ゴッホは200枚を越える浮世絵を持ち、
日本を理想郷としていた。
<ゴッホと日本>
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853ー1890)。
ゴッホは、オランダの牧師の家に生まれる。
同年日本は嘉永6(1853)年6月アメリカの黒
船が浦賀に来航し、開国をせまられる。これ
まで日本は、オランダとのみ貿易をし、ゴッホ
3歳のとき安政2(1856)年第1回万国博覧会が
パリであり、日本も出品していた。その後明治
新政府の文明開化、廃仏毀釈により、日本の
古い伝統的な美術品の多くが海外に流出する。
ゴッホは画商をしていた弟(通称テオ)を頼り、
伝道活動する中で画作を続けていた。この頃、
説教師の娘に恋し、アムステルダムまで追い
かけた家の前で、炎に手をかざしているあいだ
だけでもいいから、会わせてくれと懇願するが
拒否されている。その後牧師の娘マルホと恋愛
関係になるが、家族の反対を苦にしたマルホが
自殺未遂することになる。
<浮世絵とゴッホ(「パリ時代」)>
1886年2月にパリに移り住むんだゴッホ。
美術商の弟との関係で、日本の美術作品、浮世絵と
出逢う。
<「ダンギ―爺さん」(1887年)>
日本に強く憧れたゴッホ。
ゴッホの「ダンギ―爺さん」(1887年作)
彼の「ダンギ―爺さん」の絵の背景には、浮世絵への
興味が隠しきれずにいる。
中央には歌川広重の「富士三十六景さがみ川」」。
左上には三代歌川豊国の「三浦屋の高尾」
右上には歌川広重の「五十三次名所図会・石薬師」
歌川広重の「富士三十六景さがみ川」・「五十三次名所図会・石薬師」
「ダンギ―爺さん」の絵右下には渓斎英泉(けいさいえいせん)
の「雲龍打掛の花魁」がある。
1886年5月「パリ・イリュストレ」誌(1886.5月号)
ゴッホが描いた「花魁(渓斎英泉による)」(1887年)
「花魁(おいらん・渓斎英泉による)」(1887年作)
ゴッホの浮世絵。ゴッホは、オリジナルの浮世絵を
忠実に模写するのでなく、さまざまな浮世絵からの
モチーフを自由に組み合わせ、原色に近い鮮やか
な色彩をふんだんに使い、独自の絵に仕上げている。
<ゴッホと「アルル」>
1888年2月、南フランスのアルルに移ったゴッホは、
多くの作品を残す。アルルは日本のようだと書簡で
語る。花が咲く春。「黄色とすみれの花が一面に咲
いた野原に取り囲まれた小さな町、まるで日本の夢
のようだ」といい、アルルでいるのは、日本にいるよ
うなものと、ゴッホは、日本に強く憧れていた。
「アイリスの咲くアルル風景」(1888年)
1888年ゴッホはアルルでゴーギャンと共同生活するこ
と申し出る。ゴーギャンは当時経済的にも精神的にも
疲弊し、ゴッホの弟が経済的援助をあたえてくれると
いう。この誘いにのり、たがいに自画像を描き、交換
している。ゴーギャンは、自分を「レ・ミゼラブル」の主
人公ジャンバルジャンに見立てて描き、ゴッホは理想
郷とした日本の僧侶を描いている
ゴッホの自画像「坊主」(1888年)
沸騰するふたつの個性。ゴーギャンとゴッホの生活は、
結局2ヶ月(1888.10ー)しかもたなかった。
突然発作を起こしたゴッホはカミソリでゴーギャンを襲
った。ゴーギャンは無事で、ゴッホは自分の後耳を切り、
その耳を馴染の娼婦に届ける。世にいうゴッホの「耳切
り事件」で、ゴッホとゴーギャンの共同生活は終篤。(188.12月)
ゴーギャンはパリへ去り、ゴッホはサン・レミ精神病院
で療養する(1889.5ー1890.5)。2ヶ月後向日葵の画家は
弾丸を腹に撃ち込み、1890年7月29日ゴッホは亡くなる。37歳。
2021.8.23
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