第6章 昭和62年 秋田新幹線前史・特急「たざわ」の懐かしい旅路 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
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【主な乗り物:東北新幹線「やまびこ」、特急「たざわ」】

 

 

現在のような駅ビル「アトレ」が出来る前の、国鉄大井町駅の「みどりの窓口」は、平屋の駅舎の入口付近にあったように記憶している。

僕が品川区大井町のアパートで1人暮らしを始め、大学に通っていた昭和62年3月の初旬、大井町駅の出札窓口で、

 

「東京から秋田まで、特急券と指定席券を往復、大人2人でお願いします」

 

と申し出ると、それまでマルスに向かっていた中年の窓口氏が椅子を回してじろりと僕を見上げ、

 

「どうやって行くの?」

 

と聞く。

いかつい顔の係員氏であったし、どうやって、とは意外な反問であったため、少しばかりたじろぎながらも、

 

「3月〇日の上野13時30分発の『やまびこ』121号と、福島15時23分発の『つばさ』13号で……」

 

と、用意して来たメモを見ながら答えかけると、係員はいきなり破顔して、

 

「秋田なら盛岡を回った方が早いよ」

 

と答えたので、僕は絶句した。

 

 

小学生時代から鉄道ファンだった僕は、旅に出るあてもないのに時刻表を開いて、紙上旅行を楽しんできたから、鉄道について、ひと通りの知識はあるつもりだった。

 

東北新幹線が開業する前の上野駅と秋田駅の間は、特急「つばさ」が福島まで東北本線を走り、奥羽本線に乗り入れて秋田まで所要8時間たらずで結んでいた。

上野から上越線で新潟を経由し、羽越本線で秋田に向かう特急「いなほ」もあったが、こちらも8時間余を費やした。

東京から秋田まで、東北・奥羽本線経由で574.4km、上越・羽越本線経由で590.4kmであり、その時代、東京から秋田まで盛岡を経由して662.6kmを大回りする直通列車など、断じてなかったはずである。

 

4年前の昭和57年に東北新幹線が大宮-盛岡間で暫定開業し、昭和60年に東京側が上野駅まで延伸していたので、在来線特急も新幹線の接続を重視し、「つばさ」は大半が福島-秋田間、「いなほ」は新潟-酒田・秋田・青森間の運転となっていた。

 

 

途中まで東北新幹線を利用することは予想していたものの、まさか、当時の終点だった盛岡まで乗り通すことになるとは思いも寄らなかった。

 

「じゃあ、その行き方でお願いします」

 

僕は、窓口氏と列車の時刻を色々相談しながら切符を購入したのだが、東北新幹線と、盛岡と秋田を結ぶ田沢湖線の特急列車を乗り継ぐ行き方に対する僕の驚きようが、あまりにも大仰であったためなのか、終始上機嫌かつ親切であった。

発券された切符をまじまじと見つめながら夢見心地であったが、いずれにしろ大旅行だな、と思えば、嬉しさが込み上げて来たのだから、僕も現金である。

 

 

数日後、僕は上野駅に出掛けた。

長野駅を8時17分に発車して来た特急「あさま」6号は、定刻11時15分に上野駅の8番線に姿を現した。

駅で人と待ち合わせるのは浮き浮きする半面、所用がある場合は、きちんと列車が時刻表通りに運転されているのか、不安が入り混じる。

 

赤とベージュに塗られた189系特急車両が次々と眼の前を通り過ぎ、やがて定位置で停車すると、自由席車両から真っ先に弟が降りて来た。

 

「おう」

「うむ」

 

その前に会ったのが年末年始の帰省であったから、2ヶ月ぶりの再会であるが、挨拶は至って簡便だった。

 

 

僕は、いつも、2歳離れた弟との距離感がつかめない。

世間における男の兄弟がどのような関係性を保つのか知る由もないが、小さい頃は取っ組み合いの喧嘩もしたし、どちらかと言えば、仲良く一緒に過ごした記憶はあまり残っていない。

気性の違いが大きいのかもしれない。

幼少時の弟は負けん気が強く、両親と買い物に出かけて欲しい玩具を見つけても、僕は、何事にも厳しい父が買ってくれるはずがない、と最初から諦めて我慢してしまうのだが、弟は、手に入れるまで店の床に転がってじたばたと大泣きするのが常であった。

