第39章 平成14年 高速バス品川-木更津線と品川駅東口の思い出 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:高速バス品川-木更津線、都営バス「品91系統」、東急バス「井01系統」】



品川駅の橋上に設けられたコンコースから東西連絡通路を東口に進むと、以前と比べてあまりに激しい変わりっぷりを目の当たりにして、度肝を抜かれた。


僕が東京に出て来た昭和60年頃は、品川駅西口(高輪口)にターミナルがある京浜急行電鉄線、そして国鉄の山手線、京浜東北線、東海道本線、横須賀線の各ホームと東口(港南口)との間に広大な貨物操車場や機関区などが横たわっていたために、長い地下通路をくぐり抜ける必要があった。

人通りは決して少なくなかったものの、天井が低く、壁も薄汚れた陰鬱な地下道から改札に出ると、どこの地方の駅なのか、と見紛うような瓦葺の三角屋根の駅舎があるだけだった。


周辺は公営住宅や事業所のビル、工場、倉庫などがぱらぱらと散在するだけで、どれも壁が黒ずんでいるような年代物の建物ばかりが目につき、雑草が生え放題の空き地も少なくなかった。

自転車置き場には、ぎっしりと自転車が置かれている。

屋根越しの彼方に見える高輪口のホテルパシフィック東京の白亜の高層ビルが、ここが品川駅であることを示しているものの、とても山手線の駅とは思えないような荒涼たる街並みだったのである。



僕が品川駅を利用するのは、大半が高輪口のホテルや商店街に行くためであったが、東口を利用する機会も少なくなかった。


用事があった訳ではない。

当時、隣り駅の大井町に住んでいた僕は、大井町駅を発着する路線バスの乗り潰しに凝っていて、大井町駅東口-八潮パークタウン-天王洲橋-品川駅東口を結ぶ「品91」系統、大井町駅東口-大井競馬場-大井埠頭-品川駅東口を運行する「品98」系統などの都営バスに乗りに出掛けたのである。



その頃の大井町駅は、品川駅東口に劣らず鄙びていて、現在は駅ビルのアトレや阪急デパート、イトーヨーカ堂、阪急ホテルなどがひしめいて賑わっている西口ですら、平屋の駅舎であった。

都営バスが出入りする東口は、品川公会堂の建物がでん、と正面に鎮座している以外は、狭い路地に飲み屋がひしめいているだけだったのである。

大井埠頭などの臨海地域や、その南の工場地帯、国鉄大井工場などで働く人々や、大井競馬場帰りのおじさんたちが、1杯引っ掛けるのに相応しい下町の街並みだった。


僕が通っていた大学は、東急大井町線と池上線が交差する旗の台駅が最寄りであったが、僕の友人は大井町線の大岡山、自由ヶ丘、等々力、二子玉川方面や池上線沿線ばかりに住んでいた。

旗の台より東側に住む者が皆無であったことも、大井町の性質を端的に現しているように思えた。


それでも、大井町には、知る人ぞ知るスタミナカレーの店「牛友」や、昔ながらの洋食堂「ブルドック」、味噌ラーメンと餃子が絶品の中華料理店「丸吉」、大手チェーンではない牛丼屋「どん亭」などといった僕のお気に入りの店が多く、昔ながらの古びた映画館「大井武蔵野館」も残っていて、楽しい学生生活が送れたと思っている。


大井町駅が巨大な橋上の駅ビル「アトレ」に改築され、それまで蒲田にあった丸井が東口に引っ越して来て、品川区立総合区民会館「きゅりあん」とともにペデストリアン・デッキを備えた流麗なビルへと面目を一新したのは平成5年、それまで北側の奥まった線路沿いにあったイトーヨーカ堂が西口ロータリーの正面に移転したのは平成9年のことである。

前後して、出店する土地を厳選することで知られていたスターバックスコーヒーが大井町に3店も出店したことで、僕は呆気に取られるどころか、これは大井町ではない、と不遜な感想を抱くに至ったくらいである。



