蒼き山なみを越えて 第41章 平成10年 JRバス関東碓氷線・しなの鉄道 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

鉄道は斜陽である、と言われて久しい。

新幹線や大都市近郊を除けば、膨大な赤字を抱えていた国鉄のローカル線や、地方私鉄の存否が常に話題になり、鉄道ファンであれば、必ず路線の廃止の洗礼を受けてきたはずである。

そのような趨勢下にありながら、故郷の長野県で廃止された鉄道路線は、比較的少ないような印象を抱いていた。

 

 
信州における廃線の歴史を紐解けば、以下の通りになる。
 
善光寺白馬電鉄(南長野-裾花口):昭和11年開業・昭和19年廃止

上田温泉電軌青木線(三好町-青木):大正10年開業・昭和13年廃止

上田丸子電鉄西丸子線(下之郷-西丸子):大正15年開業・昭和13年廃止

上田丸子電鉄真田・傍陽線(上田-真田・本原-傍陽):昭和3年開業・昭和47年廃止

上田丸子電鉄丸子線(上田東-丸子):大正7年開業・昭和44年廃止

布引電気鉄道(小諸-島川原):大正15年開業・昭和9年廃止

草軽電気鉄道(軽井沢-草津温泉):大正15年全線開通・昭和37年廃止

碓氷馬車鉄道(横川-軽井沢):明治21年開業・明治26年廃止

松本電鉄浅間線(松本-浅間温泉):大正13年開業・昭和39年廃止

池田鉄道(安曇追分-北池田):大正15年開業・昭和13年廃止

木曽森林鉄道(小木曽、笹川、黒川、末川、鹿ノ瀬、西ノ川、王滝、本谷、濁川、白川、鈴ヶ澤、小股、與川、小川、北股、殿、阿寺、柿其、下山澤、繊川、長者畑、川上、田立、蘭、湯舟澤線):明治34年に最初の阿寺線開業・昭和50年に最後の王滝線廃止

 

 
特徴的なのは、国鉄路線の廃止がなかったことである。

我が国土の中央に位置する信州に敷かれた国鉄路線は、信越本線、中央本線、篠ノ井線、飯山線、大糸線、飯田線、小海線と、東西や南北を結ぶ幹線鉄道ばかりで、行き止まりの盲腸線が皆無であることが一因であろうか。

 

対照的に、私鉄は国鉄の駅から枝状に伸びる盲腸線が多く、信越本線が開通するまでの暫定的な営業であった碓氷馬車鉄道や、太平洋戦争中に鉄材供出のために廃止を言い渡された善白鉄道、元々人口の少ない地域に計画され、昭和初期の恐慌の影響を受けた布引電鉄や池田鉄道、そして木材搬出に特化した木曽森林鉄道を除けば、大正期から戦後にかけて、地域の掛け替えのない足として活躍し、高度経済成長期のモータリゼーションの発達で不振に陥った路線ばかりである。

廃止路線は北信と東信が多いが、もともと中信や南信には私鉄が少なかったので、当然と言えば当然である。

 

いずれにしろ、僕が鉄道ファンになった昭和50年代に、信州における廃線は、全てが遠い過去の存在だった。

国鉄が解体された昭和62年前後でも、信州で消えた鉄路はなかった。

一時、飯山線が廃止の議論の俎上にのぼったことがあったが、積雪時の代替の輸送方法が不充分と言う理由で存続が決定している。

長野電鉄長野線(長野-須坂)、同河東線(屋代-木島)、同山ノ内線(信州中野-湯田中)、上田交通別所線(上田-別所温泉)、松本電鉄上高地線(松本-新島々)、関西電力トロリーバス(扇沢-黒部ダム)といった県内に残る私鉄線も、決して経営が楽ではなかったのだろうが、頗る元気であるように感じていた。

 

信州出身の鉄道ファンとして、故郷の鉄路が健在であることは誇らしく、また心の支えでもあった。

 

 

それだけに、平成9年10月1日の長野新幹線の開業に伴って、信越本線の横川-軽井沢間が呆気なく廃止されたのは、僕にとって青天の霹靂であった。

同線の軽井沢-篠ノ井間は第三セクター「しなの鉄道」に変わり、明治26年に高崎-新潟間の幹線鉄道として誕生した信越本線は、高崎-横川間と、篠ノ井-新潟間に分断されたのである。

 

