【主な乗り物:夜行高速バス「ノクターン」号】
僕にとって、北への旅は、圧倒的に夜行利用が多かった。
一人旅ができるようになった大学時代、昭和60年代から平成の初頭にかけては、東北新幹線が開業していたものの、盛岡止まりで使い勝手があまり良くなかったし、航空機は文字通り高嶺の花で、滅多に乗れる代物ではなかった。
寝台特急「はくつる」「ゆうづる」「あけぼの」や、夜行急行「八甲田」「津軽」など、僕を東北や北海道への旅にいざなってくれた夜行列車は、名前を思い出すだけでも、その時の車内の雰囲気や、旅の高揚感までがありありと心に蘇ってくる。
今こそ、みちのくの津々浦々に向けて首都圏から数多くの夜行バスが走っているけれども、その嚆矢となったのが、品川と弘前を結ぶ「ノクターン」号だった。
昭和60年3月の東北新幹線開業と同時に、新幹線に接続して弘前と盛岡を結ぶ高速バス「ヨーデル」号が運行を開始した。
乗客数は好調に推移し、その60%が、弘前から東京への流動で占められていることから、弘南バスでは、東京へ直行するバスにも需要があるだろうと、東京側の共同運行事業者に京浜急行バスを選び、夜行高速バスの運行を画策したのである。
昭和61年12月26日、弘前バスターミナルと、品川・浜松町の間で運行を開始したのが、「ノクターン」号だった。
営業距離694.1kmは、それまでの最長距離路線「ムーンライト」号の658.2kmを凌駕して、日本一となった。
開業前には、県庁所在地でもない地方都市を発着する夜行バスに、果たしてペイするだけの利用者が根付くのか、という危惧が囁かれたと聞く。
当時、走っていた夜行高速バスは、首都圏と関西を結ぶ国鉄「ドリーム」号と、大阪と福岡を結ぶ「ムーンライト」号、そして東京と仙台・山形を結ぶ「東北急行バス」、東京と新潟を結ぶ「関越高速バス」だけであった。
ところが、蓋を開けてみれば「ノクターン」号は大変な人気路線に成長し、連日、片道3台以上のバスが必要になるほどの乗客が押し寄せた。
首都圏や関西圏、中京圏など、大都市圏をダイレクトに結べば、地方都市を起終点にしても夜行高速バスは成立する、という日本で初めての試みが成功したのである。
「ノクターン」号は、全国に高速バス路線が次々と登場するきっかけを作ったわけで、現在に通じる高速バスの元祖と言ってもいいのではないかと思う。
「ノクターン」号の成功を受けて、その後、雨後の筍のように東京と東北を結ぶ高速バス路線が続々と開業することになった。
昭和63年2月:東京-秋田「フローラ」
昭和63年7月:東京-盛岡「らくちん」
昭和63年10月:渋谷-鶴岡・酒田「日本海ハイウェイ夕陽」
昭和63年11月:東京-平「いわき」
平成元年3月:池袋-大館・鷹巣・能代「ジュピター」
平成元年7月:東京-青森「ラフォーレ」
平成元年7月:品川-宮古「ビーム1」
平成元年7月:東京-八戸「シリウス」
平成元年7月:横浜・浜松町-大曲・横手・田沢湖「レイク&ポート」
平成元年12月:池袋-気仙沼・盛・釜石「けせんライナー」
平成2年8月:新宿-仙台「政宗」
平成2年12月:池袋-花巻「イーハトーブ」
平成3年12月:浜松町-天童・新庄「TOKYOサンライズ」
平成4年2月:東京-羽後本荘「ドリーム鳥海」
平成4年10月:赤羽・大宮-鶴岡・酒田「夕陽」
平成6年3月:八王子-仙台「ニューエポック」
平成10年7月:新宿-郡山・福島「あぶくま」
平成11年10月:新宿-会津若松「夢街道会津」
平成14年10月:品川-弘前「スカイターン」
平成14年12月:池袋-六ヶ所・青森「ブルースター」
平成15年4月:新宿-仙台「ドリーム政宗」
平成17年3月:市ヶ谷・新宿-仙台
平成17年3月:上野-青森「青森上野」
平成17年4月:東京-古川「ドリームササニシキ」
平成17年8月:板橋・さいたま-仙台
平成17年9月:横浜・品川-仙台「ドリーム横浜・仙台」
平成17年12月:上野-青森「パンダ」
平成18年3月:新宿-仙台・石巻「広瀬ライナー」
平成18年7月:新越谷-郡山「あだたら」
平成18年10月:横浜・東京-郡山・福島「ドリームふくしま・横浜」
平成19年4月:池袋-遠野・釜石「遠野・釜石」
