第18章 平成3年 高速バス「ニューつくばね」号で筑波鉄道筑波山駅の跡へ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:常磐高速バス「ニューつくばね」号】

 


平成3年に6本目の「常磐高速バス」として開業した、東京駅と「筑波山」を結ぶ高速バスの愛称は、「ニューつくばね」号である。


つくばね、とは筑波山の愛称である筑波嶺から取られている。

筑波山は、日本百名山に指定されているものの、その中では最も標高が低く、877mに過ぎない。

日本百名山に含まれている山で標高1000m未満であるのは、944mの開聞岳と筑波山だけである。

それでも、周囲に肩を並べる山がなく、西側の男体山と東側の女体山の2つの峰を持ち、裾を長く伸ばした筑波山の山容は、4倍近い標高差がありながらも、「西に富士、東に筑波」と並び称される美しさである。

 

筑波、という名の由来には、幾つかの説があるらしい。

「常陸国風土記」は、もともと紀国と呼ばれていたこの地に国造として赴任した筑箪命が、「我が名を国につけて後世に伝えたい」と言って改称したと伝えている。

他にも、縄文海進により筑波山の山麓まで海で覆われていた時代に、波が寄せる場、すなわち「着く波」になったという説、その時代の筑波山が波を防ぐ堤防の役割を果たしていたため「築坡」と呼ばれたという説、崖を意味する「つく」と、端を意味する「ば」が合わさったという説、新たに開発した土地を意味する「築地」を由来とする説、「つく」は神を崇め祀る斎く、あるいは突き出しているという意味で、「ば」は山を意味するという説、平野の中に独立した峰という意味の「独坡」に因むという説、アイヌ語で尖った頭を意味するツク・パが起源という説、はたまたマオリ語で交際を許されるという意味合いのテュク・パに由来するという見解まで、諸説が入り乱れている。

 

いずれにしろ、海に覆われていた太古の関東平野の様子や、利根川が氾濫を繰り返した未開の湿地帯であった時代のことが、ありありと瞼に浮かぶ話ではないか。

 

 

関東地方にアイヌ語由来の地名が少なくないことは聞き及んでいたけれど、ニュージーランドの先住民マオリ族の言語まで持ち出した説は、突拍子もなく思えてしまう。

「椰子の実」の言い伝えにもある通り、南洋系の人々が潮の流れに乗って我が国に漂着したという説があり、また、古来より農閑期に筑波山で催されていた歌垣の行事とも関連があるらしい。

 

歌垣は、かがい、と読む。

神々の祖神である神祖尊が諸国を旅して回った時に、収穫された新穀を神に奉り、その恵みに感謝する秋の新嘗祭の時期に富士山を訪ねたところ、富士の神は忙しいからと一夜の宿を断ってしまう。

神祖尊は嘆き恨んで「この山は生涯冬も夏も雪が降り積もって寒く、人が登れず、飲食を供える者もなくしよう」と言う。

筑波山に行くと、新嘗祭にも関わらず快く宿が提供され、喜んだ神祖尊は「天地とひとしく、月日と共同に、人民集い賀び、飲食豊かに、代々絶ゆることなく、日々に弥栄え千秋万歳、たのしみ窮らじ」と歌ったことから、富士山は常に雪に覆われて登る人もなく、筑波山は昼も夜も人が集うようになったと言う神話が、「常陸国風土記」に記されている。

 

以来、近隣から多数の男女が集まって歌い、舞い、踊り、交わりを楽しむことで、今年の豊穣を祝い、来る年の豊穣を祈る風習が、歌垣である。

特定の日時に男女が集まり、求愛の歌を交わす歌垣の習俗は、我が国だけでなく、中国南部からベトナム、インドシナ半島、フィリピン、インドネシアにも存在することから、古代日本の文化は、東南アジアから中国南部と一体の文化圏を築いていたという見方もあるらしい。

 

 

万葉集の高橋虫麻呂作の歌では、

 

鷲の棲む 筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率ひて 未通女壮士の 行き集ひ かがふかがひに 人妻に 吾も交はらむ わが妻に 人も言問へ この山を 領く神の 昔より 禁めぬわざぞ 今日のみは めぐしもな見そ 言も咎むな

 

と、筑波の神が「禁めぬわざ」としているおおらかな行事について詠まれている。

 

海音寺潮五郎の歴史小説「平将門」にも、歌垣に、嬥歌、という文字を当てはめて記述されている。

 