 

中学、高校と学校は同じだったが、弟がどのような振る舞いを見せ、どのような人間関係を築いていたのか、全く知らない。

学校の成績は僕の方が良く、父がやきもきするのは常に弟の方だったが、弟が高校に受かった時は流石に嬉しかったらしく、弟をそれだけの理由で自分の実家に連れて行ったものだった。

 

父が急逝したのは、僕が大学浪人中、弟が高校2年の年で、大学入試に失敗したばかりの僕は大いに引け目を感じたのだが、それからの弟の頑張りには目を見張るものがあった。

僕は一浪しただけで東京の私立大学に妥協したが、2年後に同じく浪人した弟は、東京の予備校に入った僕と異なり、長野の予備校に実家から通い、私立大学は受験もせず国公立ばかりを狙って、結局は二浪目に突入した。

 

「だって、父親がいないのに、2人とも金の掛かる私立って訳にはいかないじゃん」

 

と弟が言った時に、僕の弟に対する負い目は決定的なものになった。

実家を早々に出た僕と異なり、同居する母の支えにもなっていたに違いない。

たまに帰省すると、弟と母の親密さに疎外感を覚えたものだった。

 

この旅の年、昭和62年3月は、弟が3度目の受験に挑戦している真っ最中であった。

8年前の昭和54年から導入された共通一次試験は、試験科目が国語・数学・理科・社会・英語の5教科7科目(理科2科目と社会2科目を選択)で、受験生は共通一次試験の結果を基に、全国の国公立大学の中から1校のみの2次試験を受験することが出来る、という制度であった。

ところが、昭和62年から試験科目が国語・数学・理科・社会・英語の5教科5科目(理科1科目・社会1科目を選択)で合計800点満点となり、加えて受験生は日程別に分類された全国の国公立大学の中から2校の2次試験を受験することが可能になったのである。

 

弟が選択した志望校の1つが秋田大学とは、母からの電話で知った。

 

「だからさ、お前が秋田へ連れて行って欲しいんだよ」

「いいよ。東京まで来てくれれば、一緒に行く」

 

と答えた僕の心中に、これで秋田まで旅する口実が出来たぞ、という旅心が湧かなかったと言えば嘘になる。

 

 

当時の上野駅は、上野東京ラインの開業や、東北新幹線が東京駅に延伸する前の時代で、山手線や京浜東北線を除く全ての列車が起終点とする、絶対的なターミナルであった。

文字通り東京の北の玄関として君臨していたのだが、昭和46年に東北新幹線建設の認可が下された時点では、上野に駅を設けず、東京駅に直通させる計画であったと言う。

ところが、東海道新幹線の利用客増加に伴い、東京駅で計画されていた東北新幹線用のホームが東海道新幹線に転用され、昭和52年に、上野駅を設置する計画に変更されたのである。

 

東北新幹線の上野駅は、深さ約30mの地下4階に設けられ、2面4線で折り返し可能な構造で設計され、昭和60年3月14日に開業した。

海外では、長距離列車が発着する大都市の駅は方向別に分けられている例が多く、僕は東海道方面は東京、中央本線は新宿、そして東北・常磐・上信越方面は上野と言う棲み分けで充分ではないか、と思っていたのだが、東京駅への延伸工事は10年以上前の計画通りに粛々と継続された。

平成3年に東北新幹線は東京駅が起終点となったのだが、それは後の話である。

 

 

弟と上野駅構内の食堂で軽く昼食を摂り、エスカレーターを何本も下って、地下の新幹線ホームに向かった。

 

新幹線の開業に伴い、在来線の特急・急行列車が数多く廃止になり、地平のホームの一部が新幹線ホームに向かうコンコースに転用されている。

何本も乗り継ぐエスカレーターの合間には、だだっ広い踊り場のような空間になっている地下1階、地下2階、地下3階のコンコースを延々と歩かされる。

幾度か上野駅で新幹線を乗り降りした経験はあったが、大規模な設備を増設したものだ、と舌を巻きながらも、まだ下りるのか、まだなのかと、いつもうんざりさせられる。

 

隣りを歩く弟の表情は変わらず、キョロキョロと辺りを見回す訳でもなく、どのような気分で上野駅を観察しているのかは判然としない。

 

 

