【主な乗り物:特急「あさま」】
平成4年5月の週末に「中央高速バス」新宿-長野線で実家に帰省した僕は、1泊しただけで、東京にとんぼ返りしなければならなかった。
前日の車中で、僕は、久しぶりに特急「あさま」に乗りたくなっていた。
大学時代に何度も帰郷したけれど、高速バス趣味に興じるあまり、長野市と何の関係もない路線に乗車するため、寄り道をする旅程を組むことが多かった。
上野から高崎線と信越本線を使って真っ直ぐ長野に向かう場合でも、節約のために普通列車を使うことが多かったので、「あさま」を利用した回数はそれほど多くない。
子供の頃の家族旅行の方が、回数は多かったかもしれない。
初めて「あさま」を利用したのは、小学2年生だった昭和48年に、前年の日中国交正常化を記念して中国から譲られたパンダを、上野動物園に見に行くための日帰りの家族旅行だった。
この時に生まれて初めて東京に足跡を記したのであるが、肝心のパンダ舎は、コンクリートで囲まれた殺風景な代物で、加えて大変な人混みだった。
両親にしっかりと手を握られて、見物人の列に揉まれながら、寝ているのか起きているのか、全く動かないパンダを数十秒だけ目にしただけだった記憶がある。
この頃の僕は鉄道ファンではなかったので、行き帰りに特急電車を使ったという以外の記憶は皆無である。
その後、日光や鎌倉見物に出掛けた小学4年生と5年生の家族旅行も、東京で宿泊したので、往路だけ急行「信州」を利用したり、復路に金沢行きの特急「白山」という場合もあったけれど、片道は必ず「あさま」のお世話になった。
中学生になると、家族で東京に出掛ける機会はなくなったけれども、高校3年の春休みと夏休みに東京の予備校の講習に出掛ける際に、「あさま」を利用した。
大学受験に失敗して東京で浪人生活を送るための旅立ちも、「あさま」だったと思う。
東京の行き来は「あさま」が当たり前だったのだが、大学浪人中の5月に父が亡くなってからは、特急料金が必要な「あさま」を使う機会が、めっきりと減っていた。
長野駅のホームから、15時50分発の上野行き上り特急「あさま」24号の客室に足を踏み入れれば、さすがに懐かしさがこみ上げてきて、胸がいっぱいになった。
「あさま」に乗るのは何年ぶりだろう。
従来のベージュと赤のツートンカラーだった国鉄特急色に変わって、平成2年から、濃緑色の塗色を纏った落ち着いた外観になり、座席の布地も青と緑に変わっているけれども、設備に変わりはない。
温水と冷水のコックが分かれている洗面台や、ペダルを踏んで水を流す和式のトイレまで、昭和の国鉄時代がそのままの形で残されている。
駅弁でも買っておくか、と車外に出て、189系車両を改めて眺めれば、故郷を代表する特急列車としての堂々たる風格が感じられる。
定刻に長野駅を発車した直後に、特急「あさま」は、鉄橋を轟々と鳴らして裾花川を渡る。
長野県庁の大きな建物が顔を覗かせている上流方向の光景は、いつも変わりがない。
県庁のすぐ近くにある実家で見送ってくれた母の姿を思い浮かべては、独り暮らしをさせている親不孝を詫びながら、頭を垂れるのが常だった。
母は、遂に一言も言わなかったけれども、僕が医学部を卒業したら長野へ帰って来て欲しかったのだろう、と思う。
僕もそのつもりで、大学時代に故郷の友人に会うたびに、卒業したら帰る、と言い続けていた。
ところが、先輩や知人など、人とのしがらみを振り切ることが出来ず、長野にこれと言った研修先も見つからなかった。
当時の厚生省が、医師数は余っていると主張していた時代で、平成の後半ほど医療機関の人手不足が表面化することもなく、初期研修を打診した長野市の病院は、どこも無給扱いならば、と言うつれない返事だった。
加えて、父の死で途絶えた医院を再開するのは、周囲に診療所も少なくない立地であるし、難しいように感じられた。
開業医よりも勤務医の方が、僕の性に合っていたのも一因である。
だからと言って、母を1人長野に残して、東京にずるずると居続けているのは、僕にとっても心残りだったが、如何ともし難かった。