『嬥歌の場は、男体、女体のわかれる筑波山の中腹にあった。

当時の祭礼には後世の常識では判断にこまる奇怪な行事がある。

筑波明神の祭礼にもそれがあった。

嬥歌である。

男女が集って歌を唱和しながら乱舞し、情の激するにしたがって手をたずさえて陰所に行き愛撫し合った』

 

宮脇俊三は、「平安鎌倉史紀行」の「平将門の風土」の章で、海音寺潮五郎の一節を引用し、

 

「この嬥歌の自然さは京の都とは異質なものだろう。

性の臭いが香り立つような感がある。

ここは関東なのだ」

 

と書いている。

 

筑波山は、山そのものが霊山として崇められ、結界が張られている。

筑波山神社がある中腹から頂上にかけての一帯は神域とされて、樹木や岩石も含めた万物が御神体であり、夜ともなれば男体、女体の神が御幸ヶ原に現れるため、2人の遊楽を妨げないよう入山を禁ずる風習があると聞く。

 

 

高速バスに話を戻すと、開業直後に「ニューつくばね」という愛称を聞いても、僕は、筑波山を思い浮かべられなかった。

時刻表を開けば、農林団地中央、自動車研究所、東光台研究団地、国土地理院、土木研究所、高エネルギー研究所、北部工業団地といった国道408号線学園西大通り沿線に連なる研究所や農林業もしくは工業団地の名前ばかりが羅列されている。

東京駅とつくばセンターを結ぶ先輩路線の「つくば」号を補完する路線としか思えず、これでは「ニューつくば」号ではないか、「ね」とは何ぞや、と早とちりした。

我が国随一の研究学園都市を象徴するような研究所群と首都を直結するお堅い路線を漠然と想像して、背広姿の乗客が車内で書類に目を通している姿が目立った「つくば」号と、似たような雰囲気なのだろうと思っていた。

 

「つくばね」は理解できるとしても、「ニュー」は何に対して新しいと言っているのだろう。

筑波山行き「つくばね」号で充分ではないか、と思ってしまうのだが、Wikipediaには『昭和60年3月まで、旧・日本国有鉄道が東北本線・水戸線経由で上野と勝田を結んだ急行「つくばね」という列車を運行しており、その愛称を再び用いていた』と記載されている。

 

 

昭和37年に、東北本線小山駅から両毛線に直通して上野駅と桐生駅を結んでいた快速列車が準急列車に昇格して「わたらせ」を名乗ると同時に、併結して小山駅から水戸線経由で水戸駅、そして途中の下館駅で更に分割して真岡線に乗り入れて真岡駅に向かう準急「つくばね」が登場する。

昭和39年に「つくばね」の真岡編成が茂木駅まで延伸され、昭和41年に急行列車へと昇格したものの、昭和43年に電車化されたことで、非電化である真岡線への直通運転は廃止、同時に水戸駅から勝田駅まで運転区間を伸ばしている。

同時に、下館駅と勝田駅の間を普通列車として運転されるようになり、昭和47年には、普通列車になる区間が水戸線の小山寄りにある結城駅以遠に拡大されてしまう。

東北新幹線が上野駅まで開業した昭和60年3月に、急行「つくばね」は廃止された。

 

高速バスの愛称が、往年の急行列車を引き継いだために「ニュー」と冠せられたという解釈は、なるほどと思うけれども、珍しい例ではないだろうか。

 

 

色々と腑に落ちないまま、僕が「ニューつくばね」号に乗車したのは、開業直後の春の日曜日の昼下がりであった。

汗ばむほどの好天に恵まれて、これならば筑波山もよく見えるだろう、と嬉しくなる。

 

座席に腰を落ち着けてしまえば、愛称などは乗り心地に何の関係もなく、東京駅八重洲南口を出て、首都高速道路、常磐自動車道を進んで行く道のりは、実に快適だった。

休日であるから、以前に「つくば」号で見掛けたような背広姿の研究者やビジネスマンの姿はそれほど多くなく、ラフな恰好で席を占めている何人かの若者は、筑波大学の学生であろうか。

 

 

数十分の高速クルージングを終え、谷田部ICから一般道に降りると、「ニューつくばね」号は、谷田部、谷田部営業所と続け様に降車停留所を案内する。

 

谷田部は、昭和62年につくば市に合併するまで独立した町であり、縄文時代の遺跡や古墳が数多く発見されていることから、古くより開けていた地域であるらしい。

江戸時代には谷田部藩の城下町となったものの、生産性が高くない土地に重税を課していたため、農村としては荒廃した時期があったという記録が残されている。

東西の街道が集まる交通の要所でもあり、昭和40年代には土浦、水海道、牛久、取手などを結ぶ路線バスの乗り換え地点となって、バスの利用客が待ち時間に町内の飲食店やパチンコ店などに出入りしていたらしい。


