第37章 平成26年 禄剛崎を訪ねる奥能登紀行~七尾行夜行高速バスと津々浦々を結ぶローカルバス~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:夜行高速バス「グリーンライナー」、のと鉄道、北陸鉄道路線バス穴水-宇出津線・宇出津-

珠洲鉢ヶ崎線・鵜飼-木ノ浦線、「宇出津真脇特急バス」、特急「北越」、北越急行線快速、上越新幹線「とき」

 

 

降りたばかりの路線バスが走り去ると、雪混じりの凄まじい風が襲いかかってきた。
狼煙の集落に人影はなく、どの家も雨戸やシャッターを固く閉ざして、吹き荒れる風をじっと堪え忍んでいる。

僕はショルダーバックを揺すり上げて、バスの車内で見た地図を反芻しながら歩き出した。

 

 

「禄剛崎灯台 近道」と書かれた手書きの看板に従って、古びた木造家屋が並ぶ横道に足を踏み入れると、ひび割れた石畳の長く狭い階段が、斜面を巻くように伸びている。

いったい何段あるのだろう、と溜息をつく思いで見上げながらも、僕は、1歩1歩足元を踏みしめながら登り始めた。
 

 

風に揺れる木々の茂みの合間から、少しずつ展望が開けていく。

こぢんまりとした狼煙の町並みや漁港が、下方へ遠ざかっていく。
 

帰りのバスの時間まで30分しかないので、気だけは逸るのだけれど、息切れがして身体がきつくなってきた。
泊まりがけのつもりで持ってきた荷物が、重く肩に食いこむ。
だが、狼煙の町に、荷物を預かってくれるような店はどこにも見当たらなかった。

 

 

はるばるここまで出掛けて来たのだから、くじける訳にはいかない。

何としてもたどり着かなくてはならない、と僕は重くなった足を必死で持ち上げていった。

それでもへこたれそうになった頃、ようやく階段が終わり、泥だらけにぬかるんだ坂道になった。
滑って足をとられそうだけれど、傾斜が緩くなったので、息を整えながらひと息つくことができた。

 

 

不意に左右を覆っていた木立ちが切れて平地が開け、安堵する間もなく、麓よりも遙かに強い雨混じりの風に見舞われて、僕は思わずよろめいた。
顔を上げれば、目の前にそれがそびえ立っていた。
能登半島の最北端に建つ、禄剛崎灯台。

その向こうには、白い波濤を逆立てている冬の日本海が広がっていた。
断崖に打ちつける荒波の轟きが、足元はるか下方から聞こえる。
雨混じりの風切り音が、耳元で唸りを上げて吹きすさぶ。
居並ぶ木々が、大きくしなりながら、ざわざわと身を揺さぶっている。

 

 

風に負けまいと懸命に踏みしめている足元で、人間の世界は途絶えていた。

東京を出て十数時間、僕は、ついに地果つる岬にたどり着いた。

烈風に顔を叩かれながら、不意に、詩の1節が浮かんだ。


In the sepulchre there by the sea,
In her tomb by the side of the sea!

 

 

前の夜の定刻22時に新宿を出発した丸一観光の金沢経由七尾行き夜行高速バス「グリーンライナー」は、闇に包まれた都内を走り抜けて練馬ICから関越自動車道に入り、勇ましくエンジン音を轟かせながら北へ向かった。
丸一観光は七尾市に本社を置く運送会社で、トラック業も営んでいる。
北陸を走っていると、同社のバスやトラックを見かけることが少なくない。



平成24年のゴールデンウィーク中の関越道での悲惨な事故をきっかけに、平成25年8月から規制が厳しくなった高速乗合バス業界であるが、北陸では丸一観光をはじめ、小矢部市に本社を置くイルカ交通、金沢市に本社を置く中日本エクスプレスなど、地元に根を張った地元事業者が数多く頑張っている。

国土交通省から厳しい指導を受けた業者もあると聞いているが、新制度に合わせて厳格な安全基準を満たすよう努力しながら運行しているものと信じたい。

 

 

大抵の事業者は、首都圏から富山・高岡近辺の街を経て金沢が終点となる路線を展開し、中には福井まで足を延ばす路線もある。

丸一観光だけは、金沢もしくは富山を経由して、能登半島へ向かうバスを走らせていた。

 

東京から夜行で能登へ──

 

その響きに魅せられて、僕は「グリーンライナー」を選んだ。

 

 

始発地である新宿住友ビルのWILLER高速バスターミナルで、ピンク色のバスに混ざって発車を待つ「グリーンライナー」の姿は、どこか微笑ましかった。
横っ腹には大きく「○1」と書かれ、読み方は異なるけれども、首都圏の有名大型店舗のトレードマークを想起させる。

