第15章 平成2年 高速バス「いたこ・あそう」号で水郷と霞ケ浦へ~合わせて鹿島鉄道の夜の汽車旅~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:高速バス「いたこ・あそう」号、鹿島鉄道線】



東京駅八重洲南口を定刻16時00分きっかりに発車した麻生行き高速バス「いたこ・あそう」号が、東関東自動車道を走り抜いて、高速道路が途切れる潮来ICを降りたとき、時計の針は午後5時半になろうとしていた。


この路線が開業したのは平成2年7月のことで、僕が乗りに来たのは、それから何ヶ月も経過した晩秋の週末である。

東京駅では秋の陽が燦々と照りつけて、人波でごった返す乗り場では、コートを脱いで手に持った人も多かった。


前年に登場した東京-鹿島神宮線「かしま」号は、開業当初こそ1日6往復と控え目な運転本数であったものの、後に大幅に増便されており、僕も何度か利用している。

「いたこ・あそう」号も潮来ICまで同じ道を使い、通い慣れた道筋であるから退屈なのかと言えば、そうではなく、今回の旅は時間帯が大きく異なっている。

「いたこ・あそう」号は1日2往復と、開業時の「かしま」号よりも更に控え目な運行本数で、しかも、麻生発7時30分と8時50分の上り便と、東京発16時00分と17時40分の下り便だけだった。



午前の上り便と午後の下り便しか設けられていない高速バス路線は全国に幾つか見受けられ、地方と大都市を行き来する流動がそのような傾向になっているのだからやむを得ないけれども、東京に住んでいる者としては、心構えを要する。


僕のようにバスに乗りたいだけの人間であっても、目的地に着けば帰らなければならないのは自明の理で、終点からどのように乗り継ごうか、と計画を立てなければならない。

単純なのは、同じ路線で折り返す方法であろうが、それではあまりにも芸がないし、そもそも「いたこ・あそう」号にはその日のうちに東京へ戻る便がない。

曲がりなりにも高速バスの終点なのだから、鉄道や路線バスなど、乗り継げる別の交通機関が存在する場合が少なくないけれども、例外もあり得る。


†ごんたのつれづれ旅日記†


数ある旅の記憶で鮮明なのは、北海道の旭川と鬼志別を結ぶ特急バス「天北」号で、鬼志別を7時10分に発車して旭川に10時40分に到着する上り便と、旭川を16時30分に発ち鬼志別に20時00分に着く下り便の1往復だけであった。

鬼志別は鉄道が廃止されて、「天北」号が着くのは代替バスも走っていない夜更けだったので、鬼志別に1泊する以外に方法は見い出せなかった。


大阪と広島県神辺町を結ぶ高速バス「カブトガニ」号も、午前の上り便と午後の下り便だけという運行ダイヤで、大阪発15時10分の便に乗って20時着の神辺町役場に降りてみれば、そもそも1日3往復しかない路線バスはとっくに終わっていて、少し離れたJR芸備線神辺駅まで寂しい夜道を延々と歩かなければならなかった。


東京と烏山を結ぶ高速バス「山あげ」号や、東京と茂木を結ぶ高速バスも同様の運行ダイヤで、終点はともに鉄道駅であるものの、最終の上り列車に間に合うのか、と気を揉まされたものである。


東京と三郷・吉川・松伏を結ぶ高速バスは、運転本数こそ多く午前の便も設けられていたが、松伏は鉄道のない町で、そこから先の交通手段が見つけられず、僕は鉄道と接続する途中の吉川駅でバスを乗り捨てる羽目になった。



ここに挙げたいずれの路線も、乗車したのは「いたこ・あそう」号より何年も後のことなので、バスが地方から都市を日帰りで往復する運用の路線や、鉄道駅と接続していない路線について、その乗り方、特に乗り終えた後の行程に思い悩むのは、初めてだった。

「いたこ・あそう」号が起終点としている茨城県麻生町にも、鉄道が敷かれていない。

もしかしたら、僕は、「いたこ・あそう」号が手前で立ち寄る潮来駅で、JR鹿島線に乗り換えなければならないのかもしれない。

終点の麻生町役場に路線バスが通っているのか、通っていても何処へ連れて行かれるのか、ということも下調べをしなければならない。


そこまで愚図愚図と思い悩んでまで乗りたいのか、と問われれば、乗りたい。

鬼志別、神辺、烏山、茂木ともに、途中で降りる客ばかりでみるみる閑散としてくる車内と、それに比例して車窓に映る家の灯が乏しくなっていく寂しい風情には、強く心を打たれた。