昭和59年に常磐道の谷田部ICが設けられたが、東京駅とつくばセンターを結ぶ高速バス「つくば」号に谷田部町は見向きもされず、通過されるだけであったので、「ニューつくばね」号が停車するようになったのは誠に喜ばしい。

 

谷田部のバス停は、町の中心である谷田部四ツ角交差点に置かれ、城下町らしく鉤状の狭隘な道路が入り組んで、車の量は多いけれども、狭い歩道を行き交う人の姿は殆ど見受けられない。

居並ぶ商店街も、シャッターを閉め切り、埃を被っている建物が多い。

車は小回りが利いてドア・ツー・ドアの利便性があるけれども、運転する人や同乗者が魅力を感じなければ、見向きもせず通過してしまうという気まぐれさが強調される乗り物である。

路線バスの乗り継ぎ客が町を歩いていた時代に、谷田部を訪れてみたかったと思う。

この日の「ニューつくばね」号から、谷田部に降りる乗客も皆無であった。

 

 

常磐道の盛り土をくぐって南側に抜け、農業生物資源研究所、農業環境技術研究所、果樹研究所など、農業関係の研究所が並ぶ農林団地中央停留所に寄ってから、再度常磐道の北側に戻り、松代四丁目、自動車研究所、東光台研究団地、国土地理院、土木研究所、高エネルギー加速器研究機構、北部工業団地入口と、厳めしい停留所名が続く国道408号線を北へ進む。

「つくば」号は谷田部ICからつくばセンターに向かうだけの単純な行程であったが、交差点が現れるたびに右左折を繰り返す「ニューつくばね」号に乗っていると、自分が何処を走っているのか分からなくなってくる。

停留所の案内が流れるたびに、三々五々と乗客が席を立ち、ふと気づくと空席ばかりが目立つようになっていた。

車窓が映し出すのは、清潔で整ってはいるけれども、如何にも人工的な並木道ばかりである。

 

沿道の建物の間隔が少しずつ開いて、のびやかな田園の向こうに筑波山の麗しい姿が見えると、ようやく目的地に近づいているのだという実感が湧いてきた。

遮るもののない広大な関東平野に聳えているので、大変に目を引く山容なのだな、と改めて思う。

真っ青に澄み切った青空には、雲1つない。

僕のバス旅は、観光を目的とすることは少ないけれども、天候にも恵まれた今日は、筑波山に登って関八州を一望してみたいと思う。

関東平野では稀な独立峰であることから、筑波山には無線用の中継局、気象庁や筑波大学の測候所などが設置され、アンテナが林立しているのがかすかに見える。

 

 

太平洋戦争の開戦時に、出撃した空母航空隊に真珠湾攻撃開始を命じる暗号が「ニイタカヤマノボレ」であったことは、よく知られているけれど、山本五十六聯合艦隊司令長官は、間際まで継続されていた日米交渉が成立した場合は、真珠湾攻撃を中止するよう強く念を押したと言われている。

いったん出撃すれば攻撃中止は無理です、と渋る機動部隊の指揮官たちに対して、

 

「百年兵を養うは何のためか。ひとえに平和を守らんがためである。もし帰投できないと思う指揮官がいるならば、即刻辞表を出せ」

 

と一喝する場面は、山本五十六を描いた映画の定番であった。

 

直ちに帰投せよ、を意味する暗号は「ツクバヤマハレ」であった。

筑波山晴れ、とは、標高3952mと富士山よりも高い台湾の新高山を登れ、と苦難の前途を暗示する暗号よりも、遥かに明るさに満ちていて、歴史がその方向に動けば良かったのに、と思わずにはいられない電文である。

 

 

高速バスに揺られていると、途中で鄙びた土地を通過しても、終点が近づくにつれて再び賑わいを見せることが多い。

 「ニューつくばね」号が、整然とした筑波研究学園都市を抜け、鄙びた田園の中を貫いている国道408号線から離れると、

 

『御乗車ありがとうございました。間もなく終点の筑波山です』

 

とのアナウンスが車内に流れた。

直後にバスが停車したのは、数軒の商店と人家がぽつり、ぽつりと建つだけの駐車場のような場所であった。

筑波の嶺は間近に迫っているけれども、まだ3kmほど先である。

 

