第17章 平成2年 2階建て高速バス「ファンタジア」号で夢の国へショート・トリップ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:高速バス「ファンタジア」号、JRバス関東上野湾岸線】

 


東京駅八重洲口を発車したバスは、八重洲通りを東に進み、宝町ランプの狭隘な直角カーブを巧みに抜けて、急な下り坂になっている流入路を駆け下ると、首都高速都心環状線に入った。


一息つく暇もなく、他の車の隙間を縫って右側車線に移り、江戸橋JCTで首都高速6号向島線に分岐、更に箱崎JCTで9号深川線に歩を進めて行く。

交通量が多く、車の波に揉まれているようなバスの走りは滞りがちだが、幾重にも高速道路が入り組んでいる景観は未来的で楽しい。

 

ソ連製のSF映画「惑星ソラリス」を監督したアンドレイ・タルコフスキーが、未来都市の描写として、東京の首都高速でロケした気持ちが理解できるような気がする。

タルコフスキー監督は、この場面を大阪の万国博覧会で撮影する計画であったが、許可がなかなか下りず、許可が出た時は既に万博は閉会しており、仕方なく東京で撮影したのである。

 

僕らにしてみれば、人類が外宇宙に飛び出している未来を舞台にしながら、昭和40年代の日本車が走っている場面に戸惑ってしまうのだが、タルコフスキー監督は、ビル街を縫う高架と、地下トンネルが連続する光景に満足し、「建築では疑いもなく日本は最先端だ」と日記で賞賛したと聞く。

 

 

この道筋は、東京駅から静岡、名古屋方面へ向かう「東名ハイウェイバス」や、つくば、水戸、日立、いわき方面に向かう「常磐高速バス」で何度も経験し、バスの巨体を操る運転手の技量に舌を巻いたものだったが、今回は運転手の姿が見えないから、少しばかり勝手が違う。

 

この日、僕は、見慣れた都心の景観を2階建てバスの2階席から眺めているので、運転手が目に入るはずがない。

2階建てバスに乗るのは滅多にない体験であるし、心が弾むのだが、今回ばかりは肩身の狭い気分を終始味わうことになった。

 

 
このバスは、昭和58年に開園した東京ディズニーランドに向かっている。

車内を見渡してみれば、はしゃいでいる子供を連れた家族やカップル、女性のグループ客ばかりで、夢の国への期待を胸に、お喋りに興じている乗客が多く、僕のような1人客は皆無だった。

他の乗客から、あの男、テーマパークに1人で何しに行くつもりか、と後ろ指を指されているような気がしないでもない。

 

ディズニーと言えば、幾つかの映画を観た記憶はある。

「白雪姫」「ピノキオ」「ダンボ」「シンデレラ」「ピーターパン」「眠れる森の美女」「不思議の国のアリス」「くまのプーさん」などと言ったアニメは幼少時から親しんできたし、「海底2万哩」「ラブパック」「ブラックホール」などの実写映画も、独り暮らしを始めてビデオデッキを購入した後に、レンタルで鑑賞している。

夢があって楽しい物語が多かったな、と思うものの、ディズニーの世界観やキャラクターに強い思い入れがある訳ではない。

 

米国外のディズニーランドとしては初めて設けられたTDLが、何を見せたり体験させてくれるのか、どうして年間1800万人にも及ぶ観客が押し掛けるのか、僕にはピンと来ていなかったし、大した関心もなかった。

 

 

そのような僕が、TDL行きの高速バスの1席に収まっているのは掛け値なしに場違いで、乗った経験のない高速バス路線を体験してみたい、という趣味が高じての行為に他ならない。

 

当時の僕は高速バスに魅入られていて、暇を見つけては「東名ハイウェイバス」「常磐高速バス」「中央高速バス」などに繰り返し乗りに出掛けていたのだが、それだけでなく、未乗の路線を体験したいという一種の収集癖にも取り憑かれていた。

ところが、当時は高速バス路線がそれほど多くない時代であったので、たとえ無縁のTDLへ行く路線であろうが、乗りたくて堪らなかったのである。

 

ディズニーの世界に嵌まってTDLを訪れるのも、高速バスに惚れ込んで東京駅-TDL線に乗るのも、趣味として優劣はないと思うのだが、身が縮む思いがするのは如何ともし難い。

車内は満席に近く、TDLに何の用もない人間が1席を占めている点で、罪悪感を覚えてしまう。

 

 

僕が乗車している高速バスの正式名称は「東京湾岸線」で、昭和58年に、当時の国鉄バスが、鉄道を利用して日本各地から訪れる観光客のために開設した。

開園当時のTDLは、鉄道が通じていない土地に建設されたので、瞬く間に人気路線に育ち、平成2年3月に2階建て車両「ファンタジア」号が導入されたのである。

 

時刻表の巻末の会社線欄を開けば、「関東地方」のページの一角に「東京港遊覧・東京ディズニーランド」の項目が設けられ、東京都営の隅田川の水上バスや、当時の最寄駅だった地下鉄東西線浦安駅とTDLを結ぶ路線バスと並んで「東京湾岸線」が掲載され、上野駅とTDLを結ぶ「上野湾岸線」も添えられている。

東京駅とTDLの間は所要30分、「約10分おき」という頻回の運行であったことが分かる。

 

 
大した乗車時間ではなかったからなのか、「ファンタジア」号の車中の記憶は曖昧である。

2階建てバスは楽しい乗り物に違いないけれども、天井は低いし、横4列・縦13列という狭い座席にぎっしりと詰め込まれているので、窮屈だった印象しか残っていない。

首都高速都心環状線、6号向島線、9号深川線の車窓も、都心のビル街から下町の倉庫や工場群を映すばかりで、東京の街並みを高い視点から俯瞰するという面白味はあるものの、心に刻まれるような珍しい景観がある訳でもない。