この頃だったと思うのだが、母に強く勧められてお見合いをしたことがある。
嫌だよ、まだ早いよ、と言い続けていたが、遂に説得されて、母の知人の紹介で、1人の女性と一席を設けることになった。
会ってみれば、清楚な佇まいが今でもありありと思い浮かぶほどの女性だった。
三歩下がって夫の影を踏まず、と言った古風でしとやかな振る舞いも、僕には勿体なく、話も合い、楽しい時間を過ごした覚えがある。
「向こうさんは乗り気だって仰ってるんだけどねえ」
と、後日、母に言われても、僕はなかなか返事をせず、この話は立ち消えになった。
どうかしていた、としか思えないのだが、当時の僕は、東京の生活を変えたくなかったようである。
あの女性と連れ添って長野で生活を始めていたら、どのような人生が待っていたのだろう、と、今でも、ふと思うことがある。
『お待たせ致しました。長野を16時18分発の特別急行「あさま」24号上野行きです。屋代、戸倉、上田、小諸、軽井沢、横川、安中、高崎、大宮、赤羽、終点上野の順に停車して参ります。途中の停車駅の到着時刻を御案内致します。屋代は16時ちょうど、戸倉16時04分、上田16時14分、小諸16時26分、軽井沢16時42分。軽井沢では機関車連結のために5分停車します。横川17時10分、横川で3分停車します。安中17時26分、高崎17時34分、大宮18時21分、赤羽18時35分、終点の上野には18時45分の到着です』
裾花川を渡り終えるのを見計らっていたように、「鉄道唱歌」のオルゴールに続いて流れ始めた車掌の案内放送は、歌っているかのように流暢だった。
『この列車は11両での運転です。自由席車両は前寄り4両、8号車、9号車、10号車、11号車です。前のの7両、1号車から7号車は座席指定車です。6号車はグリーン車の指定席です。車両の番号は、車内入口の上に掲示してございます。なお自由席車両の10号車と11号車、指定席車両の1号車と7号車は禁煙車です。また、この列車のデッキは全て禁煙でございます。御了承下さい。トイレは各車両にございます。この列車には、車内販売の営業がございます。販売員がお客様の元へ参りますので、どうぞ御利用下さい。乗り越しや行き先の変更など、御用の際は、車掌が車内に参りました際にお申し付け下さい。特別急行「あさま」24号上野行きでございます。御利用いただきましてありがとうございます。次は屋代に停車します』
特急「あさま」と最初に並走するのは、東京方面に向かう国道18号線ではなく、松本、名古屋に向かう国道19号線である。
住宅が林立する山々の斜面を右手に見遣りながら、善光寺平の西の縁を走り、やがて左に大きく弧を描いて川中島へ向かう。
そもそも、善光寺の門前町として開けた長野市街そのものが、長野盆地の隅っこに片寄っているのである。
田植えを終えて、青々と広がっている水田の向こうに、前日に「中央高速バス」新宿-長野線で越えて来た筑摩の山並みが連なっている。
信越本線の列車ばかりではなく、車で何度も目にした、僕の原風景とも言うべき景観である。
父が眠る墓は、その山嶺に抱かれた寺に置かれている。
鉄輪が線路の継ぎ目を噛む音色は躍動的で、ピアノの名手がソナタを奏でているかのように軽快である。
テンポの良い走りっぷりは、どのように背伸びをしても、バスは敵わないな、と思う。
千曲川を北岸から南岸に渡り、長野電鉄河東線の古びたホームがある屋代駅に停車すると、「あさま」は善光寺平に別れを告げた。
家々や雑木林ごしに見えていた国道18号線が、線路際に寄り添ってきた。
戸倉から坂城、上田にかけて、北国街道の風情を残す町並みや、カーブの曲がり具合、両側から迫ってくる山々の形など、車で走っているかのような錯覚に陥ってしまう。
子供の頃、日曜日になると、父が僕と弟を国道18号線のドライブに連れ出しては、上田や小諸まで足を伸ばした。
大学の夏休みや春休みに、長野市内の運送業者の運転助手のバイトで、西上田駅の近くのSB食品の工場から出荷されるカレーのルーなどを積みに通ったこともある。