ここが筑波山?──と呆然とする。

「筑波山」と行先を表示しているバスなのだから、せめて筑波山を登る筑波山観光鉄道ケーブルカーの駅が置かれた筑波山神社まで行くのか、せめてもう少し賑やかな集落が終点なのであろう、と勝手に想像していたので、ここでどうしろと言うのか、と心細くなる。


それでも、終点と言われれば、バスを降りるしかない。

土埃を含んだ一陣の風が、容赦なく襲い掛かってくる。

東京の気温に合わせて薄着をして来た僕は、身震いをして襟元を掻き合わせた。

 

こぢんまりとした建物と、屋根がある細長いホームが見え、「筑波駅」と書かれた看板が、所々破れたまま屋根に掲げられている。

一目で廃駅と分かる光景である。

そうだったのか、と思う。

ここは、常磐線土浦駅と水戸線岩瀬駅を結んでいた筑波鉄道の筑波駅であった。

 

 

筑波鉄道は、明治末期に土浦と下館を結ぶ軽便鉄道として計画され、終点を岩瀬に変更した上で、大正7年4月に土浦-筑波間、同年6月に筑波-真壁間、同年9月に真壁-岩瀬間が相次いで開通している。

2~3ヶ月おきの延伸とは奇妙であるけれど、実際は同年4月に全線の建設が完了していたものの、機関車の不足により鉄道院の監査が受けられず、開業と同時に筑波-岩瀬間を運休として、監査が終了次第、順次営業区間を伸ばしたという事情らしい。

岩瀬から宇都宮までの延長も計画されたが、資金難で断念されている。

 

大正14年には、筑波山鋼索鉄道が、筑波山神社と筑波山頂の間に関東地方で2番目となるケーブルカーを敷設し、筑波駅からの路線バスも運行を開始したため、筑波鉄道は登山客で大いに賑わい、大正15年には上野-筑波間を直通する列車の運転も開始された。

戦時下の昭和20年に、大正2年から取手-下館間に鉄道を運行していた常総鉄道と合併して常総筑波鉄道となり、更に昭和40年には、明治33年から竜ケ崎-佐貫間、大正13年から石岡-鉾田間の2路線の鉄道を運行していた鹿島参宮鉄道と合併して、関東鉄道が誕生したのである。

 

 

子供の頃に鉄道ファンになった僕にとって、関東鉄道は、実に興味をそそられる私鉄であった。

取手-下館を結ぶ51.1kmの常総線、佐貫-竜ヶ崎間4.5kmの竜ケ崎線、石岡-鉾田間26.9kmの鉾田線、そして土浦-岩瀬を結ぶ40.1kmの筑波線と、合計すれば120kmを超える路線網を北関東で展開し、ベッドタウンの通勤通学を担う頻回運転であるにも関わらず、全線が非電化という、都市型なのかローカル私鉄なのか判然としない形態を、特異に感じたのである。


昭和54年に鉾田線が鹿島鉄道として、筑波線が筑波鉄道として分離されていることに気づいた時には呆気にとられたものだったが、それぞれの前身である鹿島参宮鉄道と筑波鉄道を合併したという歴史と、昭和62年に筑波鉄道が、平成19年に鹿島鉄道が廃止されたことから、赤字線を分離したのだと思えば、鉄道ファンとしては残念であるけれども、納得できる。

鬼怒川の砂利輸送を目的として、大正12年に下館の大田郷駅と関城町の三所駅の間に開通し、昭和2年に常総鉄道に買収された鬼怒川線という路線もあったが、関東鉄道になる前の昭和39年に早々と廃止された。

 

現在、関東鉄道と言えば、東京と茨城県南部の各地域を結ぶ採算性の高い高速バス路線網を展開し、収益の7割をバスの収入で占める事業者として君臨しているが、常総線、竜ケ崎線だけの総延長55.6kmに縮小されたとは言え、鉄道部門も安定した定期運賃収入に支えられていると聞く。

 

 

筑波鉄道が廃止された昭和62年4月1日と言えば、国鉄が分割民営化され、常磐高速バスの第1弾である「つくば」号が運行を開始した日である。

その裏側で、ひっそりと消えていった鉄道があったのだな、と思う。

 

その5年後に僕は現地を訪れたのだが、東京駅から僅か1時間40分、今をときめく学園研究都市に向かう颯爽たる高速バスの旅の果てが廃駅とは、あまりに落差が激しく、意外な結末だった。

廃線跡を間近で見るのは、初めての経験であったかも知れない。

ひび割れだらけのホームの残骸と、今にも崩れ落ちそうなトタン屋根、そしてレールが取り外されて草むしている路床を目の当たりにすると、容赦のない歳月の流れが厳然と胸に迫ってくる。

