第16章 平成2年 高速バス「はさき」号で利根川を下り黒潮踊る岬の町へ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:高速バス「はさき」号、関東鉄道バス鹿島神宮-銚子線】




平成2年7月の東京-麻生間高速バス「いたこ・あそう」号の登場と同時に、東京と波崎を結ぶ「はさき」号が開業した。


波崎、という名に惹かれて、真っ先に地図を開いてみた。

字面を見ただけで、紺碧の海を見晴るかす、緑の岬が思い浮かぶような気がしたのだ。

鹿島灘に面する海岸と利根川に挟まれた、東西に細長い三角形の町域を持つ町で、九十九里浜の果てにある銚子市の北側に、利根川の河口を挟んで向かい合っている。


第1印象は、銚子のすぐ手前ではないか、であった。

どうせならば、「はさき」号が利根川を渡って銚子まで足を伸ばせばいいのに、と思った僕は、我が国有数の観光地として銚子の知名度が高いとは言え、波崎町に失礼だったかもしれない。

波崎町は茨城県、銚子市は千葉県で、県境が利根川に沿って引かれているから、行政区分も異なる。

銚子を起終点にすると、路線免許を取得する際の手続きが一層煩雑になるのだろう。


平成の初頭は、全国で高速バスがブームとなり、新規開業路線が百出していた。

路線新設の申請から開業までに長期間を要するケースもあったようで、認可する運輸省も手一杯なのではないか、と察せられた。

東京と銚子を結ぶ高速バス「犬吠」号が平成3年6月に開業しているから、「はさき」号が申請された頃に、計画が持ち上がっていたのかもしれない。



高速バス路線を申請するためには、詳細な路線図を作成して、通過する道路の制限速度に則った運行予定を細かく設定し、乗務員の勤務時間や休憩を勘案した運用も考慮し、更に通過する地域を営業エリアとするバス事業者全ての賛同も得る調整が必要なのだと耳にしたことがある。

高速道路を通過するだけという地域のバス事業者まで参入している路線が、少なからず存在するのも、そのためであった。

赤字路線を多数抱えていた地方のバス事業者にとって、高速バスは、ドル箱になり得る救世主と捉えられていたようである。

高速バスの開業によって収支が好転し、黒字を計上した事業者の例も盛んに取り沙汰されて、我も我もと高速バス路線への参入に名乗りを上げていた時代だった。


そのおかげで、毎月時刻表をめくるたびに、あの街にもバスで行けるようになった、この町へも東京からのバスが走り始めた、と旅心を誘われた。

思えば、恵まれた時代だったと思う。



東関東自動車道に関連する路線で言うならば、平成元年に開業した東京-鹿島神宮間高速バス「かしま」号が終点とする鹿嶋市は、鉄道も通じているけれども、僕は高速バスで初めて訪れた。

「いたこ・あそう」号が向かう麻生町は、高速バスが登場しなければ、行く機会すらなかっただろう。

東関東自動車道を全線走破するのも初めての経験で、運行本数が多い「かしま」号は、首都高速湾岸線とセットのドライブ気分を味わえることが楽しくて、何度も乗りに出掛けた。


終点の鹿島神宮駅に着いた後は、最初こそJR鹿島線を折り返しただけであったが、後に鹿島臨海鉄道大洗鹿島線で水戸に抜けたり、路線バスで銚子に足を伸ばしたこともある。

つまり、波崎は訪れたことがあるはずだった。



鹿嶋と銚子を結ぶ路線バスは2系統が運行されている。

1つの系統は「利根川線」と呼ばれ、鹿嶋市内ではY字型に掘り込まれた鹿島港に沿って鹿嶋市役所や鹿島製鉄所を経由し、神栖町に入ると、日川からひたすら利根川の北岸に寄り添い、利根川の河口に架かる銚子大橋を渡って銚子市内に到る。

もう1つは「海岸線」と呼ばれ、鹿嶋市内は国道124号の旧道をたどり、泉川で「利根川線」の経路と合流、神栖町内の池ノ端で利根川線と分かれて鹿島灘に出て、知手、土合ヶ原、植松を経て、銚子大橋の手前まで海沿いを進む。


