第38章 平成14年 高速バスで北関東の焼き物とサーキット、そしてSLの町へ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:高速バス浜松町-真岡・益子・茂木線、真岡鉄道】

 

 

茂木行きの高速バスは、定刻16時30分に、浜松町バスターミナルを発車した。


首都高速1号線の高架が覆い被さって、昼でも仄暗い海岸通りを北上し、新橋駅の近くで内堀通りに入り、夕陽を反射して窓ガラスが眩しく煌めいている黄昏のビル街の谷間を、バスは進む。

浜松町では数人が乗車した程度であったが、東京駅に近い八重洲通りの東北急行バス営業所の前では、十数人が乗り込んできて、半分程度の席が埋まった。

 

宝町ランプのきつい曲線上にある料金所をくぐり、堀割の底にある首都高速都心環状線に降りたかと思うと、急勾配で高架に駆け上がり、箱崎JCTで渋滞に揉まれながら首都高速6号向島線で隅田川の東岸を北上する。

浅草の繁華街や浅草寺、右手にあるビール会社の泡をイメージしたという黄金色のモニュメント、橋をくぐって行き交う団平船や水上バス、そして川幅が広がって空が広くなる白鬚橋付近と、都心を発着する高速バスから眺める都市景観は、何回乗っても飽きが来ない。

都内の車窓風景に限って言うならば、地平を行く鉄道の数倍は楽しいのではないかと思う。

 

 

住宅地が連なる郊外の景観に少しずつ移り変わっていく東名高速、中央自動車道、関越自動車道方面への高速バス路線よりも、雑然とした下町を走り抜ける東北、常磐、東関東自動車道方面への路線の方が、面白さが際立っている。

中川を渡り、堀切JCTで中央環状線に入って、荒川の広大な河川敷を左手に見下ろしながら首都高速川口線に歩を進める頃には、バスを取り巻く車の間隔も開いて、速度が上がり始める。

このバスは、どのような町に僕を連れて行ってくれるのだろうか。

 

僕が高速バスに熱を上げ始めたのは、鉄道で全国をひと通り回った後であったから、高速バスの行き先が再訪になる場合が多かったが、それでも路線数が増えてくると、見知らぬ土地が終点であることも少なくない。

このバスの終点の茂木なる町は、耳にしたことはあっても、足を踏み入れるのは初めてだった。

調べてみると、茂木町は栃木県南東部に位置し、町内を流れる那珂川を遡上してくる鮭と、柚子、椎茸が名産であるという。

茂木はもてぎ、と読み、鎌倉時代に常陸国の守護を務めた一族で、この地域の地頭職を務めた茂木氏に由来する地名と伝えられているが、茂木氏の名は茂木荘を治めたことから踏襲されたとも言われているので、何やら堂々巡りの伝承である。

 

 

茂木の名は、平成10年に開業したサーキット「ツインリンクもてぎ」で聞いたことがあった。

 

「ツインリンクもてぎ」は、ホンダが建設した鈴鹿に次ぐ2番目のサーキットである。

F1日本グランプリを筆頭とする我が国のモータースポーツの聖地として知られ、世界のサーキットでも珍しい立体交差のあるテクニカル・コースの鈴鹿とは対照的に、1周1.5マイルのオーバルコースを持つ茂木は、インディカー・シリーズの開催地にする構想があったようである。

 

米国が発祥であるインディカー・シリーズの原点とも言うべきインディアナポリス500は、1911年からの長い歴史があり、1950年に最初のグランプリが開催されたF1世界選手権よりも古く、北米では圧倒的な人気を誇っているという。

1周2.5マイルのインディアナポリス・モーター・スピードウェイのオーバルトラックを200周、走行距離500マイルで争われ、F1モナコGP、ル・マン24時間と並び世界3大レースの1つに数えられている。