使われている車両は、愛称そのままに緑一色のシンプルな塗装を纏った韓国製ヒュンダイユニバースのハイデッカーだった。
ヒュンダイのバスに乗るのは、昨年の11月に日本中央バスの秋葉原発新宿・さいたま・高崎・前橋経由富山・金沢行き夜行高速バス以来となる2度目だったが、エンジン音が低く控え目な日本製とはひと味違う。
音の大きさはそれほど変わらないのだろうが、いかにも一生懸命回っています、と主張しているような、陽気な響きである。
 

 

座席は前方3列と最後部が左右2列ずつの横4列シート、残りが左1席・右2席の横3列シートである。
革張りのシートの、傾きが大きい背もたれと独特の形状のヘッドレスト、ごついシートベルトなどは、日本中央バスの車両と変わりはない。


僕は1人旅だけれど、右2席の窓際が指定されており、しかも隣りに相客はなく、ゆったりと夜を過ごせそうだった。
1月最後の週末だから、もともと乗客が少ない時期なのであろう、車内はぽつりぽつりと空席が見受けられた。

 

 

関越道から上信越自動車道、そして北陸自動車道に到る道筋は、高速バスですっかり通い慣れている。

関越道に比して上信越道はアップダウンが激しく、カーブもきつめであるけれども、曲がりなりにも高速道路であるから、眠りを妨げるほど揺れる訳ではない。

 

23時20分頃に到着した高坂SA、日付が変わって深夜1時40分過ぎに到着した松代PA、そして未明の4時を回った頃に到着した有磯海SAと、2~3時間ごとの休憩で下車し、身体を伸ばすのもいつものことだった。

ところが、この夜だけは、勝手が違った。

 


座席のゆったりした加減も、バスの静かな走りも申し分なく、普段ならば休憩と休憩の合間はぐっすりと眠り込むのだが、この日ばかりは、うとうとしかけると、足元からカッと押し寄せてくる熱気が気になって、熟睡できない。

ひと昔前の鉄道の気動車のように、窓際の下部に暖房のパイプでも通してあるのだろうか。

フットレストに足を延ばすと、熱くてしょうがない。

頭寒足熱は身体にはいいんだよな、と自分に言い聞かせながら目をつぶろうと努めるのだが、いったん気になり出すと、もう眠れない。

 

仕舞いには、あいている隣席のフットレストを降ろして足を伸ばしたり、寝返りを打って横向きに寝ようと試みたり、靴下を脱いでみたり、とにかくため息ばかりを繰り返す長い長い一夜を過ごす羽目になった。

 

 

夜行高速バスでこれほど眠れないのは、初めてだった。

前回にヒュンダイのバスに乗った時は、少しばかり暖房効き過ぎかな、と、額に汗がうっすら滲む程度だったから、車両のせいではなく、空調の程度の問題なのかもしれない。

北国へ向かうのだから、と運転手が気を利かせて室温を高めに設定したのだろう。

他の乗客はぐっすりと眠っている様子で、それがまた、取り残されたような焦燥感を煽る。

休憩時間で外に出ると、ひんやりした空気が恋しかった。

 

 

高坂SAで身を包んだのは、乾いた冷気だった。
このような遅い時間でも、焼きそばを鉄板で焼いている屋台が営業しており、香ばしい匂いが漂っている。
 

打って変わって、寝静まっていた深夜の松代PAでは、冷たい雨が路面を叩いていた。
夜明け前の有磯海SAも、凍りつくような霧雨の中で静まり返っていた。
「グリーンライナー」と対照的に、鮮やかな黄色い塗色のイルカ交通「きときとライナー」と、ずっと道連れだったが、有磯海SAでその姿を見ることはなかった。

 

 

明け方になって、ようやく寝苦しさよりも眠気と疲労の方が勝ったのだろうか、有磯海SAから先の道のりは殆んど憶えていない。
外気温が下がって、強い暖房が気にならないほどに車体が冷え、居心地が良くなったのかもしれない。

車内が少しばかりざわざわとなった金沢駅西口で、雨粒に濡れた窓ごしに、煌々と明かりが照らし出す人影のない停留所を見下ろした記憶は残っている。
この季節の5時半は真っ暗なのだな、とぼんやり思った。

 

 

 

白々と夜が明け始めてからは、ところどころでカーテンの隅をめくり、寝ぼけまなこで窓外を眺めながら、うつらうつらと過ごした。

枯れ草のような黄土色に覆われた草原と、色褪せた常緑樹の山々が、雨に滲む車窓を過ぎ去っていく。

これまで東京から北陸へ向かうバスで見た車窓とは違う、寒々と枯れた光景だった。
能登に来たんだな、と、眠りに引きずり込まれがちな頭で実感した。

 


