第40章 平成14年 リムジンバスと高速バスで近代日本の輸出産業を支えた工業の町を往復 | ごんたのつれづれ旅日記

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【主な乗り物:リムジンバス羽田空港-館林・太田・桐生線、高速バス新宿-館林・太田・桐生線】

 

 

群馬県は交通に恵まれている印象がある。

隣りの長野県で育った人間の、羨望を伴った見立てである、と断りを入れるべきかもしれない。


我が国で初めて主要街道が整備された律令時代に、畿内から近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野を経て陸奥、出羽に至る最短経路として拓かれた東山道と、その枝道として上野から南下して武蔵国府が置かれた府中に至る東山道武蔵路が設けられた。

蝦夷征伐のために遠征した坂上田村麻呂もこの東山道を下ったのであり、群馬県内にはその遺構が少なくない。

 

群馬県のHPには、

 

『本県は、日本列島のほぼ中央にあり、「日本の真ん中群馬県」として知られている。本県中心部の渋川市には、坂上田村麻呂が東征の帰途に「日本の臍」と定めたと伝えられる「臍石」がある』

 

と記されている。

 

江戸時代になると、江戸を中心とする五街道が整備され、東山道は中山道、日光例幣使街道、奥州街道などに再編された。

明治政府が東京を起点とする交通網を再整備するにあたって、中山道幹線計画が持ち上がったものの、峻険な地形により断念、関ヶ原の不破関と碓氷峠を結ぶ国道や鉄道は分断されてしまい、関西と北関東、東北、常磐三陸地方を結ぶ経路としての東山道は廃れていく。

 

太古の東山道を高速道路で例えるならば、名神高速道路、中央自動車道、長野自動車道、上信越自動車道、北関東自動車道、東北自動車道が相当し、東山道武蔵路が関越自動車道、首都圏中央連絡自動車道、中央自動車道であろうか。

ただし、関西と東京、東北をこの経路で行き来する人がいるとは思えない。

 

歴史を見る限り、東山道、後には中山道に属する長野県も群馬県も、それほどの違いはないように思えるが、道路行政に差が生じるのは太平洋戦争後のことである。

 

 

僕が幼かった頃に、長野と東京を車で行き来するのは大仕事であった。

長野県の東北部、北信や東信と呼ばれる地域は高速道路の整備が遅れ、群馬県の藤岡JCTから県都長野市まで上信越自動車道が延びたのは、長野冬季五輪を目前とした平成7年である。

それまでは、長野市から国道18号線を千曲川に沿って進み、碓氷峠を越えて関東平野に降り、国道17号線もしくは関越道に乗るという行程で、東京まで延々5~6時間を要した。

 

昭和36年に開業した長野と東京を結ぶ特急バスが国道18号線を走る映像を見たことがあるけれど、狭隘な急カーブが続く碓氷峠の区間には、これが国道と呼べるのか、と呆れたものだった。

碓氷峠ほどではなくても、他の区間でも、山あいを縫う往復2車線だけの道路で、特急バスが行き来していた昭和30~40年代と大して変わらない線形や道幅ではないかと思われる。

 

車窓に映る山河は美しく飽きが来ないものの、碓氷峠を越えるまでの時間がとにかく冗長に感じられた。

 

 

群馬県に降り立つと、関越道はもとより、国道17号線も中央分離帯を備えた往復4車線の立派な道路で、群馬県が羨ましくなるとともに、どうしてこのような差が生じるのか、と子供心にもいぶかしく感じたものだった。

東京と新潟を結ぶ関越道や上越新幹線が真っ先に整備されたのは、新潟県に首相も務めた大物政治家がいるため、と世間では囁かれていたが、群馬県も首相経験者を2人も輩出している。

 

「長野はダメさ。道路を見て御覧よ」

 

と吐き捨てるような親や親戚の口癖を、何度耳にしたことであろうか。

 

国道18号線を走ると、群馬県から長野県に入った途端に舗装が荒れて路肩も狭まり、カーブが多くなって、新潟との県境を越えると再び道路が見違えるように整備されている、という経験をするのが常であった。

子供心に、道路の良し悪しで、政治の力を思い知らされたのである。

 

 

ところが、視点を高速バス路線に置くと、群馬県は長野県よりも発達が遅かった。

 