インディ500の周回平均速度は予選で時速362km、決勝で時速354kmを超え、最高速度は時速380kmと、世界の周回レースカテゴリーの中で最も速い。

ちなみに、F1世界選手権は、市街地コースも含む様々なコースで開催されるため、オーバルコースでフルスロットルのインディカー・シリーズより平均速度は遅くなる。


「ツインリンクもてぎ」は北側のカーブが窄まって半径が小さくバンク角も浅くなっているため、珍しくシフトダウンが必要になると評されるほど、インディカー・シリーズは馬力にモノを言わせたスピードレースになるのである。

F1は、原則として305kmを超える最も少ない周回数で争われ、レースが2時間を超えた場合はその周回で打ち切られる規則であるため、単純計算でも平均速度は時速150km程度である。

 

インディカー・レースは、1994年にF1と同様に通年のシリーズとなり、米国以外で初めて開催されるインディカー・シリーズとして、「ツインリンクもてぎ」でのインディジャパン300が平成15年から開催された。

2週間という短い間隔で開催されるインディカー・シリーズでは、遠い東洋での開催は移動日程がきつくなり、参加者の評判は決して良くなかったらしいが、平成23年の東日本大震災でコース上に段差が生じ、レースが不可能になったため、同年はオーバルコースを使わないレースが行われ、以後、日本でインディカー・シリーズが開催されることはなかったのである。

 

 

平成3年から同5年にかけて連載された新谷かおるの漫画「ジェントル萬」は、インディカー・シリーズに出場している日本人選手がF1に殴り込みを掛ける物語で、当時のスターだったアイルトン・セナ、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセル、ネルソン・ピケ、ジャン・アレジなどが実名で登場するF1の場面も好きだったが、インディカー・シリーズがF1に負けず劣らず生き生きと描かれていることに心を躍らせた。

 

 

1970年代に2度もF1のドライバーズ・チャンピオンとなったエマーソン・フィッティパルディがインディカー・シリーズに転戦したのはよく知られているが、作中で、

 

「まあ…強いて言えばインディを走っているドライバーでF1に憧れる奴は多いが、現役のF1ドライバーでインディに興味のある奴は少ないというのが原因の1つだな」

「おれは…F1やってて飽きちまったのさ」


という台詞をはじめ、F1を取材している記者が口にする、

 

「F1を芸術の極とするなら、もうひとつ…極があるな。野蛮の極が」

 

と呟くカット、または、主人公が属するチームの監督による、

 

「F1は…面白くなくなったよな。技術がどんどん発達して…安全性が高くなって…デジタル式の記録だけが並べられて…コンピュータとハイテクがのさばって…やっぱ…な、男の戦は死ぬかもしれないって危機感が欲しいよな」

 

という独白、そして何よりも主人公の、

 

「俺がいつも乗ってるマシンはF1より速いさ」

「世界最高なんて言ってるうちにケツの穴小さくなっちまったよなァ…F1は。たたきなおしてやるぜ!インディ流でよっ!」

 

などという台詞は、新谷流であるけれども、両シリーズの対比を如実に描き出していて、我が国ではあまり取り上げられることがないインディカー・レースの世界を、端的に知ることができたような気がしたものだった。

 

 

昭和62年に鈴鹿サーキットで初めて日本グランプリが開催されてから一気に燃え上がった我が国のF1ブームでも、大学生だった僕は、鈴鹿に出掛けたり、TV中継を徹夜で見続けるほどの熱狂的なファンではなかった。

 

それでも、当時唯一の日本人F1ドライバーだった中嶋悟が監修したファミコン・ゲームの「中嶋悟F1HERO」を購入し、実名で登場するスター選手の走りを堪能しながら、何時間も熱中して遊んだことは、今でも懐かしい。

このゲームにおけるセナは、果敢に攻める走りを見せつつテクニックも群を抜いており、プロストは紳士的な走行でありながら常に上位を占める安定性、マンセルはとにかくアクセルを踏み込んでコーナーでスピンする、と若干カリカチュアライズされた設定であったものの、大いに楽しめる内容だった。