上田と小諸の街を過ぎると、櫛の歯を引くように流れる木立ちの合間から、流麗な浅間山が全貌を現した。
何度も信越本線を使っているのに、浅間山をはっきりと拝んだ記憶は少ない。
天候の影響かもしれないが、線路際に木立ちや建物が多いことも一因であろう。
高速バスも良いけれども、時には「あさま」に乗らなければ、と思う。
このあたりから信越本線は緩やかな登り勾配になっていて、心なしか「あさま」の行き足が鈍ったような感触になる。
その先の碓氷峠が、関東平野に下って行く片勾配の峠であるので、若干の違和感があるのだが、手前の軽井沢も高原にある、ということなのだろう。
沿線の木々が白樺に変わり、合間に別荘が散見されるようになると、間もなく軽井沢駅である。
『軽井沢、軽井沢に到着です。機関車を連結致しますので、5分停車致します。発車は16時47分です。お乗り遅れのないように御注意下さい』
明治26年に信越本線が全線開通してちょうど1世紀、新線に切り替わっても、車両技術が発達しても、軽井沢駅と横川駅の間の66.7‰という急勾配を登り下りする列車に、必ず補助機関車の助けが必要であることに変わりはなかった。
太古は海中にあったこの一帯が、700万年前の噴火活動で流出した溶岩で平地になり、30万年前に霧積川に侵食されて急峻な崖が形成されたのが、碓氷峠の成り立ちであるという。
横川の標高が387m、峠の最高点が956m、軽井沢は標高939mであり、直線距離にして10km程度で標高差が600m以上に達する片勾配となっている。
中途にトンネルを設けられる両勾配の峠と異なり、この落差を登り切らなければ、東京と信州を行き来できない。
坂東と信濃国を繋ぐ道として古くから往来があり、「日本書紀」には、日本武尊が坂東平定から帰還する際に、碓氷坂で亡き妻を偲んで「吾妻はや」と詠った場面が描かれている。
東国を指す「あずま」の言葉は、碓氷峠で生まれたのである。
古墳時代の東山道は、碓氷峠の南に位置する入山峠を通ったものと推定されているが、飛鳥時代から奈良時代にかけての東山道は碓氷峠を通っていて、平安時代には関所も置かれている。
江戸時代に、五街道の1つとして整備された中山道も碓氷峠を通り、峠の麓に坂本関が置かれ、峠の両端に坂本宿と軽井沢宿が設けられた。
明治11年の北陸巡幸でも、明治天皇は徒歩で碓氷峠を越えざるを得なかったのだが、明治19年に馬や車で通行が可能な新道が作られ、これが現在の国道18号線旧道にあたり、信州側で軽井沢宿と沓掛宿の間で従来の中山道と合流している。
今の「旧軽井沢」と呼ばれる地区は中山道の旧道に沿い、軽井沢駅周辺は明治期に開発された新道に近い。
僕は、旧軽井沢の町並みを抜けて、碓氷峠の頂点と言われる熊野神社まで行ったことがある。
車の通れる舗装道路が行き止まりになっていて、その先は、いきなり急峻な斜面を覆う藪の中の細道に変わっている様子を見て、昔の街道とはこの程度のものだったのか、と目を見張った。
一方、鉄道では上野-横川間が明治18年に、軽井沢-直江津間が明治21年に開通したが、横川-軽井沢間は明治21年に碓氷馬車鉄道が国道上に敷設されただけで、輸送量が少なく、峠越えに2時間半も費やす有様だった。
上信国境の鉄道建設では、勾配が比較的緩やかな和美峠のルートも提案されたものの、資材や人員の運搬コストが低減できる中山道沿いの碓氷峠に決定したことで、最大66.7‰という急勾配が生じ、ドイツのハルツ山鉄道を参考にしたアプト式ラックレールが採用された。
延長11.2 kmの区間に18の橋梁と26のトンネルが設けられ、明治26年4月1日に横川-軽井沢間が開通したが、連続する登り勾配のトンネルで機関士や乗客が煤煙に巻かれる被害が続出し、明治45年に我が国で初めての幹線電化が施され、碓氷峠の所要時間は電化前が80分、電化後は40分に半減したのである。
「鉄道唱歌」で、碓氷峠は以下のように歌われている。
これより音に聞きいたる 碓氷峠のアブト式