それでも、SF映画の舞台になった都市高速道路を走って、夢の国に向かうとは、鉄道とは異なる非日常的な体験だったと思う。

 

「ファンタジア」号は、我が国で高速バスに初めて2階建てバスを採用した路線である。

「東京湾岸線」に投入された車両は、「ファンタジア」号が投入される前も、国鉄で初となるハイデッカー車両だったり、塗装を変更したり、なかなか意欲的であった。

白地に青のラインとツバメマークが入った現在のJRバスの塗装は、「東京湾岸線」が発祥であったという。

 

 

2階客室に運転手の目が届かないという理由から、2階建てバスの運行は車掌を乗務させるツーマン運行が義務づけられ、平成2年3月に運行を開始した当初の「ファンタジア」号も車掌の乗務を余儀なくされたものの、同じ年の5月に、2階席にカメラを設置することでワンマン運転の認可が下りたのである。

 

今回のささやかなバス旅の日付が、平成2年である、ということ以外に判然としないのだが、乗車した時に車掌を目にした覚えがないので、5月以降であることは間違いない。

我が国の長距離高速バスで初めて2階建て車両を投入した東京-山口・下関線「ドリームふくふく」号が登場するのは平成3年3月であり、以後、夜行高速路線を中心に2階建てバスが急速に広まっていく。


 

夜行高速バスに2階建てバスが採用されたのは、定員を増やせるという利点が主な理由と言われているが、「東京湾岸線」に2階建てバスを導入したのは、平成2年3月の京葉線東京駅乗り入れを見据えての施策とされているので、2階建てバスの魅力そのものを売りにしたのであろう。

 

バスで30分、と言っても、渋滞で1時間近くを費やす場合も少なくなく、京葉線の東京-舞浜間は17分である。

東京駅の京葉線ホームが他線ホームと400~500m離れているので、八重洲口から乗れる「ファンタジア」号の方が楽ではないか、と思うのだが、バスならば600円、鉄道ならば210円と運賃に大差がつく。

2階建てバスの導入により一時的な利用者の増加はあっても、長期的な乗客減は如何ともし難く、最大で1日62往復が運行された「東京湾岸線」も、京葉線開業の4年後から1日20往復、14往復と減便を重ね、平成7年に運行を取り止めたのである。

 

 

辰巳JCTで首都高速湾岸線に合流すると、空も左右の景観もいっぺんに広がって開放的な気分に浸れたが、「ファンタジア」号は7km程度を走っただけで、浦安ランプから一般道に降りた。

当時の浦安付近の首都高速湾岸線も、並行する国道357号線も、沿道や中央分離帯はぼうぼうと雑草が伸び放題の空き地が少なくなかった。

殺風景な新開地の雰囲気があって、このような土地にテーマパークを建設したのか、と思う。

 

 

初めて降り立ったTDLの門前もあっけらかんとして、燦々と降り注ぐ陽の光ばかりが眩しく、これといった夢の国らしい演出も見当たらず、とらえどころがない。

バスを降りた人々はぞろぞろと正門に向かっているが、僕は、上野駅行きのバス乗り場を探して、人混みからそっと抜け出した。

最初から入園する気はなく、「上野湾岸線」で折り返す心づもりだったのである。

 

上野行きのバスは普通のハイデッカーで、往路に比べれば見劣りがする。

午前の早い時間帯にTDLから帰路につく人がいるはずもなく、車内は大いにすいていて、最前列の席で車窓を楽しめたのが唯一の慰みであった。

首都高速湾岸線、9号深川線、6号向島線と、来たばかりの道を折り返し、江戸橋JCTで1号上野線に入ってからが新鮮な道のりであったけれども、両側にそそり立つビル街の谷間を行くだけの代わり映えのしない車窓だった。

 

 

終点まで定時運転で40分、遅れたのかどうかすら覚えていないけれども、上野駅で高速バスを降りるのは初めての経験だった。

このような路地に高速バスが入り込んで良いのか、と身を乗り出すほどの狭い乗り場だったが、後に、首都高速6号向島線の渋滞を避けるために、「常磐高速バス」上り便の大半が立ち寄るようになる。

 

「上野湾岸線」の開業は、昭和60年3月の東北・上越新幹線上野駅乗り入れと同時で、国鉄バスのTDL線は新幹線しか眼中にないのか、と、新幹線が通っていない故郷を持つ者としては忸怩たる思いだったけれども、別に新幹線を利用しないから「上野湾岸線」を使っていけないという理屈はない。

 

最大で1日45往復が運行された「上野湾岸線」も、京葉線開通の2年後に減便され、「東京湾岸線」より1か月早く廃止された。

平成3年に東北・上越新幹線が東京駅乗り入れを果たしているが、それから4年も存続したということは、新幹線の利用客ばかりが目当てではなかったのかもしれない。

 

 

TDLにすら用のない僕にとっては、瞬く間に過ぎ去ったバス旅であり、その後再利用する機会もなかった。

時間的にも運行本数でも、気晴らしで利用するには手頃な高速バスだったのだが、1人では乗りづらいという点で、僕には敷居が高かった。

 

それでも、この旅は、未だに強烈な印象を残している。

その後、幾度かTDLを訪れる機会があり、園内できちんと遊んだこともあるのだが、今でもTDLと言われて真っ先に脳裏に思い浮かぶのが、「東京湾岸線」と「上野湾岸線」で往復した初回の、あっけらかんとした門前の風景なのである。

 



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