監修の中嶋悟自身はかなり控え目なキャラクターになっていて、大人しい走りに止まっていたのは、かえって中嶋らしいと頷いたものだった。

 

 

昭和61年と62年のコンストラクターズ・チャンピオンとなったウィリアムズ・ホンダ、そして昭和63年から平成3年までを制したマクラーレン・ホンダの圧倒的な強さは、僕の愛国心を大いにくすぐったが、平成4年にホンダがF1から撤退してからは、僕のF1への興味も少しずつ薄れていった。

平成15年から「ツインリンクもてぎ」で開催されたというインディジャパン300については、全く知らなかったので、ホンダが強かった時代の鈴鹿と同じく、1回は現地で観戦してみたかったな、と残念でならない。

 

僕が高速バスで茂木を訪れたのはインディジャパン300の開催前で、陽が傾くにつれて鄙びていく車窓に目を奪われながらも、このような土地に2つ目のサーキットを造って、ホンダは何をしたいのだろう、と首を傾げたものだった。

鈴鹿を訪れたことがなかったので、国際的なサーキットがある町とはどのような雰囲気であるのかは分からないけれど、如何なる町であるのか、興味津々だった。

 

 

東北道は、都心から連絡する首都高速の眺望は楽しいけれども、川口JCTで本線に入ってからの車窓は、一変して坦々としてしまう。

 

東京から四方に伸びる高速道路の殆どが同様であるけれど、地形の変化が全くない平野が見渡す限り続く区間が、東北道は飛び抜けて長い。

東名高速ならば秦野中井、中央道は八王子の先、関越道は前橋の先で、関東平野を囲む山並みが迫って来るし、常磐道は三郷JCTの先に市街地をくぐるトンネルが幾つも現れて目を楽しませてくれるが、東北道は工場や集落が点在する広大な田園地帯が延々と続き、佐野や宇都宮のあたりで丘陵を縫うような線形にはなるものの、初めてトンネルをくぐるのは福島ICの手前なのである。

 

都市化が凄まじい勢いで周辺に拡大している東京に住んでいると、都心から数十kmくらいは東京の延長としか言い様がなく、自然や旅情に浸りたいとすれば、その圏外に出る必要がある。

手間もお金も掛かるけれど、高速バスは、最も手軽に都市圏の外まで出られる乗り物ではないだろうか。

東名高速や中央道は、比較的手っ取り早く関東平野を抜け出して、都市部と自然の境目が際立つ演出が捨て難いけれど、飽きが来るほど風景に変わり映えがせず、どこまで走っても延々と街並みが連なる関越道のような高速道路もある。

それに比べれば、東北道は地形の変化に乏しく、栃木県に入っても広々とした那須野台地をじわじわと登っていくだけで、ここ、という地点はないけれど、緑の草木や田畑に覆われた車窓風景を目にすれば、やっぱり心が和む。

 

東京であくせくと日常に埋もれているよりも、遥かに素敵な時間ではないか、と自らに言い聞かせながら、とろとろと過ごす時間は、退屈だけれども貴重である。

 

 

途中、羽生PAでの休憩で、身体を伸ばしながらバスをまじまじと観察してみると、運行事業者である東野交通バスの車体は、所属する東武グループのバスとそっくりであるが、「108」と大書された数字が目立つ。

東野交通は、とうの、と読むものとばかり思い込んでいたけれど、とうや、と読むらしく、「108」も、社名に引っかけた語呂合わせなのであろう。

一時、東急グループが「109」というロゴを前面に押し出して、路線バスや渋谷駅前の大型店舗などに「109」の名を冠していたことを思い浮かべる。

東野交通の親会社の東武鉄道は、数字の語呂合わせのしようがないな、と妙に可笑しみが込み上げて来たりする。

 

 

