蒼き山なみを越えて 第42章 平成10年 高速バス長野-上越線 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

平成9年10月に開業した、長野と直江津を結ぶ高速バスの記憶は、曖昧模糊としている。


何処から乗車したのか、ということすら、忘却の彼方である。

初乗りしたのが、平成10年2月下旬の日曜日であったことは、後に述べるような諸事情から換算して、まず間違いない。

運行事業者は川中島自動車と頸城自動車で、始発の長野バスターミナルか、長野駅前の川中島自動車営業所から乗り込んだのだろう。


途中休憩で撮影した写真を見れば、僕が乗車したのが頸城自動車担当便であることは判明したものの、バスターミナルまたは駅前営業所に、頸城自動車のバスが停車した場面が、どうしても頭に浮かんでこない。

開業後半年の新路線にしては、古びた車両を使っているな、と苦笑したのは、かろうじて記憶に留まっている。

そもそも、弘済出版社の「高速バス時刻表」を開くと、『途中休憩 なし』と書かれているが、僕が撮った写真は、どう見ても何処かのサービスエリアかパーキングエリアである。

運転手が用足しをしたくなって、臨時に立ち寄ったのだろうか?



当時の僕は、一種の虚脱状態にあった。

その一因は、同じ年の2月7日から2月22日まで開催された長野冬季オリンピックだった、と言って良いのかもしれない。


待ちに待った故郷のビッグ・イベントである。

主催都市である長野市をはじめ、山ノ内町、白馬村、軽井沢町、野沢温泉村に設置された競技会場に、72ケ国から選手・役員4600人が参加し、延べ144万2700人の観客が集まったと言われている。


天皇・皇后両陛下が御臨席されて、長野市のオリンピックスタジアムで行われた開会式は、善光寺の鐘の音を合図に幕を開け、諏訪湖御柱祭の建御柱、大相撲幕内力士と横綱の土俵入り、森山良子と子供たちによる「明日こそ、子供たちが…When Children Rule the World」の合唱が披露された。

入場行進は、近代五輪発祥の地であるギリシャの選手団を先頭にアルファベット順に行われ、最後の日本選手団は、長野県歌「信濃の国」に合わせて入場した。


大会組織委員会会長と、国際オリンピック委員会会長の挨拶に続いて、


「ここに、長野における第18回オリンピック冬季競技大会の開会を宣言します」


と天皇が開会宣言し、湯浅譲二作曲の「冬の光のファンファーレ」が演奏された。



猪谷千春、笠谷幸生、金野昭次、北沢欣浩、長久保初枝、大高優子、橋本聖子、山本宏美の元冬季五輪選手8人が五輪旗を持って入場し、長野市児童合唱団が五輪賛歌を合唱、オリンピック旗が掲揚された。


雅楽による「君が代」演奏の後、地雷で手足を失った社会運動家クリス・ムーンと子供たちが聖火を持って入場、1997年世界陸上1万メートルの銅メダリストである千葉真子、1992年アルベールビル五輪と1994年リレハンメル冬季五輪におけるノルディック複合団体の金メダリスト河野孝典、阿部雅司、三ヶ田礼一の3人、そして1997年の世界陸上マラソン金メダリストの鈴木博美へと引き継がれ、最後に、1992年アルベールビル五輪フィギュアスケート銀メダリスト伊藤みどりの手によって聖火台に灯された。

河野、阿部、三ヶ田とともに2つの五輪で金メダリストとなった荻原健司と、フィギュアスケート審判員の平松純子が宣誓し、子供たちのメッセージカードが入った鳩の形をした紙風船1998個が空に放たれた。


クライマックスは小澤征爾の指揮によるベートーベン交響曲第9番第4楽章で、長野市内の県民文化会館におけるオーケストラとソロ歌手の演奏に、北京、ベルリン、ケープタウン、ニューヨーク、シドニーの五大陸の合唱団が衛星同時中継で唱和、開会式会場の観客と選手を含む全員が声を合わせたのである。

演奏終了と同時に、航空自衛隊のブルーインパルスが会場上空で五色のレベルオープナー(水平空中開花)の飛行を行った。



長野は、歴代の冬季五輪開催地の中で、最も低緯度に位置していたらしい。


平成10年は、エルニーニョ現象の影響により、世界の平均気温が観測史上1位という高温を記録し、我が国でも北陸、西日本、南西諸島は戦後で最も気温の高い年となった。

1月と2月は、北日本で平年並みの寒さであったが、東日本以西は記録的な暖冬となり、1月8日と1月15日には南岸低気圧の通過により関東地方で記録的な大雪が降った。



正月の帰省で、長野市は例年より雪が少ないように感じたのだが、冬季五輪は一転して悪天候に悩まされた。

志賀高原と白馬で行われたアルペンスキーは日程の大幅な変更を余儀なくされ、大会10日目に男子スーパー大回転、女子滑降、女子複合滑降の3レースが同日に実施されるという事態になった。