昭和50年代から中央道経由の高速バスが発達した中南信地方はもとより、東北信でも、関越道を藤岡ICで降り、コスモス街道として知られる国道254号線で中山峠を越える池袋-小諸間高速バスが平成3年に開業し、中央道と部分開通の長野道を豊科ICまで利用してから、国道19号線で筑摩山地を越える新宿-長野間の高速バスも平成4年に開業している。

前者は、中山峠の手前で冨岡、下仁田といった群馬県内のバスストップに停車しているものの、純粋な群馬県への高速バス路線とは呼びにくい。

後者は、平成9年に長野市まで開通した上信越道に経路を乗せ換えて所要時間が短縮され、同時に池袋を起終点とする長野線も誕生している。

 

 

ところが、昭和60年に関越道が全線開通しているにも関わらず、首都圏と群馬県内を初めて直結した羽田空港-高崎・前橋間リムジンバスが開業したのは平成10年のことであり、池袋-高崎・前橋間高速バスが開業するのは平成11年、羽田空港-桐生・太田間リムジンバスと新宿-桐生間高速バスが開業するのは、平成14年まで待たなければならなかった。

理由は色々と考えられるが、最大の要因は、東京と前橋・高崎の間に上越新幹線や高崎線の列車が頻繁に運転され、あまりにも鉄道が便利すぎるために、高速バスが割り込む余地がないと判断されたためであろう。

 

群馬県は、路線バス旅客輸送量が47都道府県で最も少ない。

平成25年の統計によれば、路線バスの年間輸送人員数を人口で割った輸送量は4.98人で、1位の神奈川県の72.14人の14分の1である。

一方で、20歳以上の人口100人あたりの運転免許保有者数は、85.83人にも及ぶ群馬県が首位である。

これほどクルマ社会が進んだ群馬県で、バス事業を営むことの困難は充分に理解できる。

 

 

僕は、平成12年に、羽田空港と高崎・前橋を結ぶリムジンバスと、前橋・高崎と池袋を結ぶ高速バスを往復で利用したことがある。

その8年前には、路線バスを乗り継いで前橋まで出掛けた。

 

当時の僕は、東京から全ての道府県庁所在地に高速バスで行くという目標を立てていて、待ちに待った故郷への直通高速バスが開業しても、一向に群馬県に高速バス路線が誕生しないことに業を煮やしたのである。

 

 

東京と群馬県内を結ぶ高速バス路線網を展開したのは、本社を前橋市に置く、その名もズバリ日本中央バスである。


子供の頃に全く耳にしたことがなかった社名であるが、群馬県が日本の中央を名乗っていることを知ったのは、この社名がきっかけだった。

社史を紐解けば、昭和28年創業のタクシー会社がルーツで、昭和63年に日本中央自動車と名前を変え、平成6年に館林合同タクシーの貸切バス部門を譲受されて日本中央交通に社名を変更、平成7年には上毛電気鉄道のバス部門を引き継いで日本中央バスと名乗ったそうであるから、バス会社に変身したのは比較的最近である。

 

それでも、同社のHPに「群馬の高速バスのパイオニア」と大書されているように、この会社がなければ、いつまで経っても群馬県内各地を発着する高速バスは誕生しなかったかもしれない。

 

 

平成14年の晩秋のこと、僕は、高速バスを利用して東京から桐生まで往復してみようと思い立った。

おそらく、路線の開業の報が引き金になったのであろう。

 

最初に足を運んだのは、高崎・前橋を訪れた時と同じく、羽田空港である。

 

当時、品川区大井町に住んでいた僕は、リムジンバスで羽田空港に着き、ビックバード3階出発ロビーの搭乗口には目もくれず、真っ直ぐ2階の到着ロビーに降りて、ずらりと並んでいる各方面へのリムジンバス乗り場の中から桐生方面の停留所を見つけ出した。

羽田空港に行きながら、航空機に見向きもせずに立ち去ろうとしている僕の行為は、もし後をつけている人間がいたならば、不審者以外の何者にも見えなかったであろう。

 

昭和60年頃まで、羽田空港へのアクセスは東京モノレールや京浜急行電車が主体であり、リムジンバスは成田空港、新宿駅や副都心のホテル群、池袋駅と周辺ホテル群、赤坂のホテル群、横浜駅、川崎駅に向けて運行されているだけであった。

羽田空港を発着するリムジンバスが急激に路線網を増やすきっかけを作ったのは、昭和63年に登場した千葉線だったと思っている。

続いて、平成2年に新横浜にもリムジンバスが運行されるようになり、その後は雨後の筍のように続々と首都圏のみならず関東、中部など各方面への路線が出現した。

首都圏における複数の環状高速道路の完成に伴って、若干であるものの渋滞が緩和され、更には乗り換えが不要な直通リムジンバスの真価が世間に浸透したのであろう。

 