「グリーンライナー」は、新宿から金沢回りで七尾に向かう系統と、富山駅・小杉駅・高岡駅・氷見を経由して七尾に直行する系統がある。
僕が乗った系統は、金沢駅を出ると、国道8号線で津幡駅前、JR能登線に寄り添う国道159号線で宇野気駅前、羽咋駅前と、能登半島の西岸を北上し、国道249号線で半島の根元を横断して、東岸の和倉温泉駅を回ってから、七尾駅前に南下する。
バスの速度が一般国道より速いような気もしたから、高規格の「のと里山海道」を経由したのかも知れない。

ならば、宇野気と羽咋の間で、砂浜を車で走ることが出来る「千里浜なぎさドライブウェイ」を左手に見ることができた可能性もあるが、僕の座席は右側で、ほとんど夢うつつで過ごしていたので、全く気づかなかった。

 

 

僕が初めて能登半島に足を踏み入れたのは、小学校3年生の週末に、父が運転する車で長野から出掛けた時だった。

能登のどこを回って、どこまで行ったのか、全く憶えていないし、今となっては確かめる術もないのだけれど、長野を真っ暗な午前3時に出発したこと、途中で車酔いしたこと、そして「千里浜ドライブウェイ」を走ったことと、帰り道で、それまで見たこともないような大きな夕陽が、日本海の水平線にゆっくりと沈んでいくのを眺めた記憶だけは、今でもありありと脳裏に浮かぶ。

あれが、家族みんな揃って車で遠出した、初めての旅行ではなかったかと思う。

 

 

大学生だった平成元年に、開業したばかりの横浜から金沢行きの夜行高速バス「ラピュータ」号で一夜を過ごし、朝1番の「奥能登特急バス」に乗り換えて輪島駅まで行き、そこから国鉄七尾線で帰って来たことがあった。

純粋に乗り物マニアとしての旅であって、朝の日光に照らされてあっけらかんとした輪島の街の佇まいをぼんやりと憶えている程度である。

 

当時、横浜からのバスは横4列シートで、後に横3列独立席に改められたものの、平成19年に運行事業者が変わり、宮崎駿の映画を思わせる愛称も消えた。

七尾線も、平成3年に第3セクターのと鉄道に移管され、平成13年に廃止された。

能登を最初に訪れてから、40年近くの月日が流れたことを思うと、どこか虚しい気分になる。

 

 

断片的ながらも、強烈な思い出を残した幼い頃の旅路を偲びつつ、もう1度、能登半島を訪ねてみたい。

奥深い能登半島の全てを探訪する時間はないけれども、出来ることならば、最北端まで往復してみたい。

そのような思いに駆られて、僕は「グリーンライナー」に乗り込んだのである。
 

 

金沢を出てから途中で停車した気配はなく、七尾駅前に到着したのは、予定より30分も早い午前7時15分だった。

バスを降りると、寝不足のせいなのか、足元が覚束なかった。

 

夜は白々と明けかけている。

雨こそやんでいたものの、空は北国らしいどんよりとした雲が垂れこめて、コンビニや駅の照明が、濡れた路面に明々と反射していた。街角に雪は見当たらなくても、どんよりと垂れ込めている重々しい曇り空に、真冬の北陸にいることを実感する。

 

 

JR七尾線と第3セクターの「のと鉄道」の改札が仲良く並んでいる駅舎から、僕は7時49分発の穴水行き各駅停車に乗り継いだ。

 

2両編成の軽快なレールバスは、僅か数人の客を乗せ、まだ眠りから覚めていない七尾の街並みを後にして、和倉温泉駅に停車する。
様々な看板や幟が立ち並び、改札口やホームも、大阪や名古屋から直通する特急列車が横づけされれば活気づくのだろうな、と思う。

まだ時間が早すぎるのだろう、構内に観光客らしい姿は皆無で、列車は素っ気なく七尾駅を後にした。

 

 

和倉温泉駅から先は非電化区間である。

黄土色の寒々とした枯れ野が広がっているけれども、刈り入れが終わった田畑なのか、手が入れられていない草原なのか、区別がつかない。
「グリーンライナー」から眺めた光景と同じく、素寒貧とした平原が続く。
同じ冬の田園でも、北陸本線や北陸道の沿線では土が剥き出しで黒々としているのに、なぜ、能登ではこのような色調になるのだろうと思う。
 

 