長野新幹線、正式名称で言うならば北陸新幹線は、いわゆる「整備新幹線」であった。

「整備新幹線」とは、昭和45年に制定された「全国新幹線鉄道整備法」に基づいて、政府が整備計画を決定した北海道新幹線(青森-札幌)、東北新幹線(盛岡-青森)、北陸新幹線(高崎-大阪)、九州新幹線鹿児島ルート(福岡-鹿児島)、九州新幹線長崎ルート(福岡-長崎)の5路線を指し、それ以前に建設が決定した東海道新幹線(東京-大阪)、山陽新幹線(大阪-福岡)、東北新幹線(東京-盛岡)、上越新幹線(東京-新潟)は含まれていない。

国家の法律で建設が決定したということは、つまるところ財源確保の議論を伴う訳で、平成元年に北陸新幹線の高崎-軽井沢間が着工されるに当たって、JRが50%、国が35%、地方自治体15%という負担割合が決定されたのだが、その後、幾度か割合の見直しが行われつつも、「整備新幹線」の全てがフル規格で着工される方針となっている。

 

 

政治の現実とは、つまるところ金の配分なのだな、と頷かされる推移であるが、同じく、財政上見逃せない問題として浮上したのが、新幹線の開業により特急列車などの運行が終了して大幅に収入が減少する並行在来線であった。

何しろ、東海道新幹線の開通により、我が国随一の幹線であった東海道本線ですら、国鉄で最大額の赤字を産む路線に転落したのであるから、それより遥かに沿線人口や流動の少ない「整備新幹線」の並行在来線の採算が見込める道理がない。


平成2年の「整備新幹線着工等についての政府・与党申合せ」では、「建設着工する区間の並行在来線は、開業時にJRの経営から分離することを認可前に確認すること」で合意された。

平成8年の「整備新幹線の取扱いについて」の 政府与党の合意では、建設着工する区間の並行在来線について、開業時にJRの経営から分離すること、具体的な経営分離区間については、当該区間に関する工事実施計画の認可前に、沿線地方公共団体とJRの同意を得て確定することが確認された。


僕の個人的な意見を述べさせていただくならば、最初に、国家の動脈である鉄道を、採算面だけで評価することの是非を議論すべきではなかったか。

赤字が必須であっても、税金を投じてでも維持する、という考え方はあり得なかったのか。

在来線を使う貨物列車が担う物流や、国防上の観点から、例えば北海道の鉄道や、並行在来線の東北本線や北陸本線、函館本線を廃止、もしくは第三セクターという形で地方自治体に丸投げして、国家の未来に悪影響は生じないのか、という危惧が拭い切れない。

 

ところが、我が国では、国鉄時代から赤字路線は廃止、バス転換という安易な方法が採られ、長野新幹線でも、採算性以外の観点から鉄道の存在意義について議論されなかったのは、かえすがえすも残念であった。

 

 

昭和40年代以降、鉄道の廃止が見られなかった信州に、長野新幹線の建設をきっかけにして線区の存廃が問題になるとは、何と皮肉なことであろうか。

何やら、寝た子を起こしてしまったような観がある。

 

信越本線の扱いは、「整備新幹線」についての政府と与党の合意に基づいているのであるが、並行在来線として現時点で唯一無二の廃止区間となっている横川-軽井沢間、いわゆる「横軽」の廃止について、誰がどのような議論をして決定を下したのか、判然としない。

最初は、信越本線の第三セクター化に当たって、長野県も群馬県も、長距離旅客が新幹線に移行し、県境を越える旅客数が見込めないこと、補助機関車を連結して急勾配を行き来する列車の経費や、26本のトンネルと18ヶ所の橋梁が存在する設備を維持する多額の維持費に音を上げたのか、と思った。

 

ところが、「しなの鉄道」は、もとから軽井沢-篠ノ井間の運営を引き継ぐ目的で設立されており、「横軽」を想定した形跡がない。

「横軽」区間11.6kmのうち、群馬県内の区間が10.8kmを占め、長野県内区間は0.8kmに過ぎない。

加えて、並行在来線であるにも関わらず、高崎-横川間はJR東日本がそのまま運営することになった経緯から、群馬県内が大半である「横軽区間」の廃止を決めたのはJR東日本ではないか、と推察したくなる。

 

だからと言って、僕は「横軽」の廃止を批判するものではない。

1世紀に渡って、故郷と東京の行き来に使ってきた鉄路の消滅は寂しいけれども、様々な迂回路が候補に上がったにも関わらず、距離が短いから、という突貫精神だけで建設された難所に、長年苦しめられた鉄道員に思いを馳せれば、新幹線にバトンを渡すのも、やむを得なかったと思っている。

長野新幹線の開通に伴う発展的解消と言えないこともないのが、せめてもの救いと言えるだろう。

 

 

平成9年の大晦日に長野新幹線で帰省した僕は、正月が明けると、長野駅を14時15分に発車する小諸行き各駅停車652Mに乗り込んだ。

新規に開業した新幹線に乗車した帰路に、第三セクターになった並行在来線に乗るとは、何と残酷な体験であることだろう。

 

