産女の夏~長崎光源寺 | Kazmarのブログ

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産女(うぶめ)の幽霊の話は各地にあるのだが、長崎にもある。

 

長崎の若い宮大工が京都で修行中に宿泊先の娘と親しくなるのだが、宮大工はその後、親からの再三にわたる帰省の催促にあらがえず、男は必ず迎えに来るからと娘に話して帰ってしまう。

 

男が帰ると親はすでに決めていた家の娘と婚礼を進めてしまっていた。気の弱い男は親に京都の娘のことを切り出せずに、そのまま祝言を挙げてしまう。

 

一方、京都に残された娘は、待てど暮らせど男から何の連絡もない。娘は一大決心をし、一人長崎に向かう。しかし長崎で娘に待っていたものは恋する男がすでに結婚していたという現実だった。娘は悲嘆にくれ、長旅の疲れも伴って体調を崩し、そのまま死んでしまう。娘の遺体は光源寺に埋葬された。

 

その後、ある日暮れ時、麹町の飴屋に、白い着物を着た青ざめた顔の若い娘が訪ねてきた。娘は飴を一文分売ってくれという。店の主人は、店仕舞いの支度をしていたのだが、しぶしぶと娘に飴を売った。

 

そのようなことが六日連続で起こった。七日目の夜、同じように娘が訪ねてきたが、もうお金がないので飴を恵んでくれという。店の主人は娘に飴を手渡すのだが、不審に思い、娘の後をつけていくと、娘は光源寺の墓地でその姿を消してしまった。

 

翌日、飴屋の主人は光源寺の住職に相談して、娘が消えた墓を掘り返した。そこで彼らが見たものは娘の死骸とそこに横たわる元気な赤ん坊であった。

 

というのが光源寺の産女の幽霊の話の前半部分である。当時は死者が無事に三途の川を渡れるようにと渡し賃六文を棺桶に入れる風習があったそうだ。

このような土中出産の話は全国にある。長崎の光源寺には産女の幽霊の木像がある。長崎の史学者越中哲也によると、この像は延享五年(1748年)に作られたということだ。いつ頃、光源寺に収められたのかは定かではないが明治には光源寺で開帳されていたらしい。

 

光源寺の産女の幽霊譚はこの木像と全国地にある土中出産の話が結びつけられたものだろう。

幽霊とは肉体が死んで魂だけがこの世に未練を残して出現したものだ。たいていの場合は、平家の落ち武者とかお岩さんのように死んだときの恐ろしい姿か、死後肉体が腐敗した状態で描かれている。

 

その理由は娯楽の少なかった昔、恐ろしい幽霊の姿は見世物としてマネーメイキングできるコンテンツであったからだろう。

 

しかし幽霊の立場で考えると、肉体を失ってもこの世に未練を残しているので、現れるとすれば自身が一番いけてる時の姿を見せたいのではないだろうか。もう少し死者への忖度をして欲しかったと思わないこともない。

光源寺の産女の幽霊像は毎年8月16日に開帳されている。本堂では紙芝居でお話をしていた。子供たちは最前列で熱心に聞き入っていた。

 

紙芝居が終わると参加者たちは、子供たちが優先だが、順番に産女の幽霊像やほかの幽霊の絵がある部屋へと通される。

 

蝋燭の明かりだけの薄暗い部屋に幽霊たちがその不気味な姿をさらしているのだが、子供たちは騒ぐことなく静かにその姿を眺めている。

 

私にとってはその子供たちの静けさが、何か不気味なものとして映った。

 

夜が漆黒の闇であった昔、夏の蒸し暑くて寝苦しい夜、人々はその闇を受け入れて楽しむことを考え様々な趣向を凝らした。例えば肝試し、百物語のイベントなど。花火大会もそうだ。幽霊像もその流れを汲んでいるのだと思う。

 

漆黒の闇が失われた都会に住む子供たちは今、幽霊像に何を感じているのだろうか。