やがて、その向こうに七尾湾が姿を現した。
対岸には、湾の大半を占めて、能登島が浮かんでいる。


能登に来たのは3度目になるが、初めての訪問だった家族旅行から30年、2度目の一人旅から20年の歳月が流れているから、とても曾遊の地とは言えず、見るもの全てが新鮮だった。
2度目の旅では、輪島からの帰りに、国鉄時代のこの鉄路に乗っているはずなのだが、記憶から全く抜けてしまっている。

 

 

レールバスは、時が止まっているかのような小駅に丹念に停車していくが、乗り降りする人は殆んど見かけなかった。


急勾配を避けているのか、線路は一貫して山の中腹あたりに敷かれている。

眺望は素晴らしいけれども、駅の位置は集落から見れば常に高台にある訳で、便利な位置ではなさそうである。
能登半島から次々と鉄道が消えていった最大の原因は、モータリゼーションだという。
集落の中心までドア・ツー・ドアで入っていける車の機動力に、鉄道はとても勝てないだろうと思う。

車窓から見下ろす集落が切り通しの陰に消え、鬱蒼と茂る木々の合間を、エンジンを轟かせながら右に左に縫って進むうちに、再び、滔々と水をたたえた海原が開ける。
海が見えたり隠れたり、あたかも紙芝居がめくられていくようで、目が離せない。
 

 

七尾から4つ目の駅で「能登中島」の駅名標が目に入り、ふと頬が緩んだ。
レイルウェイライターの種村直樹氏が、ここの平仮名の駅名標を見て、桜並木で知られる「能登鹿島」と早とちりして危うく下車しそうになった、という挿話を思い出したのである(「駅を旅する」より)。

荷物車のように窓が少ない客車がホームの反対側に陣取っているが、これは「オユ10形」という郵便車で、ここに展示されているのである。

郵便物の鉄道利用は昭和61年に終了しているのだが、鉄道書籍などで郵便車の中で行われていた仕分け作業について読んだことがあり、鉄道が地域にとってなくてはならなかった時代に思いを馳せた。

 

 

能登半島には、かつて、北陸本線の津幡駅から七尾・穴水を経て東岸の輪島駅まで至る七尾線と、穴水から半島の北端に近い蛸島駅に至る能登線がY字型に伸び、ともに国鉄の路線であった。

昭和63年に能登線が廃線指定を受け、第三セクターとして設立された「のと鉄道」に引き継がれて、一時は黒字も計上したという。

 

ところが、平成3年に、不採算を理由に和倉温泉ー輪島間がJRから「のと鉄道」に移管されると、その赤字が全線を圧迫する形となって、平成13年に穴水-輪島間が、平成17年に穴水-蛸島間が、それぞれ廃止された。

半島西岸の輪島へ行くために、半島の西側の根元に位置する津幡から、東岸の七尾を回るような線形では、客足が離れるのもやむを得なかったのかもしれない。

 

2駅先の能登鹿島駅は、高台で見通しが良く、桜の木々がホームに枝を伸ばす優しい佇まいだったが、さすがに1月末では、桜の名所としての面影はなかった。

 


 

終点の穴水駅には8時29分、定刻の到着だった。


一見、何の変哲もない終着駅に見えるけれど、長いホームが、長大編成の列車が乗り入れていた在りし日を物語っている。

ホームは2本あって、ここが分岐駅であった痕跡をそのまま残しているが、今は七尾と穴水を行き来する列車だけが乗り入れるだけだから、勿体ないような気もする。

何度か、全国に散らばる廃線跡に行き当たったことがあるけれども、このように敷地ばかりが広い駅が多く、虚しさだけが込み上げてきたものだった。

 

 

僕は、昭和60年代に七尾線を乗り通したことがあるから、ここは曽遊の地のはずだが、全く記憶に残っていない。

その時は輪島から金沢まで急行「能登路」を使ったので、何の変哲もない通過駅として気にも留めなかったのだろう。

 

穴水駅から輪島駅にかけては急勾配が続き、列車は、平行する道路の車に次々と抜かれる有り様だったと聞く。
僕も、輪島への往路は特急バスを利用している。

金沢から輪島まで、当時の急行「能登路」で約2時間30分前後、西岸沿いに直行する特急バスは2時間ちょうどと、決して大差と言うわけではなかったのだが。

 

輪島まで来た際に、どうして穴水から蛸島へ伸びる能登線に乗っておかなかったのだろう、という後悔が改めて込み上げてくる。

 

 

かつて、展望型の急行列車として活躍した「のと恋路」号が、片隅に静態保存されていた。

 

愛称に似合わず武骨な外見であるが、「のと恋路」号もその頃に活躍したのだろう。


海側を向いたソファーを備えるなど、伊豆急行の「リゾート21」やJR五能線の「リゾートしらかみ」を彷彿とさせる車両だったので、観光鉄道として脱皮できる可能性は大いにあったはずである。