この電車は、篠ノ井駅まで信越本線を走り、その先で「しなの鉄道」に乗り入れる。

僕は軽井沢まで行くつもりなのだが、「しなの鉄道」は、長野から軽井沢まで直通する電車は朝夕しか運転せず、日中は全て小諸で乗り換えるダイヤを組んでいた。

普通列車で県都を行き来する利用客は、せいぜい小諸まで、との読みであろうか。


小諸は長野新幹線が通っていないので、長野まで往来するには、JR小海線で佐久平駅に出て新幹線を利用する方法もあるけれど、乗り換えの労を厭うのであれば、「しなの鉄道」が唯一である。


 

平成8年に上信越自動車道が更埴JCTまで延伸すると、長野と佐久・臼田を結ぶ高速バスが運行を開始した。

 

しかし、長野市内と佐久市内を除けば、上信越道屋代、千曲川さかき、上田菅平、東部湯の丸、小諸高原と、市街地から離れた高速道路のインターやサービスエリアに停車するだけであり、並行していても、「しなの鉄道」とは自ずと性格が異なる。

上田や小諸の人々にとって、あまり使い勝手が良くないのではないだろうか。


 

旧信越本線の普通列車に乗るのは、久しぶりだった。

長野と篠ノ井の間は、小学校2年の遠足で乗車した記憶がある。

長野と上田の間も、高校2年の春休みに、上田へ映画を観に行くために往復した。

長野と小諸の間は、平成3年に「関越高速バス」池袋-小諸線から乗り継いだ。

長野と軽井沢の間は、大学時代に、節約のため東京と長野を普通列車だけで行き来して以来だったかもしれない。

 

「しなの鉄道」は、JR東日本から3両編成の115系近郊型電車を11編成、同じく3両編成の169系急行型電車3編成を譲渡されており、4人向い合わせのボックス席と、扉の前後のロングシートという車内の構造は、JRの時代、と言うよりも国鉄時代と全く変わっていない。

 

 

115系電車が製造されたのは昭和38年から同58年までであり、かなりのロートル車両と言えるが、造りが朴訥であるものの、古さはそれほど感じられず、何よりも乗り慣れている安心感があった。

大いに変わったのは車窓の方で、もちろん長野駅を出て裾花川を渡り、国道19号線に沿って長野盆地の西の縁を成す山際を進む経路に変わりがあるはずはないけれど、並走する長野新幹線の高架が、何処までも左側の視界を遮っている。

 

長野駅の隣りは安茂里駅で、僕が子供の頃にはなく、昭和60年に近隣の企業や住民の寄付を募って開設されたと聞いている。

新幹線の武骨な高架の橋脚の陰で、複線の線路の両側にホームを設けただけの簡素な構造であるが、駐輪場にはぎっしりと自転車が駐められていて、通勤・通学の足として活躍していることが伺える。

国道19号線にも市街地へ向かう路線バスが運行されているが、平日の朝夕は渋滞が激しいらしいので、安茂里駅の開業は朗報だったことであろう。

 

 

がらがらと橋桁を鳴らして犀川鉄橋を渡る時も、左側に一段と背の高い新幹線のコンクリート製の橋梁が並んでいて、以前は見通せた善光寺平の広がりや菅平の山並みが、全く見えなくなっていた。

次の川中島駅と篠ノ井駅の間にも、長野新幹線が開業したのと同じ日に今井駅が開業し、周囲は裸の果樹園が広がっているだけであるものの、開催が1ヶ月後に迫った長野冬季五輪の選手村が置かれる予定であった。


篠ノ井駅の手前で、長野新幹線は信越本線と同じ地平に降り、その先で再び高架になると、左から右の方角にこちらの線路を跨いでいく。

おやおや、上田に短絡する五里ヶ峯トンネルは逆じゃないか、と首を傾げたが、しばらくすると、高架が右手の家々の頭上から飛び出してきて、左へ抜けていった。


 

篠ノ井駅で篠ノ井線を分岐して「しなの鉄道」に入ると、次の屋代駅は、長野電鉄河東線の鄙びたホームが左手に並び、営団地下鉄から譲渡された3500系電車がひっそりと停車していた。

 

河東線は、河東鉄道が屋代から須坂までを開通させた大正11年が起源という古い路線で、翌年に須坂-信州中野間、大正14年に信州中野-木島間が開通している。

大正15年に長野-須坂間の長野線を開通させた長野電鉄と河東鉄道が合併し、昭和2年に信州中野-湯田中間の山ノ内線が開業すると、長野-須坂-信州中野-湯田中を運転する系統が主流となり、屋代-須坂間と信州中野-木島間は支線のような運転形態になっていた。