志賀高原では、東館山スキー場と焼額山スキー場の双方で同時に競技が進行できるようにスタッフと機材が手配されていた。

当初は2コースのスタッフを用意するのは不要とする意見もあったが、確実な競技運営を主張した全日本・長野県スキー連盟の意向と、「この時期の天候は読めない」という地元の人々の意見が反映されて、結果的に、白馬八方尾根スキー場を含む連日のスケジュール変更にも柔軟に対応できたのである。

コース整備には、陸上自衛隊も協力したと聞いている。



白馬で行われたアルペンスキーやクロスカントリー、志賀高原でのスノーボード、野沢温泉でのバイアスロン競技、長野市中曽根の「スパイラル」でのボブスレーとリュージュ競技では、外国選手の強さが目立った。

アルペンでは、自然保護を主眼として日本側が設定したコースの難易度が低すぎるとIOCが反発、妥協案として中部山岳国立公園の特別地域をジャンプで飛び越えるという、今度は難易度が高すぎるコースが造設されたため、この地点で出場選手45名のうち14名が転倒、棄権すると言う大波乱を招いた。


白馬でのノルディックスキーで、日本代表は、団体戦で冬季五輪3連覇は成らなかったものの5位に入賞、個人戦で荻原健司が4位、荻原次晴が6位に入賞した。

長野市のエムウェーブで行われたスピードスケートは、高速リンクであるため世界新記録が続出し、男子5000mでメダリスト3選手が全て世界記録を上回り、清水宏保が男子500メートルで金メダル、男子1000mで銅メダルを獲得、女子500mで岡崎朋美が銅メダルを獲得した。

長野市真島総合スポーツアリーナ「ホワイトリング」で行われたショートトラックスピードスケートでは、男子500mで西谷岳文が金メダル、植松仁が銅メダルを獲得した。


同じく「ホワイトリング」で行われたフィギュアスケートと、、長野市若里多目的スポーツアリーナ「ビックハット」と長野運動公園総合運動場総合市民プール「アクアウィング」で行われたアイスホッケーでは、アメリカ、ロシアなどプロ選手を擁した外国勢の強さを目の当たりにさせられたが、長野市の飯綱高原スキー場で行われたフリースタイルスキーでは、モーグル女子で里谷多英が日本選手初となる金メダルを獲得している。

軽井沢町の風越公園アリーナで行われたカーリング競技で、日本勢は男女とも5位に入賞した。



何よりも熱いドラマを演出してくれたのは、白馬で行われたジャンプ競技だった。


ノーマルヒル個人では、日本の船木和喜が1本目のジャンプで87.5m、2本目に90.5mを飛んで2位となり、原田雅彦が1本目で91.5mの最長不倒を記録したものの、2本目では直前の中断と不運な風のために84.5mと飛距離を落として4位に終わり、葛西紀明は87.5mと84.5mで7位、斉藤浩哉は86.5mと83.0mで9位であった。


ラージヒルでは、船木が1本目126.0m、2本目132.5mを飛んで金メダルを獲得、特に2本目では、五輪史上初めて審判全員が飛形点20点をつけるという快挙を成し遂げ、「世界一美しい」と称されるジャンプフォームを誇った。

原田は1本目が120.0mと低調であったが、2本目で最長不倒の136.0mを飛翔、自動計測が可能な135mを超えていたため、記録が発表されたのが最後の選手がジャンプした後になるという大記録を樹立して、銅メダルを獲得した。

岡部孝信は130.0mと119.5mで6位に入賞、斉藤浩哉は1本目に79.5mを記録したのみで47位に終わっている。 



圧巻だったのは、ラージヒル団体だった。


1番手に飛んだ岡部が1本目121.5m、2番手の斉藤は130.0mという素晴らしいジャンプを見せたが、3番手の原田が1本目を飛ぼうとする頃に、殆んど前も見えないような大吹雪に見舞われた。

積雪により助走の速度が落ち、各国選手とも軒並み飛距離を落とす中で、原田は直前に飛んだドイツ選手より時速1.8km、最も速かった選手と比べれば時速3km以上も遅い時速87.1kmの助走で飛び出し、低速に強いと称賛された原田でも、79.5mの飛距離にとどまってしまう。


原田は、4年前のリレハンメル五輪のジャンプ団体戦で、日本が2位のドイツを大差でリードしていたところに、プレッシャーから最終ジャンプに失敗して銀メダルに転落、着地直後に頭を抱えて蹲った原田にチームメイトが駆けつけて、「銀メダルなんだから胸を張りましょうよ」と励まされたというエピソードがあった。