バスファンとしては、行き先の豊富さが羽田空港リムジンバスの魅力だった。

手軽にバス旅を楽しみたくなると、僕はのこのこと羽田空港へ出掛けていった。

僕にとっては、各地へのリムジンバスが多数出入りする羽田空港が、東京駅や新宿駅に勝るとも劣らない高速バスの一大ターミナルに思えたのである。

例えば東京駅や新宿駅でバスを乗り換えるのは至極当たり前のことで、羽田空港で同じことが許されない理屈はないはず、と自分に言い聞かせながらも、少しばかり後ろめたい気分になるのも、羽田を発着するリムジンバスの味わいと言える。

 

 

僕が乗る羽田-館林・太田・桐生間リムジンバスは、華やかなオレンジ色がお馴染みの東京空港交通の車両だった。

フロントガラスに「OTA」と掲げられていて、最初は何のことか、と思ったが、途中停留所の太田市のことだと思い当たった。

英文字の表示などは如何にもリムジンバスの雰囲気であるけれど、どうして「TATEBAYASHI」や「KIRYU」ではないのか、首を傾げてしまう。

 

午前11時過ぎに、数人の客を乗せて羽田空港を後にしたリムジンバスは、敷地内の巡回路から首都高速湾岸線に入り、京浜島、平和島を通り抜けて東京港トンネルをくぐり、お台場と有明、豊洲、木場をあれよあれよと通り過ぎてしまう。

都心を横断して関越道に向かうものとばかり思い込んでいた僕は、いったい何処へ連れて行かれるのか、と腰を浮かし掛けた。

千葉や茨城方面のリムジンバスに乗り間違えたのではないか、と不安になる。

 

首都高速9号深川線を分岐する辰巳JCTも轟然と通過したバスは、その先の葛西JCTでようやく速度を緩めて進路を北に向け、荒川と中川を隔てる突堤の上に築かれた首都高速中央環状線を走り始めた。

なるほど、と思う。

群馬県でありながら、前橋や高崎よりも栃木県寄りの東部に位置している館林や太田には、東北道を経由した方が早く着くのであろう。

 

3年後の平成17年に、東京と足利を結ぶ高速バス「足利わたらせ」号が運行を開始しているが、この路線も東北道佐野ICから国道50号線を使う経路であった。

 

 

葛西JCTから小菅JCTまでの中央環状線を走るのは、いつも気持ちがいい。

きついカーブがない直線的な線形であるために、身体が左右に揺さぶられることもなく、幅の広い荒川越しに眺める左手の東京の都市景観も見事である。

自分が運転して走った経験はあっても、バスならば視点が高くて見晴らしが利き、よそ見運転の心配もないので、なかなか新鮮に感じられる。

 

高速バスは都心を発着する路線ばかりで、都心の外縁を1周する首都高速中央環状線には殆んど縁がないから、この路線は貴重である。

羽田空港のリムジンバスも悪くないではないか、と嬉しくなる。

 

 

堀切JCTで、都心部から伸びてきた首都高速6号向島線と合流し、中央環状線は少しの間だけ4車線に広がるが、次の小菅JCTまでの僅か1.2kmの間に、車線を横断する車が錯綜する。

リムジンバスの運転手も、前方とサイドミラーを交互に睨みながら左へ車線変更を余儀なくされる区間であり、よくもバスの巨体をぶつけもせず、すいすいと操るものだと感心する。


小菅JCTで、首都高速は左手へ折れて東北道方面に向かう中央環状線と、真っ直ぐ常磐道方面に進む三郷線に分かれ、リムジンバスは荒川の土手に設けられた高架を走り続ける。

6kmほど先に江北JCTが設けられ、荒川を渡る五色桜大橋が完成し、板橋JCTへ向かう中央環状王子線が完成するのは、この旅の1ヶ月後のことである。

それまで、小菅JCTから東北道に接続する川口JCTまでが首都高速川口線であると決めつけていたのだが、もともと小菅JCTから江北JCT設置予定箇所までが中央環状線に分類されていたとは、江北JCTが完成してから知った。

記憶が定かではないけれども、この頃、五色桜大橋の工事も佳境を迎えていたのだろう。

 