僕らが乗るのは 上野を12時ちょうどに発車する「やまびこ」55号である。

 

東北・上越新幹線用に開発された200系新幹線車両は、特徴的な丸いノーズをはじめ、外観は東海道新幹線の0系車両と似ているが、排雪用の鋭いスノープラウを備えたスカート部分や、床下を覆うカバーなど、全体的にどっしりと質感が高いように見えた。

何よりも異質だったのは普通車の座席構造で、横2列席は回転して進行方向に向けることが可能だったが、横3列席は回転させることが出来ず、中央から両端に向きが固定されている集団離反方式だったのである。

中央より後方の横3列席では後ろ向きに座らせられた訳で、横3列席は幅が広くて回転させられないのだろうという事情は、理解できる。

 

 

0系車両の普通座席はリクライニング機能がなく、背もたれを前後に動かして座る向きを変える方法だったが、200系で座席を固定した理由が理解できず、大して傾くわけでもないリクライニング機能と、進行方向に向きを変える機能を天秤にかけたのならば、国鉄当局がどうして前者を優先したのか、僕にはどうしても合点がいかなかった。

 

僕の好みとは真逆で、指定席を手配する時はいつも、後ろ向きの席が当たるのではないか、とヒヤヒヤしたものだったが、今回は弟と2人で乗るのだから、回転が可能な2人用座席だったので、大いに安堵した。

 

 

2人が指定されたのは普通指定席車の後方で、弟は、通路の反対側で後ろを向きっぱなしの3列席を物珍しそうに眺めていた。

弟と旅をするのは、子供の頃の家族旅行以来であったが、クロスシートの特急列車を利用すると、座席を回転させて4人家族が向かい合わせに座るのが常だった。

僕と弟は窓際席を占めるのが常だったが、どちらが進行方向に向けて座るのか、睨み合いになった記憶があり、いつしか、旅行の往路は弟が、帰路は僕が進行方向を向くと言う不文律が出来た。

車で出掛ける時も同様な棲み分けがあり、眺めの良い助手席に行きは弟、帰りは僕が座ったものだった。

 

「どっちに座る?」

 

「やまびこ」55号の普通指定席車両の通路で立ち止まり、僕を振り返った弟の顔が悪戯っぽく笑っているように見えたのは、同じく幼い頃の記憶を蘇らせていたのかもしれない。

 

「窓際に行けよ」

 

と素っ気なく返事したが、今回の旅は弟が主役であるから、元から窓際の席を譲るのは当たり前である。

 

 

僕が東北新幹線を利用したのは、2年前に初めて東北へ出掛けた帰り道に、仙台から大宮まで利用した時と、前年に東北をひと廻りした帰路に盛岡から上野まで乗車しただけけであるから、滑らかな曲調のオルゴールに続く車掌の案内放送はいつまでも新鮮である。

 

『この列車は「やまびこ」55号盛岡行きです。列車は12両で運転しております。前から12号車、11号車の順で、1番後ろが1号車です。指定席は前寄り5号車から12号車、グリーン車の指定席は7号車です。自由席は後ろ寄り1号車から4号車です。お手持ちの切符を御確認の上、お間違いのないように御乗車下さい。1番前の12号車と真ん中の8号車、グリーン車の一部、1番後ろの1号車は禁煙席です。お煙草は御遠慮下さい。ビュッフェは9号車にございます。また、車内販売が乗務しております。後程、皆様のお席に伺いますので、どうぞ御利用ください』

 

 

当時、東海道・山陽新幹線には食堂車が連結されていたが、長くても所要4時間にも満たない東北新幹線では不要と判断されたのか、食堂車の代わりにビュッフェが連結されていた。

東北新幹線のビュッフェは3年前の初乗車で覗いてみたけれども、席がなく立ち食い方式のためか、食堂車ほどの魅力は感じなかった。

 

僕らが子供の頃に長野から東京への往復で利用した信越本線の急行「信州」や「妙高」に半車のビュッフェが連結されていて、僕は父にせがんで連れて行って貰った覚えがあるけれども、その時、弟がビュッフェを利用したのかは記憶にない。

今回は昼食を済ませたばかりであり、鉄道ファンでもない弟がビュッフェに行こうと言い出すとは思えず、僕もそれほど行きたい訳ではないが、1人旅だったら足を運んだことだろう。