歯車つけて下り登る 仕掛は外にたぐいなし
くぐるトンネル二十六 灯し火うすく昼暗し
いずれは天地打ち晴れて 顔吹く風の心地よさ
長野県歌「信濃の国」でも、
吾妻はやとし 日本武
嘆き給いし碓氷山
穿つトンネル二十六
夢にも越ゆる汽車の道
と取り上げられている。
横川駅にあるアプト時代の補助機関車だったEC40型電気機関車のレリーフには、「刻苦70年」と書かれていると言う。
太平洋戦争後に交通量が増えると、まず、カーブが184ヶ所もある国道18号線が需要に対して限界を来たし、昭和46年に入山峠を通る古東山道のルートを使って、碓氷バイパスが完成する。
鉄道でも、昭和38年に旧線の北側を並行するルートで新線が開通、所要時間は峠を登る列車が17分、下る列車で24分まで短縮されたものの、全ての列車にEF63型補助機関車を連結する必要があった。
補機は登り勾配で列車を押し上げ、下る列車では発電ブレーキによる制動の役割を担うために、必ず横川側に連結される。
機関士も常に横川を向く運転台に座り、軽井沢へ向かう列車では、列車の先頭にいる運転士と交信しながら後ろ向きで運転し、下り坂を暴走する事態に備えたのである。
横川-軽井沢間の所要時間が、登るよりも下る方が長くなっているのも、その表れと言えるだろう。
横川機関区には、「均衡速度は時速48km」との言葉がある。
碓氷峠の急勾配を下る場合、EF63型電気機関車の高性能をもってしても、時速48kmに至ると制動力と加速力が均衡し、それを超えてしまえば、摩擦力が減少して加速があらゆる制動を上回り、逸走が止められなくなるのだという。
登りの列車は時速60km程度まで出すことがあるが、勾配を下る列車は時速38kmに厳しく制限されている。
軽井沢駅での5分間の停車中に、列車の前方に足を運ぶと、武骨な外観のEF63型電気機関車が、旗を振る作業員の誘導で停止と徐行を繰り返しながら、鈍い金属音とともに連結器が押し込まれ、「あさま」の車体がかすかに震えた。
子供の頃に、特急「あさま」や「白山」、急行「信州」が軽井沢と横川に停車するたびに、客室を飛び出して、補機の連結や切り離し作業に夢中で見入ったことを、懐かしく思い出した。
故郷と東京を行き来するのは大ごとなのだ、と畏怖が半分、誇らしさ半分という心持ちだった。
その都度、「ケチョケチョするんじゃない」と親に怒られたのだが、親の口癖だった「ケチョケチョ」とは何処の言葉だったのか、色々調べても判然とせず、未だに謎である。
軽井沢で多数の乗客が乗り込んできて座席がほぼ埋まった「あさま」が、軽井沢駅を発車すると、すぐに下りの急勾配が始まる。
それまでの軽快な走りっぷりとは打って代わって、砂利道を走る車のような、ゴツゴツと硬い乗り心地になる。
勾配の途中で制動をかける場合や、傾斜角度の変化による車輪の浮き上がりと脱線を防ぐために、車両が跳ねないよう、全車両の台車の空気バネの空気を抜いてしまうのである。
そのからくりを知った時には、そのようなことまでしなければ越えられない峠なのか、と驚愕した。
上野と長野を結ぶ特急列車「あさま」が運転を開始したのは、昭和41年10月のことであった。
当初に使われていたのは、181系というボンネットタイプの外観を持つ特急車両であった。
ところが、碓氷峠では、一般の形式の電車や気動車は、補助機関車のEF63型電気機関車に連結された場合に無動力で牽引されるだけだったので、連結できる車両数は、電車が最大8両、気動車は7両に制限されていた。
181系「あさま」も8両編成で、当時の我が国の特急列車として、初めて食堂車が連結されなかったと聞く。
昭和48年に、自前の駆動装置をEF63型機関車と連動させる協調運転を可能にして、台車や連結器、非常用ブレーキを強化し、空気バネ台車のパンク機能を備える「横軽対策」が施された交直流特急用電車489系が開発され、最大12両編成が碓氷峠を行き来できるようになった。
