妻造桟瓦葺屋根の総二階で、前面に奥行4尺の下屋庇が付く ・正面2階は黒漆喰仕上げで、大火直後の姿 ・2階正面の窓は土塗りの親子格子で構成されており、土蔵造というよりも塗家造の町家に近い |
・軒は出桁で支えるが、明治大火後の店蔵と異なり軒蛇腹はない |
・大沢家の鬼瓦の影盛(写真左)は、明治の大火以後に建てられた隣接住戸の影盛(写真右)と比較して非常に薄く板状 |
アクセス 西武新宿線本川越駅下車、北1.2kmです。バス便も多数あります。シェアサイクルも利用できます。 |
見学ガイド 大沢家住宅は公道に面しているので、いつでも外観を見ることができます。 |
感想メモ 川越の蔵造り商家の一つですが、細部は明治の川越大火後の蔵造りとは異なる点が多く、興味深いです。 (2021年9月訪問) |
参考 川越市公式サイト |
江戸城紅葉山の別殿が残る
きたいん
喜多院
きたいん
川越市小仙波町1丁目
喜多院 | 客殿 | 35.918008, 139.488535 江戸前期 桁行八間、梁間五間、床、違棚及び仏間附属、一重、入母屋造、こけら葺 |
書院 | 35.918148, 139.488624 江戸前期 桁行六間、梁間五間、床、床脇及び押入附属、一重、一部中二階付、寄棟造、こけら葺 | |
庫裏 | 35.917998, 139.488795 江戸前期 母屋 桁行十間、梁間四間、一重、一部中二階付、一端入母屋造、他端寄棟造、とち葺形銅板葺 食堂 桁行四間、梁間三間、一重、一端寄棟造、他端母屋に接続、とち葺形銅板葺 | |
慈眼堂 | 35.917236, 139.489547 江戸前期 桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、背面一間通庇付、本瓦葺 | |
鐘楼門 | 35.917330, 139.490160 江戸中期 桁行三間、梁間二間、袴腰付、入母屋造、本瓦葺 | |
山門 | 35.917812, 139.490093 江戸前期 四脚門、切妻造、本瓦葺 |
喜多院は川越の旧市街地の東側に位置する天台宗の古刹で、川越大師として知られています。天長7年(830)慈覚大師円仁により創建されたと伝わり、天文6年(1537)の兵火で炎上後、慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)が法灯を継ぎ、徳川家からの支援を得て堂宇を復興します。寛永15年(1638)の川越大火では山門を除き堂宇はすべて焼失しましたが、徳川家光が堀田加賀守正盛に命じて復興にかかり、江戸城紅葉山の別殿を移築して客殿、書院等に当てました。その他慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの現存の建物を数年の間に相次いで再建しました。明治の神仏分離令で東照宮、日枝神社は分離されています。
客殿(2003年撮影): ・上段の間は、この建物が江戸城にあった頃、3代将軍徳川家光公が生まれた部屋 |
書院(写真中央): ・一部が中二階: この建物が江戸城にあった頃、春日局が使用していた部屋がある |
庫裏: ・桁行10間、梁間4間の母屋(写真)と裄行東4間、西3間、梁間3間の食堂からなる |
玄関: ・玄関・玄関広間・渡廊及び接続室も附指定されている |
客殿、書院、庫裏の配置 |
慈眼堂: ・天海僧正入寂の二年後の正保2年(1645)に僧正の供養のために建立されたもので、7世紀の古墳の上に建つ |
・慈眼堂は方三間宝形造で、背面(写真左)に一間通庇が付く |
・慈眼堂正面軒廻り: ・二軒繁垂木、出三斗で中備は蟇股 ・柱上部は粽で、台輪を廻し、禅宗様の木鼻 |
鐘楼門: ・桁行3間、梁間2間、袴腰付、重層入母屋造り、本瓦葺で、縁には勾欄をめぐらす |
鐘楼門前面の竜の木彫 |
