[マイウェイ]はチャン・ドンゴンがカン・チェギュ監督と7年ぶりに会った大作であり、

同時に彼が自らに'私の道は何か'と質問を整えることになった機会だ。

正しくて洗練されたマナーに、世紀の結婚でより一層完ぺきさを確かめたスター。

しかし3度の戦闘を体験しながらも動揺することがなかった[マイウェイ]の、

キム・ジュンシクのように、'俳優'で記憶されたいチャン・ドンゴンの目標も、

相変わらずだ。

もちろん歳月が流れて年輪が積もりながら悟りは深くなった。

彼は何より自由になりたいといった。

自然人として、俳優として。

今まで歩幅が大きくても小さくても後退しはしなかったというチャン・ドンゴン。

[マイウェイ]に続き次期作[危険な関係]の撮影中である彼の歩幅は、

2012年にはより一層大きくなりはしないかと思う。


'欠乏感は俳優の自然な本能'


もう軍服ならばうんざりしはしないかと思います。


その上今回は三種類を着ましたよ(笑)。

日本軍、ソ連軍、ドイツ軍まで。

軍服別に戦闘が一回ずつありましたし。

映画を見ると軍服の種類によってチャプターが変わる感じが、おもしろかったです。


観客は'カン・チェギュとチャン・ドンゴンの映画'といった時、

どんな感じなのかぼんやりだけでも感知したでしょう。

チャン・ドンゴン氏はカン・チェギュ監督から提案を受けた時、

どんな映画になることと期待されましたか。


初めてかなり厚いシノプシスを受けた時、カン監督が企画だけして、

演出は他の方がすることにした状態でした。

ひとまず内容はとても引かれました。

映画よりさらに映画のような実話を土台にした点も気に入りましたし。

だが、戦争映画の疲れてだるさをすでに経験してみたので、

意欲がわかなかったんですよ。

それでカン監督に"監督様が演出すればします"といいましたよ(笑)。

そうするうちに監督が本当に演出されることになったのです。

[太極旗を翻して]の時もそうで、その後7年という時間の間監督を、

ずっと見守りながら個人的に信頼が大きかったか見ます。

シナリオで見える短所や私一人で考えた憂慮が、

カン・チェギュ監督が演出するという事実の前では無意味になりましたよ。

そのように出演を決めた後には[太極旗を翻して]の時と、

どんな差別性を持って行くのか、キャラクターをどれくらい弁別力あることで、

作るのかに対して多くの話を交わしましたよ。


現場のチャン・ドンゴンとカン・チェギュ監督(左)。
今年釜山(プサン)国際映画祭開幕式レッド カーペットのチャン・ドンゴン(左)とカン・チェギュ監督(右)。



戦闘シーンがとても圧倒的です。

だが、いくら技術が発展しても俳優が現場でごろごろして、

耐えなければならない苦労は相変わらずでしょう。

今回の映画では肉体的苦労がある程度でしたか。


大変だという話を非常に多くして・・・(笑)、事実当然なのです。

おっしゃった通りシステムがいくら良くなっても俳優が、

やむを得ずしなければならないことがあるからです。

例えば真冬に水の中に入らなければならないとか。

それでも[太極旗を翻して]に比べて破片の材質など爆破シーンで、

生じることがある危険がとても非常に減りました。

当然演技する時も心理的に安らかになり信頼感が積もって見たら、

かえって爆弾がさく烈する所でさらに自信ありげに飛び込むことができました。

技術的な発展がさらに良い演技ができるように後押ししたわけです。


戦争映画経験があってそれなりの要領もできたことと思います。

[太極旗を翻して]に出演したおかげをちょっと見たのですか。


それは序盤に入って少しの間でした。

銃も撃ってみた事が無かった俳優が多いから皆私に自問をたくさんして来ました。

"爆破シーンはどのように撮っているのか"、"本当にさく烈しているのか"

のような質問を受ける時少し大声を上げながら話した程度?

それでも一度殴られてみた人が久しぶりに合うと痛くないではないでしょう(笑)。

そうした点では戦争映画経験があるかないか全く同じでした。

それも[太極旗を翻して]時より爆破の規模がはるかに大きくなって、

大声を上げるのですが面目を失いましたよ。


[太極旗を翻して](左)と[マイウェイ](右)のチャン・ドンゴン。


キム・ジュンシクは一貫性ある信念を見せるキャラクターです。

この映画で唯一変わらない人物だよ。

事実俳優の立場では葛藤を経てドラマチックに変わる役割が'演技する味'は、

もっとありはしないかと思います。

そうした点で物足りなさはなかったんですか。


物足りなさではなくて選択の問題でした。

初めてシナリオを開発してキャラクターを作る過程では、

キム・イングォンが演じる人物がいなかったのです。

本来ジュンシクは今のジュンシクと彼が合わされた人物でした。

そうするうちに今の彼を通じて、人間という処した状況によって変わることが、

できるということを見せたでしょう。

それが本来はジュンシクにもあった姿なのに、映画の題名も'マイウェイ'で(笑)、

最終的には変わらないことの価値を見せることができるキャラクターに、

決定されたのです。

もちろん個人的には状況によって変化の激しい感情を見せることができる役割に、

欲が出るが、それは[太極旗を翻して]時残すことなくしてみたのではないですか。

私は"この映画でジュンシクがしなければならない役割はこれ"と決めて入りました。



映画の題名のように、ジュンシクは、

"私はどこへ行っているのか、何のために戦うのか"