489系は上野と金沢を長野経由で結ぶ特急「白山」に使用され、食堂車も連結していたが、「あさま」にも転用されたものの、その際は食堂車を営業しなかったと聞く。
昭和50年に「あさま」専用の「横軽対策」を講じた189系直流特急用車両が投入され、以後、「あさま」は11両から12両の堂々たる編成になったのである。
列車はのろいし、振動が背骨に響いて乗り心地も悪いけれども、最前部の機関車の運転台で、制動レバーを握り締めている機関士の緊張感に思いを馳せた。
文字通り、長大な列車を背負っているような重圧なのではないだろうか。
11両編成で全長220mを超える「あさま」が、66.7‰の急勾配に差し掛かれば、最前部と最後尾で15m、実に4階建てのビルに相当する高低差が生じると思えば、この峠越えは、確かに尋常ではないことが実感される。
窓際に置いた缶コーヒーが滑り出すほどではないものの、もし、容器が透き通っていれば、水面が大きく傾いているのだろうな、と想像する。
首都圏と信州や北陸を結ぶ使命を果たすべく、1世紀以上に渡って碓氷峠の苛烈な輸送業務に従事した鉄道員のことを思うと、胸が熱くなる。
「やはり社会的な使命感が支えだったんでしょうね。機関区員も、保線も、信号系統も、駅も、みんな頑張っていましたよ。たんに給料を貰えばいいという考えではだめでしょうね。国鉄というのは、金もうけ仕事では割り切れやしませんよ。大袈裟なものじゃないが、みんな胸のうちに社会に対する使命感を持っていた。そこから使命感も生まれたんですな」
作家の橋本克彦氏が、国鉄分割民営化直後にEF63型の元機関士にインタビューした時の言葉が忘れられない(「鉄道員物語」所収「峠と機関車」より)。
通過する人間の心境など知らぬげに、出でてはくぐるトンネルの合間から見下ろす碓氷川の渓谷や、折り重なる山肌の新緑が目に優しい春の峠だった。
『横川です。機関車を切り離しますので3分停車します。発車は17時10分です』
放送を聞き流しながら、夕食にはまだ早いけれども、名物の「峠の釜めし」でも買おうかと、僕は腰を上げた。
以前は、補助機関車の着脱は決まって5分停車だったように記憶しているのだが、最近は切り離しが3分になったらしいので、少々忙しい。
車外に出ると、関東平野の生暖かい空気と、信州から吹き下ろしてくる冷たい風が入り混じった、奇妙な感触だった。
空は分厚い雲に覆われている。
信州よりも関東平野の方が天気が悪いのは珍しいな、と思う。
軽井沢と異なり、荒涼とした構内にEF63型電気機関車が何両もたむろしているのは、子供の頃から見慣れた光景だが、強力が集まる江戸時代の宿場のような、どこか荒っぽい雰囲気がある。
運転台でくつろいでいたり、機関車の周りで談笑している機関士の姿を見ながら、峠の登り下りで過ぎていく人生に思いを馳せた。
ホームに「峠の釜めし」の売り子がずらりと並び、乗客が群がっている。
陶器に入った釜飯の、ずしりとした重みと温かみを掌に感じながら、列車の最前部に歩を進めると、電動機の重々しい轟音を響かせて、2両のF63型電気機関車が「あさま」から離れていくところだった。
お疲れ様、ありがとう、と頭を垂れる思いがした。
補機を外して身軽になった「あさま」は、ホームに整列して最敬礼する売り子に見送られて横川駅を発車し、再び快足を取り戻してひた走る。
榛名山系と妙義山系に挟まれて、碓氷川に沿う緩やかな下り勾配が続くが、左右の山々が少しずつ後ずさりして、空が広くなっていく。
車内に響いてくる走行音は、相も変わらず踊っているかのように軽やかだった。
車窓に目を遣りながら、温かみを残す「峠の釜めし」の蓋を開けば、利尻昆布と秘伝の出汁で炊きあげた醤油風味の炊き込み御飯に鶏肉、牛蒡、椎茸、筍、グリーンピース、栗、うずらの卵、杏といった具材がこんもりと盛りつけられ、別容器に茄子や胡瓜、梅干、山葵漬けなどの漬け物も添えられている。
どれから箸をつけようか、と迷いながら頬張るのは、至福の時である。
家族旅行で東京に行った帰路や、東京から帰省する際には、必ず「峠の釜めし」を購入したものだったが、お土産として持ち帰って自宅で食べるばかりだったので、いつも冷えていた。