この列車から能登半島の車窓を眺めてみたかったな、と思う。

 

 

今回、七尾までは金沢を経由する「グリーンライナー」で来たのだから、図らずも往年の鉄路を忠実にたどったことになる。

 

だいぶ北まで来たつもりになっていたが、七尾から穴水までののと鉄道は、距離にして33.1km、地図で見れば、能登半島の中央部を大きくえぐっている七尾湾の南から北まで渡っただけである。

能登線を偲ぼうという訳ではないけれども、今回は、握り拳を突き上げているような形状の能登半島の最北端まで行ってみようと思っている。

ならば、旅はこれからが本番で、東海岸に沿って延々80km近いローカルバスの乗り継ぎが待っている。

 


 

僕が乗り込んだのは、穴水駅前を9時15分発の宇出津行きで、廃止された能登線の代替バスである。
 

駅前で待っていると、前面を真っ赤に塗られた新型の低床バスが現れた。

ローカル路線バスだから、てっきり旧型の車両だろうと思い込んでいたので、少なからず驚いたのだが、北陸鉄道に失礼だったかもしれない。

大都市のノンステップバスと同様の車体で、これから起伏の激しい山道を登り下りするのだから、床下をこすらないか心配になる。

 

 

乗車したのは、僕と、観光客らしくリュックを背負った初老の男性だけであった。
こんもりとした丘陵を越えて、鄙びた集落と集落を結んでいく路線バスは、鉄道より速度は劣るものの、経路は実にきめ細やかである。

 

 

今回の旅で、能登はつくづく山国だと思った。
それほど険しい地形ではないけれども、車窓の大半は、海ぎわまで迫り出す山々が占めている。

折り重なる山塊が覆い被さるような入り江の懐に、小さな家々が、寄り添うように集まっている。
 

軒先をこすらんばかりにバスが紡いでいく集落に、人影は全く見えなかった。
途中、このバスを乗り降りしたのは、合計して数人ほどではなかったか。
道端に並ぶ民家も、ことごとく扉を閉ざしている。
家々の間を縫うように曲がりくねっている狭い道路で、対向車と出会うこともほとんどなかった。

 

 

時折り、岬に抱かれた漁港に出ると、固まって停泊している漁船や桟橋に人影を見かけることがあり、視界が開けたことと相まって、何となくホッとしたものだった。

過疎地には違いないけれども、こうして家々が建ち、路線バスが走り、人間が暮らしている。
美しいけれども、決して寛容ではないはずの自然と折り合いながら、逞しく生活を営む人々の姿に、胸がつまる思いがした。

 

 

中居、比良、鹿波、沖波、鵜川、七見、矢波、波並とたどっていく停留所は、かつての能登線の駅と共通した名前で、いかにも海沿いらしい。

ところが、「駅前」と名のつく停留所は比良駅前、鵜川駅前、波並駅前の3ヶ所だけである。

廃止された能登線の遺構は全く見当たらないのは、既に自然に呑み込まれてしまったのか。

かろうじて駅の雰囲気を残していたのは、終点の宇出津駅前だけだった。

 

 

寂しい陸地を見守るように、海は穏やかにたゆたっているけれども、低く垂れ込めた厚い雲と暗い水平線は霞んで、境界が定かではない。

 

空を映す海面は、どこまでも暗く陰鬱である。

不意に、比較的大きな平地が開けて、幾許かの建物がひしめき、行き交う車が増えると宇出津駅前で、10時38分の到着だった。

 

 

簡素な待合室と数台のバスが並ぶ広場で、次に乗り継ぐ珠洲鉢ヶ崎行きのバスを探したが、どこにも見当たらない。
隣りに待機している曽々木口行きのバスは、半島を横断して西岸に行く路線で、曽々木海岸と言えば能登でも有数の景勝地と言われているから、つい、そそられるのだけれど、ここで能登の最北端を目指すという初志を曲げる訳にはいかない。


振り返ると、それまで乗ってきたバスが、何食わぬ顔をして「珠洲鉢ヶ崎」に行先表示を変えているではないか。

 

 

「なんだ、そのまま乗っていて良かったんかい」

穴水駅からずっと一緒だった男性が、運転手に笑いながらツッコミを入れている。

「いや、いったんここで料金を払っていただかなきゃならんので」

と、運転手が頭をかいている。
そのようなことは承知していましたよ、と言わんばかりの何食わぬ顔で、僕は悠然と一服してから、バスに踵を返して、再び同じ席に腰を下ろした。

1時間以上も座っていた席だから、まだ自分の尻の温もりが残っていた。

 