河川敷を散策したりランニングしたり、またはグラウンドで野球やサッカーに興じる人々を見下ろしながら川べりを走るのは、爽快である。

環状7号線と交差する鹿浜橋ランプを過ぎると、首都高速川口線は右へ大きく弧を描き、それまでは殆ど眼に入らなかった防音壁が、無情にも視界を遮るようになる。

切れ間に覗くのは、足立区と川口市の中小工場が並ぶ、殺風景な街並みである。

 

 

川口と言えば、僕は、早船ちよ原作・浦山桐郎監督の映画「キューポラのある街」を思い浮かべる。

鉄の溶鉱炉であるキューポラが多く見られた鋳物の街・川口市を舞台としたドラマで、吉永小百合演じる中学生の主人公を中心に、親子や友情、性、貧困、そして民族問題などを描いているという、大まかなあらすじは知っているものの、映画は未見である。

 

小学校6年生でラジオドラマ「赤胴鈴之助」でデビューし、そのテレビドラマ化で映像デビュー、2年後には「朝を呼ぶ口笛」で映画への出演を果たした吉永小百合が、高校時代に「キューポラのある街」でヒロインを演じたのは、更に3年後である。

彼女が我が国を代表する女優になるきっかけとなったのが「キューポラのある街」だった、という認識しかなく、川口と言えば、吉永小百合を思い出す。

彼女が出演した映画は、それこそ数え切れないほど観ているし、乗り物ばかりのこのブログに御登場いただくのも少なくないのだが、僕にサユリストの資格がないのは、「キューポラのある街」を観ていないことで明らかである。

 

 

「キューポラのある街」は青春ドラマである、と解説している文献が多い。

僕は、青春ドラマが苦手である。

濃密な人間関係が描かれているだけに、感情移入し過ぎたり、振り返れば赤面してしまうような馬鹿ばかり繰り返していた学生時代のほろ苦い記憶がありありと脳裏に蘇って来たり、胸がいっぱいになって眼を背けてしまうのだ。

 

高速バスの独り旅は、考える時間だけはたっぷりとある。

桐生行きリムジンバスの座席に収まりながら、川口市から吉永小百合、青春ドラマ、若かりし頃の思い出と、連想がとめどなく飛躍していく。

勘弁してくれよ、という気分で、車窓への注意力が散漫になっている間に、リムジンバスは川口JCTで東北道に足を踏み入れ、いつしか周囲の景観が開けていた。

 

刈り入れを終えて土色に染まっている田園のあちこちに、工場や倉庫、集落が点在するだけの平板な車窓が続く。

高崎や前橋への高速バスが経由した関越道も、何処まで走っても平地が続く変わり映えのしない光景が東北道と似ているような気がする。

どちらも、陽も月も「草に出でて草に沈む」と言われた関東平野なのだな、と思う。

 

我が国で最大の沖積平野である関東平野は、大海進で海の底となり、海退後も、利根川やその支流の大河が暴れ始めると手がつけられない一面の氾濫原であった。

古代の人々の居住が可能であったのは、これから向かう北関東の河岸段丘や山裾など、一定の標高を超える地域に限られ、今でも貝塚などの古代遺跡は北関東の辺縁に多いと聞く。

東北道の方が車窓に幾許かの潤いを感じるのは、関越道沿線よりも河川の下流域に位置し、建物の密度が低く、湿地や原生林が多いからであろうか。

 

それにしても、東北道で群馬県に向かうとは、なかなか新鮮な体験である。

 

 

蓮田SAで5分程の休憩時間が取られたのは、意外だった。

バスを降りて、駐車場を囲む丘陵や木立ちを見回しながら身体を伸ばせば、遠くまで来たものだ、と気分が改まる。

さわさわと木々を震わせる風の冷たさに、秋の深まりが感じられる。

このような途中休憩を設けるとは、リムジンバスと言うよりも、定期高速バスの趣である。

 

東北道は東北本線や東北新幹線に沿っているものと単純に考えがちだが、大宮の市街地を避けるように、鉄道とかなりの距離を置いて東側を北上し、蓮田SA付近でXの字を描いて交叉してからは、鉄道より西寄りに離れた加須、羽生の街を伝っていく。

坦々とした伸びやかな風景は、川口JCTから46kmを走り切り、館林ICを出るまで変わることがなかった。

 

最初の降車停留所である館林バスセンターは、インター近くの倉庫街だったが、ここで降りる客はなく、リムジンバスは気を取り直したようにエンジンを吹かすと、市街地へ向かう。