冷めても美味しいと思っているものの、こうして温かいうちに食べたのは初めてかもしれない。
群馬県内の信越本線の車窓で目立つのは、安中駅の近くにある東邦亜鉛安中製錬所であろう。
亜鉛・カドミウム・機器部品などを生産する安中製錬所が操業を開始したのは昭和12年のことで、今のように武骨な配管などが露出したおどろおどろしい外観になったのは、いつからであろうか。
初めて長野から東京に旅行した時に、上り特急「あさま」の窓ごしに、小高い丘の斜面を覆い尽くす安中製錬所が現れると、途徹もなく恐ろしいものを見たような気がした。
信越本線の鄙びた乗り心地は高崎駅で終わりを告げ、停車駅も減るので、「あさま」は電動機の唸りを勇ましく轟かせながら、高崎線を走り込んでいく。
この辺りまで来ると、内田百閒が、「雪中新潟阿房列車」で上野発新潟行き急行「越路」に乗車した際の描写が思い浮かぶ。
『遠景を屏風のように仕切った山山の頂は、所所雪をかぶっているだけで、黒い山肌が青空に食い込んでいる。
その山の姿がおかしい。
見馴れない目には無気味に見える。
熊谷、高崎辺りの景色を眺めていたら、少し寒気がする様な気持になった。
ごつごつしていて、隣り同志に列んだ山に構わず、自分勝手の形を押し通そうとしている。
尖ったの、そいだ様なの、瘤があるの、峯が傾いたの、要するに景色と云う様なものではない。
巨大な醜態が空の限りを取り巻いている』
関東平野の西辺を成す山々の容姿が奇怪であるのは間違いないが、そこまでおっしゃいますか、と苦笑いが浮かんでくる物言いで、いつまでも心に残っているのだから、百閒先生の話術に嵌ったのかもしれない。
熊谷のあたりまでは長閑な田畑が目立つものの、信州の自然の中を通り抜けて来た者としては、面白味が増すはずもない。
視線を遠方に転じて、秩父山系や赤城連峰をぼんやり眺めているのが、高崎線の汽車旅である。
黄昏が車窓を覆いつつあった。
あまり遅い時間に東京に戻りたくはなかったけれども、大宮から先が夜景になる頃合いを選んで、僕は「あさま」24号にしたのである。
熊谷を過ぎれば、建物ばかりが途切れることなく沿線に連なるようになった。
平行する関越自動車道ならば、練馬ICのすぐ手前まで田園風景が続くが、高崎線の沿線は、人工物ばかりである。
首都圏とは凄まじい広がり方をしているものだ、と眼を見張らされるが、やがて欠伸が連発するようになる。
普通列車で節約していた頃は、高崎-上野間のあまりに冗長な車窓に列車を降りたくなったものだったが、「あさま」でも、鉄道ファンにあるまじき感想に変わりはない。
早く新幹線ができないかな、と思う。
北陸新幹線の構想が公式に語られたのは、昭和40年とされている。
その年の9月26日に、金沢市で、当時の佐藤栄作首相など現役閣僚が出向いて実情を聞く公聴会が開催され、富山県代表の公述人である岩川毅・砺波商工会議所会頭が「北陸新幹線」の建設を求めたのがきっかけである。
東海道新幹線の開業から、僅か1年足らずの時点だった。
日本が、飛ぶ鳥を落とすような勢いの、高度経済成長期を迎えていた頃である。
昭和45年には全国新幹線鉄道整備法が制定され、昭和47年6月29日、東京-大阪間を高崎・長野・富山・金沢経由で結ぶ「北陸新幹線」として基本計画が決定した。
昭和48年には整備計画決定及び建設が指示されたが、長野-富山間については途中の経由地が明示されていなかった。
最初は、東京から中央東線に沿って甲府、松本を経て富山に直線的に抜けるルートが構想され、後に、長野市の南に「新長野駅」を設けて富山に抜けるルートに変更されたようである。
いずれにしろ、昭和50年頃まで、北アルプスの直下をトンネルで貫通するルートが検討されていたようで、加えて後者のルートは、群馬と長野の県境で碓氷峠の北方の白根山をぶち抜いており、どのような地形であろうと直線的に新幹線を建設するぞ、という高度経済成長期らしい意気込みと自信が窺える。