 

バスは宇出津駅前を10時50分に発車した。

道端の左手に平行する一定の幅の敷地が見え隠れして、心なしか、生い繁る雑草の背丈が低いようである。

自然に還ってしまった能登線の跡だろうか。

一方は海、一方は山に挟まれた僅かな隙間を、道路はうねうねと延びている。


小浦、真脇、九十九湾小木、松波、恋路浜──
 

水平線を遮る島々は、いつしか消え失せて、吸い込まれそうなほどに開けた海原が、車窓いっぱいに広がった。
飯田湾である。
 

 

その一角で、緩やかに弧を描いている砂浜が、恋路海岸である。

700年前の若き男女の悲恋と死、その恋を引き裂いた行為を悔いて僧侶となった男の物語が地名の由来だと聞く。
ガイドブックは恋路浜のロマンを謳い上げているが、この日の空は黒々とした雲で隙間なく閉ざされ、押し寄せる波は穏やかでありながら、まるで哭いているかのようだった。

観光客どころか、人影は全く見当たらなかった。

 

 

豊かな車窓に釘付けとなった1時間が過ぎ、バスは古びた町並みの路地を曲がって、11時49分に鵜飼駅前に到着した。

このバスが向かう珠洲鉢ヶ崎は、僕の目的地の途中にあるが、次に乗り継ぐ木の浦行きのバスの始発が鵜飼駅前なので、ここで下車したのである。

 

鉄道時代は1本の列車で終点まで行けたのだろうが、バスに転換されると3本に刻まれて、かえって不便に感じられるのは、如何なる理由なのか。

もともと、能登線を乗り通すような需要がなかったのか、それとも鉄路がなくなって人の流れが変わったのか。

 

 

バスが走り去った無人の駅前に、ぽつんと1人ぼっちで取り残されると、心細さがこみ上げてきた。

次のバスは、このような寂れた場所に来てくれるのだろうか、と何度も停留所のポールの時刻表を確かめたものだった。

 

かつて、この駅から出掛けたり帰って来たり、人々が集まっていた時代があったはずである。

列車が消えれば寂れるのは当たり前だけれども、遺構はいつまでも残されている。

この旅の4ヶ月後に、木の浦線の鵜飼駅前乗り入れは廃止されたという。

 


ここで、初めて、能登線の廃線跡を目の当たりにした。

廃止後10年が経ち、駅舎もホームも在りし日を偲ぶかのように保存されている。

レールが撤去されて、草ぼうぼうの路床が痛々しい。

 

どうして、このような遺跡を残しているのだろう、と首を傾げたくなった。

駅舎はバス乗り場としても使えるが、朽ち掛けたホームを眺めていれば、侘しくなるだけではないか。

勘弁してくれよ、とは鉄道を失った地元の人々の台詞かもしれないが、行きずりの旅人であっても、忸怩たる思いの遣り場に困るような鵜飼駅前であった。

 

 

ようやく木の浦行きの路線バスが姿を現した時には、ホッとした。

このバスはミニ四駆のように短躯な車体で、利用者の少なさが露骨に察せられる。

乗り込んでみれば、車庫から出てきたばかりらしく、暖房が全く効いていない。

待ち時間で身体がすっかり冷え切っていた僕は、座席に落ち着いてからも、がたがたと震えが止まらなかった。

 

 

この小型バスが走る区間は、それまでの人跡稀とも言えそうだった車窓と異なり、飯田、正院、蛸島と、珠洲市の古い町並みが続く。

道の駅「すずなり館」、珠洲市総合病院、県立飯田高校など、立派な公共施設もあり、久しぶりに大都会へ来た気分になった。

ところが、乗ってくる客は皆無である。

休日だから、学校や病院通いの人がいないのは理解できるけれども、経営不振で鉄道がバス転換されると、更に乗客数が減る、という全国的な傾向を地で行くような路線バスだった。

 

先程のバスの終点、鉢ヶ崎は、公園やホテル、日帰り温泉などが立ち並ぶ観光地だったが、真冬のオフ・シーズンで、ひっそりと氷雨が煙っているだけだった。

 

 

このあたりが能登半島の最東端にあたり、のと鉄道の沿線から離れたバスは、いよいよ握り拳の頂点へ向かっていく。
穏やかだった内海とは様相が大きく変わり、暗鬱な灰青色の海が、白い波頭を立ててうねっている。
高まる潮騒と、その上を渡っていく風の音が、バスに乗っている僕の耳にも届いてくるようだった。
 

凄みを増していく海山の変化を見つめながら、ついに奥能登まで来たのだなあ、と思う。
荒涼とした空と海が描く、いかにも北陸らしいこの光景こそ、僕の憧憬を煽り立てて、今回の旅の原動力となったのだ。