細長い地域に2系統も平行して路線バスが運行されているとは、それだけ需要が多いのであろう。



僕が「かしま」号から乗り継いだのは、「利根川線」だったと記憶している。


鹿嶋の町並みを外れると、臨海工業地域を構成する工場や事務所の建物が、これほどあける必要があるのか、と首を傾げたくなるほどの広い間隔で散在し、遠くに林立する煙突群を望むという、人工的で乾いた景観が、古びたバスに揺られる旅の導入部だった。

神栖町から波崎町に入る頃になると、鹿島灘に沿う砂丘地帯に踏み入って、家並みこそ長く途切れることはなく続いているものの、ところどころに手つかずで荒れた原野や松林が目立つようになる。

右手を流れているはずの利根川が見える場所は、殆んどなかった記憶がある。

地形の起伏もなく、遠くに山並みが見える訳でもなく、どこまで進んでも単調で、何処か日本離れしたつかみどころのない土地だな、と欠伸を噛み殺したものだった。


関東鉄道のバス路線としては、高速バスを除けば最も長い距離を走るだけのことはあって、銚子までの1時間40分は退屈の一語に尽き、早く銚子に着かないかな、と思った。

快晴に恵まれた真夏の昼下がりだったので、松林や野菜畑、原野に生い繁る草木の緑が、眩しく目に滲みた。


最後に銚子大橋で利根川の河口を渡る時の眺望は、流域面積日本一の大河に相応しく雄大で素晴らしかったけれども、やっと着いたか、と溜息が出た。



面白みに欠けると言っても、ここまで利根川を満喫させてくれたバスは他に思い浮かばないから、貴重な体験だったと思っているけれど、最も印象的だったのは、起点である鹿島神宮の乗り場だった。


『かつては国鉄駅が町の交通の中心であり、バスも駅前に発着していた。

しかし、現在では市街地の中心部にバスターミナルが設けられ、国鉄駅を無視して運行する型が多くなっている。

鹿島神宮の場合も、駅は谷底にあるがバスの発着所は台地の上にある。

最近の時刻表は親切になっていて、「会社線」のページの欄外に「鹿島神宮=鹿島神宮駅から徒歩10分」と注記してある。

道を訊ねた駅員も10分ぐらいだと教えてくれた。

それで、私たちは駅から台上へ通じる坂道を登って行った。

斜面は宅地造成がなされたばかりで、ほとんど家は建っていないが、ところどころに建築中の家がある。

いずれも太い梁と瓦屋根の堂々たる建物で、東京などでは見ることのできない「本建築」である。

地主たちが土地を売った金で豪邸を建てているにちがいない。

そんなことを話し合い、立ち止まりながら登って行くと、東京発6時45分の特急「あやめ1号」が進入してくるのが見下ろせた。

これも立ち止まって眺めた。

道に迷ったわけでもなく、遠回りもしなかったのに、のんびり歩きすぎたので、徒歩で10分のはずのバスターミナルまで25分かかり、8時40分発の鉾田行は発車してしまった。

次のバスは9時40分である』


紀行作家宮脇俊三氏が、鹿島臨海鉄道に乗車して鹿島神宮駅に着き、次は鹿島鉄道に乗るべく鉾田駅へ向かう路線バスに乗り換えようとしている「時刻表おくのほそ道」の一節である。

宮脇氏が訪れたのは、鹿島臨海工業地域が開発されたばかりの昭和50年代であったが、僕が旅した平成の初頭には、台地の宅地化もほぼ完成していた。

鹿島神宮駅を見下ろす坂道の眺望は素晴らしかったけれども、バスの時刻が気になって、つい急ぎ足になる。


『ついのんびり歩いて、1時間損をした』


と、鷹揚に構えていた宮脇先生のようには振る舞えないのである。

電車とバスを乗り継ぐだけのために、これほど長い距離を、息を切らせて歩かなければならないのか、と情けなくなった記憶がある。



銚子行きの路線バスが出るのは、関東鉄道バスの営業所と車庫も兼ねた鹿島バスターミナルで、待合室や出札窓口を備えた建物もあり、銚子や鉾田ばかりではなく、水戸、玉造、佐原方面への路線バスも出入りしていたと言う。


宮脇氏は、町の中心として君臨していた国鉄駅が路線バスから無視されるようになった傾向を嘆いておられるが、古色蒼然とした鹿島バスターミナルの造りを見れば、鹿嶋市では鉄道の方が新参者で、昭和45年に国鉄鹿島線が開通するまで、こちらが街の中心だったのではないか、と思う。