 

 

『この先の停車駅を御案内します。次は大宮に停車します。大宮12時18分、宇都宮12時45分、郡山13時18分、福島13時35分、仙台14時02分、仙台は14時02分の到着です。仙台から先は各駅に停まります。古川14時18分、一ノ関14時36分、水沢江刺14時46分、北上14時56分、新花巻15時05分、終点の盛岡には15時21分、15時21分の到着です』

 

当時の東北新幹線は、速達列車の「やまびこ」と各駅停車の「あおば」の2種類が運転され、東海道・山陽新幹線における「ひかり」と「こだま」のような役割分担になっていたのだが、「あおば」は上野-仙台間の運転が主体で、仙台-盛岡間は「やまびこ」が各駅に停車する場合が多かった。

車掌がすらすらと並べ立てる「やまびこ」の停車駅名に耳を傾けているだけで、仙台以北の区間が未乗であることも手伝って、みちのくの旅情が湧き上がってくるような気分になる。

 

 

放送の間に、「やまびこ」55号は長さ1495mの第2上野トンネルを進み、窓が明るくなって地上に飛び出すと、左手に日暮里駅のホームが見えた。

585mの赤羽台トンネルを抜け、続く639mの荒川橋梁で東京とお別れになるが、コンクリート製の高架に敷かれたスラブ軌道を行く「やまびこ」55号の走りは、トンネルだろうが橋だろうが揺らぎもせず、無機質な走行音も全く変化がない。

 

両側にビルがそそり立つ大宮駅までの区間は、騒音防止と、半径600~2000mという急カーブが連続する線形のため、時速110kmに制限されている。

路盤が良く走りが静かであるだけに、もどかしさが感じられる大宮までの20分であった。

 

 

大宮駅でかなりの客を加えた「やまびこ」55号は、水を得た魚のように、小気味良く速度を上げていく。

櫛の歯を引くように窓外を過ぎていく街並みが尽きると、集落や工場、倉庫が点在する田園地帯に変わり、目まぐるしかった車窓が少しばかり落ち着いた。

今にも泣き出しそうな曇天の日で、関東平野を囲む山々も、重く垂れ込めた雲に隠れている。

 

東北新幹線のトンネルは、都内の赤羽台からしばらくなく、広大な関東平野をひたすら高架で疾走するばかりであるが、宇都宮駅を過ぎると、750mの第一大槻トンネルを皮切りに、249mの第二大槻、160mの安沢、605mの中本田、180mの西成田、200mの東成田と、短いトンネルが断続するようになる。

那須塩原駅を過ぎれば、次の新白河駅まで、長さ7030mの那須トンネルを筆頭に6本、郡山駅までは18本、福島駅まで10本と、いきなりトンネルの数が増える。

那須山系を越えて、いよいよ東北の脊梁を成す奥羽山脈の懐に入り込んだのだな、と思わせる変化であった。

 

 

福島駅の先に僅か50mという舘トンネルがある。

後に、並行する東北自動車道から眺めた時は、立派な白亜の高架が小さな丘陵を貫いている様子が、あたかも団子を串刺しにしたようであまりにも痛々しく、それくらい避けてやりなさいよ、と言いたくなったのを覚えている。

今回の秋田行きの時点で舘トンネルを知っていた訳ではない。

東北新幹線が終始立派な高架橋で造られているのを実感したのは、僕が高速バスファンとして東北道を何度も行き来してからのことで、車両2つ分の長さしかないトンネルなど、気づきもしなかったであろう。

 

 

仙台駅で乗客の半分ほどが入れ替わった「やまびこ」55号は、10~20分に1回ほど停車するようになり、その都度、空席が増えて行く。

乗って来る客は殆んどいない。

 

仙台から先は、前に乗車した時は夜だったので、初体験も同様の車窓である。
窓際に弟が座っているから、外に視線を向けるのが何となく気恥ずかしいけれども、見ない訳にはいかない。
鉄道ファンでもない弟は、初めて目にするみちのくの風景を、どのような思いで眺めているのだろうか。

空がいよいよ暗く、物悲しくなって来た。

 