僕が乗っているバスは、この先、人が住むような町に行ってくれるのだろうか、という不安が込み上げてくるような車中は、日常と異なる世界に身を置いてみたいと願う旅の極致ではないかと思っている。



「いたこ・あそう」号の車窓に映る黄昏の水郷は、陰鬱だった。

「かしま」号から眺めた春や夏の水郷は、東北や北海道の稲作地帯を思わせる緑一色の明るい土地だったが、今は、稲刈りを終えて黒々とした地肌が露出した田圃と、その間を流れる利根川、常陸利根川の川面に、日暮れ間近の秋の陽の光が弱々しく射している。

寒々とした景色を見ていると、空調が効いているバスの車内に身を置いているにも関わらず、思わず襟元を掻き合わせたくなる。

「かしま」号に、このような遅い頃合いに乗ったことはなかったので、まるで別の土地に来ているかのように感じられた。

同じ土地が、季節や時間の違いによって、ここまで表情を変えるものなのか、と目を見張った。

 

潮来ICは、我が国第2位の面積を持つ霞ヶ浦を構成する、172平方キロの西浦と、36平方キロの北浦、そして、西浦から流れ出る常陸利根川と北浦からの鰐川が流れ込む6平方キロの外浪逆浦に挟まれた低地に位置している。

約12万年前の下末吉海進と呼ばれた時代に、霞ヶ浦周辺は古東京湾の海の底であり、7万年前の最終氷期と共に陸地化したと考えられている。

3万年前までは、現在の桜川市岩瀬に端を発して土浦付近で西浦に注ぐ桜川をなぞるように鬼怒川が流れていて、幅広く削られた谷が西浦を形作ったという。

1万数千年前の縄文海進により、低地が古鬼怒湾の入江となったが、鬼怒川や小貝川による堆積により入江の出口が閉ざされて形成されたという推移が、湖ではなく、浦と呼ばれる所以であるらしい。

 

バスの窓から、弱々しい陽の光のカーテンを通して暮れなずむ水郷を眺めていると、この地域が海の底だった太古の姿に戻っているような感覚に陥ってしまう。



「常陸国風土記」の行方郡の項に見られる、


『郡の南十里に香澄の里あり。古き伝えに云へらく、大足日子の天皇、下総の國、印南の鳥見の丘に登りまして、留連ひて遙望しまし、東を顧みて、待臣に勅したまひしく、「海は即ち青波浩行ひ、陸は是霞空なびけり。國は其の中より朕が目に見ゆ」とのりたまひき。時の人、是によりて、霞の郷と謂へり』


との記述が、霞ヶ浦の名前の起源とされているが、西浦の南岸にある現在の阿見町一帯を指す「香澄の里」に由来するという説も唱えられている。


古くは「流海(ながれうみ)」もしくは「浪逆の海(なさかのうみ)」と呼ばれ、中世に入って「霞の浦」と歌に詠まれていたものの、鹿島灘を指す「外の海」に対して「内の海」とも言われたという。

「霞ヶ浦」と呼ばれるようになったのは、江戸時代になってからのようである。


徳川家康が始めた利根川東遷事業と呼ばれる瀬替えによって、それまで東京湾に注いでいた利根川の水が、霞ヶ浦方面に流れ出すことになり、霞ヶ浦から利根川を遡り、江戸川を経由して江戸に至る水運の大動脈が開発される。

霞ヶ浦周辺の産物が容易に江戸へ運ばれるようになり、同時に、霞ヶ浦や利根川が東北からの物産を運ぶ経路としても利用されたため、河岸と呼ばれる霞ヶ浦の港町は大いに繁栄した。

明治期には利根川水系や霞ヶ浦に蒸気船が就航し、銚子経由で東京を行き来する船便も設けられたが、常磐線や総武本線などの鉄道が開通すると、航路は衰退したのである。



一方で、1783年の浅間山の大噴火で流出した火砕物の堆積が利根川水系の河床を上昇させ、水害が多発するようになったため、江戸幕府は銚子方面の川幅の拡張工事や、棒出しと呼ばれる両岸から突き出した堤による江戸方面への水流制限を開始し、結果として、霞ヶ浦をふくむ利根川下流域に洪水が多発することになる。