鹿嶋の古くからの市街地の大半は鹿島台地の上に広がっていて、鹿島神宮駅の周辺は、如何にも新開地を思わせる荒削りな佇まいである。

鹿島線は、台地を登らず町外れを終点にした形だが、東京や千葉方面へ直通する鉄道が完成すれば、そちらが交通拠点として発展していく。

せめて、関東鉄道バスも参入している高速バスが立ち寄ればいいのに、と思うのだが、「かしま」号は鹿島神宮駅だけに出入りして、鹿島バスターミナルには一瞥もくれなかった。


平成21年に鹿島バスターミナルは廃止され、路線バスの起終点は鹿島神宮駅前に移ったものの、鹿嶋市を発着する一般路線バスも次々と姿を消して、現在も健在なのは銚子方面の系統だけという体たらくである。



路線バス「利根川線」に乗ったことがある以上は、波崎町を通過しているはずなのに、あまりにも単調な車窓でぼんやりしていたのか、全く覚えていない。

銚子の手前で、垣根に囲まれた家並みが建て込んできて、道幅がそれまでになく狭くなり、右へのカーブがきつく感じられた集落の記憶がかろうじて残っているのだが、そのあたりが波崎町の中心だったろうか。

高速バスの起終点となるような町だったっけ、と自分の記憶の曖昧さに呆れながら、さっそく「はさき」号に乗りに出掛けたのは、平成3年の早春の日曜日のことだった。


開業当初の「はさき」号は、「いたこ・あそう」号と同じく1日2往復で、波崎町役場を7時05分と8時35分に発つ上り便と、東京駅八重洲南口を16時20分と18時20分に折り返す下り便だけであった。

僕が選んだのは東京駅を16時20分に発つ便で、仕事のある日には乗れない微妙な時間であるが、18時20分の便では終点の波崎町役場に着くのが20時50分になってしまう。

休日に朝寝坊が出来るのは嬉しいけれども、乗り場で「はさき」号を待ちながら、今夜東京に戻ってくるのは何時になるのだろう、と心配になった。



波崎には鉄道が通っていない。

「はさき」号に乗り終えたら、路線バスで銚子に出るより方法はなく、銚子から東京へ戻る列車の有無を時刻表で下調べする必要があった。

東京発16時20分の便が終点に着くのは、18時50分である。

銚子から東京へ向かう特急列車は、成田線経由の「すいごう」の最終が17時22分、総武本線経由の「しおさい」の最終が18時30分であるため、とても間に合わないけれども、各駅停車ならば千葉行きが銚子発22時過ぎまで運転されている。

最終列車では千葉から東京まで戻って来られない可能性があるけれど、20時台に発車する列車ならば、2時間あまりで到着する千葉から総武線快速なり各駅停車なり、何らかの手段が残されていることだろう。


ただし、日が長くなり始めた季節とは言え、せっかく波崎に行っても真っ暗になってしまっているものと予想されるのは、残念でならない。

路線バス「利根川線」で目にした、陽光溢れる利根川沿岸の景色と再会したくても、「はさき」号の運行ダイヤでは叶わぬ夢である。

もう少し季節をずらした方が良かったのかもしれない。

退屈極まりなかった鹿島と銚子の間の車窓を、今一度眺めたくなっている自分の心境の変化が、意外だった。



黄昏と言うにはまだ早い頃合いの東京駅を定刻に後にして、宝町ランプで首都高速都心環状線に入り、江戸橋JCTで6号向島線、箱崎JCTで9号深川線へと目まぐるしく渡り歩くまでは、覚悟しているとは言っても、渋滞に嵌まるもどかしさを禁じ得ない。


江戸橋JCTには、高速道路で珍しい信号機が置かれていたことがある。

この区間は、都心環状線から1号上野線と6号向島線が分岐する江戸橋JCT、6号向島線から9号深川線が分岐する箱崎JCT、そして6号向島線から7号小松川線が分岐する両国JCTと、5本の高速道路が短い間隔で交わって車が集中する首都高速屈指の要衝である。