昭和30~40年代の行楽シーズンともなれば、上野駅から土浦を経由する「筑波」や、日立・水戸から岩瀬を経由する「筑波山」といった国鉄の急行列車が、この駅まで乗り入れていたとは信じられない寂しい佇まいである。

その時代、この土地で生活を築き、筑波駅のホームで列車を乗り降りした人々は、何処へ行ってしまったのだろう。

 

夏草や 強者どもが 夢の跡

 

という芭蕉の句が心に浮かぶ。

 

 

筑波駅のバス停留所は、その由縁は分からないけれど、長いこと「筑波山」を名乗っていた。

例えば筑波山神社から筑波駅に向かう路線バスが「筑波山行きです」と案内されれば、混乱を来すのは目に見えているから、後に「筑波山口」に改称されたけれど、ここを終点とする高速バスが頑なに行き先を「筑波山」と掲げ続けているのは、筑波駅が筑波山の玄関口として賑わっていた歴史を踏まえてのことだろう。

「筑波駅」にすれば良いではないか、と思うけれど、過去の駅であるし、つくばセンター行き「つくば」号と混同しかねない、との配慮もあったのだろう。

もしくは、「ニューつくばね」号から筑波山神社へ向かうバスに乗り換える需要を期待していたのかも知れない。

 

 

このあたりは、沼田、と呼ばれているらしい。

幾度となく氾濫し、流れを変えた利根川が残した湖沼が点在し、そこを人々が懸命に開拓した土地なのだろう。

鉄道の駅が健在で、筑波山の登山口として栄えていた時代を髣髴とさせる商店街も、バス乗り場の周辺に小規模ながら残っていて、「筑波銘菓 がまっ子」「がませんべい」「山芋饅頭」「四六の饅頭」や「清酒 男女川」といった名産品の看板を掲げている商店や蕎麦屋などが見受けられるが、店頭に人影は見えず、ひっそりとしている。

「ニューつくばね」号を待っていたと思しきタクシーも手持無沙汰の様子で、運転手が集まって談笑しながら一服している。


この旅の時代に、つくばエクスプレスは、まだ開通していない。

平成17年につくばエクスプレスが完成すると、終点のつくば駅と筑波神社を直通するシャトルバスが運行されるようになり、旧筑波駅、つまり筑波山停留所を経由しなくなったため、筑波駅周辺の集落は寂れてしまったと聞く。

だが、筑波鉄道が廃止され、つくばエクスプレスが開業する前ですら、鉄路を失った土地の賑わいは既に過去のものとなっていたのである。

 


どうせならば、「ニューつくばね」号が筑波山神社まで足を伸ばしてくれれば良かったのに、と怨めしく思いながら、僕は、停留所のポールに貼られたバスの時刻表を眺めた。

筑波山神社行きのバスをはじめ、筑波鉄道沿いに土浦、真壁、岩瀬方面に向かう路線や、つくばセンター、下館、下妻方面の路線が掲げられているが、いずれも本数はそれほど多くない。

 

筑波駅跡の荒んだ様相に心が萎えてしまったためか、筑波山に登ろうという浮かれた気分は、するするとしぼんでしまっていた。

往年の筑波鉄道を偲んで、土浦か岩瀬に向かってみようか、とも思う。

色々と迷いながら、春らしからぬ筑波おろしが冷たく吹きつける停留所に佇んでいると、まるで時が止まっているかのような、のんびりとした心持ちになってくる。

視線を転じれば、筑波山は、笑いながら僕を見下ろしているかのような、優しい容貌に感じられた。

麓の世相の移り変わりに関わらず、筑波の穏やかな風土は、歌垣の昔と変わっていないのだろう。


「ニューつくばね」号は、つくばエクスプレスが開業すると、停留所が設置されたつくば市西部での利用者数が大幅に減少したため、1年後の平成18年9月に呆気なく廃止されてしまった。

開業から最後まで終始1日8往復の運行本数を維持し、減便などの前触れもなかったが、それほど意外な印象は受けなかった。

それでも、終点の手前で地下に潜ってしまうつくばエクスプレスはもとより、高速道路を降りてから幾何学的な学園都市の街なかばかりを走る高速バス「つくば」号に比べても、「ニューつくばね」号は、筑波の風土をたっぷりと見せてくれたな、と思う。


廃止の報を耳にした時、「ニューつくばね」号から眺めた、谷田部と沼田の集落の静かな佇まいが、一瞬、脳裏に浮かんだ。

筑波駅は、再び、東京との直通交通機関を失ったのである。

 

 

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