白馬でも、原田の1回目の飛距離が伸びなかった時には、誰もが4年前の悪夢を思い浮かべたに違いない。


「第3グループのあの悪天候は……原田さんでなくて僕や斎藤、船木なら……もっと上で落ちてしまって……金には届かなかった」


と、後に岡部が述懐している。


2人目のジャンプまで首位だった日本の順位は2位に下がり、4番手の船木和喜も悪天候に泣かされて118.5mと飛距離が伸びず、1本目を全選手が終了した時点で、日本は4位に後退していた。


1位との差は僅かで、日本の総合力ならば2本目のジャンプで逆転優勝の可能性を残していたが、ここで天候がいよいよ悪化し、1本目だけで競技を打ち切る可能性が浮上する。

審判団が協議した結果、「テストジャンパー全員が誰1人失敗することなくジャンプが出来たならば、2回目の競技を行う」という判断が下された。

25名の日本人で構成されたテストジャンパーは、「絶対に日本に金メダルを獲らせる」という決意を胸に秘めて、猛吹雪のジャンプ台に向かう。

テストジャンプであるから、誰からも声援や拍手を受けることはなかったが、25名は1人の転倒者を出すこともなく試技を完了して競技が可能であると証明し、競技委員会は再開を決定したのである。


白馬の舞台裏におけるテストジャンパーの偉業を、僕は令和3年に公開された映画「ヒノマルソウル〜舞台裏の英雄たち〜」で初めて知り、強く心を打たれた。



再開された2本目のジャンプで、1番手の岡部が127.0mを記録し、この時点で日本は首位に浮上、2番手の斉藤は124.0mを飛んで次に繋げた。


原田が滑走を始めた瞬間、日本中が固唾を飲んだに違いない。

いや、祈るような思いであった、と言うべきか。

「両足を複雑骨折してもいい」との覚悟で2本目のジャンプに臨んだ原田は、何と137mもの最長不倒を決めたのである。

当時のテレビ実況を担当したアナウンサーが、


「別の世界へ飛んでいった原田ァ!」


と絶叫するほどの大ジャンプであった。


凄まじい重圧から解き放たれたためか、飛び終えた原田がふらふらと雪の中を歩きながら、


「ふなきぃ……ふなきぃ……」


と、次に控えている船木に声援を送る姿は、今でも長野五輪随一の名場面として心に刻まれている。

船木は125.0mの飛翔で見事に期待に応え、我が国は、ラージヒル団体で金メダルに輝いたのである。



夢のような2週間は瞬く間に過ぎ、閉会式は2月22日午後6時から長野オリンピックスタジアムで開催された。


各国の選手が入場した後に、信州の祭が一堂に集結、総勢2000人が揃い打つ創作和太鼓「勇駒」「信濃田楽」「万岳の響き」に続いて、近代五輪発祥の地であるギリシャと日本、次の開催国アメリカの国歌が演奏されてから、長野市長からソルトレイクシティの市長に五輪旗が手渡された。

ソルトレイクシティ五輪組織委員会によるデモンストレーションが行われ、長野県知事の挨拶の後、フアン・アントニオ・サマランチIOC会長の演説は、


「アリガトナガノ、サヨナラニッポン」


と、日本語で締めくくられた。



その言葉を耳にした瞬間、不意に、身が打ち震えるような感慨が湧き上がってきた。


思えば、平成3年のIOC大会で、サマランチ会長が、


「The City of NAGANO!」


と、尻上がりの奇妙なイントネーションで冬季五輪開催地の決定を告げた時が、全ての始まりだった。


それからの我が故郷は、あたかも戦争のような喧騒に巻き込まれ、慌ただしい7年間を送ることになったのである。

新幹線や高速道路が通じ、高速バスが何本も走り始め、僕にとってこたえられない時代を味わった一方で、激しい街並みの変化には戸惑いを覚えた。

大学生だった僕は社会人となり、生活が大きく変わるとともに、着実に歳をとっていた。


陸上自衛隊中央音楽隊によってファンファーレが演奏された後に、五輪旗の降納とオリンピック賛歌の合唱、杏里と子供たち、そして会場の全員が「故郷」を合唱し、フィナーレでは花火5000発が打ち上げられた。

AGHARTAの「WAになっておどろう~イレアイエ~」の演奏とともに、華やかな冬の祭典が全てを終了した時、僕は、全身から力が抜けたような虚無感に襲われたのである。

祭とは、そのようなものであろうか。



メダルの数で言うならば、金メダルは12個を獲得したドイツ、 10個のノルウェー、9個のロシア、6個のカナダとアメリカに続いて日本は5個、銀メダルは1個、そして銅メダルは4個で、総数10個のメダル数はドイツ、ノルウェー、ロシア、カナダ、アメリカ、オランダに次ぐ7位であった。

