藤原業平は天皇の子であり、容姿

端麗で、風流の心をもつ歌人とし

て後世に語り継がれてきた。

 

伊勢物語と在原業平

『伊勢物語』は、「昔、男…」で

はじまる元服から死に至るまで12

5段にわたり綴られている男の恋の

歌物語である。

この物語の主人公の男が在原業平

といわれている。

 

在原業平と和歌

歌人として在原業平は、『古今和歌

集』(内30首)、勅撰和歌集(内8

7集)が入首し、紀貫之は百人一首

の歌を「その心余りて言葉足らず。

しぼめる花の色なくてにほひ」と

評する。

 

在原業平「百人一首」

ところで藤原定家は撰者として、在原

業平のこの歌を秀歌として選ぶ。

 

 

「百人一首」の在原業平朝臣の歌(17番)

 

ちはやぶる神代も聞かず

龍田川から

紅に水くくるとは

 

在原業平(百人一首)と屏風絵

百人一首の在原業平の歌は、屏風

歌(びょうぶうた)であり、屏風

に描かれた絵を主題として詠む和

歌が屏風歌である。

この歌は、二条の后と呼ばれた清

和天皇の皇后高子の絵を題にして

詠んだもので、この高子が業平の

若き日の相手の女性、藤原高子(

父・藤原冬嗣の長男の藤原長良)

である。

 

在原業平と藤原高子

「伊勢物語」(第6段)によると、

ふたりは、高子がまだ宮中に上が

る前に逢瀬を重ねていたが、身分

の違いで恋が実はずもないことを

悟り、あるとき駆け落ちをし、業

平は高子を背負って逃げたが、高

子の兄に露呈し連れ戻される。

 

在原業平「百人一首」

藤原定家に在原業平の歌を秀歌

として選ばれた百人一首。

 

 

狩野探幽画(画帖)在原業平朝臣

 

在原業平朝臣の歌(17番)

ちはやぶる神代も聞かず

龍田川から

紅に水くくるとは

 

「ちはやぶる」は神の枕言葉。

「神代も聞かず」は神代にも聞いた

ことがない。ましても人の世にある

はずがない。

「龍田川」は奈良の生駒を流れる川

で紅葉の名所で、歌枕。

「水くくる」は、くくり染め、しぼ

り染のことをいい、龍田川が紅葉の

くくり染めをしているという擬人法

を使って、心の内を表現している。

 

 

尾形光琳の「光琳かるた(とり札)在原業平」

 

在原業平と伊勢物語

在原業平の父は平城天皇の第一皇子・

阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊

都内親王。

薬師の変で、皇統が嵯峨天皇の子孫

へ移り、天長3(826)年父の阿保

親王の臣籍降下により、異母兄・行

平らと共に在原朝臣姓を名乗る。

「伊勢物語」は、「在五中将の日記

」とも呼ばれ、業平の日記をもとに

書かれ、その内容は二条の后との悲

恋や、伊勢斎宮との禁忌などの恋愛

話が多いけど、東国へ流離する「東

下り」など織り交ぜた一代記となっ

ている。

「百人一首」の在原業平朝臣の歌(

17番)

ちはやぶる神代も聞かず

龍田川から

紅に水くくるとは

 

阿保神社と在原業平

河内松原駅で下車。

阿保神社は、開運松原六社のひと

つの神社で、祭神は菅原道真(本

殿)。

海泉池の北隣に阿保神社がある。

阿保神社の阿保は(あお)と読み

地名で、神社の建つ地は、平安時

代に阿保親王(平城天皇の第一皇

子)と在原業平が住んでいたとい

う。親王親王が灌漑用のために掘

ったという稚児ヶ池(親王池:現

在潰廃)の遺跡がある。

本殿の阿保神社扁額は阿保親王の

子孫と伝えられる源姓を名乗った

西阿保村の保田氏が江戸時代に書

いたもので、天井には江戸時代に

描いた四十八の花の絵が残されて

いる。

 

 

阿保(あお)神社(大阪府松原市阿保5-4-19)

 

 

 

「百人一首」の撰者

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