東を北上山地、西を奥羽山脈に挟まれて、北上川が流れる細長い平地を、「やまびこ」55号はひたすら北上していく。

山々がことごとく分厚い雲に隠れているので、土地が広いのか狭いのか判然としないが、田圃を白くまだらに染める雪が増え、暖房の効いた車内にいても、思わず襟元を掻き合わせたくなるような寒々とした光景になった。

昭和62年は暖冬であったが、南岸低気圧の通過により東日本がたびたび大雪に見舞われた年でもあったので、3月になっても残雪が多かったようである。

 

 

『長らくの御乗車お疲れ様でした。間もなく終点の盛岡です。どなた様もお忘れ物、落し物のないよう御注意下さい。12番線の到着で、お出口は右側です。盛岡からの接続列車を御案内致します。東北線八戸、三沢、野辺地方面青森行きの特別急行「はつかり」15号は、新幹線改札をお出になりまして3番線から12分の連絡、15時33分の発車です。東北線 各駅停車沼宮内行きは4番線から15時36分です。田沢湖線、田沢湖、角館方面秋田行きの特別急行「たざわ」9号は1番線から10分の連絡、15時31分発、田沢湖線各駅停車雫石行きは5番線から16時20分です。好摩、十和田南、大館方面の花輪線快速「八幡平」弘前行きは6番線から16時45分、区界、茂市方面の山田線各駅停車宮古行きは、7番線から18時08分、の発車です。間もなく終点の盛岡、12番線の到着でお出口は右側です。お忘れ物、落し物なさいませんようお気をつけ下さい』

 

詳細かつ膨大な到着案内に紛れて聞き逃しそうになるが、大館、津軽へ抜ける花輪線は1時間以上、三陸へ向かう山田線は2時間以上の待ち時間がある。

どちらも15時過ぎに列車が出ているので、新幹線を1~2本早めれば良い話であるが、盛岡から大館、弘前、宮古方面には、それぞれ高速バスが頻回に運行しており、もともと不便だったから高速バスが賑わうのか、それとも高速バスに利用客が流れたから不便になったのかは定かでない。

 

 

15時21分に滑り込んだ盛岡駅の高架ホームを降り、煌びやかなコンコースを通って地平の在来線ホームに歩を進めると、あまりに対照的な古びた佇まいに驚かされたが、何処か温もりが感じられた。

既に入線して扉を開けている秋田行きの特急「たざわ」9号も、代わり映えのしない国鉄塗装の485系特急用電車でありながら、外観も座席も見慣れた安心感がある。

 

『お待たせしております。15時31分発「たざわ」9号秋田行きです。田沢湖、角館、大曲、秋田の順に停車します。発車まで5分程お待ち下さい』

 

という案内を聞きながら、弟がぼそりと、

 

「これが秋田まで行くの?」

 

と聞く。

 

「そうだよ。あと2時間くらいかな。もう一息」

 

と答えると、弟は心なしか安堵の笑みを浮かべた。

 

「帰りは、秋田からこの列車に乗って、盛岡で乗り換えればいいんだね」

「そう。今日と全く同じ経路を逆にたどるだけだよ。大丈夫?」

「たぶん」

 

 

福島で東北新幹線と特急「つばさ」を乗り換えるつもりであった時は、秋田まで直通する「つばさ」が福島15時23分発・秋田19時55分着の13号と、福島18時21分発・秋田22時55分着の17号しかなく、えらく不便なダイヤだな、と首を傾げたものだったが、途中の山形・新庄・横手止まりの「つばさ」は多く、秋田に向かうならば「たざわ」を使って下さい、という意味だったのだろう。

秋田を発車する上りの「つばさ」は午前中しか運転されておらず、盛岡経由の利便性を知らなかった僕は、弟と一緒に秋田で宿泊するつもりだった。

 

特急「たざわ」のおかげで所要時間が短縮できたため、僕は秋田からとんぼ返りする旅程に変更していた。

僕も大学の講義があるので、弟の試験が終わるまで付き合うことは出来ず、幾ら旅慣れていないと言っても、同じ経路を折り返すだけならば弟1人でも帰って来れるだろう、という見積りであった。

 

受験の旅とは、実に複雑な体験だろうと思う。

旅に心が浮かれない人間はいないと思うのだが、受験の重圧が加わる心境は、察するに余りある。

僕も、2年前に、受験を前提として長野から鳥取まで往復した経験があり、長かった車中の思い出は今でもほろ苦い。

未知の土地へ向かう汽車旅は新鮮だったが、終始、胸に重石を乗せられたような道中であった。

 