車窓が賑々しくなって、城沼のほとりにある館林市役所前に停車すると、周りの乗客が一斉に立ち上がり、残されたのは僕を含めてたった3人になった。

 

 

館林の名は、近年、真夏になると40℃近い猛暑に晒される土地として、ニュースや天気予報で耳にする機会が増えたような気がする。

 

我が国で記録された最高気温として、昭和8年7月25日に山形市で観測された40.8℃という数字は、長く更新されることがなかった。

当時は日本列島を挟んで太平洋側に高気圧、日本海側に台風が存在する天気概況で、高気圧から台風に向かう熱風が蔵王連峰を吹き下ろし、気圧が高い地表で圧縮されて気温が上昇するフェーン現象が原因と言われている。

 

この記録が更新されたのは、埼玉県熊谷市と岐阜県多治見市で、それぞれ40.9℃が観測された平成19年8月16日である。

数値こそ山形や熊谷に及ばなかったものの、館林市でも、前日の8月15日に40.2℃が記録され、翌日も40.3℃に上がって、同市は観測史上初めて2日連続で40℃を超えるという記録を残したのである。

発達した太平洋高気圧がもたらす熱風が赤城山系から吹き降ろしたフェーン現象が原因と言われているが、その後も、猛暑日の年間日数が30日前後にのぼる状態が毎年続いている。

 

平成になって群馬県が我が国有数のヒートランドとして注目されるようになったのは、東京が発するクーラー熱などの都市型気候が一因ではないかと、僕は邪推している。

 

 

閑散としたリムジンバスは、利根川の北岸に沿う国道354号線を西へ進む。

往復2車線の道路に、家々が寄り添う集落と田畑が代わる代わる現れるだけの、埃っぽく単調な道のりが続くけれども、交通量は多い。

信号待ちでバスが停車しても、数珠つなぎになっている車列の先の交差点は、うんざりするくらいの彼方にある。

拡張工事をしているらしく、家並みは道端から後退し、舗装前の区画に建設重機があちこちに置かれている。

 

館林の次に停車するのが邑楽町役場である。

おうら、と読む難読地名だが、古くは接頭語の「オ」、野原を意味する「ハラ」、場所を示す接尾語の「ギ」から成る於波良岐(オハラギ)から転じたとする説、野原に多くの木が茂っていたことから「大原木(オハラギ)」から来たとする説、崖地を意味する「オハ」、それぞれ場所を示す接尾語の「ラ」「ギ」を意味するとする説、開墾地を示す「オホアラキ」を由来とする説などが唱えられているらしく、いずれも、未開の荒野であった太古の関東平野を彷彿とさせる。

邑、とは人が住む場所や集落を意味する漢字であるけれど、邑楽まで来れば、広大な田園に背の高い雑木林が散在する、武蔵野らしく鄙びた光景になる。

 

次に停車する大泉町の名は、鉄道ファンであった幼少時から聞き及んでいた。

地図や時刻表を開けば、大泉町立の小・中学校や高校など、町の名を冠した施設が散見されるものの、町内を走る東武鉄道小泉線に、大泉と名のつく駅は見当たらない。

大泉と小泉の地名が並ぶ珍しい土地だな、と関心を抱いていたのだが、何のことはない、昭和32年に小泉町と大川村が合併して大泉町となっただけのことであった。

 

 

この地域は、館林-成島-本中野-篠塚-東小泉-小泉町-西小泉と敷かれている小泉線、東小泉-竜舞-太田を結ぶ小泉線の支線、そして浅草から館林-多々良-県-福居-東武和泉-足利市-野州山辺-競馬場前-韮川-太田と小泉線に並走して伊勢崎に向かう伊勢崎線、館林と葛生を結ぶ佐野線、太田から赤城へ向かう桐生線といった東武鉄道の線区が入り組んでいて、館林-東小泉-太田-足利市-館林は環状を成している。

狭い地域に何本もの路線がひしめいている例としては、品川区と大田区内の東急線や、多摩湖周辺の西武線に通じるものがある。

 

東武鉄道小泉線の前身は、大正6年に館林と小泉町の間に開業した軽便鉄道で、昭和12年に東武鉄道に買収された。

昭和14年に西小泉-新小泉-仙石河岸を結ぶ仙石河岸貨物線が開業し、太平洋戦争が勃発する直前に中島飛行機小泉製作所への輸送を目的として、太田と東小泉の間を結ぶ支線が開通した。