 

 

ここで思い浮かぶのは、松本清張の推理小説「ゼロの焦点」である。

 

実家の本棚で埃をかぶっていた単行本を手に取ったのは、中学生の頃だった。

父が買ったのか、母が買ったのか、今でも定かではない。
僕が初めて読んだ松本清張だった。
能登を舞台にした悲愴な連続殺人事件と、戦後の混乱に端を発する哀しい人間模様は、生き生きとした筆致で描かれた能登の情景とともに、強く僕の心を揺さぶった。

 


能登を訪れた主人公が、断崖に立ちながら思い浮かべるエドガー・アラン・ポーの詩が印象的である。

しかし、ごらん、空の乱れ
波が騒めいている

さながら塔がわずかに沈んで
どんよりとした潮を押しやったかのよう

あたかも塔の頂きが幕のような空に
かすかに裂け目をつくったかのよう

いまや波は赤く光る
時間は微かにひくく息づいている
この世のものとも思われぬ呻吟のなかに

海沿いの墓のなか
海ぎわの墓のなか──

この部分は2つの詩を合わせたもので、前半は「海の中の都市」、最後の2行は「アナベル・リー」からの引用である。

 


小泊港、能登伏見、能登宇治、粟津、葭ヶ浦──
 

 

バスは、ひっそりと家々がかたまる集落をたどりながら、高台を登る坂道に差しかかった。

これ以上は北へ行けません、と言うように左へカーブを切れば、そこが狼煙の町だった。

時刻は13時01分。
東京を出て15時間、金沢から7時間半、七尾から5時間あまりをかけて、僕は、ついに能登半島の最北端までたどり着いた。
 

 

前回の冒頭に記したように、バスを降りてから禄剛崎灯台への道のりは平坦ではなかったけれど、それだけの価値がある場所だった。
風が鳴り、足元で海が轟く断崖に立ちすくみながら、僕は「ゼロの焦点」の最後の場面を思い浮かべていた。

『また、波が来た。その間、また室田氏は、言葉を休んだ。そして、言葉を続けたときは、こう言った。 

 

「私は、あの海の下に、家内の墓があると思っています。そして、毎年、今ごろ、私は、ここを訪れて来ようと思います」 

 

禎子は、いつぞや、現在立っている場所と、百メートルと離れていない岩角に立って、心にうたった詩が、この時、不意に、胸によみがえった。

In her tomb by the sounding sea!


とどろく海辺の妻の墓!

禎子の目を烈風が叩いた』

 

 

舞台は禄剛崎ではなく、西岸の能登金剛の南に位置する赤住海岸とされているが、それはどうでも良い。

こうして、念願の能登を心ゆくまで旅することが出来たのだから。
僅かな滞在時間で去るのは忍びなかったけれど、振り切るように狼煙の町に下りてきた僕の前に、30分で終点の木の浦まで往復してきた13時31分発鵜飼駅行きのバスが現れた。

「灯台に登ってきたんですか?」

来る時には一言も発しなかった運転手が、バックミラー越しに笑っていた。

 

 

目的は達したけれども、能登半島の最果てまで来たのだから、帰りも大仕事である。


このバスは鵜飼駅前に14時35分に到着するが、そこからの接続が滅茶滅茶で、宇出津駅前行きが14時24分に出たばかり、次の宇出津行きは16時08分までない。
宇出津に17時08分に着き、17時31分発の穴水駅行きに乗り換えれば、到着が18時27分。
穴水発18時52分の「のと鉄道」で七尾着19時34分、19時39分発のJR七尾線に乗り継ぐと、金沢到着は21時12分になる。

北陸鉄道バスのHPと時刻表を何度も睨みながら、僕は溜め息をついたものだった。
能登は何と広く、遠いのか、と。
今回の旅の目的は金沢にいる母を見舞うことであるから、あまり遅い時間に着くことは憚られた。
金沢に行くついでに、ちょっと最北端まで往復して来ようと言うほど、能登は甘くなかったのである。
 

 

僕は、珠洲の中心街を抜けた道の駅「すずなり館」の前で、バスを乗り捨てた。
時刻は14時19分。
どうせ長い待ち時間ならば、何もない鵜飼駅前ではなく、道の駅でのんびりしよう、と開き直ったわけではない。
ここに救世主がいたのである。

 

 

能登半島には金沢発着の北陸鉄道の特急バス網が何系統も張り巡らされている。

 