明治期の足尾鉱毒事件でも、政府が水量制限による東京湾への汚染物質の流入を強化したため、大規模な浚渫工事が昭和40年代に終了するまで、霞ヶ浦周辺地域は水害に悩まされたのである。


このような地史は、「常磐高速バス」で訪れた常磐自動車道沿線で、何度か思いを馳せた。

不毛の湿地帯や洪水を繰り返す河川に悩まされながらも、歯を食いしばりながら懸命に土地を開拓して来た先人たちへの畏敬の念もまた、同じである。

関東平野を旅しているのだな、と思う。


常磐道沿線と少しばかり異なるのは、このあたりが霞ヶ浦の水の幸に恵まれていることであろうか。

利根川の瀬替えと合わせて、小氷期により海水面が低下していたため、海の入江を起源とする汽水湖であった霞ヶ浦の淡水化が促され、生息する魚介類も、ワカサギや鯉、鮒などに変わっていく。

これから向かう麻生町の名産も鯉料理であると聞く。


鯉料理はこれまで数えるほどしか味わったことがないけれども、今でも懐かしく思い出されるのは、幼い頃、夕食に鯉こくが出た時のことである。

鯉を筒切りにして、臭みを取るためにざるに置いて湯を掛け回す霜降りを行った上で、鍋で煮立てたお湯に日本酒、味噌、砂糖を加えてから鯉を入れる。

煮立ったら弱火にして、灰汁を取りながら1時間ほど煮込むと、椀に汁と切り身を盛りつけ、細ネギ、柚子を乗せ、粉山椒、七味唐辛子を振りかけていただく、と言うのが鯉こくの一般的なレシピと言われているが、残念なことに、その味は殆ど覚えていない。

それでも、鯉料理と言えば、午後の早い時間から張り切って台所に立っていた母の姿が思い浮かぶ。



鹿島神宮駅に行く「かしま」号は、東関道を降りた後に県道101号線を東に向かうけれども、「いたこ・あそう」号は西へ向かい、「ようこそ 水の町 潮来へ」と大書された看板をくぐり抜けて、常陸利根川の北岸にあるJR鹿島線の潮来駅に寄る。


潮来の伊太郎 ちょっと見なれば

薄情そうな渡り鳥

それでいいのさ あの移り気な

風が吹くまま西東

なのにヨー なぜに眼に浮く潮来笠


田笠の紅緒がちらつくようじゃ

振り分け荷物 重かろに

訳はきくなと笑ってみせる

粋な単衣の腕まくり

なのにヨー 後髪引く潮来笠


旅空 夜空で 今さら知った

女の胸の底の底

ここは関宿 大利根川へ

人に隠して流す花

だってヨー あの娘川下 潮来笠


潮来、と聞くだけで、橋幸夫の「潮来笠」が思い浮かぶ。

旅から旅へのやくざな男が、潮来に残してきた女性に思いを馳せる恋唄は、高速バスに乗って「風が吹くまま西東」に遊んでばかりいる風来坊のような自分の振る舞いを自覚しながら、歌詞を噛み締めると、しんみりとした心持ちにさせられる。


僕がこの歌を知ったのは、ドリフターズの志村けんによる物真似であった。

小学生の頃は、


潮来の伊太郎 ちょっと見なれば

焔のように燃えようよ


と、友達同士で真似し合って遊んだものだったが、この2つのフレーズを志村けんが歌い始めると、いかりや長介が決まって「やめろバカ!」と遮ってしまうので、僕は1つの歌とばかり思い込んでいた。

ともに橋幸夫のヒット曲である「潮来笠」と「恋をするなら」の冒頭部分を繋げていたとは知らなかったのである。



「潮来笠」の3番に出てくる「ここは関宿 大利根川へ」の関宿とは、江戸時代に利根川から江戸川へ流れ込む水量を調整する棒出しが設けられていた、現在の千葉県野田市内にある宿場町のことと思われる。

浅間山噴火の噴出物の堆積による洪水と、足尾銅山の鉱毒が東京湾に流出するのを防ぐために使われた関宿の棒出しであるが、大正時代に始められた治水工事により、水量を調整する水門と閘門が昭和2年に完成したことで役目を終え、撤去されている。


当時の土木技術では利根川の流れを意のままに操ることは難しく、大規模な洪水や水質汚染に際しては、江戸、東京を救うのか、それとも霞ヶ浦、銚子か、という二者択一を迫られたのであろうが、東京に住む者としては、茨城県南部や千葉県東部に住む人々に申し訳ないような思いに駆られる。



