「心について」
算命学を勉強するときの、いちばん大事な最初の設定なのに、いままで間違えて、、、というか、あやふやなまま始めてしまって早や何年?みたいな感じでここまで来てしまいました。
ここに来てピッチャーが投球フォームを改善すべく、いままでの考え方を一旦はずして、土台から考え方フォームをつくり直す作業をしているところなので、簡単に思えるものでも、根気強くしっかり繰り返します。←ジブンガオボエラレナイダケーモットモラシイコトイッテルダケジャン
「・・・」
引きつづき『スピ算人生論ー我思わなくても心有り』を勉強します。(9回目)
まずは復習です
私たちが「自分」「私」「ぼく」って認識しているのは、実は「人間」ではなくて、実体のない「人間の心」です。ココガマチガッテタノデス「ワタシ=ニンゲン」ッテオモッテタヨ
人間は霊魂(無形)と肉体(有形)の陰陽で出来ていて、その二つの間に、調整役として二次的、副産物的に出現してきたのが「心」です。
「心」というのは、霊魂と肉体の執事と言われていますが、第三者から見ると、その立場は非常にビミョーな状態です。
なんてったって実体がない。。。
〈画像はスピ算人生論よりお借りしています〉
文字には出来るけど、実体がない?!
だけど、実体があるはずの「人間」が、この図の中に入ってない?!
人間は霊魂と肉体で出来ているけど、その二つの一極は「人間」ではなくて「人間の心」になっている。
ここに算命学視点の妙があるのです
そう考えると「人間」の立場もビミョーです。
だって、「私」は人間そのものではないからです。
「私」からすると
出演者の欄の名前は確かに私の名前だけど、厳密に言うと、私は出演していない。
実際に出演しているのは、霊魂というソフトで動く肉体の方で、私はそれを動かしているだけなのです。
ガンダムで言うところの、目に見えるガンダムが肉体で、霊魂はその機能。
このガンダムが出演者で、「私」というと、中でそれを調整しながら操っているアムロレイってことになります。
アニメのガンダムと違うのは、「私」アムロレイは、ガンダムに一生乗ったままの設定で、ガンダム=人間ということです。
『人間とは調整され続けている霊魂と肉体のことで、実体なんてないのかもしれません』〈スピ算人生論より引用しています〉
私、僕、自分が「心」で、その「心」が執事なら、
私、僕、自分は執事ってことになります。
私たちは毎日、執事の仕事をやっているってことです。
私たちの人生は、執事の人生。
割り振られた霊魂とそれが出会った肉体との間の調整という、永遠に続くマネージャー業なのです。
「私・僕はアムロレイ」だけど、ずっとガンダムに乗ったままです。ガンダムから降りた日常は、空想または夢の世界の出来事です。
人生は「私・僕、アムロレイ」が生きる過程ではなくて、「アムロレイ」がガンダムの機能と機械としてのガンダムを調整しながら役割を果たすためにうまく乗りこなせるようになる過程のこと。
『人生は「私」が生きる過程ではなくて、「心」が霊魂と肉体を調整する過程?』
こう考えてくると、やっぱり「私・僕」にとっての人生・現実というのは、仮想、幻影なのかもしれないと、思えるようになりました。
そうなったら、昨日書いたことがよりリアルに感じられます
『私たちが見てるものの中に「仮想」と「現実」のふたつ存在してるってこと。
実はそれがごっちゃになっているのに、「仮想」を知らずに、これしかないと思って「現実」見ている自分がいるってことです。
「仮想」と「現実」
「頭の中」と「実際」
「霊魂がみせる世界」と「肉体がつくる世界」
これを分けて認識する必要があるってことですね。』〈昨日の投稿より〉
復習で終わってしまった
こりずに続けます<(_ _)>
↓元記事はこちらです
まちがい・かんちがいは多々
そのうえ自論&推測のおまけつきの上
同じことをなんども繰り返し
考え方も変化し続けております
勉強中につきご容赦ねがいます
<(_ _)>
記述のない『青文字』内、図、グラフ等は
青龍塾の講座より引用しています
<(_ _)>
紫色の文字は原典算命学体系より
引用しています
<(_ _)>