僕の鳥取行は1人旅だったが、弟にとって、秋田へ同行する僕の存在は、心強いのか煩わしいのか。

そのあたりの感触が微妙で、上野駅以来、世話をするにしても過度にべったりしないよう、かと言って素っ気なくし過ぎないよう、何かと気を遣う半日だった。

 

 

発車ベルの響きに送られて、「たざわ」9号はゴトリ、と動き始めた。

盛岡駅構内を抜けると、すぐに線路は左に弧を描き、右手の新幹線の高架から離れて行く。

加速は鈍いし、がたがたする乗り心地は素朴で、新幹線の滑らかな走りっぷりとは比べ物にならないけれども、遠くまで来た、という実感が湧いて来る。

 

『本日は秋田行き特別急行「たざわ」9号を御利用いただき、ありがとうございます。列車は定刻に盛岡駅を発車しております。御乗車には乗車券の他に特急券が必要です。列車は3両での運転で、前から3号車、2号車、1号車の順です。前寄り3号車が普通車指定席とグリーン席、後ろ寄りの1号車、2号車が自由席です。1号車は禁煙車ですので、デッキやトイレも含めて禁煙に御協力をお願いします』

 

 

慌てて飛び乗ったので、編成まで確認している暇はなかったが、まさか3両編成の特急電車とは思いもしなかったので、少しばかり驚いた。

不意に弟が席を立ち、後方の扉を開けて車室を出て行ったので、用足しなのか、と思って気にも留めなかったが、しばらくして戻ってくると、

 

「本当に3両しかなかったよ」

 

と感心している。

 

「わざわざ見に行ったんだ」

「だって、3両しかない特急なんて珍しいじゃん。少し運動もしたかったし」

 

僕らの故郷、長野を発着する特急列車は9~12両編成が多かったので、鉄道ファンでもなんでもない弟ですら興味をそそられたらしい。

 

 

不意に、3両の特急電車で、弟ともっと気楽な旅に出掛けたことを思い出した。

高校3年になって、学校の帰りに電車に乗りに行く楽しみを覚えた僕は、ある日、高校1年の弟を誘って、長野電鉄の特急「志賀高原」に乗り込んだのである。

終点の湯田中駅まで往復するだけの他愛もない旅であったが、僕は、

 

「どうだい、悪くないだろう」

 

と1人で悦に入り、弟も、

 

「うん、いいよ、なかなか」

 

と満更でもないようであった。

もちろん、親に内緒の道草であったが、弟もそのあたりの呼吸はわきまえてくれたようである。

その時の特急電車が、ローカル私鉄ならではの3両編成だった。

弟との汽車旅はあれ以来だったのか、と思えば、胸が熱くなった。

 

2人だけの秘密と言えば、厳格だった父に隠れてこっそりとテレビのアニメ番組を見て怒られたり、様々な悪戯の記憶が溢れるように脳裏に蘇ってきて、思わず口元が緩んだ。

恐かったとは言え、父に守られて自由気儘に暮らすことが出来た高校までの時代がこよなく懐かしい反面、その父を亡くし、世間の荒波に揉まれて生きて行かなければならない僕らの境遇が、身悶えするほどに心細い。
 

 

岩手山の南麓を越えて雫石町に入れば、昭和46年7月30日に全日空機と自衛隊機がこの町の上空で空中衝突した事故が思い浮かぶ。

訓練空域を外れた航空自衛隊のF-86戦闘機が千歳発羽田行きの全日空ボーイング727型旅客機の後部水平尾翼に衝突、全日空機の乗員乗客162人全員が亡くなったのであるが、後に、航空評論家の加藤寛一郎氏が、同じく尾翼が破壊された事故として、昭和60年に起きた日本航空123便の墜落と合わせて著書「壊れた尾翼」で取り上げていたのが印象的だった。

 

受験生との道行きであるから、落ちる話をすべきではなく、町内の小岩井牧場をよく訪れたと言う宮沢賢治の「雨にも負けず」を連想する方が、精神衛生上、遥かに良い話であろう。

 

「ああ、小学校でよく朗読させられた」

「僕の学年も同じだ。暗記するくらいだったよな」

 