品川駅東口に向かう都営バスが走る品川区内の臨海地域は、昭和14年からの埋め立て事業により完成したという古い歴史を持っているが、ここに八潮の町名がつけられたのは昭和50年と比較的新しく、昭和58年に日本住宅公団の八潮団地、通称「八潮パークタウン」が街開きしている。


大井町駅西口からも、青物横丁・立会川駅を経由して八潮パークタウンに向かう京浜急行バス「井12」系統が発着していたが、こちらは八潮団地内を循環して大井町駅に戻る運行形態だった。

当時の都営バスの車両は、前輪のタイヤハウスの上にある左側最前列の席に、金属製の箱が置かれていて座席がないのが特徴だったが、京浜急行バスはきちんと座席が設けられていたので、八潮団地が目的の場合は、後者を選ぶことが多かった。

低床バスが主流となった現在では見られなくなったけれど、都営バスや東急バスなどで、座席を1つ潰してまで設置されていた箱には、いったい何が入っていたのだろうか、と今でも不思議である。



大井町には阪急デパートとイトーヨーカ堂があるけれども、八潮団地にはダイエーが出店していて、目先の変わった食料品などを仕入れたくなると、僕はわざわざ八潮団地まで出掛けたものだった。


大手スーパーの代表格であったダイエーグループが、平成初頭に業績が悪化したという報道には、僕も大いに驚いた記憶がある。

故郷長野市のダイエーが、平成12年の大晦日をもって閉店したと聞いた時には、実家から最も近い大型店であったことや、目抜き通りの中心部を占めている建物になかなか後継の店舗が入らなかったことから、帰省するたびに心を痛めたものだった。

ダイエーがイオングループの傘下に入ったのが平成25年、品川八潮店が閉店し、スーパーバリューが後釜に納まったのは平成26年のことである。



そのような未来のことなど知るべくもなく、大井町駅東口を出た都営バスは、火力発電所や清掃工場、大型クレーンが林立するコンテナ埠頭、各企業の倉庫、物流センターばかりの、潤いに欠ける埋立地を進む。

時折り、京浜運河緑道公園や大井埠頭緑道公園、八潮公園、コンテナ埠頭公園などといった緑地が現れるとホッとしたが、田舎から出て来たばかりの僕は、初めて目にする臨海地域の様相に息を呑んで見入ったものだった。


京浜東北線の電車ならば大井町駅から品川駅まで3分程度の区間を、数十分もかけて大回りするバス路線を乗り通す客などいる筈もなく、運転手さんの視線が気になって、乗り続けるには若干の勇気を要するバス旅だった。



『御乗車ありがとうございました。次は終点、品川駅東口です。国鉄線、京浜急行線はお乗り換えです』


と案内放送が流れても、バスは埃だらけの古い家屋や工場の合間を縫い、対向車とのすれ違いも難しいような狭隘な路地を進むばかりであるから、この先に本当に駅があるのか、と心細くなって来る。

薄汚いラーメン店や飲み屋、パチンコ店が目立つ歩道上の停留所に降り立つと、ここは本当に品川駅なのか、と狐に化かされたような気分になった。


今思えば、日常と隔絶した異空間に連れて行ってくれる路線バスとして、魅力を感じていたのかもしれない。

駐輪場に接してぽつんと建っている常磐軒の立ち食い蕎麦を味わう楽しみだけが、僕が品川駅東口に見出した用事と言えば用事であった。



品川駅東口が見違えるように変貌するのは、大井町駅よりも早く、平成を迎えたばかりの時期である。


バブルが弾けて失われた20年が始まるとともに、企業が負債軽減のために所有していた工場や倉庫の売却が進み、加えて国鉄の分割民営化に伴って貨物ターミナルや機関区、平成4年に八潮団地の海側に移転した新幹線車両基地の跡地が再開発され、品川インターシティ、品川グランドコモンズをはじめとする高層ビルとタワーマンションの建設が始まった。

京浜急行電鉄が、平成10年に空港線を延長させて羽田空港ターミナルビルに直結し、平成15年に東海道新幹線が品川駅に停車するようになると、企業の本社などが数多く集まり、平成16年にはアトレ品川が入ったJR品川イーストビルが完成する。