鐘楼門背面の鷹の木彫 |
山門の前面: ・切妻造本瓦葺の四脚門で、天海僧正が寛永9年(1632)に建立し、同15年の大火を免れた喜多院では現在最古の建造物 |
山門の内面 |
・山門の冠木上の笈形付の束と梁上の板蟇股で棟を支える |
アクセス JR川越線・東武線川越駅・西武線本川越駅から北東約1kmです。非常に本数が少ないですが週末のみ運行の循環バスのバス停が門前にあります。川越駅周辺のシェアサイクルも利用できます。喜多院近くにもポートがあるので返却もできます。駅周辺のポートにはそれなりの数の自転車が備えられていますが、不足気味で休日の昼前に行ったら、まともな自転車は残っていませんでした。 |
見学ガイド 書院、客殿、庫裏は有料で公開されています。内部を見ることができますが、庭に下りることができないので、書院・客殿の外観の視角は非常に限られます。2003年当時と比べると立ち入り可能な範囲が狭まっているように思います。その他の建物は常時自由に見学することができます。慈眼堂周辺は夜間立入禁止です。慈眼堂は東面しています。 |
感想メモ 広い境内に江戸期の建物が多く残されています。今は立入禁止ですが、いつか庭園から書院や庫裏を眺めてみたいものです。 (2003年11月訪問、2021年9月再訪) |
参考 喜多院公式サイト、川越市公式サイト |
家康の日光改葬道中に大法要が営まれた
とうしょうぐう
東照宮
とうしょうぐう
川越市小仙波町1丁目
東照宮 | 本殿 | 35.916444, 139.489346 江戸前期 三間社流造、銅瓦葺 |
瑞垣 | 35.916519, 139.489417 江戸前期 一周延長三十間、本瓦葺 | |
唐門 | 35.916454, 139.489429 江戸前期 一間一戸平唐門、銅板葺 | |
拝殿及び幣殿 | 35.916483, 139.489590 江戸前期 拝殿 桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、向拝一間、銅瓦葺 幣殿 桁行二間、梁間一間、一重、後面入母屋造、前面拝殿に接続、銅瓦葺 | |
随身門 | 35.916614, 139.490576 江戸中期 八脚門、切妻造、とち葺形銅板葺 | |
鳥居 | 35.916527, 139.489924 江戸前期 石造明神鳥居 柱に寛永十五年九月十七日の刻銘がある |
東照宮は喜多院の南に隣接しています。明治の神仏分離までは喜多院の一部でした。元和2年(1616)駿府城で徳川家康が亡くなると一旦久能山に葬られ、翌年に日光山に改葬されました。その改葬の道中の4日間、遺骸を喜多院に留めて天海僧正が導師となり大法要を営んだことから境内に東照宮が祀られ、寛永10年(1633)に正式な社殿が造営されました。その後、川越大火により社殿が類焼したため、徳川家光公の命により再建に着手し、寛永17年(1640)に完成したものが現在の社殿です。
・左が本殿、右が唐門、手前が瑞垣 |
本殿(特別公開時): ・銅瓦葺の屋根に置き千木、堅魚木を載せた三間社流造 ・軸部は黒漆塗、壁面・ 木階・垂木などは朱に塗られ、長押・頭貫・虹梁・組物・蟇股などの装飾部材は極彩色が施されるなど、日光東照宮に倣った装飾豊かな建築 |
本殿左側面(特別公開時) |
本殿右背後より(特別公開時) |
本殿向拝柱の組物と手挟 |
本殿向拝と身舎正面の装飾(特別公開時) |
本殿の妻飾 |
本殿主棟の装飾 |
本殿背面の装飾(特別公開時) |
唐門: ・主要部を黒と朱で塗り、頭貫・台輪・軒桁・組物・蟇股などに極彩色が施されている |
拝殿: ・単層入母屋造りで、正面に一間の向拝 ・軸部は赤漆塗で、組物などには極彩色が施されている |
拝殿側面(特別公開のため蔀戸が上げられている) |
拝殿の向拝 |
拝殿の妻の装飾 |
拝殿の蟇股 |