宇都宮市に本社を置く東野交通は、大正7年に西那須野-黒羽間で開業した東野鉄道が母体である。

大正13年には黒羽-那須小川間を延伸し、沿線の農作物や八溝山地の木材の輸送、金丸原に置かれていた陸軍飛行場の軍事物資の輸送を担い、一時は茨城県大子まで延伸する計画もあったが、昭和恐慌の影響を受けて取り止めになっている。

昭和13年の台風により箒川の鉄橋が被害を受け、昭和14年に黒羽-那須小川間が廃止、残された西那須野-黒羽間も、旅客・貨物輸送量の減少に加えて、昭和41年の台風により蛇尾川鉄橋が損傷、復旧で多大な債務を負ったことから、昭和43年に廃止されたのである。

 

以後、東野交通と社名を変更し、バス事業者として栃木県北部を中心に路線バス網を広げ、平成13年に浜松町-茂木間高速バスを開設、平成14年には、前年から運行されていた新宿-塩原温泉・那須温泉間高速バスにも参入している。

 

 

順調に東北道を下って来たバスは、栃木都賀JCTで、平成12年に宇都宮上三川ICまで部分開通したばかりの北関東自動車道に針路を変えた。

終点で国道121号線に降り、鬼怒川の長大な橋梁を渡り始めた時、僕は思わず身を乗り出して目を見張った。

浜松町から走り続けて3時間、黄昏が深まる時間帯だった。

墨絵のように色彩を失っていく河川敷と対を成して、彼方に広がる大空の夕焼けが、さざ波のような雲を赤く染めて、言葉が出ないほどの美しさだったのである。

 

この夕景に接しられただけでも、茂木行きの高速バスに乗りに来て良かったと思った。

 

 

国道408号線で暮れなずむ鬼怒川に沿って南下し、真岡の市街地に立ち寄る頃には、車窓はすっかり暗転していた。

真岡から国道294号線で益子、茂木と北東方向に進む道筋は、第3セクター真岡鐡道に沿っているが、駅の名を冠した停留所は1つもない。

19時04分に着く、鬼怒川のほとりにある勝瓜、真岡駅の手前にある19時09分着の上高間木、真岡の中心部である19時13分着の台町、19時15分着の真岡市民会館前、19時20分着の東野交通真岡営業所までが真岡市域であり、益子町内の停留所は19時29分着の益子町役場前だけである。

北関東道の上三川ICにも18時56分着の降車停留所が設けられていたものの、この日は利用客がいなかった。

 

真岡鐡道の歴史は古く、明治45年の官設鉄道真岡軽便線下館-真岡間の開業に始まり、大正10年には茂木まで全通している。

しかし、県都の宇都宮にそっぽを向いて、南を走る国鉄水戸線と合流する線形であるため、一時は上野から乗り入れる急行列車が運転されていたものの、利用客数が振るわず赤字路線となり、昭和63年に第3セクター真岡鐵道へと転換された。

 

真岡を、もおか、と読む地名の由来は、台町付近の丘陵が沼や沢で覆われていた昔に、飛来していた鶴が美しく舞う丘、が転じて舞丘、と呼ぶようになったという説があると聞く。

利根川や鬼怒川が頻繁に氾濫を起こしては流れを変え、湿地帯が広がっていた関東平野北部の古代の姿が目に浮かぶような話ではないか。

 

 

隣りの益子町は、言うまでもなく焼き物の町として知られ、平成24年からは、秋葉原駅から常磐道を使い、同じく焼き物の町として知られ、境を接する茨城県笠間市を経て益子を結ぶ高速バス「関東やきものライナー」が運行されている。

 

僕は、後に益子を再訪することになる。

平成6年から真岡鐵道が運転を開始した「SLもおか」に乗るために、妻と車で真岡駅を訪れ、SLが牽引する列車で益子まで往復したのである。

「SLもおか」の車中では、先頭の蒸気機関車の力強い走りっぷりばかりに心を奪われたから、車窓は殆ど記憶に残っていない。

折り返す列車の待ち時間に、駅から程近い益子焼の窯元を冷やかしたり、町なかをぶらぶらと散策したけれども、人通りが少なく閑散とした通りを見遣りながら、以前に高速バスで訪れた益子とは、このようなところだったのか、と懐かしかった。