今回の旅で訪れた平成14年には、場末のようだった昔の東口の面影は、微塵も残っていなかったのである。


僕が歩いている橋上駅舎から東口に向かう東西連絡通路、通称レインボーロードも、平成10年に完成したばかりと聞いていた。

長いこと、品川駅には東口と西口を結ぶ自由通路が設けられていなかったので、そうか、入場券を買わずに行き来できるようになったのか、と感慨深くなる。



まだ大学生だった頃に、大井町駅からの都営バス「品91系統」に乗って品川駅東口に降り立つと、不意に、外国人から話しかけられたことがある。

喋っているのは英語らしいのだが、かなりの早口でまくし立てているので、さっぱり聞き取れない。

「Shinagawa Prince Hotel」という言葉が何度も聞こえたので、


「Would you like to go to Shinagawa Prince Hotel?」


と聞き直してみると、


「Yes , yes!」


と何度も頷き、再びぺらぺらと喋り続ける。


「Oh , You're in a wrong exit of this station」


少し落ち着きなさいよ、と苦笑しながら答えたものの、どうして差し上げれば良いのかが判らない。

引き返して駅の構内を横断し、高輪口に行きなさい、と教えればいいのだが、生憎そのような英語力は持ち合わせていないし、自由連絡通路もない。


入場券を英語で何と言うのだろう、と思いながら自動券売機で2枚を購入し、


「Follow me」


と、1枚を外国人に渡して地下通路への階段を下り、港南口で第一京浜国道の反対側を指差しながら、あそこが品川プリンスホテルだと伝えた。


「Oh!Thank you so much!」

「You're welcome」


と握手をして別れてから、僕はもう1度入場券を購入し、常磐軒で昼飯を摂るため東口に戻ったのである。



そのようなことを懐かしく思い出しながら、装いを新たにした品川駅東口に出ると、僕は木更津行きの高速バスの乗り場を探した。

壮麗なペデストリアン・デッキが強烈な陽の光を遮ってくれるけれど、べったりと身体にまとわりつく猛烈な熱気に溜息をつきたくなるような、真夏の日曜日の午後だった。


品川駅から木更津駅へ向かう高速バスが登場したのは、平成14年7月のことである。


時刻表でそのことを知った時に、その意外性に驚いた。

木更津を発着する高速バスとしては、平成9年12月の東京湾アクアラインの完成と同時に、川崎駅、横浜駅、羽田空港への3路線が開業していたが、初めての東京都内向け路線を開業するにあたって、そのターミナルを品川駅にしたことに、虚を衝かれたのである。

平成15年10月に東京駅、平成20年9月に新宿駅、平成30年7月に渋谷駅と、木更津発着の都内向け高速バス路線は拡充していくことになるのだが、品川駅は、高速バスのターミナルとしては若干異色に感じられたことも、その一因だったのかも知れない。



品川駅を発着する高速バスは少なくなかったが、その行き先は、弘前、宮古、仙台、伊賀上野・名張、名古屋、大津、京都・大阪、福知山・舞鶴、岡山・倉敷、鳥取・倉吉、米子、徳島、今治、山口・萩と、全てが京浜急行バスが運行に加わる長距離夜行路線であった。


これらの夜行高速バスは、昭和の終わりから平成の初頭にかけて同社が急激に拡充したもので、開業当初は、品川駅高輪口の向かいにあるホテルパシフィック東京を起終点にしていた。

平成元年に、全路線が第一京浜国道の泉岳寺寄りに建てられた品川バスターミナルを発着するようになったが、品川駅港南口を出て、第一京浜を400mほど歩かなければならない位置だったので、決して便利とは言えなかった。

バスターミナルと名乗りながらも、昼行高速バスが発着したのは、唯一、弘前線「ノクターン」号の昼行便である「スカイターン」号の1往復だけで、日中に第一京浜から品川バスターミナルを眺めると、これだけの施設を日中に遊ばせておくのが勿体ないような気がした。