更に、軍の要請によって、新小泉から利根川を渡り、妻沼で東武鉄道熊谷線に繋がる新線の計画も立案され、一部区間を着工したものの、戦争の終結により工事は中断された。

仙石河岸貨物線も昭和51年に廃止となり、熊谷線も昭和58年に廃止されている。

 

 

中島飛行機小泉製作所とは、現在のスバル群馬製作所のことで、大正6年に僅か9人の飛行機研究所として尾島町に発足し、瞬く間に東洋一、世界でも有数の航空機メーカーに成長して、海軍の三菱零式戦闘機と並び称される陸軍の一式戦闘機「隼」をはじめとする数多くの傑作機を世に送り出している。

蒸気機関車の時代における熊谷線の鈍足ぶりに因んで、「かめのみち」と名づけられた廃線跡や、利根川の群馬県側の河川敷に残された未成線の橋脚など、戦争に翻弄された鉄道の遺構は、一時期ブームになった廃線巡りの書籍に必ず掲載されていたものだった。

 

江戸時代に日光例幣使街道の宿場町だった太田市も、大正期以降は、中島飛行機と、戦後の後身である富士重工・スバルの企業城下町として発展し、浜松市や北九州市を上回る工業製品出荷額を誇っているという。

羽田空港とのビジネス客の往来も少なくないものと推察され、リムジンバスに「OTA」と抜き出して表示されているのも納得できる土地柄なのである。

 

 

リムジンバスは、太田市に敬意を表するように、国道354号線に近いバスターミナルオオタと、市街地の太田駅南口の2ヶ所に立ち寄る。

川口にも似た乾いた街並みであるけれども、整然とした目抜き通りと交わる路地に眼を向ければ、古びた雑居ビルや看板が見え、仄かに昭和の匂いが残されているように見受けられた。

ここで途中下車して、桐生まで東武電車で行けば良いではないか、という誘惑を抑えるのに苦労するような街の佇まいである。

 

自動車保有台数が多い群馬県の、しかも自動車製造メーカーのお膝元であるためか、車の依存度が高いようで、市内の街路の渋滞は只事ではない。

当時のリムジンバスは、高速路線バスほど、きっちりと運行予定時刻を明示している訳ではない。

今でこそバス会社のHPを開けば各停留所の発着時刻が一目瞭然であるが、この旅の頃は、時刻表巻末の「空港への交通機関」のページを調べるより他に方法はなかった。

掲載されている情報も小さな欄で限られていて、『桐生・太田・館林⇔羽田空港 所要170~220分(太田駅140~180分)』というように、所要時間と起終点の発車時刻だけという路線も少なくなかったのである。

実に大雑把と言うべき運行形態で、渋滞に遭遇しても遅れているのか判然としないところも、リムジンバスとはそういうものなのだ、と泰然と受け止めるしかない。

時刻表でもわざわざ所要時間の欄に抜き出されているのだから、太田の存在感は抜群である。

 

 

太田駅で僕を除く2人が姿を消し、桐生までは僕だけが車内に居残ることとなった。

リムジンバスは、東武線を跨いで国道407号線を北上し、国道122号線に左折してから、更に国道50号線に合流する。

茨城と群馬を貫く幹線道路であるだけに、車は道路から溢れんばかりに増え、バスの歩みも遅々としてもどかしくなる。

 

利根川から渡良瀬川の流域に移ったにも関わらず、車窓は一向に川面を見せてくれないけれども、右手の建物の合間に望む遠い山並みは、赤城や日光連山に連なっている。

関東平野の北の端まで来たのだな、と思う。

 

リムジンバスが終点の桐生駅に着いたのは、午後4時近くだった。

秋の日は釣瓶落とし、街並みは淡い黄昏に包まれようとしていた。

僕は、桐生駅南口を17時00分に発車する新宿行き高速バスで、とんぼ返りするつもりである。

 

 

桐生もまた、太田と同じく産業で我が国を支えてきた土地柄である。

「桐生は日本の機どころ」と詠われ、奈良時代から朝廷に献上するほどの絹織物の産地として、桐生の絹は京の西陣織よりも質が良いと持て囃されたこともあったという。

明治期以降、繊維工業は我が国の基幹産業となり、桐生も代表的な輸出製品を製造する街として外貨獲得に貢献し、戦前から戦後の一時期には、群馬県で最大の人口を有するほどの工業都市だったのである。