 

 

それでも、昭和36年から同51年まで、上野駅から湯田中駅に直通する国鉄の急行列車「志賀」が、屋代駅で信越本線から分岐して河東線に乗り入れていた時代があったのである。

「志賀」の運転期間は、僕が鉄道ファンになった時期と少しだけ重なっているが、乗車したり目にした記憶はない。

首都圏からの直通列車が長野電鉄に乗り入れていた時代は、まさに鉄道の黄金期であり、半世紀も経たないうちに国鉄が消え、信越本線そのものが分離・分断されてしまうとは、誰もが夢にも思わなかったに違いない。

 

今でも、屋代駅構内でJRと長野電鉄の線路が繋がっているのだろうか、と気になるけれども、「しなの鉄道」の車両の保守・点検を長野電鉄テクニカルサービスの屋代車両検査場で請け負っているので、繋がっているのだろうと推測している。

 

 

鉄道工場と言えば、北長野駅に隣接して明治21年に操業を開始した国鉄長野工場が有名である。

 

長野のように交通が不便な場所に、全国的に知られる鉄道工場が存在することが、鉄道ファンとして不思議であり、誇らしくもあったが、僕の親の世代の話では、「長野で空襲を受けた場所」として耳にすることが多かった。

終戦2日前の昭和20年8月13日に、W・F・ハルゼー大将指揮下の米海軍第3艦隊第38機動部隊のエセックス級航空母艦「ハンコック」と「ベニントン」から発進したF4U型及びF6F型艦載機62機により、長野市及び上田市が空襲を受けたのである。

 

米国の公式記録によると、空襲は7回に及んだと聞く。

 

午前6時50分頃:長野飛行場が機銃掃射を受け、駐機中の練習機数十機が破壊。

午前8時半頃:長野駅舎と隣接する長野機関区・長野工場にロケット弾が発射されたが不発、しかし長野機関区と長野工場はその後3回の銃撃を受ける

午前9時10分頃:川合新田と松岡の民家に爆弾投下、長野飛行場に機銃掃射。

午前11時50分頃:松代の民家に爆弾投下。

午前12時頃 :若槻の国立傷痍軍人長野療養所(現東長野病院)にロケット弾発射と機銃掃射。国鉄篠ノ井駅にロケット弾が発射されたが民家に命中。近隣民家に機銃掃射。

午後1時半頃:長野市内西南方面に機銃掃射および爆撃。

午後3時半頃:長野電鉄河東線信濃川田駅と周辺の民家、小学校などに機銃掃射。篠ノ井駅周辺に機銃掃射。

 

 
当時、飯田出身の父は学徒動員で召集されていたが、母は中条村の実家から長野市内の長野県長野高等女学校(現在の長野西高校)に通っており、長野空襲の日も長野市内にいたらしい。


空襲について、母は多くを語らなかったが、

 

「終戦の間際は、授業どころではなくて、軍服ばかり縫っていたよ。軍人さんの服って、良い生地を使ってたねえ」

「学校から東の方に煙が上がるのが見えてね。しばらくして、国鉄の工場がやられたって噂が伝わってきた。あの日は、中条までのバスが止まっちゃって、十何キロも歩いて帰ったっけ」


などという話を聞いた覚えがある。

 

国鉄長野工場は、分割民営化後の平成3年に北長野運転所と統合されて長野総合車両所になり、後の平成16年に長野総合車両センターに改称されている。

車両基地だけでなく、車両の検査・修繕・改造を行い、鋳鉄制輪子やブレーキパッドなども製造する鋳物工場を持ち、更に首都圏などで使用された電車の解体も行っているため、機関車に牽引されて長野に輸送される廃止車両の撮影は、「撮り鉄」と呼ばれる鉄道ファンに人気が高い。

 

旧国鉄の車両を受け継いでいる「しなの鉄道」の車両の保守・点検も、長野工場でやればいいではないか、と思ってしまうのだが、長野電鉄の方が何かと条件が良かったのだろうか。

 

 

善光寺平を後にすると、小諸行きの115系電車は、千曲川に沿って狭まる山あいに足を踏み入れ、戸倉、坂城、西上田の駅に停車していく。

 

戸倉上山田温泉を千曲川の対岸に望む戸倉駅から坂城駅のあたりは、かつての北国街道を偲ばせる古い町並みが残っている。

そのうちに、右手から千曲川、左手から五里ケ峯の山塊が迫って来て、川の右岸の平地がいよいよ狭くなって、鉄道と国道18号線だけでいっぱいになってしまう。

明治の初頭まで、このあたりは、千曲川を見下ろす崖の中腹を行く「横吹坂」と呼ばれた北国街道の難所で、地元の人々が千曲川の縁まで迫り出した山裾を削り、自力で川岸に新しい道路を開いたという。