3月5日から3月14日まで開催された長野パラリンピックで、日本は金メダル12個、銀メダル16個、銅メダル13個の計41個を獲得して、メダル数では4位となっている。


五輪施設や関連する道路、新幹線の整備と言った初期投資額は1兆6512億円であったが、全国への波及効果、いわゆる生産誘発額は2.83倍の4兆6803億円、うち長野県への波及効果は2兆4548億円であった。

大会運営費や競技施設、関連道路の工事費は4436億円、生産誘発額は1兆1949億円、高速道路と新幹線の工事費は1兆930億円、生産誘発額は3兆1698億円、うち県内分は1兆6904億円となった。

五輪の入場者数は127万6000人にのぼり、入場券のない人を含めればのべ230万人あまりが来訪したと言われている。

観客と来訪者の消費総額は673億円、誘発された材料費やサービスの取引総量をによる生産誘発額は1787億円、県内分759億円であったと長野県が報告している。



何年か後に、母が思い出したように、


「長野オリンピックは、あれはあれで良かったんじゃない、ものすごく盛り上がったんだから」


と総括したのが、最も的をついているのではないか、と僕は思っている。


今にしてみれば、令和3年の東京五輪が、新型コロナウィルス感染の世界的流行で散々だったことを思えば、我が国が純粋に楽しめた最後の五輪であったのかもしれない。

信州人として、長野冬季五輪の時代を経験したのは、間違いなく恵まれた境遇だった。



あわよくば、開催期間中に帰郷して五輪の雰囲気に触れてみたかったのだが、当時、重症の患者を担当していた僕は、長野に行くどころか、3週間も病院に泊まる羽目になり、五輪は医局のテレビで断片的に目にしただけだった。

生中継で見たのは、ラージヒル団体とフリースタイルスキー、そして閉会式くらいで、いずれも日本が金メダルを獲得した競技だったので運が良かったとも言えるが、ようやく患者の容態が落ち着いた2月下旬に、僕は腑抜けのようになっていた。

ラージヒル団体の2本目を飛び終えた原田のような体たらくだったのかもしれない。


長野冬季五輪の記憶がこれほど明瞭であるのに、直後に乗車した長野と直江津を結ぶ高速バスの印象が薄いのは、そのためだと僕は思っている。



2月最後の週末の黄昏時に、久しぶりに帰宅して大井町の駅前を歩いていると、疲れ果てているにも関わらず、猛然と何処かへ出かけたくなった。

北は北海道から南は九州まで、乗ってみたい乗り物の候補は幾つも挙げられる。

既に土曜日の夕刻で、休みは日曜日だけ、月曜日から普段通りの仕事だったので、それほど遠くに行く計画は立てられない。


思案を重ねているうちに、平成9年10月に、上信越自動車道の信州中野ICと中郷ICの間が延伸されると同時に開業した、長野と直江津を結ぶ高速バスが思い浮かんだのである。


前日の夜遅くに長野新幹線で実家に帰った僕が乗車したのは、長野バスターミナルを10時40分に発車する便で、長野駅を経て、目抜き通りの中央通りを進み、国道19号線・昭和通りに右折して、長野そごう百貨店前の「昭和通り」と「市役所前」、そして国道18号線バイパスと合流する「古牧小学校前」に停車してから、五輪会場となった「エムウェーブ」の前を通り、須坂長野ICから上信越道に入ったはず、である。

頸城自動車の車内から眺めた、五輪直後の長野市内の佇まいは、全く記憶から抜けてしまっている。


長野以北の区間を利用するのは初めての体験だったので、さすがに記憶が鮮明になってくる。

盛り土に建設されたハイウェイから見渡す善光寺平は、並行する信越本線や国道18号線とひと味もふた味も異なる新鮮な眺望だった。

悠然たる千曲の流れを包み込むように広がる、雪に埋もれたリンゴ畑と、盆地を囲む形の良い山並みを、360度のパノラマで一望できる車窓に、心底驚いたものだった。

自分が育った土地を、これほど雄大な視点で眺めさせてくれる建造物を、僕は経験したことがない。



豊野の町を過ぎると、西へ進路を変える信越本線や国道18号線と袂を分かち、上信越道は、千曲川とJR飯山線に沿って、尚もぐいぐいと北へ進み続ける。

どこまで突き進むのだろう、このままでは直江津には行かずに十日町や越後川口の方に行ってしまうぞ、と、一時は真剣に心配した。

上信越道は、飯山市の手前まで北上してから、目的地はこちらではなかったか、と言わんばかりに、西へカーブを描いた。


長さ375mの北千曲川橋梁で西岸へ渡り、775mの上今井トンネルをくぐるあたりから、バスは北信濃の山岳地帯に足を踏み入れていく。

豊田飯山ICの近くには、豊田村の出身で、「故郷」「春の小川」「春が来た」「朧月夜」「もみじ」などを作詞した高野辰之の記念館が置かれており、長野冬季五輪の閉会式で歌われた「故郷」の詞を思い浮かべれば、胸が締めつけられるような郷愁が込み上げてくる。