桐生と東京を結ぶ長距離バスの歴史も古い。

昭和30年代に、東武鉄道バスが、東京駅八重洲口前の停留所から、高崎・前橋・伊香保・猿ヶ京・谷川岳への長距離路線と、太田・足利・桐生への長距離路線を運行していたことがある。

桐生を発つ始発の上り便は朝6時00分発、東京9時15分着で、東京からの最終下り便は22時10分発、桐生に1時25分着と言う深夜便まで運行され、湯浴み客や登山客ばかりでなく、群馬県民にも重宝されていたと聞く。

 

 

昔の時刻表を開けば、同じページに仙台・山形方面への「東北急行バス」や、水戸・常陸への「常磐急行バス」、箱根、江の島、軽井沢といった観光地へのバスも掲載され、また東京と長野を結ぶ長距離バス2路線のうち、東急電鉄バスの「信濃路」号が途中で高崎にも停車していることが分かる。

 

もちろん高速道路がない時代で、桐生から東京まで3時間15分を要したが、現代の桐生と新宿を結ぶ高速バスの所要時間は、上りが3時間30分、下りが3時間と、上り便に至っては一般道経由の頃より遅くなっているのはどうしたことか。

ちなみに前橋と東京の間で比較すると、一般道経由の長距離バスが3時間35分、関越道経由の高速バスが2時間50分と、こちらはきちんと短縮されている。

 

 
この地域から東京に向かう鉄道は、赤城駅を始発として桐生、太田、足利を経由する東武鉄道の座席指定急行(後に特急に昇格)「りょうもう」が、浅草まで直通している。
 
それでも、地元では都心へのアクセスが不便と評価されているようで、車で利根川を渡り、高崎線の駅に出て東京へ向かう人が少なくないらしい。
たがらこそ、東京駅や新宿駅に直接乗り入れる長距離バスが活躍する余地が残されていたのだろう。
 
 

薄暮の桐生駅前を定刻に発車した高速バスの車窓は、太田、大泉、館林と来た道を逆にたどるうちに、いつしか漆黒の闇に閉ざされてしまった。

暗く染まった窓に映るのは、対向車線を走り去る車のヘッドライトの閃光ばかりである。

 

昭和30~40年代の桐生と東京を結ぶ長距離バスが、どのような経路をたどったのかは判らないけれども、その頃は、この辺りも桑畑が残されていたのかも知れない、と思えば、懐かしさが込み上げてくる。

信州飯田にあった父の実家も、養蚕に手を染めていた時期があり、子供の頃に訪ねると、周囲は桑畑ばかりで、養蚕棚が置かれた母屋の隣りの棟に入ると、無数の蚕が桑の葉を食べるシャカシャカ……という音が途切れることなく低く響いていたことを思い出す。

 

桐生から東北道館林ICで高速道路に乗るまで2時間あまり、それほど群馬県の奥深くに来ていたのかと思う。

景色が見えると見えないとでは、これほど心理的な時間経過に差が生じるものであろうか。

新宿は遠いな、とうんざりする。

 

20人ほどの乗客が思い思いに席を占めている車内は、深閑として咳き1つ聞こえない。

 

 

茫然と過ごす間に東北道を走り終えたバスは、川口JCTで東京外郭環状自動車道内回り線に進路を変えた。

ほう、こちらへ行くのか、と少しばかり面白くなった。

 

東北方面から新宿を目指す高速バス路線は、東北道から首都高速川口線に進んで鹿浜橋ランプを降り、環状7号線と北本通り、明治通りを南下する。

また、北陸や上信越方面から東京に上って来る高速バス路線が、関越道練馬ICから目白通りで池袋へ向かう経路であるのに対し、前橋発池袋行きの高速バスは、大泉JCTで外環道に逸れ、美女木JCTで首都高速5号線に乗り換えて、東池袋ランプでサンシャインシティに降りたことを思い出す。

大泉から池袋への距離は、目白通り経由で12km、美女木回りで24kmと、後者は2倍近くの距離なのだが、終点間際まで高速道路を走り続けるため、渋滞が激しい目白通りに比して、精神衛生上では遥かに速く感じた記憶がある。

 

前橋・高崎-池袋間高速バスと同じく、桐生-新宿間高速バスも、美女木JCTで首都高速5号線に移って都心に向かうのかもしれない。

ならば、西池袋ランプもしくは板橋本町ランプで、山手通りか環七に入るのかな、などと経路を予測するのも、線路しか走れない鉄道と異なるバス旅の楽しみである。

 

 