信越本線も、以前は「横吹坂」を川沿いに迂回していたが、今では「しなの鉄道」で唯一となる葛尾トンネルが掘削されて、多少であるが短絡している。


 
坂城駅の次の西上田駅で、電車は塩田平に飛び出した。
 
かつて、上野駅から特急「あさま」に乗り、上田駅を発車して間もなく、塩田平と善光寺平の間の地峡に張り出した山並みを目にすると、故郷が近づいたな、との思いを新たにしたものだった。

西上田駅の近辺は、大学時代にトラックの助手のバイトで何度も訪れた土地なので、殊更に懐かしさが募るのだろう。

 

西上田駅には「日本オイルターミナル」の油槽所があり、手前の坂城駅にも日本石油の油槽所があるため、タンク車を連ねた貨物列車が構内に停車しているのも、馴染みの光景だった。

 

 

左手から長野新幹線の高架が寄り添ってくると、車窓が大小の建物で埋め尽くされて、電車は上田駅に進入していく。

狭い敷地にどのように新幹線を通したのか、と覗いてみれば、在来線ホームを南へ移し、新幹線ホームは北口側に設けられていた。

長野新幹線で待避線が設けられているのは長野と軽井沢だけで、上田、佐久平、安中榛名駅は、複線の線路の両側にホームを添えただけの簡素な構造である。

 

旧信越本線と平行して南口側に設けられていた上田交通別所線のホームは、西上田側に追いやられたので、昔のように車窓から同社の電車を見ることは出来なかった。

 

 

上田交通は、前述した廃線一覧の通り、以前は各方面への路線を伸ばしていながら、現在は悉く姿を消している。

 

唯一残された別所線も、昭和50~60年代に廃止の方針が打ち出されたが、上田市民が存続運動に乗り出し、国と長野県、上田市から補助金を受けて存続している。

東急から車両を譲り受け、同社の象徴的存在だった「丸窓電車」などの旧型車両を淘汰し、全便をワンマン化するなどのコスト削減に努め、上田市周辺の渋滞がひどくなったことも手伝って、長野新幹線開業の頃は業績が上向きに転じたようである。

上田駅のホームは隅っこに移転したが、この年の3月の完成を目指して、市街地の高架工事も進められていた。

 

 

上田交通別所線の平成10年の年間輸送人員が約170万人、輸送密度にして約2000人/日たらずとされているが、この数字の多寡について、僕は論評する知見を持っていない。

同じく都市近郊輸送を担う長野電鉄長野線における同年の輸送密度がおよそ6000人/日、松本電鉄上高地線が2400人/日であったことを考慮すれば、上田交通別所線は確かに少ないのかもしれない。

 

だからと言って、一足飛びに廃止を結論し、年間170万人の足を奪うことの是非は、また別の話のような気がしてならない。

 

 

「しなの鉄道」はどうかと言えば、平成10年の輸送密度が約9000人/日で、幹線を譲り受けただけあって利用者数に恵まれているかのように見える。

ところが、発足時から赤字経営に苦しみ、3年後の平成13年に累積赤字が23億円を超え、HIS、スカーマークエアラインズ、JR東日本といった事業者から社長を迎え入れて、抜本的な経営改善を余儀なくされることになる。

 

長野電鉄長野線の営業距離が33.2km、上田交通別所線が11.6km、松本電鉄上高地線が14.4kmであるのに対し、「しなの鉄道」は総延長65.1kmにも及び、比例して支出も多くなる訳だから、輸送密度だけで鉄道経営を云々することは出来ないのだが、これだけ人を運んでも鉄道は成り立たないものなのか、と思う。

 

 

上田駅の次の大屋駅を過ぎ、田中、滋野と田園に囲まれた鄙びた駅をたどれば、南は蓼科高原、北は湯の丸高原や高峰高原に連なる山々が迫り出して再び平地が狭まり、電車は終点の小諸駅に滑り込んだ。

 

新幹線が来なかったことで、小諸の人々はさぞかし落胆しているのだろうと案じていたが、こじんまりとした昔ながらの駅舎は、画一的になってしまった長野駅や上田駅よりも心が安らいだし、改札を出入りする人々の足取りも元気そうだった。

同じく115系3両編成の15時31分発軽井沢行き770Mに乗り継げば、平原、御代田、信濃追分、中軽井沢と、少しずつ高原の趣が漂う車窓を楽しみながら、およそ25分の汽車旅である。

 