に対してずっと考えたでしょう。

ジュンシクのこういう悩みは、映画を撮る過程でチャン・ドンゴン氏も、

抱いて行かなければならない質問だったようです。


今回の映画だけでなく、個人的な難関でも映画的な難関でも、

何かにあたる時ごとに常にそのような気がします。

[マイウェイ]をとりながらも観客らにある点をアピールしなければならないが、

俳優としてどんな姿を見せるのかに対して悩みました。

事実大作は生まれつき、多くの観客らに見せるために作った映画じゃないの。

だからどうしても感情線が普遍的な方向で流れるほかはなくて、

そのような映画を長くとってみるならば俳優としては欠乏感を感じます。

意図したことではないが、去る作品らを顧みれば大作を一つとった後には、

感情が導く映画らを選択しましたよ。

それが俳優の自然な本能であるようです。


言論試写会以後懇談会。


[マイウェイ]は結果が重要な映画でしょう。

映画を撮る過程で結果に対する負担をどの程度感じたのですか。


[太極旗を翻して]の三倍程度?(笑)

興行にこだわりたくないが、[マイウェイ]のような映画であるほど、

成功と失敗の基準が明らかでしょう。

目標が興行側に傾いて見たらちょっと負担が大きいですね。


映画で個人的に愛着がある場面があるの?


全て苦労した場面らに主に愛着がたくさん行ってくださいよ!

特に苦労した跡がよく見える場面?(笑)

良い場面が多かったが、ノルマンディ浜辺でサッカーする場面が記憶に残ります。

その時は特別な計画なくカメラを回したが、

映画を見ると演技でない場面がたくさん出ました。

ジュンシクとタツオでなく、チャン・ドンゴンとオダギリジョーの表情が含まれていて、

おもしろかったんですよ。

'映画の本質に忠実になる時'

以前映画でも何度も外国語演技をしたが、

今回の映画では日本語と韓国語の演技を共にしなければなりませんでした。

単に言語の問題を離れて、外国語の演技にどんな困難を感じたんですか。


ひとまず苦しいです。

言語と文化を全部理解できない状況で、

単に暗記と感じだけ持ってするということですから。

いくら緻密に計算しても、実際に感情を分けて演技をしてみるならば、

私が考えたことと違った感じが浮び上がる時があります。

ところで定めた設計図だけでは演技しなければならないから、

そんなことを表現する方法がないです。

それでも必要な感情はみな伝達できると見ます。

私が今中国でとる映画では中国語の演技をしています(ホ・ジノ監督、章子怡、

張柏芝主演のメロー[危険な関係])。

[マイウェイ]はジュンシクがやむを得ず外国語を話さなければならない状況でしょう。

反面[危険な関係]は監督と俳優だけ韓国の人で、中国語でする中国映画ですね。

一度はこれを韓国語で演技すればどうだろうか考えてみました。

それで実際にしてみたが、演技が良くなりません。

中国語でした時さらにディテールな感じが生きて演技することも気楽だったんですよ。

こういう経験をしながら、言語と演技が本当に離すことができないことだなと、

実感しましたよ。


ハリウッド進出作だった[ウォリオスウェイ](左)。
ホ・ジノ監督が中国で演出する[危険な関係]の製作発表会(左)。
ショデルルロ トゥ ラクロの小説を脚色した。
チャン・ドンゴンと張柏芝と章子怡が出演する。


現場でオダギリジョーと息がよく合うほうだったんですか。


私が外国俳優らと呼吸を合わせてみながら感じたものだが、

不思議にも韓国俳優らと違いません。

外国俳優だから違うものでなく、その人だから差異点ができることでしょう。

何より同じ職業を持った人々の間で言葉が通じないでも、

互いに通じる部分があります。

オダギリジョーとはそうした点でよく合ったようです。

彼がしたがる演技、また私がしたがる演技がリハーサルをする過程で、

自然に調整されました。


韓国観客らにはオダギリジョーが大きい規模の商業映画に、

出演したこと自体がなじみがうすいです。

それだけ'なのに咲く'が充満した俳優でしたから。

何より難解なファッションぐらい性格も独特だと思うが(笑)、

実際に会ってみるとどうだったですか?


独特です(笑)。

ところで先入観で少し抜け出してみれば表現方法が独特なことであって、

一般的な感受性はすべて持っています。

表から見るには何か形式にしばられないと思うが、

その一方で基本的な礼儀とマナーは持っている人です。


外国俳優らと作業した経験を振り返ってみたところ、

彼らと交感するためには言語を跳び越えてどんな態度が必要なのですか?


俳優ら間で個人と個人で存在して現場でキャラクターとキャラクターで会います。

そのような場面が一つ二つ積もりながら言葉が通じないでも、

かまわない事がありましたよ。

もちろん基本的な礼儀と配慮がなければならないと考えます。

そういうのを土台に疎通しなければなりませんから。


[太極旗を翻して](2004)という前作があるから、