平成20年3月:横浜・東京-秋田「ドリーム横浜・秋田」
平成22年3月:東京-青森「津輕」
平成22年3月:新宿-野辺地・青森「えんぶり」
平成25年3月:東京-盛岡・久慈「岩手きずな」
平成26年8月:新宿-三沢・むつ「しもきた」
中には、鶴岡・酒田発着路線のように2系統が1本に統合されたり、6年で消えてしまった「ブルースター」号や板橋-仙台線、はたまた僅か1年で廃止された市ヶ谷-仙台線のような短命の路線、季節運行になった「えんぶり」号や「しもきた」号のような路線もあるけれど、東北地方に向けての高速バス開業ラッシュが一時期のバブルで終わることなく、新幹線や航空機の台頭で鉄道からは夜行列車が次々と消えていく趨勢の中で、今でも大半の路線が運行を続けているのは、立派であると思う。
バスファンとして、これらの東北方面路線の引きも切らぬ開業ぶりを眺めながら、この街にも高速バスで行けるようになった、あの町にまで高速バス路線が伸びた、と心を躍らせたものだった。
毎月、新しい時刻表には、必ずと言っていいほど高速バスの新路線が加えられて、時刻表のページをめくることが、あれほど楽しかった時代はない。
実際に乗りに行った路線も少なくない。
もちろん、旅の最大の目的は新規に開業した高速バスそのものだったけれども、訪れた土地の風情に心が洗われて、来て良かったと感じることも多かった。
当時は、今のようなネット予約が普及しているわけではなく、電話で予約した上で、指定された日時までに、最寄りの営業所や旅行会社の窓口で乗車券を購入する必要があった。
品川区の大井町に住んでいた僕が、京浜急行の高速バスを予約した際に、よく利用していたのが、品川駅港南口にある同社の窓口だった。
京浜急行バスは、「ノクターン」号の開業後も、次々と各方面へ向かう長距離夜行バス路線を展開し、僕も追いかけるように乗りに出かけたので、この窓口で乗車券を買い求めることが自然と多くなった。
今でも、品川駅1階の少し奥まった場所にある、こぢんまりとした営業所を見かければ、若かりし頃にそこを訪れて、乗車券を購入するたびに、ウキウキと昂ぶった気持ちになっていた自分が思い浮かぶから、胸が熱くなる。
乾ききった木枯らしが吹きすさぶ週末の夜、22時ちょうど発の「ノクターン」号に乗るために僕が訪れたのは、品川駅港南口と第1京浜国道をはさんだ小高い丘の上にそびえる、パシフィックホテル東京だった。
当時、品川発着の高速バスは、全て、このホテルを起終点としていた。
第1京浜沿いに品川バスターミナルが完成したのは、平成元年1月のことである。
ホテルの巨大な壁面に散りばめられた窓の明かりを見上げていたら、横殴りのビル風に飛ばされそうになったことを憶えている。
ホテルのロビーで暇つぶしをしているうちに、重厚な明かりに照らし出された玄関前に横付けされたのは、雪のように白いボディに「NOCTURNE」と大書された大型のスーパーハイデッカーだった。
車内に入れば、これまでに見たこともないような広々とした座席が並んでいた。
数ヶ月前に、僕は、大阪と福岡を結ぶ夜行高速バス「ムーンライト」号で、横3列独立座席を初めて経験していた。
文字通り夢心地の居住性であったが、「ノクターン」号の座席は左側2列・右側1列という座席配置で、通路を1列減らしたぶん、座席の幅が更に広くなっていた。
「ドリーム」号や東北急行バス東京-山形線の窮屈な横4列座席の経験も、それほど昔のことではなかったので、新しい夜行高速バスに乗るごとに豪華になっていく座席に、僕は有頂天だった。
パシフィックホテル東京で埋まった座席は1/3程度であったが、第1京浜を北上して立ち寄った浜松町で、ほぼ満席となった。
かさばる荷物を網棚に上げ、幾重にも着込んだ上着を脱ぎながら、なかなか坐らない客が多い。
「ほう、すごく立派なバスじゃないか」
「座席を倒すスイッチはどれ?」
などと話しているのだろうか。
この頃のバスの座席構造には、ちょっとした慣れが必要で、リクライニングかと思って肘置きの先端のレバーを引くと、バン!とフットレストが持ち上がって、ふくらはぎを叩いたりしたものだった。
車内で賑やかに交わされる言葉は早口の津軽弁が多く、何を喋っているのか、全く分からない。