ところが、バスは美女木JCTで速度を緩めることなく猛然と走り抜け、荒川を渡り、続け様に地下トンネルをくぐり抜けて、大泉ICで目白通りに入ったのである。

日本中央バスの高速バス路線は、いつも意外性に溢れている。

 

川口JCTから大泉ICと目白通り経由で新宿まで34km、鹿浜橋ランプと環七・北本通り・山手通り経由なら26kmであるから、大泉ICはだいぶ西へ膨らんだ位置にある。

前橋-池袋間高速バスは距離が長くても高速道路を走り続けるという利点があったけれども、桐生-新宿間高速バスは、車の波に揉まれるような混雑を呈している目白通りで環八、環七を横切り、中落合二丁目交差点で山手通りに右折して、新宿副都心にあるヒルトン東京までの14km弱を小1時間も要する体たらくだった。

桐生から東京まで、往年の一般道経由の長距離バスより現在の高速バスの所要時間が長くなったのは、都内の道路事情が原因であることを、嫌というほど思い知らされた。

 

終点のヒルトン東京は、高層ビルが林立する新宿副都心の北西の隅に位置し、新宿駅と1km近く離れている。

もう少し駅の近くに停留所を置けなかったのか、このような所で放り出されてしまう桐生や太田、大泉、館林の人々が気の毒になってしまう。

 

午後8時半を過ぎている頃合いでありながら、ホテルの玄関前の人影は多かった。

これほど宿泊客がいるのか、と降りる支度を整えながら車内で感心していると、十数人の人々がこちらに顔を向けて、乗降口に整列する素振りを見せた。

羽田や成田へ向かうリムジンバスでも待っているのかな、と首を傾げながらバスを降りると、運転手が席も立たずに、

 

「桐生行きです。どうぞ」

 

とアナウンスしたので、乗せるのか、と仰天した。

 

 

時刻表を見ると、桐生-新宿間高速バスは、次のような運行ダイヤになっている。
 

上り:桐生駅7時00分-ヒルトン東京10時30分

桐生駅9時00分-ヒルトン東京12時30分

桐生駅16時00分-ヒルトン東京19時30分

桐生駅17時00分-ヒルトン東京20時30分

 

下り:ヒルトン東京10時30分-桐生駅13時30分

ヒルトン東京12時30分-桐生駅15時30分

ヒルトン東京19時30分-桐生駅22時30分

ヒルトン東京20時30分-桐生駅23時30分

 

この時まで気づかなかったが、よく見れば、上り便のヒルトン東京への到着と下り便の発車が、全て同時刻ではないか。

つまり、どの便も、ヒルトン東京で休憩時間を取ることなく折り返す運用だったのである。


終点に到着した高速バスが、起点方面に向かう客をその場で乗せるのは、初めて見たような気がする。

もし上り便が遅延すれば、折り返しの下り便は始発地から遅れることになる。

それを見越した上り便の所要30分増であるのかもしれず、乗客は我慢して待っていれば良いだけであるけれども、運転手は往復6時間30分の激務である。

 

疲れた素振りも見せず、にこやかに乗車扱いをしている運転手を扉越しにまじまじと眺めながら、お疲れ様です、と口の中で呟いて、僕は新宿駅に向かうホテルの送迎バスに乗り込んだ。

 

 

平成14年4月に開業した桐生-新宿間高速バスは、時刻表で前橋・高崎-池袋線とは別の前橋・高崎-新宿系統と併記され、当初は、上りが桐生駅8時00分発・10時00分発の2便、下りがヒルトン東京18時00分発の1便という、中途半端な本数であった。

所要時間は上り・下りともに2時間40分に設定されていたが、おそらく定時運行はできなかったのだろう。

それにしても余った1便は何処へ行くのか、と首を傾げたくなる不思議な運用だったが、同年の夏には1日4往復へと増便されていた。

 

この路線が開業しなければ北関東に出掛けることなどなかったであろうし、振り返ってみれば、様々な点で意外性に富んだ、バスファンとしては興味深いバス旅だった。

 

もう1度利用して、渡良瀬川を散策してみたいものだ、と思っているうちに、平成16年に1日3往復へと減便され、平成17年になると前橋・高崎-新宿系統だけが残されて、桐生系統は姿を消していた。

現在でも、桐生と羽田空港の間にリムジンバスが走り続けているけれども、早朝から午前にかけての上り便と午後から夜にかけての下り便だけという、東京の人間には使いづらい運行ダイヤであるため、なかなか食指が動かない。

 

 

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