小学生だった僕は、信越本線と篠ノ井線が分岐する篠ノ井駅の南に「新長野駅」を設けるルートを知って、
長野市、通らないんだ──
と、がっかりした。
しかし、火山地域のために高熱となる岩盤や、地表からトンネルまでの距離が最大2000mに達する「土被り」で生じる大量の湧水と、岩盤破壊の「山はね」に耐えながら、全長約70kmに及ぶ長大トンネルを建設するのは困難と判断され、信越本線と北陸本線に沿って、長野市と上越市を経由するルートの建設が決定された。
長野市以北で北アルプスを避けて東に蛇行するため、北陸新幹線の経路は長くなったが、それで良かったのだろう。
北アルプスの直下を貫通した中部縦貫自動車道の安房トンネルの工事は、まさに、その通りの難工事になった。
子供の頃に、家族で上野発長野経由金沢行きの特急「白山」に乗って金沢を往復する機会が何度もあったので、長野市を通る現行の計画に決まったと知った時は、嬉しかった。
ところが、そこからが長い長い道のりだったのである。
既に建設が決まっていた東北新幹線(東京-盛岡間)、上越新幹線(大宮-新潟間)、成田新幹線(後に建設中止)は工事が開始されたが、北陸新幹線他4本の、いわゆる「整備新幹線」は、国鉄の赤字問題やオイルショックなどの影響で、建設が凍結され、計画は遅々として進まなかった。
昭和62年になって、国鉄分割民営化により、特殊法人の新幹線鉄道保有機構が新幹線設備を所有し、既存開業線のリース代を財源とした整備新幹線の建設が可能となると、整備新幹線建設の凍結解除が閣議決定された。
昭和60年の工事実施計画認可申請、および前述の閣議決定においては、高崎-小松間をフル規格で先行建設し、その後小松 - 大阪間を建設する計画だったという。
ところが、昭和63年に発表された「運輸省案」では、長野以南の建設を優先するものの、高崎-軽井沢間のみフル規格、軽井沢-長野間はミニ新幹線とする計画に変更された。
糸魚川 - 魚津間、高岡 - 金沢間については構造物を新幹線と同じ規格で建設し、線路を在来線と同じ軌間にするスーパー特急方式にすることになったのである。
フル規格、ミニ新幹線、スーパー特急方式の混在とは、いったい全体どういう新幹線になるのか、さっぱりイメージがつかめなかったけれど、長野に在住する人間として大いに落胆したものだった。
ミニ新幹線で上野-長野間の所要時間が1時間52分に短縮されると聞いた時は、今よりもマシか、と自分を慰めるしかなかった。
度しがたいスピード至上主義、故郷原理主義としか言いようがないけれども、新幹線が開通するまでの長野市は、全国の道府県庁所在地で最も首都東京との時間的距離が遠いと囁かれ、信州人として引け目を感じていたことは、多少の同情すべき余地があると思っていただきたい。
今思えば、故郷までミニ新幹線で行くのも面白かったかもしれない、と思うのだが、それを一挙に覆すような出来事が持ち上がった。
平成10年に開催される冬季五輪の国内候補地を選定する投票が、昭和63年に行われ、盛岡市、山形市、旭川市を破って、長野市が当選したのである。
長野冬季五輪招致が本格的に動き出すとともに、平成2年の政府と与党の申合わせで、北陸新幹線の高崎-長野間の建設が最優先となり、軽井沢-長野間もフル規格で着工することが決定された。
「The city of NAGANO!」
平成3年6月15日、英国バーミンガムで開催された国際オリンピック委員会総会で、当時のIOC会長が尻上がりの奇妙なイントネーションで7年後の冬季五輪開催都市を発表した瞬間に、北陸新幹線は実現に向けて大きく1歩を踏み出した、と言っても良いだろう。
新幹線の絡みで思い浮かべるのは、上越新幹線に接続し、高崎と長野の間を結んで昭和63年に運転を開始した快速「信州リレー」号である。
当時、特急「あさま」の長野からの始発列車は午前6時21分の発車で、上野に着くのは9時半前後だった。
逆に、上野からの「あさま」の最終列車は20時発で、午後11時前に長野に到着していた。
