流浪の旅の血がうづく。

前衛画家として知られていたゴーギャン。

アルル(フランス)のオランダの絵描きが、

彼に夢中になり共同生活を申し出て来た。

 

<ゴーギャンとゴッホ>

(ゴーギャン)

ポール・ゴーギャン(1848ー1903)は、フランスの神

学校を卒業すると、船乗りとなり世界各地にゆく。

23歳の時に陸に上り、株式仲買人となり、デンマ

ークのメットと結婚し、子どもたちにも恵まれる。

ところが、1883年の不況で仕事がうまくゆかなく

なり、ゴーギャン(35歳)は画作で身をたてるとい

い、妻子らはやがてコペンハーゲンに去ってゆく。

(ゴッホ)

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853ー1890)はオランダの

牧師の家に生まれ聖職者の受験に失敗し挫折する。

のち伝道活動するなかで画家を目指し、1878年以降

弟(通称テオ)の援助を受け画作を続けていた。1886

年2月弟テオを頼ってパリに移り、印象派や新印象派

の影響を受け、明るい色調の絵を描く(「タンギー爺さ

ん」)。パリ滞在中日本の浮世絵にも関心をもち、収集

や模写し、日本を理想郷とする。1888年2月、南フラン

スのアルルに移ったゴッホは、「ひまわり」や「夜のカフ

ェテラス」の作品を生む。

(二人の共同生活)

ゴーギャンはゴッホに共同生活を申し出られる。

きけば、弟が画商で、経済的な援助をあたえてくれると

いう。この誘いに乗り、1888年10月南仏アルルに赴く

が、共同生活の前にふたりはたがいに自画像を描き、

これを交換している。ゴーギャンは、精神的にも物質的

にも困窮しており、自分を「レ・ミゼラブル」の主人公ジ

ャンバルジャンに見立てて描く。

 

 

ゴーギャン自画像「レ・ミゼラブル」(1888年)

 

ゴッホは、理想郷とした日本の僧侶を描いている。

 

 

ゴッホの自画像「坊主」(1888年)

 

沸騰するふたつの個性。ゴーギャンとゴッホの生活は、

結局2ヶ月しかもたなかった。

 

 

<宗教画「オリーブ山」>

ゴッホは教会、牧師、神学者に嫌悪感を抱き、画家

の世界に入り没頭するが、説教師の娘ケーに恋し、

アムステルダムまで追いかけ、家の者に、炎に手を

かざしている間だけでいいから会わせてくれと懇願

するが拒まれる。その後牧師の娘マルホと恋愛関

係になるが、家族の反対を苦にしたマルホが自殺

未遂することになる。ゴッホは、2人の画家仲間ベ

ルナール、ゴーギャンに「自分のような苦しみの多

い人間は、自分より偉大なものなしにはやっていけ

ない。」という。

(ゴーギャンの「オリーブ山のキリスト」)

ゴーギャンの「オリーブ山のキリスト」のキリストは

まるでゴーギャンの自画像。

 

 

ゴーギャンの「オリーブ山のキリスト」(1899年)

 

(ゴッホの「オリーブ山」)

一方のゴッホは模写でによってキリストを描いていたが、

南仏の太陽を神的なものとして、自然を描く、ゴッホ独特

の宗教画に仕上げている。

 

 

ゴッホの「オリーブ山」(1889年)

 

<「旅の夢」(ゴッホとゴーギャン)>

ゴッホはその後耳を切り、ゴーギャンはパリに去った。

1年半後、向日葵の画家は弾丸を腹に撃ち込んだ。

1890年7月29日ゴッホ没37歳。

ゴッホが自殺した翌年1891年ゴーギャンはタヒチに発ち、

「マタモエ」(1892年)など独創的な絵を描き、1893年にフ

ランスへ戻り梅毒におかされ、2年後再度タヒチにゆき、

1897年愛娘アリーヌの訃報が届く。晩年、ゴーギャンは

タヒチよりさらに遠くのヒヴァ・オア島に移り、1903年に死

ぬ。ゴーギャンの絵の楽園は夢のような情景だが、彼の

晩年の実生活はむしろ地獄に近かったという。

 

 

             ゴーギャン「マタモエ」(1892年) ゴーギャン「叫び声」(1902年)

 

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