闇の底でひっそりと静まり返っている潮来駅では、大半の乗客が降りてしまった。

麻生へ向かう客は思った以上に少ない。


運行事業者のJRバス関東と関東鉄道バスも、これではいけない、と憂慮したのか、平成9年に香取神宮と佐原駅に停車するよう経路を変更、愛称を「さわら・いたこ・あそう」号に変更した上で1日6往復に増便、平成17年には鉾田駅まで路線を延長したのだが、この時は愛称を単なる「あそう」号としている。

「さわら・いたこ・あそう・ほこた」号になるよりマシだと思うけれど、どうして麻生の名を残したのだろう。

開業当初の起終点に敬意を払ったということであろうか。



霞ヶ浦周辺には台地と低地が入り組んだ土地が多く、西浦と北浦の間の大半は、海抜30m程度の行方台地が占めている。


この旅より後の平成17年に、麻生町は北浦町、玉造町と合併して行方市になった。

行方は「なめがた」と読む難読地名であるが、日本武尊が霞ヶ浦の水辺と台地の入り組んだ地形を「行細し(なめくわし)」と表現したことが由来と言われている。

麻生町が昭和30年に編入した村の1つに行方村があり、先祖返りのような地名であるけれど、行方市が誕生した際の市民からの公募では、


「郡名として慣れ親しんできた歴史・文化があり、将来へ継承していきたい」

「漢字の表記は、歴史などの伝統の重みがある」


などという意見が多数を占めたと聞いているから、常磐道沿線などに幾つか出現した平仮名表記の地名と対照的で、よくぞ言った、と嬉しくなってしまう。



麻生という地名の由来には諸説があり、谷戸や崖を意味する「アズ」「アス」が転訛したとも言われ、霞ヶ浦沿岸の地形に当てはまるようにも思えるのだが、古代から着物の原材料として用いられた麻にルーツを求める説も唱えられている。


万葉集には、農民の妻が詠んだ歌として、


麻苧らを麻笥に多に績まずとも 明日着せざめやいざせ小床に


という句が取り上げられている。

また、藤原卿の歌として、


麻衣着ればなつかし紀伊の国の 妹背の山に麻蒔く我妹 

との句や、

庭に立つ麻手刈り干し布曝す 東女を忘れたまふな 

と、藤原宇合が常陸守の任を離れて帰京するにあたって、親しかった女性が贈った歌といった、麻を題材にした和歌が幾つも見られる。


クワ科の麻は、イラクサ科の苧とともに、古来から着物の重要な原料であった。

苧は「からむし」と読む。

地方の農村では、麻糸を紡ぐ原料として、普段着には野生で強靱な苧を使い、繊細で優美な糸となる麻を農地で栽培し、神事で身につける礼服として使い分けたのではないか、と言われている。

最初の句に出てくる麻苧という単語を「あさお」と読むことから、麻生の地名に深く関わっている、とする説を目にした覚えがある。


全国にも散見される麻生の地名としては、茨城県の他にも、札幌北区麻生、川崎市麻生区などが挙げられ、札幌の麻生は地元で繊維工場を営んでいた企業名から採られた地名であるけれど、川崎の麻生区は、古来より麻を朝廷や地元の茅ヶ崎神社などに献上した歴史を踏まえての命名である。

万葉集には、最初に取り上げた東国の歌ばかりではなく、常陸国の女性の歌を見れば、茨城の麻生町も、近隣の鹿島神宮や香取神宮に向けて神事用の麻を栽培していたのではないか、などと想像が膨らんでくるけれども、現在の麻生町の農産物に麻は含まれていない。