「信州リレー」号は、早朝の上りと深夜の下りの1往復が設定され、
信州リレー号:長野発5時25分⇒高崎着7時26分
とき402号:高崎発7時40分⇒東京着8時38分
とき459号:東京発20時48分⇒高崎着21時46分
信州リレー号:高崎発21時54分⇒長野着23時53分
というダイヤであった。
「信州リレー」号の登場で、東京での滞在時間が1時間50分ほど増えたのである。
東海道本線の特急「踊り子」や、東北本線と高崎線の「新特急」に投入されていた185系車両を使用した快速電車と言っても、「信州リレー」号は通過駅が5~6駅しかなく、殆んど各駅停車に近い運転形態だった。
それでも、クロスシートの座り心地は上々だったし、連結されているグリーン車が、特別料金をとらずに開放されているのもお得だったので、学生時代には、早朝、深夜を厭わずよく利用した。
将来の新幹線開業の疑似体験をしている気分に浸りたかったのかもしれない。
長野へ帰るのに、東京駅や上野駅の新幹線ホームから列車に乗ることが、とても嬉しかったのである。
長野と東京を結ぶ高速バスが登場しないことに業を煮やして、「みすずハイウェイバス」と「中央高速バス」を乗り継いだ行為と、根は同じである。
平成5年のダイヤ改正で、上野発21時、長野着23時58分という「あさま」が増発され、「信州リレー」は役目を終えた。
思い起こせば、平成4年5月の旅は、四半世紀に及ぶ特急「あさま」の運転終了まで5年あまり、という時期だった。
そして、この日が、在来線時代の「あさま」に乗った最後になった。
帰省では、相変わらず、色々な高速バスに乗りたくて寄り道したり、バイクの中型免許を取得してバイクで行き来するようになったのである。
外装も内部もリニューアルされたことは嬉しかったが、その頃の僕は、建設が開始された新幹線への期待に心を奪われていた。
在来線の時代に、もっと心して乗っておけばよかった、などと将来になって若干の悔恨が生じるとは、夢にも思っていない。
移ろう世の中にあって、消えていく存在の方が大切に感じられることは、少なくない。
思い出があるだけ、幸せなのかも知れないとも思う。
僕は、「あさま」に乗って、何度、長野と東京の間を行き来したのだろう。
時には家族と、時には友人と。
孤独な1人旅での往復も少なくなかった。
窓に移ろう景色を見つめながら、様々な思いを抱いて過ごした3時間だった。
「あさま」で思い出す懐かしい人がいる。
幼馴染のM子は、小学4年生の時に僕らのクラスに転校して来て、中学も高校も同窓、進学した大学も東京の医学部だった。
日本人離れした西洋人形のような容姿で、幼心にも眩しく、何処か近づき難い雰囲気を感じたのだが、誰とでも付き合える明るく陽気な性格は、小学校から大学まで変わらなかった。
大学の夏休みで帰省し、長野で会った時に、
「ね、東京まで同じ『あさま』で帰らない?」
と、M子から切り出されたことがある。
異性と「あさま」に乗ったことなど皆無だった僕は、不意の申し出に、咄嗟に返事が出来なかったのだが、
「切符が2枚あるの。一緒に帰ろうよ」
と熱心に誘われたので、承諾した。
車内でどのような話をすれば良いのか、などと多少は胸をときめかせながらその日を待ったのだが、いざ「あさま」に乗り込んでみれば、並んで座るどころか、指定された車両すら異なっていた。
終点の上野駅に着いても、ホームの人混みに紛れてしまったのか、M子の姿は見えなかった。
「あさま」24号の車中でM子の顔を思い浮かべながら、あいつも何処かで頑張っているのだろうな、と思う。
後の話になるが、平成25年に、30年ぶりとなる高校の同窓会が開かれた。
多くの同窓生との交流が久しぶりに復活する中で、M子の思わぬ訃報を聞いた。
まさか、と耳を疑った。
30年前に、下り特急「あさま」に乗り込む際に、長野駅でM子と会ったのが、最後だったのである。
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