入り組んだ高架道路を地上から見上げて、神話に出てくるヤマタノオロチになぞらえた御仁もいると言う。


江戸橋JCTから箱崎JCTにかけての6号向島線は、かつては片側3車線が設けられていて、左側2車線が向島方面、右側1車線が深川方面と分けられていたため、都心環状線内回りから9号深川線に向かうためには、最大2車線を跨ぐ車線変更が必要だった。

運転手が前方とサイドミラーに忙しく視線を転じ、タイミングを見計らいながらハンドルを回す姿を観察するのは、スリルを感じる一方で、バスの巨体を見事に操る腕前には、いつも感嘆させられる。



江戸橋JCTでは、1号上野線の上り2車線と6号向島線の2車線が最初に合流した上で、続け様に都心環状線外回りの2車線に合流、そのすぐ先に宝町ランプが設置されていることから、1号上野線と6号向島線の合流部の本線上に、それぞれ信号機が設置されたのである。


首都高速道路公団によれば、「この区間の安全性を高め交通を円滑にする対策として信号機を設置した」との見解だったと聞く。

信号機を設置することと「交通を円滑にする」ことは矛盾しているように感じてしまうけれども、これは所謂お役所言葉であろう。

「安全性を高め」とは複雑な合流による事故防止という、そのままの意味であろうが、「交通を円滑にする」とは、決して渋滞を緩和して車の流れを滑らかにする、という意味合いではなく、前段と同じく、余計な車線規制や通行止めを余儀なくされる事故を無くしたい、という意図だろう。

もともと渋滞多発区間なのだから、信号機の1つや2つ置かれても大して変わらないではないか、と苦笑したくなるような道路構造であるけれど、過密で土地が少ない都心部に高速道路を建設した経緯を考えれば、これくらいの制約は致し方ないと思う。


首都高速道路公団も決して手をこまねいていた訳ではなく、1号上野線の上りと6号向島線上りの車線をそれぞれ1車線に絞り、宝町出口付近の都心環状線を2車線から3車線に拡張する工事を行い、平成3年に信号機を撤去している。



だからと言って、首都高速道路の信号機が皆無になったのではない。

有名なのは、外環自動車道と首都高速5号池袋線・大宮線が接続する美女木JCTの出入路で、用地取得の制限上、平面交差を余儀なくされている車の流れを整理するために設けられた信号機であろう。


また、江戸川JCTに近接する箱崎JCTは、首都高速6号向島線と9号深川線が分岐するばかりでなく、西側に箱崎ランプが、東側に浜町ランプと清洲橋ランプが併設されている。

ランプを出入りする車のために、箱崎JCTの下層に、箱崎フロアと呼ばれる時計回り、かつ一方通行のロータリーが設けられた。

このロータリーを使えば、箱崎、浜町、清洲橋の各ランプは、6号向島線、7号小松川線、9号深川線のいずれの方向にも出入りが可能となっている。

浜町ランプから箱崎ロータリーに進入する車と、ロータリーを周回する車を分け隔てるための信号機が、合流部分に設置されているのである。



加えて、ロータリーに箱崎PAが設置され、東京シティエアターミナルが中心に置かれて、成田空港を行き来するリムジンバスも頻繁に使用しているので、実際にハンドルを握ってみれば、何が何やら混乱すること間違いなしの複雑怪奇な構造である。

けれども、3本の高速道路と3つのランプが集中する根本的な線形の問題については目を瞑り、厳しい制約の中で輻輳する車の処理方法として考えれば、緩衝地帯としてロータリーを設けるとは、何という頭の良さだ、と設計者の発想に頭を垂れたくなる。


箱崎JCTの本線では、6号向島線の左車線にも9号深川線に分岐する流出路を新設する改良工事が行われ、完成した平成10年以降は、2車線を跨がって移動する必要はなくなった。

東京駅を発着して東関道方面に向かう高速バスの運転手も、さぞかし安堵したことだろう。



2本の車線変更を無事に終えて、まだ夕方の帰宅ラッシュが始まっていない首都高速9号深川線に歩を進めた「はさき」号は、小気味よく速度を上げた。

密集する下町を走り抜けて、辰巳JCTで首都高速湾岸線に入り、更に高谷JCTで東関道に進む頃に、ゆっくりと春の陽が傾き始めた。

こちらは東に向かっているから良いけれど、西日に正対する対向車線の車は、みんな日除けのサンバイザーを下ろしている。


都心部の渋滞でどれほどの時間を浪費したのか、それとも所要時間に織り込み済みなのか、高速バスに乗っていると、最初の休憩地や降車停留所に着くまで、定時に運行しているのか判然としない場合が少なくない。