拝殿の小組格天井 |
幣殿: ・背面(写真左)が入母屋造りで、前面は拝殿(写真右)の屋根に接続 |
瑞垣: ・延長30間の瓦葺で、中央正面に平唐門を開ける ・壁面の腰上部分に竪格子がはめられた透き塀で、全体を朱、格子を緑で塗っている ・大面取の角柱から腕木を出して出桁を受ける出桁造 |
随身門: ・装飾の少ない簡素な朱塗の八脚門で、切妻造・とち葺形銅板葺 |
鳥居: ・石造明神鳥居で、寛永15年(1638)に東照宮の造営奉行の堀田正盛が奉納 ・柱に刻銘(下段写真)が見られる |
アクセス JR川越線・東武線川越駅・西武線本川越駅から北東約1kmです。喜多院の南隣に位置します。 |
見学ガイド 本殿、拝殿及び幣殿、唐門、瑞垣については周囲への立ち入りが制限されているので、瑞垣よりも外側の玉垣越しの見学になります。拝殿以外は正面からは見えないので、玉垣脇の狭い通路に回り込む必要があります。拝殿手前の扉は通常は閉鎖されていますが、休日等には開放されるようです。随身門と鳥居はいつでも自由に見ることができます。すべての重文建造物は東面しています。 |
感想メモ 東照宮には何度か行きましたが、うまく日の当たっているときにはなかなか当たりません。木立に囲われていて日が低いと日が射しません。昼間は銅瓦の反射が強いのと軒が深いのとで、うまく写真が撮れません。日が傾くと逆光になります。 (2020年7月訪問、2021年5月再訪) 社殿の特別公開の日に訪問しました。平日の早い時間に行きましたが、そこそこの人混みでした。瑞垣内に立ち入ることもできましたが撮影は禁止でした。瑞垣の連子の隙間からの撮影は御神体が写り込まない角度であれば大丈夫だということでした。連子の隙間が広いので助かりました。週末の混み合った状況だと、人ごみで瑞垣外からの撮影は難しかったと思います。 (2022年11月訪問) |
参考 喜多院公式サイト、現地解説板 |
東京赤坂・日枝神社の本社
ひえじんじゃほんでん
日枝神社本殿
ひえじんじゃほんでん
川越市小仙波町1丁目
日枝神社本殿 | 35.918217, 139.490625 室町後期 三間社流造、銅板葺 |
日枝神社は喜多院の北東に位置し、明治の神仏分離までは喜多院の一部でした。山王一実神道の関係から喜多院の草創時代から境内に祀られ、近江日枝神社を勧請したものといわれてます。なお、東京赤坂の日枝神社は、文明10年(1478)に太田道灌が江戸の地に城を築くに当たってここから江戸城内紅葉山に分祀したことにはじまるとされています。
・本殿は三間社流れ造り、銅版葺、朱漆塗りで、室町末期から江戸初期の様式をよく残す ・三間社としては規模が小さく、架構も簡素 |
アクセス JR川越線・東武線川越駅・西武線本川越駅から北東約1kmです。喜多院と交差点を挟んで北東斜め向かいです。 |
見学ガイド 日枝神社には常時自由に参拝することができます。本殿は瑞垣越しの見学になります。瑞垣の背が高いので連子の隙間からしか見えませんが、本殿からの距離が近いので、ここからでは建物の全体像を写真に収めるのは難しいと思います。本殿の全体像をとらえることができるのは本殿右側の盛土の上しかないと思いますが、ここは切り崩された古墳の墳丘の一部であるとのことなので、お勧めしていいのかどうかよくわかりません。植栽が多いので、社殿全体に日が射すことはほとんどないと思います。 |
感想メモ 踏み固めた跡があったので、古墳の上から本殿を眺めました。やっぱりちょっと落ち着かないです。 (2020年7月、2021年9月訪問) |
参考 喜多院公式サイト、川越市公式サイト |
迎賓館としても利用された
きゅうやまざきけべってい
旧山崎家別邸
きゅうやまざきけべってい
川越市松江町2丁目
旧山崎家別邸 | 35.921732, 139.484459 大正 木造、建築面積一九二・三八平方メートル、一部二階建、一部地下一階、瓦葺一部銅板葺 |