品川-木更津線は、実質、品川駅における初めての昼行高速路線と言える。

平成20年9月には、品川-袖ケ浦・長浦線も開業している。


品川駅近辺は都内でも有数のホテル街であり、また高輪や御殿山などに高級住宅街が広がっているものの、品川-木更津線を利用する乗客の大半は、鉄道からの乗り換えであろう。

僕は、遠方に向かう夜行高速バスに乗車するためならば、多少の距離を歩かされてもむしろ楽しく感じるような性格だったが、時間に追われる昼行高速バスでは不便さが際立つかもしれない、と案じたものだった。



品川-木更津線を運行する京浜急行バス、日東交通バス、小湊鉄道バスも、品川バスターミナルの立地条件を懸念したのか、開業当初に運行していた8往復は、全てホテルパシフィック東京が起終点になっていた。

ここで先祖返りするのか、と再び驚かされたのだが、400m歩かされる品川バスターミナルと、第一京浜を渡って丘を登らなければならないホテルパシフィック東京と、どちらが便利なのだろう、と首を捻ったものだった。


幸い利用客数は少なくなかったようで、平成15年のダイヤ改正で1日27往復に増便されるとともに、下りでは始発の品川6時20分発から11時10分発までの12便が、上りでは木更津13時50分発から最終の22時30分発までの13便が通過するものの、その他の便は、品川駅東口を経由するようになったのである。



どうせならば全便が品川駅東口を経由すればいいのに、と思うのだが、僕ら素人があずかり知らぬ何らかの理由があるのだろう、と好意的に解釈することにした。

何と言っても、隣りの大井町に住む者としては、これ以上は望めないくらいに便利な房総半島直通路線が登場したのであるから、末長く走り続けて貰わなければならない。



往年の品川発着夜行高速バスを偲んで、ホテルパシフィック東京から利用するのも一興だったが、僕は、懐かしい思い出に溢れている品川駅東口に心を惹かれて、こうして日曜日の午後にわざわざ出掛けて来たのである。


路地の歩道にポールが置かれていただけの素っ気ない停留所だった昔に比べれば、「東口交通広場」と名づけられた現在のバス乗り場は、見違えるようだった。

少し離れた乗り場に、大井町駅東口に向かう都営バスを見掛けて、これに乗ってくれば良かった、と臍を噛んだけれども、僕は気を取り直して、定刻14時30分に現れた木更津行きのハイデッカーに乗り込んだ。



ホテルパシフィック東京から乗り込んでいた先客は数名で、品川駅東口からの乗客も10名程だった。

車室の真ん中の2席を占めている用務客と覚しき2人の男性が、途切れることなく大声で喋り続けている。


「……やから、仕入れ値はこちらの金額になる訳なんや」

「そいつはちいっと高いのやおまへんか」


他の客に気兼ねすることなく続く会話が関西弁であることから、休日にも関わらず、遠路の出張なのであろうか。

なるほど、関西方面から木更津へ向かうためには、新幹線を品川で降りてこのバスに乗り換えるのが最速なのかもしれない、と思い当たり、東京都内発着の木更津線の起終点を品川駅に定めた理由が、少しばかり理解できたような気がした。


品川駅東口を後にしたバスは、港南2丁目の交差点で旧海岸通りを右に折れ、南に向かう。

この辺りは古くからの雑居ビルが沿道にひしめき、埋立地でありながら、真新しく巨大な建築物群に圧倒されてしまう品川駅東口よりも、落ち着いた風情がある。

縦横に走る運河も、昔ながらの河川のような自然さで街並みに溶け込んでいた。



「北埠頭橋」と標識に掲げられた交差点を左折すると、平行して走る東京モノレールと首都高速1号羽田線、そして点々と艀が浮かぶ京浜運河を跨ぐ急傾斜の橋梁を登り、頂点に設けられた交差点で首都高速湾岸線の流入路に向けて右折、バスは本線に合流してみるみる速度を上げていく。