「はさき」号から先へ乗り継がなければならない者としては、時刻表通りに走っているのかどうかが無性に気になるけれども、湾岸千葉ICを過ぎて北向きに針路が変わり、京葉道路と交わる宮野木JCTを通過したあたりから、一気に鄙びてくる沿道の夕景を眺めていると、時間のことなど、どうでも良くなってくる。

あちこちに小高い丘陵が盛り上がる北総の田園地帯を眺めながら、またこの景色を目にすることが出来たか、と旅の実感が込み上げてきて、幸せな気分になる。


まだ冬の様相を残している水郷地帯を走り抜けて、東関道の終点である潮来ICを出たのが午後5時半頃で、車窓はまだ薄暮の明るさを残していた。



潮来ICから県道50号線を東へ進み、平泉の交差点で国道124号線に入って、18時ちょうどに到着予定の神栖町役場に到着したのは、定刻からそれほど遅れた時間ではなかったので、ホッと胸を撫で下ろした。


神栖町役場は、砂丘をY字型に掘り込んだ鹿島港の南航路の西岸に位置している。

続いて停車するのは、知手団地入口である。

神栖、知手という地名には聞き覚えがあった。


『鹿島臨海鉄道の本社は北鹿島と鹿島港南の中間の神栖というところにあり、車両基地もそこにある。いま走り去ったディーゼルカーは、神栖から私たちを乗せるべく回送されてきたのだが、鹿島港南で折り返すことはできないのである。

面倒な説明になるが、鉄道は急ブレーキをかけてもすぐには停まれないから、追突や正面衝突を避けるため、線路を一定の間隔ごとに区切って、その区間に絶対に1本の列車しか入れないようにしている。

これを「閉塞区間」と言い、複線以上の場合は信号機で閉塞状況を知らせるが、単線区間ではタブレットという独占通行手形のようなものの授受によって1閉塞区間に2本の列車が入らないようにしている。

鹿島臨海鉄道は単線なのでタブレット方式によっているのだが、鹿島港南は閉塞区間の途中に新設した駅なので、ここではタブレットの授受ができない。

少し先の知手という信号場まで行って下りのタブレットを渡し、あらためて上りのタブレットを受け取らないと引き返せないのである』


北鹿島駅と奥野谷浜駅を結んで昭和45年に開通した鹿島臨海鉄道鹿島臨港線が、成田空港への燃料輸送の開始と同時に、地元への見返りとして北鹿島駅と鹿島港南駅の間に旅客輸送を行った時の様子が、宮脇俊三氏の「時刻表おくのほそ道」に詳しく描写され、神栖と知手の地名が出てくる。



この旅客列車は、北鹿島駅から国鉄鹿島線に乗り入れて、鹿島神宮駅を起終点として運転されていた。

北鹿島-鹿島神宮の間には、国鉄の旅客列車が運転されていなかったので、僕が子供の頃の鉄道書籍には、国鉄線なのに私鉄の列車しか運転されていない珍しい区間として、よく取り上げられていた。


鹿島臨港線は、僕が1人旅をするようになる前の昭和58年に旅客営業を取り止めているけれども、地図を開いてみると、神栖駅は神栖町役場のすぐ北にあって、操車場らしき複数の線路が書き込まれている。

同線の線路は南航路を回り込むように敷かれ、鹿島港南駅は南航路の南端付近、知手信号所は知手団地の北を線路がかすめるあたりにあったものと思われ、終点の奥野谷浜駅は知手団地の北にある中央航路の岸壁との間に置かれている。

旅客輸送を廃止した鹿島臨港線に乗る機会などあり得ないと思っていたのだが、「はさき」号が走る国道124号線は、神栖町役場から知手団地まで、鹿島臨港線のすぐ近くを通っていたのである。



神栖町役場の付近は、広く真っ直ぐな4車線の道路と、こぢんまりとした事務所ビルが沿道に並んでいるだけのとりとめもない場所だったが、次の知手団地入口停留所の周囲には、パチンコ屋があり、眼鏡屋があり、車の販売店があり、何より戸建て住宅が数多く見受けられて、きちんとした町を形成している。

