高畑勲の思い~平成狸合戦ぽんぽこ | Kazmarのブログ

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高畑勲の平成狸合戦ぽんぽこは1994年の作品だ。

 

1994年にはバブル経済は崩壊していたがまだまだ株価は高く、経済復活の機運に満ちていた時期だ。またオリックス・ブルーウェーブのイチローが振り子打法で世間の注目を浴び始め、球界の新しいスターが生まれた年でもある。

 

音楽ではクラシック界の大御所カラヤン、バーンスタイン、ジャズではマイルス・デイヴィス、ロックではフレディー・マーキュリーなど、昭和の時代に世界を席巻した人々はすでにいなくなっており、巷ではワールド・ミュージックと呼ばれるものが流行っていた。

 

映画では前年に黒澤明の遺作「まあだだよ」が封切られ、昭和の終盤一世を風靡した角川映画も角川春樹逮捕という大事件を起こしてしまう。

 

平成6年というこの年、バブル期よりは経済は低迷しつつも、いまだ世間はバブルの夢を追い続けていたが、同時に良くも悪くも激動の時代であった昭和が遠くに感じられた年でもあった。

そのような時代に高畑勲は高度経済成長期の真っただ中の昭和40年代に多摩丘陵を切り崩して、多摩ニュータウンを建設する計画に真正面から抵抗した狸たちを主人公にしたアニメを発表した。狸たちは得意の変身の術を使って建設業者を驚かせて妨害を試みるが、一斉攻撃を仕掛けた百鬼夜行作戦は、多摩ニュータウンの人々、特に子供たちには遊園地のアトラクションとしかとらえられず、作戦は失敗する。

 

敗れた狸たちは、残された小さな森や街中で細々と生きるか、人間に同化して生きる道しかなかった。

岡田斗司夫はこの映画はアンチ・ファンタジー映画だという。また観る落語という映画としてばかばかしい物語を作りたかったのではないかと批評した。さすがに岡田斗司夫の観察眼は深いと思う。

 

高畑勲の映画は観る人によってさまざまな解釈が出来得る懐の深い映画だ。ある人は環境保護の映画だと感じるし、ある人は狸たちの抵抗とその挫折に東大紛争や成田闘争を思い浮かべている。そのような見方も正解だと思う。

 

私にとってこの映画は、昭和時代を生きてきた人たちに、昭和の価値観を引きずりながらも、それでも精いっぱい生きていかないといけない人たちへのエールの映画ではないかとも感じた。

高畑勲は1935年生まれで、幼少のころを戦前戦中に過ごした。彼が幼少時代を過ごした戦前の昭和には地域のコミュニティーが根強くあった。また多摩丘陵は田園地帯で夜の闇は深く、物の怪たちが跋扈する漆黒の世界であった。

 

そのような昭和は遠くなり、地域コミュニティーは破壊され、人々は金儲けが最優先の資本主義の世界にどっぷりと浸ってしまった。

 

多摩ニュータウンは夜でも街灯の明かりで照らされ、闇の住人である物の怪たちはアトラクションのキャラクターとしての存在にしかすぎなくなってしまった。

そして最後の方で映し出す、岡田斗司夫の言うところの狸の睾丸で作り出した、かつての長閑な農村地帯であった多摩丘陵の情景。その情景にニュータウンの年配の人々は懐かしさを覚え、それを作り出した狸たちでさえ、なつかしさに走り出してしまう。

 

その情景を俯瞰して観てみるとシュールだ。岡田斗司夫が言うように確かにばかばかしい落語の世界である。

 

この映画が作られた時代から30年が過ぎた。多摩ニュータウンが作られた時代からは60年近くが過ぎ去った。

「オオカミの護符」を著した小倉美恵子によると1960年代まではこの地域では密接な地域コミュニティーが存在し、年に一回、御岳講として御岳神社へ地域の代表が参拝するといった行事が存在した。今でも行事自体は存続しているようだが、講に参加する家の数は激減しているという。

令和の現在、多摩ニュータウンは空き家が目立っているという。築50年以上を経たマンション群はデザインも古く、都心に行くにも時間がかかるので若い人たちに敬遠され、住人のほとんどは高齢者になっているという。

 

高度成長期の象徴的なニュータウンはこの先どのようになっていくのだろうか。それを見つめ続けてきた、ぽんぽこの狸たちの末裔は今、何を思うのだろうか。一度狸たちに聞いてみたいものだ。

 

いつでも誰かがきっとそばにいる。思い出しておくれ、素敵なその名を。

 

上々颱風がうたうエンディングが、とても懐かしく心に沁みる。

平成狸合戦ぽんぽこの画像はスタジオジブリから拝借したものだ。常識の範囲内でご自由にお使いくださいということなので遠慮なく。