 

 

浜松町発の高速バスで訪れた日暮れ後の真岡鐵道沿線は、灯りに乏しく、何処から市街地で、何処が郊外であるのかすら判然としない道中だった。

 

初めて訪れる土地であるのに勿体ない、と思うけれども、バスが茂木を早暁5時30分発の上り便と、僕が乗っている午後の下り便の2往復しか運行されていないので、やむを得ない。

このようなダイヤは、地方の中小都市と大都市を結ぶ路線にしばしば見受けられて、地元の人間が大都市に出掛ける際には重宝するのだろうが、僕のようなバスに乗りたいだけの者にとっては扱いに困る。

朝の上り便に乗るためには始発の町に宿泊する必要があるし、午後の下り便を利用しようと思っても、まずは、東京へ戻る手段が残されているのか調べなければならない。

後に開業した「関東やきものライナー」は、午前の下り便と午後の上り便が設定されて観光客の利用もあると聞いているけれど、浜松町-茂木間高速バスは、あくまで真岡鐵道沿線の住民が東京に出るために運行されている路線のようである。

途中の停留所で降りていく乗客は、みんな自宅に帰るのだろうな、と思えば、胸中に里心が湧き上がってくる。

 

茂木市内の停留所も真岡鐡道とは無関係で、19時40分着の木幡、19時44分着の道の駅もてぎ、19時47分着の八雲神社前、そして19時50分に着く終点の茂木JA前の4か所であるが、僕は何処で降りれば真岡鐡道に乗れるのだろうか。

現在ならばスマホで検索すれば済む話であるけれど、地図の類はいっさい用意して来なかった。

 

殆どが地元在住の利用客と思しき夕方の下り便で、鉄道の最寄り駅を聞かれることはあまりないだろうから、少しく勇気がいる行為であるけれど、

 

「ああ、茂木駅なら八雲神社前ですね」

 

と、運転手が事も無げに教えてくれたので、僕は、参道に並ぶ木々よりも真新しい鳥居の方が背が高い神社の前でバスを降りた。

 

夜が更けつつある頃合いに、東京から遠く離れた町に身を置いている状況とは、心細いものである。

あれほど抜け出したかった日常生活が無性に懐かしく、早く帰りたいけれど、無事に家までたどり着けるのだろうかという不安が頭をもたげてくる。

どちらの方角が茂木駅なのだろうか、と逡巡したけれども、バスの赤いテールライトは、瞬く間に闇の中に消えてしまった。

古びた商店の明かりが漏れる歩道をおそるおそる進めば、1つ先の交差点に「茂木駅入口」と掲げられた標識が目に入った。

 

 

当時、茂木駅からは、JRバスの宇都宮駅行き水都西線がでていたけれども、宇都宮行き最終バスは18時30分に発車してしまっている。

東野交通も益子から宇都宮駅行きの路線バスを走らせているが、こちらも17時45分が最終で、19時05分の便も時刻表に掲載されているものの休日は運休している。

もちろん、折り返しの高速バスなどあるはずもなく、僕は真岡鐵道を乗り通して水戸線の下館駅に出て、東北本線の小山駅か常磐線の水戸駅に抜けるしかない。

 

このような時間帯の上り列車が賑わうことは、あり得ない。

高速バスを降りて駅まで一緒に歩くような乗客はいなかったし、下り列車を降りて来た数人も、そそくさと家路についている。

ワンマン列車の運転手も、ちらりと僕を見遣っただけで、物憂げに駅舎に消えた。

誰も乗って来ない下館行きのロングシートで、僕は1人寂しく発車を待った。

 

浜松町-茂木間高速バスは、平成19年にひっそりと廃止された。

東野交通も、平成30年に、同じく宇都宮に本社を置く関東自動車に吸収合併されて消滅したのである。

 

 

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