「おばんです。このたびは、弘前行き『ノクターン』を御利用いただきまして、ありがとうございます──」
コクピットからひょっこりと顔を出して、翌朝の到着予定や車内設備を案内する交替運転手さんの言葉も、「シ」と「ス」や「チ」と「ツ」の区別がつきにくいと言われる津軽弁混じりだったから、このバスが、弘前側のバスであることを了解した。
東京にいながら、気分は、既に異郷の地である。
「故郷の 訛り懐かし 停車場の 人混みの中に そを聴きにゆく」
と詠んだ石川啄木と変わらぬ望郷の想いと安堵感を、地元バス会社の故郷直行便に乗り込んだ人々も、感じていたのかも知れない。
僕は、左2列席の窓際を指定されていた。
隣りに相客は来ず、他の席が全て埋まっていく様子を、何となく面映ゆい気持ちで眺めていた。
隣席の客は、何か突発的な用事でキャンセルになったのであろうか。
それとも乗り遅れであろうか。
天井の低い浜松町バスターミナルの構内を動き出したバスの中で、見知らぬ幻の相客のことを心配して、少なからず気を揉んだものだった。
隣席があいているのは、気兼ねなくくろげるから悪いことではないのだけれど、「何でアイツの席だけ?」と妬まれないだろうか、などと余計な心配もして、しばらく首をすくめていた。
浜松町を出てから、都心環状線の霞が関ランプに向かったような気もするのだが、東北道方面に行くには少しばかり遠回りであるし、京浜急行の他の西行き路線の記憶とごちゃ混ぜになっているのかも知れない。
午後11時頃に消灯になった頃には、まだ首都高速を走っていたような気がする。
カーテンをめくっても、防音壁が視界を遮っている。
道路の継ぎ目を拾って車体が跳ねる間隔が少しずつ長くなり、バスの速度が上がったような気がすれば、東北道に入ったのだろうと察するばかりである。
真っ暗になった車内で、リクライニングをいっぱいに倒して天井を見つめながら、北へ向かって疾走するバスの座席に身を任せるひとときは、僕にとってまさに至福であった。
生まれて初めて東北へ旅行した時は、寝台特急「はくつる」のグリーン車だった。
583系寝台特急電車が、日中も、寝台を座席に組み替えて運用されるために、構造的に寝台に変換できないグリーン車が、夜行でもそのまま連結されていたのである。
寝台が満席だったのか、寝台よりも安かったから選んだのかは定かでない。
グリーン車の座席は、一見、豪華に思えるけれども、リクライニングを倒せば少しずつお尻がずり落ちて来るし、足乗せ台の位置も中途半端だったから、決して眠りやすい造りとは思えなかった。
車内の照明は減光されると言っても、鼻をつままれてもわからないほど暗くなる夜行高速バスに比べれば、真っ昼間とほとんど変わりがない明るさなのである。
北海道へ周遊券で出かけた時には、周遊区間まで急行列車の急行料金が不要になるという特例を生かして、夜行急行「八甲田」の世話になった。
「八甲田」は客車列車で、青い塗装に白いラインが入った14系客車が使われていた。
普通車モノクラスの編成で、座席はリクライニングするものの、身体を起こすと、一緒に背もたれもバタン!と戻ってしまう、扱いにくい簡易リクライニングシートだった。
背もたれからレッグレスト・フットレストまで、程よい角度と長さでぴったり身体にフィットするから、安心して身を任せることが出来る。
寝台の方が楽であることは当たり前だから横に置いといて、貧乏学生だった僕が利用できる、座席の夜行交通機関としては、「ノクターン」号は群を抜いて快適であった。
それにしても、「ノクターン」とは、優しいネーミングだと思う。
「ドリーム」「ムーンライト」「ノクターン」と、初期の夜行高速バスの愛称を考えた人々は、地域性よりも、夜の旅のロマンを強調したかったのであろうか。
夜想曲は多々あるけれど、その人々が思い浮かべたのは、誰の曲だったのだろうと想像することも、なかなか楽しいものである。
「ノクターン」と名付けられた夜行高速バスの滑らかな走りっぷりは、僕の私感で言うならば、リストの「愛の夢~3つの夜想曲」ほど情熱的でも、サティの「5つの夜想曲」やドビュッシーの「夜想曲」ほど物哀しくもなかった。
