天橋立は日本三景のひとつで、

丹後天橋立大江山国定公園に

指定されている。

天橋立の智恩寺にゆき、ふと、

和泉式部の母娘を想う。

 

智恩寺

天橋立に智恩寺がある。

智恩寺の山号は天橋山で臨済宗

妙心寺派。

 

 

 

智恩寺の黄金閣・山門(京都府宮津市文殊466)

 

智恩寺の本尊は文殊菩薩。

智恩寺は安倍文殊院(奈良県桜井市)

、亀岡文殊(山形県高畠町)と並び

日本三文殊のひとつである。

 

 

文殊堂(本尊:文殊菩薩)

 

伝説によると、イザナギ、イザナ

ミの二神が国土創世のとき、此の

地で暴れていた悪龍を鎮めるため

に中国(五台山)より文殊菩薩を

招き、悪龍を善竜にした伝えられ

ている。

 

 

智恩寺の六地蔵

 

智恩寺の多宝塔

寺伝によると、大同3(808)年

平城天皇の勅願寺として創建され、

当初は密教(真言宗)の寺院で、

禅宗の寺院になるのは、南北朝時

代以降である。

 

 

智恩寺の多宝塔(丹後国守護代・延永春信により1501年落成)

 

天橋立と和歌

天橋立は景観すばらしく、古くよ

り名勝として知られ、また歌に詠

まれている。

 

小式部内侍と藤原定頼

小式部内侍(999-1025)は女流

歌人として知られた和泉式部の娘。

和泉式部との最初の夫・橘道貞と

のあいだにできた子で、小式部内

侍はのち一条天皇の妃・中宮彰子

(道長・倫子との子)に仕える。

 

 

一条天皇の妃・中宮彰子に仕えた小式部内侍

小式部内侍(歌人)

当時、小式部内侍は歌合せに詠

進することになったが、藤原定

頼は彼女に「代作を頼む使者は

だしましたか」とからかった。

このときこれに応えて、即興で

歌を詠む。

大江山いくのの道の遠ければ

まだふみもみずあまの橋立

 

大江山、そして生野を越えてゆ

く道は、とても遠いので、私は

まだ天橋立さえも見ておりませ

ん。という当意即妙の受け応え

に歌人・藤原定頼は、返歌も出

来ずに立ち去り恥をかく。その

後小式部内侍は歌人としての名

声を高める。

 

小式部内侍と和泉式部

小式部内侍は、万寿2(1025)

年に藤原公成との子あいだにで

きた子ども(頼忍阿闍梨)を出

産し、周囲を驚かせた。

その出産後小式部は亡くなった。

このときに和泉式部は歌に詠む。

(『後拾和歌集』哀傷)

とどめおきて誰をあはれと

おもふらむ子はまさるらむ

子はまさりけり

 

亡くなった娘は、この世に自分

の子どもと母親の私を残して、

誰をあはれと思っているのだろ

う。我が子を想う気持ちがまさ

っているだろう。

私もあの子との死別が何よりも

つらかったのだから。

 

和泉式部と天橋立

天橋立が海水に囲まれているのに

名水として知られ、その昔、和泉

式部も歌に詠む。

橋立の松の下なる磯清水

都なりせば君も汲ままし

 

和泉式部と智恩寺(供養塔)

智恩寺境内に石造宝篋印塔がある。

丹後守公基が日置金剛心院より和

泉式部の書き捨てた和歌を持ち帰

り、涙が磯に埋めたあと、その後

砂に埋まった鶏塚(歌塚)が智恩

寺に移される。

和泉式部の反古の一首。

いつしかと待ちける人に一声も

聞せる鶏のうき別れかな

 

 

 

石造宝篋印塔(和泉式部の丹後の歌塚)

 

 

石造宝篋印塔説明板

 

和泉式部

病に伏し重体の和泉式部が詠む歌

あざらむ此よの外の思出に

今ひとたびのあふ事もがな

 

死を前にして、あの世への思い出

に、(逢瀬をかさねてきた)あな

たに今ひとめ逢い(あなたに抱か

れ、夢の世界でまどろみ)たいと、

恋人に送った歌。

恋多き生涯をおくった和泉式部。

 

 

ツツジにかわりサツキが咲く天橋立

 

 

 

智恩寺(京都府宮津市文殊466)

 

 

 

 

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