「時刻表おくのほそ道」に描かれている鹿島臨海鉄道は、工場か空地ばかりが目立つ沿線や駅と、閑散とした車内ばかりの記述だったので、人が住んでいる町があったのか、と目を見張った。


常陸利根川と利根川が合流する地点に近い波崎工業団地停留所で、完全に日が暮れた。

人家の灯は少なく、街灯と行き交う車のライトが窓に映るだけである。

神栖町役場と知手団地入口でほぼ半数の乗客がバスを降り、波崎工業団地と、次の土合ヶ原団地を過ぎると、車内に残っているのは数人になっていた。


鹿島臨海工業地域が開発される以前の神栖と波崎は、農業と漁業で生計を立てる貧しい地域で、陸の孤島と呼ばれていたと聞いたことがあるけれど、その時代に戻ってしまったかのような寂しい車中である。

利根川の対岸には昭和8年に全通したJR成田線が通っているものの、川を渡る道路橋は、昭和37年に完成した銚子大橋だけだった。

土合ヶ原地区と、成田線の駅がある銚子市椎柴地区を結ぶ利根かもめ大橋が完成したのは、平成12年のことである。


関東鉄道バス波崎営業所を経て、終点の波崎町役場に到着した時には、もう着いたのか、と驚いた。

路線バス「利根川線」の行程が冗長だった印象が強く、神栖町役場から波崎町役場まで50分という「はさき」号の所要時間が、乗り足りないと思うほど呆気なく感じられたのである。

小まめに停留所に停まりながら、時に国道を離れて集落に寄り道する路線バスと、停留所を絞って国道を真っ直ぐ直行する高速バスの、言わば各駅停車と特急の違いであろうか。

簡素な路線バスの座席より遥かに座り心地が良いリクライニングシートでくつろいでいたことも、一因かもしれない。



平成元年に「かしま」号が開業すると、鹿島臨海工業地域への出張客や、神栖町と波崎町方面からの出迎えと見送り客などで、どの便も満席、続行便を頻繁に仕立てるような盛況ぶりを呈した。

混雑緩和のために、神栖町と波崎町に直行する補助的な路線が必要になったことが、「はさき」号誕生の理由である。

平成4年には1日4往復に、平成11年には8往復に増便され、水郷潮来、西部団地北、神栖4丁目、大野原西、アトンパレスホテル、東部コンビナート、神栖済生会病院東 、北若松、新川団地と経由する停留所も少しずつ増えていった。

銚子への客など、端から眼中になかったのである。


1日4往復に増便されたのはこの旅の1年後で、午前に東京を発つ下り便と、午後に波崎から上ってくる便が1往復設けられたのだが、そのような未来のことなど僕が知る由もない。



車庫へ回送されていく「はさき」号の赤いテールランプが暗い道路の彼方に消え、ふと周りを見回すと、一緒に降りた客も、闇の中に溶けてしまったかのように1人もいなくなっていた。

「はさき」号を使って銚子に行くような物好きは僕だけか、と自嘲したくなる。


町役場の幾つかの窓からは明かりが漏れ、仕事帰りと思われる人々が三々五々と玄関から出て来て、停留所には見向きもせず、駐車場へ歩いていく。

路線バスで帰宅する人などいないのか、もしかすると、終バスの時刻をとっくに過ぎているのかもしれない、との不安が込み上げてくる。

せっかく旅に出て来たというのに、無性に家に帰りたくなってしまうではないか。


鹿島-銚子間の路線バスが掲載されている時刻表巻末の会社線欄には、鹿島神宮と銚子の発着時刻しか書かれていない。

最終のバスは鹿島バスターミナルを18時40分に発車して、銚子駅に20時15分に着く。

その前には鹿島神宮17時20分発の便もあるから、どちらかに間に合うのだろうと見込んで、僕は「はさき」号に乗ったのである。


波崎町役場から銚子駅まではおよそ5km、路線バスでも20分程度と思われるから、いざとなれば夜風に吹かれながら歩いても良い。

ほらみろ、やっぱり銚子のすぐ手前ではないか、と独り頷きながらも、僕は、停留所のポールに近づいて、バスの時間表に目を凝らした。




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