最も高名なショパンの「第2番 変ホ長調」の流麗さこそ、ぴったりではないだろうかと、闇に包まれた車内で感じ入ったものだった。
「ノクターン」号が走る東北自動車道は、川口JCTから青森ICまで全長679.5km、日本の高速道路では最も長い。
浜松町を22時15分に出発してから、弘前バスターミナルに定刻7時15分より若干早めの時刻に到着するまでの、およそ9時間、ほとんど目を覚ました記憶がない。
2人の運転手は、栃木県の佐野SA・宮城県の国見SA・岩手県の紫波SAの3ヶ所で交替するが、乗客は降りることができない。
トイレも飲み物も完備した車両だからこそ、できる芸当である。
それが不満であったという記憶はなく、逆に眠りを妨げられることがなくて、ぐっすり眠れたような気もする。
ただし、暖房のためか、乾燥した空気で喉がいがらっぽくなり、夜中に2~3度、トイレの脇にある給水器で紙コップに冷水を汲んで、喉を湿らせたものだった。
途中休憩がないことを事前に知らなかったから、自前の飲み物を準備していなかった。
乗客の誰かが、さっとカーテンを開け放ち、昇ったばかりの太陽の光が射し込んできて、真っ暗だった車内が黄金色に輝やいた。
北国の日の出とは、何と力強いのだろう。
700km近くを走り切った長い夜間航海が終わり、「ノクターン」号の朝が明けた。
もぞもぞと、何人かの乗客が身動きする気配がする。
バスは隊列を組みながら弘前インターを降りて、ぐるぐると流出路を回っているところであった。
眠い目をこすりながら、ぼんやりと眺めた弘前の街は、ところどころにわずかな雪を残してはいるものの、家々の屋根や道路はすっかり乾いていた。
寒々とした土色に染まる冬の田園の彼方に、真っ青に晴れ渡った空を背景に、朝陽を浴びた岩木山の流麗な山容が広がっている。
「おはようございます。バスは定刻に運行しておりまして、間もなく、弘前バスターミナルに到着致します」
運転手さんの朴訥な口調の挨拶が、長旅の終わりを告げる。
終点でバスを降り、ふと顧みた「ノクターン」号の白い車体は、すっかり埃にまみれて、長い行路を物語っていた。
吐く息は白く染まるけれど、空気は乾燥して、前夜の東京と同じ感触だったのは、意外だった。
「今朝はぬぐいから助かるわ」
といった意味の津軽弁で、地元らしい乗客が、迎えに来た家族連れと顔をほころばせている。
「ノクターン」号の乗客数は順調に推移し、平成2年4月に横浜を発着して浜松町を経由する系統が加わった。
平成12年10月には、女性専用車両が設定されている。
「ノクターン」号に、横2列(両側1列ずつ)計6席の「スーパーシート」が備え付けられていたことは、記憶に新しい。
今でこそ、左右2列の豪華座席は複数の夜行バスで見られるけれど、当時は度肝を抜かれたものだった。
シートカーテンとシートヒーターが各座席に備えられ、ヘッドレストからレッグレストまでの長さが204cmというゆったりしたシートピッチで、是非とも1夜を過ごしてみたかったけれども、「スーパーシート」が廃止される平成24年12月まで、遂に機会はなかった。
東北道の車窓を楽しみながら、延々9時間かけていく昼間のバス旅に、強く惹かれたものだった。
残念ながら機会に恵まれないまま、平成18年9月に「スカイターン」号は運行を取りやめてしまった。
平成17年3月から運行を開始していた、青森駅と上野駅を結ぶ昼行高速バス「青森上野」号が弘前に停車するようになり、その後、「スカイ」号と改称されている。
こうして進化を続けてきた「ノクターン」号の人気は衰えることなく、通常でも3台以上の運行が続いていた。
1号車が横浜-弘前・五所川原、2号車が品川-弘前、3号車が品川-弘前・五所川原であり、多客期には7台まで3列シート車が用意されるという。
初代の専用車の中には、100万kmをオーバーホール無しで走行したとのことで、メーカーから表彰を受けた車両もある。
片道700kmとして、1400回以上、弘前と東京の間を行き来した計算になる。
北国では、温度変化や融雪剤の影響などで、車にかかる負担は少なくなかったはずである。
日本の製造メーカーの技術力や、バス事業者の確かな整備の裏打ちがあってこそ、今の高速バスの隆盛があるのだと思う。