広島は意外に新しい街だった? 広島城の歴史 | トラベルライター・歴史研究家・英語/ドイツ語トレーナー 山内一輝のブログ

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トラベルライターとして、歴史・旅行に関する執筆・講演活動をしている山内一輝(山内かずてる)のブログ。個人事業主向けにプロフィール・個人活動冊子の文章作成も手掛けています。英語・ドイツ語を教えていた経験あり。国内外問わず、城や古い街並みを巡るのが好き。

 

 
広島城
 
別名・鯉城とも呼ばれ、野球の「カープ」の名前の由来にもなってます。

 

 ただ…地図だけ見ていると、広島に城が建った理由がかなり謎だったんです。

 

 

と言うのが、今の広島の街は、太田川の三角州に中心があります。

当然、城もその三角州の中にあります。

 

湿地の多い三角州にわざわざ城を建てるなんて、相当手間がかかるのと、守りの面でも弱いのでは?と。

 

 戦国時代以前の街道は、今の広島のある、太田川の三角州を避けて、北に蛇行していました。

ということは、太田川下流のデルタ地帯には大きな街がなかったとも言えるのです。

 

 

ただ…この地に城を建てた、毛利輝元は瀬戸内海の水運からくる、経済面を重視してこの土地に城を建てたとのことです。

 

これは、戦国時代でも後半になると、山城から平地に城を建て替えることは、よくある現象でした。

 

ただそれだけでなく、防衛面に関しても、広島城は、中州丸ごとを1つの城のようにして設計していました。

 

今の街並みからすると分かりにくいですが、中州の中にも、堀を張り巡らしていました。

 

例えば…

 

広島市電の「八丁堀」駅のある交差点

 

地名に堀とある通り、ここは元々堀があった場所です。

 

この東西が広島市電も通る幹線道路が走り、北には支線が延びています。

ここから北と西へは堀が延びていました。

 

その堀の跡をずっと西に行くと…

 

 
原爆ドームの前、昔の広島市民球場のあった所まで堀が延びてました。
ここのすぐ西は川になっています。
 
今となっては水路の跡は見えません。
それでも古地図を当たっていくとその場所が何となくわかるのです。
 

毛利輝元による築城が基礎となり、広島の街が広がっていきます。

 

関ヶ原の戦いで、西軍に付いた毛利家は萩に転封となり、広島も手放します。

その後は、福島正則が入り、その後は浅野家が代々統治することになります。

 

その間、広島は瀬戸内海の水運で経済面では潤い、低地を干拓して街をどんどんと発展させていったのです。

 

 

 明治時代になると、広島城は陸軍の管理下に置かれ、師団が置かれます。

 

日清戦争の際には大本営も置かれ、

写真のようにその跡があります。

 

それだけ、中国地方で軍事的にも経済的にも重要な街だったわけです。

 

ただ…その建物も第2次大戦で原爆を落とされ、完全に壊されてしまいます。

 

 

戦後の復興で並々ならぬ努力はあったとは思いますが…戦後に広島城の跡は整備され、現在のような模擬天守が建てられています。

 

広島の街の成り立ちについて、場内の資料はかなり充実しています。

是非とも中も見てください。

 

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