この橋はバイクで何度か走ったことがあるけれども、左右に京浜運河、前方の大井埠頭越しに東京湾を見晴るかす眺望の良さは、何度通っても飽きが来ない。

首都高速湾岸線に入れば、左手に新幹線基地が一望の下に広がり、右手には、八潮公園や大井埠頭中央海浜公園の緑地が心を癒してくれる。


以前に都営バスでこの付近を通っているはずなのだが、地表を行く路線バスとは異なる開放的な景観を改めて眼にすれば、品川-木更津線に乗って良かった、と嬉しくなる。



そこから先は、東京駅を発つ館山・安房白浜行き高速バス「房総なのはな」号や、安房鴨川行き「アクシー」号で通ったことのある馴染みの道筋だが、首都高速都心環状線やレインボーブリッジ、お台場といった旅の導入部が楽しい東京駅発着路線と比べると、品川-木更津線には困った相違点があることに気づいた。

品川駅から旅を始めたのでは、瞬く間に城南島と京浜島を走り抜けて、空港北トンネルと多摩川トンネルに差し掛かり、そのまま川崎浮島JCTで東京湾アクアラインに進んでしまうために、誠に呆気なく、何やら損をしたような気分にさせられたのである。

もちろん、そのようなことに不満を抱くのは僕くらいで、一般の利用客にとっては、それだけ品川-木更津線が便利であることの裏返しと言わねばならないだろう。


この日は晴れていたものの、アクアトンネルの先のアクアブリッジから眺める東京湾は霞が掛かっていて、広雄大な眺望を楽しむという訳には行かなかった。

品川駅東口から木更津駅まで、途中袖ケ浦バスターミナルに寄っても1時間きっかり、数分~十数分程度ではあるものの川崎-木更津線よりも所要時間は短い。


真夏の陽射しが容赦なく照りつける木更津駅前に降り立つと、何だか乗り足りないような心持ちがした。



僕はそのまま総武・横須賀線直通の快速電車に乗って帰路につき、西大井駅で降りて、駅前の本屋での立ち読みで時間を潰してから、東急バスの「井01」系統で大井町に戻った。

これは僕の定番ルートで、「井01」系統のバス停が、自宅の至近に置かれていることが最大の理由である。

この系統に使われている小型バスの最後部の席が、背もたれが高くて座り心地が良く、短時間でも寛げることも魅力的であった。


昼過ぎまで寝坊していたのに、内房まで往復しながら夕食前に帰宅でき、手軽で充実した余暇となったことに僕は大いに満足した。

房総半島は近くなった、と改めて感心する。


†ごんたのつれづれ旅日記†


品川駅東口の激変に対する驚愕で始まった今回の旅であったが、僕が品川-木更津線に乗車したのはこれが最後だった。


房総半島への高速バス路線が次々と登場して目移りしたということもある。

大井町は、生まれ故郷である長野市よりも長い20年近くを過ごしたけれども、平成17年に新宿へ引っ越したことが、最大の理由かも知れない。

歳月の流れは実に容赦なく、このブログを書くために色々調べてみると、僕が大井町を出た後に、品川や大井町をめぐるバス事情は大きく変わった。


全国に夜行高速バス路線を展開して、僕らバスファンを興奮させてくれた京浜急行バスは、令和3年3月に夜行高速路線から全面的に撤退してしまう。

仙台、岡山・倉敷、山口・萩へ向かう路線は東京駅に、伊賀上野・名張への路線は池袋駅に、今治へは渋谷駅に都内の乗降場所を変更、名古屋、大津、京都・大阪、鳥取、米子方面の路線は廃止されて、地方側の運行事業者が単独で運行するようになった弘前、宮古、舞鶴、徳島への夜行高速路線だけが品川発着のまま残されている。


その前年の令和2年に、品川バスターミナルは、品川プリンスホテルに隣接した京急ストアの前に移転した。

ただし、折りからの新型コロナウィルス感染の流行で、新設のバスターミナルに乗り入れるはずの夜行高速バスは全て運休しており、現在に至るまで、1本の高速バスも発着していないと言う。


大井町駅を発着する京浜急行バスや都営バスも路線が再編成され、前者の「井12」系統は平成30年に廃止、後者も、大井町駅東口と品川駅東口を結ぶ「品91」系統や「品98」系統は途中で分断されて、直通便は1本もなくなっていた。




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