うさぎ追いし かの山

小鮒釣りし かの川

夢は今も めぐりて

忘れがたき ふるさと

 

いかにいます 父母

恙なしや 友がき

雨に風に つけても

思いいずる ふるさと

 

こころざしを 果たして

いつの日にか 帰らん

山は青き ふるさと

水は清き ふるさと


「故郷」を口ずさみながら、その歌が生まれた土地を車窓に映す高速バスで旅ができるとは、何と贅沢なことであろうか。

五輪があろうがなかろうが、故郷の山河の優しさに変わりはなく、思わず目頭が熱くなった。

長野から上越に向かう高速バスに乗りに来て良かった、と思う。


801mの熊坂トンネル、1020mの永江トンネル、1441mのさみずトンネル、2362mの薬師岳トンネルと、長いトンネルが断続する。


そうか、「さみず」は平仮名にしたのか、と、トンネル入口の標識を見て、ちょっぴり可笑しくなった。

このあたりは三水村の村域で、リンゴの栽培が盛んな土地で知られ、倉井用水・芋川用水・普光寺用水の3つの用水が設けられていたことから三水という名称になったと伝えられている。


子供の頃に父が運転する車で国道18号線を走り、豊野町から牟礼村を過ぎて「三水村」の標識が現れると、僕や弟は、


「ミミズだ、ミミズ村だ」


と囃し立て、


「こらこら、サミズ、と読むんだよ」


と両親にたしなめられたことを思い出す。



上信越道が開通する前の国道18号線は、野尻湖に遊びに行ったり、直江津の海岸へ海水浴に向かうために何度も行き来した馴染みの道路だった。

平成2年の師走に乗車した新潟と長野を結ぶ高速バスも、暫定的に国道18号線を使っていたので、北信濃のあまりの雪深さに絶句した覚えがある。


薬師丸トンネルを抜けて野尻湖の南岸の平地に飛び出すと、それまで南に離れていた国道18号線と信越本線が寄り添ってくる。

上信越道で長野県内唯一となる「柏原」バスストップは、地図をみれば、俳人小林一茶が晩年を過ごした土蔵や句碑に近い信濃町の中心部の近くだが、周辺は雪を被った木立ちばかりで、町並みが見える訳ではない。

この日は分厚い雲に隠れていたけれども、正面に妙高山があるのだな、と察せられる裾野が見え、信濃路の風情は子供の頃と何も変わっていなかった。


国道18号線であれば、道端に、焼きトウモロコシの屋台が並ぶ区間である。

醤油を塗りながら火で炙ったばかりの熱々のトウモロコシに齧りつくことは、この辺りをドライブする時の無性の楽しみだった。

家で母親にねだっても、何の味つけもせずに蒸かすだけだったから、野尻湖付近のトウモロコシに病みつきになった僕は、物足りなく感じたものである。



信越国境を越え、妙高高原バスストップを過ぎると緩やかな下り坂が始まり、日本海へ向けて、バスは一目散に進んでいく。

うまく地形を利用しているのであろうが、県境から頸城野まで、あたかも1本の長大な高架橋で真っ直ぐ駆け下っているような錯覚に陥る。

航空機の着陸に似た感覚と言っても良い。


地形や集落に合わせて遠慮がちに敷かれている鉄道や一般国道に比べれば、山も川も町も眼中になく、ひたすら目的地を目指していく傲然とした造りの高速道路には、ひたすら畏れ入る他はない。

上信越道の群馬県境や中央道の山梨県境でも、長い下り坂を駆け下りる区間があり、信州の標高の高さを思い知らされるのだが、信越国境は殊更に直線的な印象を受けた。

明石海峡大橋と同じく、どえらいモノを造ったものだと思う。



ただし、高速バスの車内は閑散としていた。

長野を発車した時から、数人しか乗っていなかったような記憶がある。


貸切車のお下がりのような古びた車両であったが、それでも、普通列車のボックスシートより遙かに座り心地が良いのだから、もっと乗ればいいのに、と勿体ない気分にさせられるが、もともと長野と上越を行き来する流動は少ないのかもしれない。

