ここは紀州和歌山の漁港の湯浅
広湾。町役場の前に堤防・漁港
があり、「稲むらの火」の濱口
梧陵のことを想う。
広町役場前(海抜2m)の湯浅広湾
稲むらの火の館(小泉純一郎)
街は三重の堤防の防波堤からなり、
そのひとつ広村堤防の近くに、小泉
純一郎書による「稲むらの火の館」
入口に石碑がある。
内閣総理大臣小泉純一郎書「稲むらの火の館」(石碑)
小泉純一郎とインド洋大津波
平成16(2004)年インド洋大津波
があった。その際の死者がインドネ
シア13万人、インド1万2千人、ス
リランカ3万5千人を越え、東南ア
ジア諸国連合緊急首脳会議が開催さ
れる。
このときシンガポールの首相が当時
内閣総理大臣の小泉純一郎に質問し
た。
「日本では教科書に『稲むらの火』
の話があり、子どもの頃から津波対
策を教えているというが、事実かど
うか」と問われた。
そこで小泉総理はすぐ文部科学省に
照会したが誰も知らなかったという。
広町役場前の「稲むらの火」の濱口梧陵
「稲むらの火」と濱口梧陵
「稲むらの火」は、小泉八雲の「生
きる神(A Living God)」(明治2
9・1896)で濱口梧陵の功績が初め
て世に出て、これを昭和9(1924)
年に中井常蔵が翻訳、再構成した。
これが後に昭和12年から昭和22(
1947)年まで小学校国語読本に「
稲むらの火」と題して掲載される。
広町役場前・稲むらの広場の説明板
濱口梧陵「稲むらの火」
「稲むらの火」は、安政元(1854)
年の安政南海地震津波のときに濱口
儀兵衛(濱口梧陵)が行動したこと
をもとして物語を描いているが、実
際と違うところは年老いた村長の五
兵衛でなく、町中に暮らす30代の指
導的な役割を果たす商人であった。
稲むらの火(逃げる道しるべの明かり)
物語と違いが他にもある。
津波のとき、儀兵衛が燃やしたのは、
稲穂のついた稲の束でなく、藁(わ
ら)の山(稲むら)であった。
また儀兵衛が火をつけたのは、津波
がくるのを知らせたのではなく、津
波がきて、暗闇のなかで村人に逃げ
る道がわかるようにした。
こうして儀兵衛の指示したこの明か
りを頼りに村人は高台の広八幡神社
の方へ逃げた。
広村大津波1854.11.5(「安政聞録」)
広村の中心部は安政元(1854)年
11月5日に発生した津波のあとで、
濱口梧陵らが高さ5m、延長600m
の堤防を3年10ヶ月かけ、私財を投
じ、延べ約5万7千人が働き、津波
で失職した人たちに仕事を与え、安
政5(1858)年に広村堤防を完成さ
せた。
湯浅広港の海岸沿いの街(広川町)
築いた広村堤防によって、その後も
津波はあったが、浸水はあれど家屋
の倒壊被害を受けなかったという。
小泉総理が、外国の首相に日本に「
稲むらの火」を尋ねられ文部科学省
に照会、その当時「稲むらの火」に
ついて誰も知らなかったが、現在、
国連で安政の南海地震があった11
月5日を、「世界津波の日」として
採択されるようになる。
稲むらの火の館(和歌山県有田郡広川町広671)
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