白樺の木立ちの合間に顔を出している別荘を眺めながら、長野新幹線の建設途上で、軽井沢の別荘の所有者が反対運動を展開していたことを思い出した。

別荘を持っているからと言って、基本的に余所者なのだから、口を出すのは勘弁してくれ、と腹が立ったことを覚えているが、こうして第三セクターになった並行在来線に乗ってみれば、華やかな新幹線の開業の陰で、僕らが失った物も少なくないことに気づかされる。


それだけに、軽井沢への勾配を登り続ける旧態依然とした115系電車が、愛しいほど健気に思えてくる。

いつまでも走り続けて欲しい、と祈りたくなった。

 

 

定時の15時55分に到着した軽井沢駅のホームに降り立つと、がっしりとした新幹線の高架の脇に、か細い線路が先に延びているものの、雑草が生い繁った車止めで行き止まりになっているのが見えた。

長大編成の特急列車が停車できるように造られた長いホームも、横川側の半分が立ち入り禁止になっている。

冷たく吹きつける風に襟元を掻き合わせながら、僕が30年間お世話になった信越本線は、間違いなく消えてしまったのだな、と思う。

 

真冬であっても、観光客らしい人影が絶えない駅前に出ると、ここも真新しく流麗な駅舎に建て替えられていた。

何度も通過していながら、この駅に降りた記憶がなく、元々の駅舎をはっきりと覚えている訳ではないので、新幹線の駅とは何処も大仰な造りだな、と思うのみである。

 

 
ここから、草津温泉に向かう草軽電鉄が出ていた時代の面影など、微塵もない。

 

大正15年に全通した草軽電鉄は、観光客や沿線住民ばかりでなく、草津や嬬恋、長野原、北軽井沢などの農産物の出荷や、白根山周辺の鉱山が産出する硫黄鉱石などの輸送に活躍した。

写真に残る同線の列車は、貨客混合の編成を可愛らしい凸型の電気機関車が牽引する構図が多い。

 

ところが、昭和10年に渋川-草津間に国鉄バスの運行が開始され、さらに1945年に国鉄吾妻線が開通すると、利用者がそちらへ移り、度重なる台風災害の復旧が経営を圧迫、特に昭和34年の台風7号による吾妻川橋梁の流失が決定的となって、昭和35年に軽井沢-上州三原間が廃止、残りの上州三原-草津温泉間も、昭和37年に廃止されたのである。

 

 

軽井沢駅舎から右手のバス乗り場に足を運べば、16時10分発の北軽井沢行き草軽交通バスが、客を乗せているところであった。

鉄道の廃止から30年以上も経っているので、もはや代替バスとは言えないのかもしれないけれど、これから僕が乗るのは、紛れもなく廃止ホヤホヤの路線の代替バスである。

 

廃止された旧信越本線の軽井沢-横川間、いわゆる「横軽」区間は、片道34分で結ぶJRバス関東の路線バス「碓氷線」が、1日7往復の運行を開始していた。

次の横川行きは16時05分の発車で、既に「軽井沢⇔横川」の札を掲げたJRバスが待機している。

 

北軽井沢行きに比べれば乗り場の人影は少なかったが、車内に足を踏み入れれば、十数人の先客がいて、正月休みでありながら部活でもあったのか、高校生らしき制服姿も見受けられた。

ジャージにアノラックパーカーを羽織ってふざけ合っている男女もいれば、制服にルーズソックスを履いて、教科書を一心に読み耽っている女子高生もいる。

ルーズソックスが流行り始めたのは平成初頭とされているが、全国的に広まって「流行語大賞」に選ばれたのが平成8年のことで、真冬の信州で目にすれば、膝の上に覗いている素足が寒くないのかな、などと余計な心配をしてしまう。

なにしろ、バスはまだエンジンを掛けておらず、開け放たれた乗降口から容赦なく冷たい風が吹き込んでくるのである。

何処から何処まで通学するのか、聞く勇気もないので知るべくもないけれど、通い慣れた鉄道が廃止になった時に、彼らや彼女らは、何を感じたのだろうか。

 

廃線の代替バスは北海道などで幾つか利用し、地元の利用者の普段着の姿に旅心を感じた経験があるものの、まさか、故郷で乗ることになろうとは夢にも思わなかった。

 

 

長野新幹線の開業と、間近に迫った長野冬季五輪への期待に浮かれた気分で幕を閉じた平成9年であったけれども、2年前から選定が始まった「今年の漢字」は、「倒」であった。

平成不況がいよいよ本格化し、大型倒産が相次いだことと、FIFAワールドカップで日本代表が強豪国を次々と倒して初出場を決めたことを反映していると聞いた。

 