左手に、ひっきりなしに車が行き交う国道46号線・大曲街道が並走し、小ぢんまりとした集落に抱かれた赤渕駅を通過すると、田沢湖線は、いきなり深々とした奥羽山脈の懐に突っ込んでいく。

両側を険しい山々に挟まれた狭い地峡を、「たざわ」9号は右に左に身をくねらせながら進む。

窓の外は、根元に雪を残した木々が生い繁る山肌ばかりで、赤渕駅の前後は土砂崩れや雪崩の頻発地帯であると聞いたことを思い出した。

僕1人になる復路で何が起きても構わないから、弟が秋田に着くまで何も起きるなよ、と思う。

 

県境を挟んで岩手県側の赤渕駅と、次の田沢湖駅の間は17.9kmも離れていて、それだけ人跡稀な土地なのだろう。

「たざわ」9号は、県境にある仙岩峠を3915mのトンネルで抜けていく。
 

 

国道46号線は盛岡と秋田を結ぶ幹線であるが、田沢湖線よりも北側に大回りして、2544mの仙岩トンネルで県境を越える。

 

現在に至るまで平行する高速道路はなく、東北道から秋田方面へ抜ける車は、北上JCTで分岐し、横手を経由する秋田自動車道を使うことになるが、この旅の数年後に、東京と秋田を結ぶ夜行高速バス「フローラ」号や、仙台と秋田を結ぶ高速バス「仙秋」号に乗車した時は、秋田道は未開通で、盛岡ICから国道46号線を走った。

高速バスも鉄道と同じく盛岡経由なのか、と蒙を拓かれたが、印象的であったのは、鉄道と道路の眺望の違いであった。

鉄道が谷底を這うように敷かれているのに対し、自動車が勾配に強いと言う特性も一因なのだろう、国道はぐいぐいと高度を上げて、奥羽の重畳たる山並みを見晴るかすような車窓であった。

同じ仙岩トンネルと名づけられていても、田沢湖線の標高が365m、国道46号線の標高は530mである。

高速バスの車窓から、遥か下方に敷かれた田沢湖線を見下ろして、こちらがこれだけ登って来たのか、と背筋が寒くなるのと同時に、鉄道はあのような所を走っていたのか、と驚愕した。
 

 

雫石川が少しは地形をなだらかにしているとは言え、よくこのような山中に鉄道を建設したものだと思う。

 

田沢湖線は、盛岡駅と、赤渕駅の先にあった橋場駅を結ぶ橋場軽便鉄道として大正11年に開通した橋場軽便鉄道と、秋田側は大正12年に大曲駅-生保内駅(現在の田沢湖駅)の間に開業した生保内軽便鉄道に端を発する。

大正末期に盛岡と大曲を全通する計画が持ち上がったものの、財政難のために見送られ、太平洋戦争中の昭和19年に雫石-橋場間が不要不急線としてレールが取り外され、山田線のレール交換に使われたと言うから、それだけ仙岩峠の前後が峻険かつ人口が希薄な地域であったことが窺える。

戦後、北上駅と横手駅を結ぶ横黒線(現・北上線)と花輪線における輸送量逼迫の緩和と、盛岡-秋田間の短絡を目的に、雫石-赤渕間が新線として着工され、赤渕-田沢湖間と合わせて昭和41年に完成し、田沢湖線と命名されたのである。

 

半世紀前まで不要不急路線として扱われた線区が、東北新幹線の開業で東京-秋田間の最速経路として脚光を浴び、30年後に新在直通の秋田新幹線に生まれ変わるのだから、波乱万丈の運命である。

秋田新幹線の列車名が「こまち」になったのはびっくりした。

山形新幹線の「つばさ」も長野新幹線「あさま」も、従来の在来線特急の名前を踏襲したのだから、「たざわ」の名があっさり消えたのは、弟と乗った思い入れがあるだけに残念だった。

秋田県が品種改良した「あきたこまち」の販売が開始されたのは昭和59年のことで、間違いなく美味であるけれども、新幹線に米の名前ですか、と違和感を感じた僕の頭は固いのだろう。

 

 

特急「たざわ」の前身は、田沢湖線全通時に盛岡-秋田間で運転を開始した急行「南八幡平」である。

昭和43年に「たざわ」と改名し、東北新幹線の開業と合わせた田沢湖線の電化工事によって特急に昇格したのだが、特急電車の運転に必要な最小限の変電所を設置すれば良いと判断されたために、普通列車は気動車で運転されていたあたりは、ローカル線らしい逸話である。