最も本数が多いのが、1日11往復の「輪島特急」であるが、その他にも、和倉温泉・七尾と金沢を結ぶ「七尾特急」や「中能登特急」、珠洲鉢ヶ崎発着の「珠洲特急」、西岸の大谷、曽々木を結ぶ「大谷特急」、門前、富来、高浜、羽咋を結ぶ「門前特急」などが運行されている。

能登側を午前に出発、金沢を午後に出発する路線が多く、「珠洲特急」は珠洲鉢ヶ崎13時38分発が上り最終便であり、鉢ヶ崎を14時01分に通過する僕は、思わず歯噛みしたくなる。

特急バスは、能登の人々が金沢に行き、戻って来る時間帯に合わせているのだろう。

 

 

それだけに、1日2往復と目立たない「宇出津真脇特急」に、「すずなり館」を14時51分に発車する上り便を見つけた時には、小躍りしたものだった。

金沢駅の到着が18時14分、まるで禄剛崎を日帰りで往復する僕のためにあるようなバスではないか。

 

道の駅の一角で待機している特急バスの姿を確かめると、これで旅を達成できる、という確信が持てた。

 

 

珠洲市役所前、南鵜飼、本鵜島、恋路浜、内浦庁舎前、九十九湾、小木港、縄文真脇温泉前、本小浦、羽根漁港、能登町役場前、宇出津駅前──
 

特急バスは、往路で路線バスを乗り継いだ道筋を忠実に、時にバイパスで集落の外れをショートカットしながら、能登半島を南下する。

あらかじめ時刻表で下調べをしてきたにも関わらず、路線バスを乗り継いだ往路は、どこか頼りなかった。

それが旅の情緒でもあるのだろうが、きちんと目的地まで連れていって貰えるのだろうか、と常に不安がつきまとっていたのも事実である。

こうして、特急バスの力強い走りに身を任せれば、改めてそのことが実感される。

かつての鉄道もそうだったのだろう。

 

 

宇出津を出ると、特急バスは、往路の経路に別れを告げ、東海岸から離れて県道57号線に右折し、奥能登丘陵の懐に分け入っていく。

 

長坂、上町、柳田天坂と進むにつれて、いつしか周囲の山や田畑は雪をまとい、能登空港では除雪された雪の塊がうず高く積み上げられていた。

そう言えば、東海岸は、禄剛崎まで雪がなかったな、と今更ながら不思議になった。

 

 

 

能登空港ICから能越自動車道に乗ると、穴水此の木バスストップを経て「のと里山海道」へ、坦々としたハイウェイクルージングが続く。

能登半島に高規格道路があったのか、と驚嘆したが、これでは鉄道が生き残れるはずがないな、とも諦観した。

バスの走りはいよいよ力強い。

快適な乗り心地であるものの、往路のローカルバスに比べて退屈に見舞われたのは、これで金沢に行けるという安心感で気が緩んだのも一因であろう。 

 

 

羽咋で西海岸に出たあたりで、とっぷりと日が暮れた。
雨に濡れた路面に、行き交う車のヘッドライトが照り輝いている。

松林越しに垣間見える千里浜は、闇に包まれた海面に幾重にも逆巻く白い波濤が浮かび上がって、大変な荒れ模様だった。

道路が水を被らないのか、と心配になった。

 

 

父が運転する車で出かけた40年前の家族旅行は、輪島まで足を伸ばした記憶がある。

帰り道で千里浜を走ったのが、確か、真昼間の晴天下だったと思う。

 

今、乗っている特急バスが砂浜を走る訳ではないし、季節も時間帯も天候も異なるから、当時の面影は全く感じられない。

寂しいところなのだな、と思うけれども、こちらの方が能登半島に相応しいような気もする。

 

 

内灘で一般道に降りると、道路の中央に埋め込まれた消雪パイプから溢れ出す水が、洪水のようだった。

 

家族で千里浜を訪れた帰りに、車の窓からとんでもなく大きな夕陽を拝んだのは、内灘海岸であった。

ならば、僕が「宇出津真脇特急」バスで走った行程の後半は、幼少時の家族旅行をなぞったことになる。

これから、弟と金沢市内に住んでいる母を訪ねるつもりなのだが、思い出の能登に寄って来たよ、と話してみようかと思う。

またそんな道草をして、とたしなめられるのがオチかな、と苦笑いが浮かんだ。

 

 

金沢市内に雪はなかったけれども、3時間あまりの特急バスの旅を終えて金沢駅西口に降り立った僕の頬を、雨混じりの烈風が激しく叩いた。
能登で触れた自然の厳しさに思いを馳せながらも、順調だった旅に、僕は大いに満足していた。

翌日の東京への帰路で、北陸の自然の猛威を思い知らされる羽目になろうとは、夢にも思っていなかった。(続きます)

 



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