日産生命保険、ヤオハン、京都共栄銀行、三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券、徳陽シティ銀行といった金融関係を中心にした倒産が1年を通じて大々的に報じられ、特に証券会社として戦後最大の倒産となった山一証券の社長が、「私らが悪いんであって、社員は悪くありませんから」と記者会見で号泣する場面には、僕らの国が置かれている深刻な経済状況に、暗然とした。

平成9年の上半期は、東電OL殺人事件や神戸連続児童殺傷事件などといった凄惨な事件が多く、平成8年12月には南米ペルーで日本大使公邸占拠事件が発生し、年が変わってもなかなか解決しなかった。

同国のアルベルト・フジモリ大統領の名が報じられるたびに、日系人の大統領がいたのか、と親しみを感じていたので、平成9年4月に警察の突入で解決した時は、胸を撫で下ろしたものだった。

 

 

鉄道では、10月の長野新幹線開業ばかりでなく、3月に、我が国最速の時速300km運転を実現した500系新幹線車両が山陽新幹線に登場し、12月に東海道新幹線に乗り入れたり、2番目の新在直通運転を果たした秋田新幹線や、上越新幹線に接続して北陸への短絡路となった北越急行線が開業するなど、暗い世相を吹き飛ばすような出来事が多かった。

 

平成9年は、長野新幹線の初乗りという目出度い体験で締めることが出来たが、新幹線と引き換えに第三セクターになった鉄道と、廃止された区間の代替バスの初乗りで始まった平成10年は、どのような年になるのだろう、と思う。

 

 

定時に軽井沢駅前を発車した「碓氷線」のバスは、いったん駅の北側を東西に走る国道18号線の旧道に出て、すぐに県道43号線、通称「プリンス通り」に左折した。

 

長野新幹線と在来線をアンダーパスでくぐると、左手に「軽井沢プリンスホテル」と「軽井沢プリンスショッピングプラザ」の広い敷地が目に入り、道沿いに洒落たペンションや喫茶店、レストラン、小売店が軒を連ねているが、さすがに正月では閑散としている。

この道路を真っ直ぐ進めば、「軽井沢72ゴルフ場」を抜け、和美峠を越えて上信越道碓氷軽井沢ICに達するのだが、バスは峠の手前の南軽井沢交差点で、国道18号バイパスに左折した。

 

 

碓氷峠を越える国道18号線の旧道は、184ヶ所ものカーブが続く悪路だった。

昭和30年代に開業した東京と長野を結ぶ特急バスが、急カーブを凄まじい勢いで走り抜けていく動画を見て、これが国道番号2桁の幹線なのかという点と、運転手の果敢なハンドル捌きにたまげたことがある。

 

旧道の交通量が限界に近づいたため、南方の入山峠を越えるルートで有料のバイパスが建設され、5年の工期を経て昭和46年に完成した。

僕も何回か通ったことがあり、カーブの数が45ヶ所に減って、ほぼ全線に登坂車線が設けられている構造に、贅沢な道路を造ったものだ、と感心した。

 

 

ただし、厳しい気象条件は変えようがなく、150㎜以上の降水量で通行規制になるだけでなく、僕が長野に住んでいた頃は、ラジオの交通情報で、

 

「濃霧のために国道18号線碓氷バイパスは通行止になっています」

 

というアナウンスをよく耳にした記憶がある。

 

軽井沢南交差点から入山峠までは、緩やかな曲線が繰り返される登り坂が続くが、それほどの険しさは感じられない。

左の登坂車線を悠然と走るバスを、乗用車が次々と追い抜いていく。

 

 

入山峠で「群馬県 安中市」の標識が現れると同時に、こちらは下り坂の1車線に窄まり、対向車線が追い越し用と登坂用の2車線に広がる。

 

鉄道や国道18号線旧道が越える碓氷峠が標高956m、碓氷軽井沢ICの手前の和美峠が984mであるのに対し、入山峠は1030mと最も高い地点を越えていく。

峠を越える旅人が、神々に道中の安全を祈る石の模造祭器の「ぬさ」を捧げた祭祀遺跡が、入山峠で発掘され、ここが古代東山道の跡とされている。

 

地図を見れば、長野県内より群馬県内の区間の方がうねうねと九十九折りになっているものの、排気ブレーキを効かせながら慎重に坂を下るバスに乗っていれば、カーブはそれほどきつくないように思える。

鉄道では、急坂で車輪が浮き上がらないよう台車の空気バネをパンクさせていたので、ゴツゴツした乗り心地であったが、バスの走りは至って滑らかである。

 