 

田沢湖駅の周辺は開けた平地であるが、我が国で最も深いと言われている田沢湖は離れているので、目にすることが出来ない。

「たざわ」9号は、田沢湖の北方を水源として湖の東を流れる玉川に導かれながら南西に向かうが、川はそのまま南に離れてしまう。

田沢湖線は独力で西の山岳地帯を横手盆地に向けて下らなければならず、平行する道路もないような山あいを抜けて、田沢湖の西側を流れて来た桧木内川と玉川が合流する角館に出る。

 

玉川も桧木内川も、田沢湖を挟んで至近を流れながら、湖に合流しない珍しい流れになっているが、玉川は、水源近くの温泉のために強酸性の水質を持つ「玉川毒水」と呼ばれ、流入する雄物川流域の農業に悪影響を及ぼして来た。

太平洋戦争中にダムを建設し田沢湖に排水したところ、固有種であるクニマスをはじめ、田沢湖に生息していた生物は殆んど絶滅、水力発電所も酸性水による劣化が進むという重大かつお粗末な結果をもたらしたが、昭和40年代に開始された中和事業により、玉川の酸性度は緩和されつつあると聞く。

 

 

横手盆地の北の隅っこにある角館から、黒土が剥き出しの田圃の中を走り、「たざわ」9号は大曲の市街地に入った。

大曲は、玉川と丸子川、雄物川が合流する土地として舟運で栄え、雄物川が大きく蛇行していることから大曲と名づけられたと言う説と、栽培されていた麻を刈る道具の「大麻刈り」が転じたと言う説がある。

 

川ばかりではなく、田沢湖線と奥羽本線が接続する交通の要所でもあり、北から進入した「たざわ」9号は大曲駅で奥羽本線の上り方向に鼻先を向けて合流するので、秋田へは進行方向を変えることになる。

僕らが乗る半車の指定席には、半分にも満たない乗客が残っていたが、誰もが席を立って座席の向きを変えている。

僕と弟も立ち上がったが、後ろの席の客が降り、誰も乗って来る気配もないので、4人分の座席を向かい合わせにして、ゆったりと過ごすことにした。

弟は、何かと規則を気にする固い性格である。

 

「指定席なのに、いいのかな」

「この次が終点だから、もう乗って来る人はいないよ」

「あ、雨だ」

 

目を窓に向けると、ガラスに点々と水滴が滲んでいる。

照明が眩い駅を囲む街なみは、一層暗い翳りを帯びていた。

 

「寂しい所だな。ここで生活できる?」

「大丈夫、住めば都だよ」

「まあ、秋田はもっと賑やかだろうけど」

 

 

大曲駅から42分で到着した秋田駅も、まだ午後5時半と言うのに、すっかり暮れなずんでいた。

路面は濡れて車の明かりを鈍く反射しているが、雨はいったんやんでいる。

明日は晴れてくれ、と思う。

 

駅前のバス乗り場で大学に行くバスの時刻を確かめてから、弟を駅前のホテルまで送った。

 

「一緒に泊まらなくて大丈夫?」

「大丈夫」

「寝坊するなよ。受験票も忘れるな。傘はあるのか」

「大丈夫だってば」

「帰りの切符は渡したよな。じゃあ、頑張れよ」

「今日はありがとう」

「何言ってんだよ、家族だから当たり前だろ」

 
 

僕は駅に踵を返すと、処女地の秋田に僅か40分ほど足跡を記しただけで、18時13分発の「たざわ」18号で折り返した。

帰路は1人旅だから実に気楽だったが、後ろ髪を引かれるような心持ちになったのは意外だった。

20時03分に盛岡駅に着き、20時13分発の上り最終「やまびこ」82号に慌ただしく乗り継いで、上野駅に着いたのは23時34分、漆黒の闇に覆われた窓を雨粒が濡らすだけの寂しい5時間余であった。

 

結局、秋田の大学に行かなかったけれど、本命の大学に進学して早々に自家用車を買い、何処へ行くにも車ばかりとなった弟とは、その後、一緒に汽車旅をする機会はなかった。

 

 


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