そもそも、長野市を発着する県外路線で、長野-上越線は、唯一、都府県庁所在地ではない街を相手にしているのだから、地味なのである。

高速バス長野-上越線は、開業から1年足らずの平成10年9月に廃止されてしまった。


この旅の当時、上信越道の終点だった中郷ICは、信越本線二本木駅の手前にある。

中途半端な場所でしぶしぶ高速を降ろされた高速バスは、気を取り直したように、広々とした田園地帯を貫く国道18号線バイパスを走り出した。

高速道路と見紛うほどに整備された立派なバイパスであるが、制限速度や交差点の信号があるから、どうしてももどかしさを禁じ得ない。



早々に運行を取り止めた理由の1つが、上信越道が未完成であったこととされているが、中郷ICで下ろされたことで、バスは僕にとって懐かしい街を丹念にたどってくれた。


国道を離れて、新井駅の手前にある新井バスターミナルに停車した時には、ここだったのか、と思わず身を乗り出した。

新井市の名は、子供の頃から、雪が深い街の代名詞のように両親から聞かされていた。

昭和60年から運行を開始していた長岡と高田を結ぶ高速バスが、高田から新井まで運行区間を伸ばしていた時代があったのだが、時刻表には「積雪状況により運休します」と注釈があった。

十数年前に、高田を訪れた機会に乗ろうとして、高田と新井の区間乗車が出来ないことを知らずに、乗り損なった体験を思い出し、思わず苦笑した。


この旅と前後して、高速バス長岡-高田線の新井延伸は打ち切られていたのだが、あの時、目論見通りに行けば、ここに来たはずだったのか、と思う。



関川の支流の矢代川を渡り、県道571号線に左折して上越市域へ足を踏み入れたバスは、高田城址をかすめて高田駅に寄り、直江津駅まで足を伸ばす。

高速道路を降りたバスとは、別の乗り物のように鈍足になってしまうのであるが、引き替えに、街並みを手近に観察できるところが面白い。


高田の市街は、城下町らしく道幅が狭い。

高田城は、上杉家で知られる春日山城とは別の、江戸時代に高田藩75万石の藩庁が置かれた城で、こぢんまりとした城址公園と天守閣が残されている。

道端に居並ぶ家々の軒先が歩道に張り出して、積雪期でも往来できるようにしている雁木造りが目につく。

近年は商店街の衰退により雁木の維持もおぼつかない状態となっている所が少なくないと聞いているが、高田地域の雁木は総延長が16kmにも及び、現存する雁木の長さでは日本一であるという。

雪国に来たのだな、と思う。


上越市は、昭和46年に、高田市と直江津市が合併して誕生した。

直江津の名で言い慣れていた僕は、固い地名になったものだ、と幼心に違和感を禁じ得なかった。

直江津は9世紀に越後の国府が置かれ、市街地の西に国分寺も残る由緒ある土地柄であるが、バスの窓から眺めれば、高田に比べて雑然とした街並みで、とらえどころのない新開地といった印象である。

隣接しているにもかかわらず、高田地域は、昭和20年に377cmの最深積雪量を観測したこともある有数の豪雪地帯であり、一方、沿岸部の直江津地域は、それほど雪の量が多くないという。



バスは、12時34分に「直江津駅前通り」に到着した。

高田では、国道からわざわざ寄り道して高田駅のロータリーに入ったのだが、直江津では、バスを降りても、雁木に視界を遮られて、駅が何処にあるのかすぐには分からなくて、まごまごした。


直江津駅は、北陸本線と信越本線が交わる拠点駅である。

幼い頃に家族で長野と金沢を行き来するのに使った特急「白山」は、直江津駅で進行方向を変えるため、5分停車するのが常だった。

信越本線から北陸本線の列車に乗り換えるためにホームに降りたこともあるのだが、駅前に降り立ったのは、今回、長野からの高速バスを降りた時が初めてだった。

交通の要所に相応しい大規模な構内には全くそぐわない、こぢんまりとした慎ましい街並みと駅舎に、少しばかり拍子抜けした。



僕は、信越本線の電車で高田駅に踵を返し、13時00分発の新潟行きの高速バスに乗り換えた。


新潟県は、県都新潟市と直結する県内高速バス路線が発達している。

その先駆けとなった新潟-長岡線は、北陸自動車道の長岡IC-新潟黒埼IC間が部分開通した昭和53年に開業した老舗路線だった。

当時、地方都市同士を結ぶ高速バスは全国的にも珍しかったが、当初から複数事業者による共同運行方式を採用し、予約不要の座席定員制で、かつ60分間隔の密な運行によって予測を上回る利用客を獲得したことから、すぐに30分間隔に増便されている。


これが県内高速バスの端緒となり、昭和56年には北陸道柏崎IC-西山ICの部分開通に合わせて新潟-柏崎線が開業、その後も高速道路が順次延伸するたびに路線が拡充されていく。