明治初年頃まで広く栽培されていた麻も、木綿や化学繊維の普及によって大量に流通することはなくなっていったのである。



潮来市牛堀の永山交差点で、国道51号線から国道355号線に右折した「いたこ・あそう」号は、西浦の北側の湖畔を進む。


窓外は深い闇に包まれて、人家の灯が殆ど見受けられない。

バスは、右手に鬱蒼と木々が繁る行方台地の斜面を見上げ、左手を流れ去る木立ちの合間に暗い湖面を見遣りながら、黙々と走り続ける。

潮来から麻生まで20分たらずの道のりであったはずだが、もっと長い時間、霞ヶ浦の岸辺を走ったような印象がある。

30年以上が経過した今でも、このバス旅を振り返るたびに脳裏に浮かぶのは、潮来駅から麻生町役場までの寂しい車中である。

どうして、ここを昼間に走る便を設定してくれないのか、と思う。


西浦の畔から右に折れて、幾許かの人家が建ち並ぶ集落に足を踏み入れた「いたこ・あそう」号が、終点の麻生町役場に到着したのは17時50分だった。

日の長い夏のうちに乗りに来れば良かった、とも思うけれど、この時間帯だったからこそ、「いたこ・あそう」号の旅が印象深いものになったのかもしれない。



僕は、麻生町役場から鹿島鉄道の玉造町駅へ抜ける路線バスに乗り継いで、常磐線石岡駅へ向かう心積もりである。


全国版の時刻表にもこの路線は掲載されていて、関東鉄道バス潮来車庫から玉造町駅まで1~2時間に1本程度が運行されていることが判る。

ところが、時刻表には潮来車庫の発車時刻と玉造町駅の到着時刻しか記載がなく、最終のバスは潮来車庫を18時35分発である。

もちろん、鯉料理を賞味する時間はない。

「いたこ・あそう」号の下り2本目の便であれば、果たして間に合ったかどうか。



人通りが殆どない暗い路傍に佇んで独りバスを待つのは心細い限りであるが、大して待つこともなくバスが現れたような気もするので、最終便の前の潮来発17時30分のバスに間に合ったのかもしれない。


古びたバスに揺られて明かりが乏しい行方台地を北上し、玉造町駅に着いたのは、18時半前後であった。

続いて、負けず劣らず古参車両の鹿島鉄道線の単行ディーゼルカーに揺られれば、今回のささやかな小旅行も終わりである。



鹿島鉄道は、大正13年に鹿島参宮鉄道として石岡-常陸小川間が開業したのが起源で、大正15年に常陸小川-浜間が開業している。

当初は鹿島神宮への参拝客を運ぶ鉄道として計画され、西浦北岸に設けられた浜駅で鉾田方面と鹿島神宮方面に分岐する構想だったが、浜駅から鹿島方面への建設は早々と断念され、代わりに舟運による鹿島方面への輸送を開始、浜駅に入江を設けて専用埠頭が建設されたという。

石岡駅から浜駅までは西浦の湖岸に沿って南東へ進み、浜駅でほぼ直角に北東へ折れて鉾田に向かっている線形は、この計画が理由であろうか。

鹿島方面は、現在のJR鹿島線延方駅付近を起終点とする計画であったと聞いているから、もし鹿島参宮鉄道が名前の通りに鉄道を敷設していれば、麻生にも鉄道が通じていたかもしれない。


昭和3年に浜-玉造町間が、昭和4年に玉造町-鉾田間が開業して全通を迎えているが、昭和40年に常総筑波鉄道と合併して関東鉄道の路線となり、鉾田線と呼ばれるようになったのも束の間、昭和54年に鹿島鉄道として分離されている。



玉造町駅の駅舎に入ると、壁いっぱいに看板や掲示板、手書きの時刻表などが雑然と貼られて、昭和にタイムスリップしたかのような錯覚に陥った。

そうそう、昔の地方私鉄の駅はこんな雰囲気だったよな、と懐かしくなる。


鹿島鉄道の石岡行きは21時過ぎまで運転されているので、麻生町役場で感じたような心細さとは無縁である。

来るのか来ないのか、と気を揉んでしまう路線バスに比べれば、鉄道の存在感は、頼もしいの一語に尽きる。



かつて鹿島神宮への定期船と接続していた浜駅は、玉造町の次の駅だった。

どうせならば、往年を偲んで、潮来からのバス路線をこの駅まで伸ばせば面白いのに、と思ったのだが、駅舎は古びていてもきちんと駅前広場を備えた玉造町駅とは異なり、薄暗い電灯に照らされた簡素なホームが線路際に1本だけという、駅舎もない無人駅で、バスが乗り入れるどころか、人家の灯も見当たらなかった。


一時は石岡市の近郊輸送や航空自衛隊百里基地への燃料輸送で賑わったこともある鹿島鉄道であったが、玉造町駅から鉾田寄りの隣りにある榎本駅と百里基地を結んで敷設されていたパイプラインの老朽化により、平成13年に燃料輸送は終了、平成14年に貨物営業も取り止め、平成19年に全線が廃止された。

潮来車庫と玉造町駅を結ぶバス路線も、平成21年に姿を消した。


鉾田まで延伸され、東京を午前に発つ便も設けられた「あそう」号に乗り直してみたいと思っているけれども、未だに果たせていない。



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