旧山崎家別邸は川越の市街地に位置します。天明3年(1783)創業の老舗菓子店「亀屋」の五代目嘉七氏の隠居所として建てられました。山崎家は、山崎家別邸の設計は辰野金吾門下の保岡勝也で、陸軍大演習などで川越近郊を訪れた皇族方が宿泊されることもありました。
・洋館部(写真奥)と和館部(写真手前)からなる和洋館並列住宅で、洋館部だけが2階建となっている |
・洋館庭園側にベランダが設けられ、その奥に客室、食堂が続く |
アクセス JR・東武川越駅から蔵の街方面行きバスで仲町下車、徒歩数分です。 |
見学ガイド 旧山崎家別邸は有料公開されており、内部も見学することができます。 |
感想メモ 展示物は興味深いものが多いのですが、主庭の一部しか立入りが認められていなくて、主庭に南面している別邸全体をを良い角度見ることができず残念でした。 (2020年7月訪問) |
参考 川越市公式サイト |
鎌倉後期の供養塔
こうふくじほうきょういんとう
光福寺宝篋印塔
こうふくじほうきょういんとう
東松山市岡
光福寺宝篋印塔 | 36.089062, 139.405654 鎌倉後期 石造宝篋印塔 |
光福寺は東松山の郊外に位置します。宝篋印塔は、高さ2.1メートルで、基礎背面の銘文から元亨3(1323)年に藤原光貞と比丘尼妙明の供養のために建てられたものであることが知られています。
・笠や塔身に関東型の特徴を持つ一方で、基壇がないことや基礎の形状は関西型の特徴を持つ |
・笠の上部に関東型の特徴が表れている |
・塔身正面に「宝篋印塔」の文字が刻まれている ・塔身の縁取りは関東型の特徴 |
アクセス JR熊谷駅と東武東上線東松山駅を結ぶバスで、東松山病院前下車徒歩5分。墓地の一角にあります。 |
見学ガイド コンクリート製の覆屋がかけられ、正面のアルミ戸にはガラスがはめられていますが、覆屋の四隅にガラスのはめられていない隙間があり、コンデジならこの部分から撮影が可能です。いつでも自由に見学することができます。 |
感想メモ 無機質な覆屋で、多分見学も難しいかと思いましたが、四隅の隙間から宝篋印塔をよく見ることができたのでありがたかったです。細部まできれいに残っています。 (2020年7月訪問) |
参考 東松山市公式サイト |
禅宗様の阿弥陀堂
こうとくじおおみどう
広徳寺大御堂
こうとくじおおみどう
比企郡川島町表
広徳寺大御堂 | 35.980203, 139.504357 室町後期 桁行三間、梁間三間、一重、寄棟造、茅葺 |
広徳寺は荒川の右岸、川島町の田園地帯に位置します。大御堂とは、浄土信仰の盛んな平安末期から鎌倉期にかけての阿弥陀堂のことで、広徳寺の大御堂は13世紀はじめ、北条政子が創建したものと伝わり、現在の建物は、室町時代後期に再建されたものと考えられています。
・方三間の寄棟造、茅葺で関東地方では数少ない禅宗様の建築 ・柱上の粽、台輪付きの木鼻、詰組などに禅宗様の特徴がみられる ・正面・側面とも中央間の幅が広く、この間の中備は2個の三斗 |
アクセス JR高崎線桶川駅とJR川越線・東武線川越駅・西武線本川越駅を結ぶバスで牛ケ谷戸下車、南500mです。川越駅からは8km程度の平坦な道のりなのでシェアサイクルも利用できます。 |
見学ガイド 大御堂は常時自由に見学することができます。大御堂の周囲には低い鉄柵が設けられていますが、扉が開放されていたので間近に見ることができました。 |
感想メモ 禅宗様ですが屋根にはむくりがあって、柔らかな表情の建物です 川越駅周辺のシェアサイクルポートにはそれなりの数の自転車が備えられていますが、休日の昼前に行ったら、まともな自転車は残っていませんでした。ギア切り替えが安定しない自転車で往復16kmはちょっと大変でした。 (2021年9月訪問) |
参考 川島町公式サイト |