新潟から長岡、柏崎、上越、糸魚川、十日町、五泉・村松、三条、燕、巻を結ぶ9路線が展開し、令和4年には「ときライナー」のブランド名に統一されている。


新潟-高田線は昭和58年に開業しているので、20年近くも運行実績を重ねた老舗路線である。



昭和50年代の僕は、時刻表にいそしむ鉄道ファンであったが、新潟県内の高速バスに羨望の眼差しを向けていた。

どうして、僕の故郷の信州には県内を結ぶ長距離バスが発達しないのだろう、と不公平に感じたものだった。


もちろん、その理由は高速道路網の発達の度合いにあることは分かり切っている。

新潟県には、当時、政権与党の大物政治家が健在で、明らかに高速道路が他の県よりも優先的に整備されていたのは誰の目にも明らかだったから、その是非はともかく、故郷の政治家は何をやっておるのか、と嘆いたものだった。



高速道路の高架から見渡す越後平野は、雪の欠片もなく、黒々とした土に覆われた田圃が広がっているだけで、素寒貧としていた。

その奥に、上越新幹線の高架橋がかすかに見える。

彼方の越後山地は、低く垂れ込めた雲に覆われ、空と大地の境目は灰白色に濁って判然としない。

バスは、揺れが激しかった。

路面に雪はないけれど、ひび割れて凹凸が多い舗装は、保守が難しい雪国の道路そのものである。

遮るものは何1つ見当たらない、吹きさらしの田園地帯のど真ん中だから、時折、轟々と車体を唸らせて、横なぐりの強風が突発的にバスを揺さぶった。




頸城平野から新潟平野まで、海と山に彩られた2時間のバス旅を終え、15時過ぎに新潟駅前に滑り込めば、次に乗車するのは、16時ちょうどの池袋行き「関越高速バス」と決めていた。

上越新幹線で東京まで2時間足らずで戻ってしまうのが、とても勿体ないことに思えたのである。


新潟駅前のバス乗り場は、バスがバックして櫛の歯のようにホームと直角に並ぶ独特の構造だった。

隅っこにちょこんと建っている簡素な売り場で乗車券を求めると、窓際の席が指定されたので、無性に嬉しくなった。

池袋までの5時間を大いに楽しもうと思う。



長岡JCTまでは、高田からの高速バスで眺めた車窓の巻き戻しだった。

広大な河川敷に、色褪せた常緑樹が生い繁る信濃川橋梁を渡り、長岡JCTで関越自動車道に進路を定めると、越後平野を日本海岸と隔てるなだらかな東頸城丘陵が右手に現れる。

両側の平地が狭まり、関越道は信濃川と絡み合いながら魚沼丘陵に足を踏み入れて、右に左に身をくねらせながら南に向かう。


散在する家々や電柱の背丈から推し量ると、沿道の積雪が深まってきたようである。

動くものとて見当たらない雪原の中に、葉を落とした木がぽつりぽつりと立っている。

魚沼川の右岸から左岸へ、再び対岸へと何度も絡み合ううちに、着雪のために山襞がくっきりと型取られて逞しい山容に見える越後山地が、じりじりと山裾を手前に伸ばしてくる。


関越道は、JR上越線に沿って建設されている。

平行する上越新幹線が、地形を全く無視して一直線に敷かれているので、関越道と上越線の紆余曲折ぶりが殊更に目立ち、もどかしく感じてしまう。

新幹線の線形が贅沢すぎるのである。


越後中里まで来ると、上越線は、関越道から離れて大きくループを描かなければ、高度を詰められない。

関越道にも登坂車線が設けられて、決して緩やかな坂ではないのだが、バスは見向きもせず、エンジン音を轟かせながら、関越国境に向けて高度を稼いでいく。

鉄道に比べて勾配に強い自動車に乗っていると、どうしても地形の傾斜に鈍感になってしまう。



スキー場や洒落たホテルの灯が散りばめられた湯沢町に差し掛かると、しばらく続いた登坂車線が終了して、道幅が狭まった。

先細りになった平地に、上越新幹線の高架と上越線、そして魚沼川の清流が身をすり寄せてくる。

道路の間際に迫った山々の影が、こちらに襲いかかってくる巨大な怪物のようである。

いつの間にか、粉雪が舞っている。


湯沢ICが近づいて、「危険物積載車両はここで出よ」の標識が見えるあたりで、快調に飛ばしていたバスの速度が鈍った。

湯沢ICの料金所の近くに置かれた停留所で数人の客を乗せると、流入路に大量の車が詰まっていて、なかなか本線に戻ることが出来ない。


あたりはすっかり暮れなずんで、標識がよく見えないのだが、窓の曇りを拭って道路情報に目を凝らしてみれば、


「赤城IC 30km」

「駒寄PA 16km」


と、非情な数字が並んでいるではないか。



関越道の渋滞は、冬の風物詩だった。

これが「関越ジェーン」か、と思う。


平成の初頭に、フジテレビが深夜に放送していた「上品ドライバー」という不定期番組があった。

自動車に関する文化、技術、問題などを題材にしたコメディドラマであるが、その中で、渋滞を取り上げた回が忘れ難い。


渋滞に巻き込まれてイライラした恋人に、


「だって、渋滞なんだからしょうがねえじゃんかよ」


と口にして、フラれてしまう武田真治扮する青年が、西岡徳馬演じる「上品ドライバー」にたしなめられる。

「上品ドライバー」の知人には、渋滞の最中でも車内でゲームに興じるなど徹底的に楽しむ「お楽しみ男」や、徹底的に抜け道を調べ上げて渋滞を避ける「裏道男」、少しでも流れている車線へ変更していく「ミズスマシ男」などの変人が揃っており、渋滞と言えど無為無策に過ごしていてはいけないと諭されるのだ。


可笑しかったのは、渡辺裕之演じる「ミズスマシ男」に、武田真治が、


「そんな面倒なことをするくらいなら、路肩を走ってしまえばいいじゃないですか」


と言ったところ、渡辺裕之は怒り心頭の態で、


「何を言う!路肩を走ることなど、下の下だ!」


と怒鳴りつけ、最後には笑顔で、


「頑張れ!ファイト一発だ!」


と、彼が当時出演していた健康ドリンクのCMの有名なセリフを吐いたことであった。



当時から関越道の渋滞は有名だったらしく、登場人物たちは、それを「関越ジェーン」と呼んでいた。

彼は、「関越ジェーン」で親友を失った過去があるというのだ。

一体全体、何が起こったというのだろう。

サザンオールスターズの桑田佳祐が製作・監督した映画「稲村ジェーン」のパロディであるが、渋滞を、20年に1度という大型台風が起こす大波になぞらえた発想は、面白いと思う。


物語の締め括りは、


「関越ジェーンが来た!」


という電話を受け、出演者全員がハンドルを握って関越道に向かう場面だった。

新しい恋人を助手席に乗せた武田真治は、どのような作戦で「関越ジェーン」に挑んだのか、少しばかり気になった。



滞った車の列は、全く動く気配を見せない。

諦めを通り越して呆れながら、暮れなずんだ雪景色に目を向けていると、大きなシャベルを鼻先に装着した黄色い除雪車が何台もたむろしている土樽PAが見えてきた。

時計に目をやると、湯沢ICから僅か9.5kmに過ぎないのに、30分を費やしていたので、これは只事ではないぞ、と思わず居住まいを正した。

交通集中による渋滞ならば、もう少し流れるはずである。

この日、スキー帰りの車が集中したところに、複数箇所で事故が発生したらしい。


高速バスの車内で「関越ジェーン」に遭遇したら、お楽しみも裏道もミズスマシもあったものではない。

ひたすら耐え抜くのみである。

前方に関越トンネルが口を開ける頃になると、渋滞はいよいよひどくなって、歩くような速度になってしまった。


昭和60年に関越道が開通した当初は、全長1万926mのトンネルが1本あるだけで、1車線ずつの対面通行であった。

平成3年に全長1万1055mの2本目のトンネルが完成し、上り線として使われるようになってから、従来のトンネルは下り線になった。


後の平成27年に開通した首都高速中央環状線山手トンネルに首位の座を明け渡したものの、平成10年の今回の旅の当時は、名実ともに日本一の長大トンネルだったのである。



のろのろと入口から4kmほど進むと、新潟と群馬の県境で、路面と壁面に太い線が引かれていた。

ここは練馬ICまで153kmを示すキロポスト付近であり、距離的には、新潟と東京のほぼ中間に当たる。

入口から県境まで1時間かかったので、歩くのと全く変わらない。

トンネルに入ってからビデオ放映を始めた映画が、トンネルを出る前に終わりを告げたのは、さすがにうんざりした。


オレンジ灯が車内を明々と照らし出すので、落ち着かない2時間を過ごした関越トンネルをようやくの思いで抜け出せば、思わず溜め息をつきたくなるような深々とした暗闇が車窓を塗り潰した。


関東平野でも、関越道上り線の流れは最後まで滞り、20時55分に到着予定の池袋駅東口に着いたのは、深夜の0時時近くであった。

幾らバス好きでも、3時間も遅延するような行程を選んだことを後悔したが、かろうじて大井町への電車が残っている時間だったので、バスから降りた時には、ホッと胸を撫で下ろした。



 

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