『これより鐡道馬車雇ひて、薄氷嶺にかゝる。

その車は、外を青ペンキにて塗りたる木の箱にて、中に乗りし12人の客は肩腰相觸れて、膝は犬牙のやうに交錯す』

『つくりつけの木の腰掛はフランケット2枚敷きても膚を破らむとす。

左右に汎木綿のとばりあり、上下にすぢがね引きて、それを帳の端の輪にとほしてあけたてす』

『山路になりてよりは、2頭の馬喘ぎ喘ぎ引くに、軌幅極めて狭き車の震ること甚だしく、雨さへ降りて例の帳閉ぢたれば、息籠りて汗の臭車に満ち、頭痛み堪へがたし』

 

信越本線の「横軽」区間が開通する前に、ほぼ中山道に沿って碓氷峠を登り降りした碓氷馬車鉄道を、明治23年に若き日の森鴎外が利用した様子を描いた「みちの記」の一節である。

 

 
2時間半に及ぶ苦痛の車中を思えば、JRバス「碓氷線」の車中は快適の一語に尽きる。

碓氷馬車鉄道は、途中で2度も馬を交換したらしいが、バスは給油すらしない。

ひたすら、もどかしいほどの低速を保ちながら、坦々と坂を下って行く。


それでも、制動が効かなくなる緊急時に備えた待避所が所々に見受けられ、並大抵の勾配でないことは理解できる。

分厚く砂が敷かれた急勾配の待避所を目にするたびに、あそこに突っ込む羽目だけには陥りたくないものだ、と背筋が寒くなる。

 

平成28年1月に、速度超過でカーブを曲がり切れずに道路から転落し、死者15名を出したスキーバス転落事故は、入山峠の長野側で発生したが、運転手が大型バスのブレーキに不慣れだったことが原因と聞いている。

むろん、18年後に起こる事故のことなど知るはずもないけれど、巨大な車体を操って長い急坂を下っていく運転手の緊張は、察するにあまりある。


 

沿道にはブナ、ミズナラ、コナラ、ナラガシワなどがぎっしりと枝を張り、高度が下がるに従って杉の人工林が増えていく。

生い繁る木々に遮られて案外に見通しが効かず、上信越道の高架と交差するあたりで、右手に妙義山の奇怪な山容が覗いたくらいである。

上信越道を走れば、妙義山は嫌でも目につく位置関係にあるが、ここだったのか、と思う。

 

 

これだけの山岳道路でありながら、国道18号線バイパスのトンネルは、横川に近い霧積隧道だけである。

トンネルばかりで息が詰まるようだった鉄道とは趣が全く異なり、長閑な後味を残す上信国境越えだった。

 

考えてみれば、「しなの鉄道」のトンネルも1つだけであるから、長野から高崎まで、同鉄道から碓氷線のバスを乗り継ぐ行程には、2本しかトンネルがない。

廃止された「横軽」区間の在来線も、長野新幹線も、そして上信越道もトンネルばかりであるから、面白い現象である。

 

 

あちこちの木々の根本に残っていた雪が、いつの間にか消え失せて、いきなり沿道に建物がひしめき始めると、横川の町であった。


横川駅の手前の交差点で駅に向けて左折すると、堰を切ったように、十数台の車が速度を上げてバスを追い抜いていった。

50kmの制限速度を順守して坂を下るバスの後ろで、うずうずしていたのだろうな、と思うと、無性に可笑しかった。

 

補助機関車を留置していた機関区の跡地と思われる広場の一角でバスを降り、横川駅に歩を進めると、駅舎は建て込んだ家々にすっかり埋もれていて、何処に駅があるのか、一瞬戸惑った。

 

 

横川から16時53分発の信越本線上り156M電車に乗るつもりであるが、17時25分に到着する高崎からの行程は決めていなかった。

関東平野を走るだけの退屈な区間だから、新幹線を使っちゃおうか、と思う。


長野から高崎まで、「しなの鉄道」とJRバス「碓氷線」、そして信越本線の各駅停車を乗り継いで3時間10分、新幹線に敵うべくもないけれど、かつて直通していた普通電車と比べても、それほど遜色はない。

鉄道ならば「横軽」区間を二十数分で走破していたので、34分を費やす代替バスが遅いように見えるのだが、軽井沢と横川で補助機関車の着脱のために、それぞれ3~5分停車していたので、碓氷峠の所要時間に大差はない、と受け止めるべきであろう。

 

 

それでも、「横軽」区間を走る代替バスの前途を楽観は出来ない。

何処の廃線跡でも、代替バスの利用客数は、鉄道が健在だった時代を大幅に下回っているという厳然たる統計がある。

本数を削減されたり、中には廃止される代替バスもあることから、早いところ乗りに行かねば失くなってしまうぞ、と焦っていたのも事実である。

 

後の話になるが、平成10年になると、めがね橋をはじめとする碓氷峠に残された旧信越本線の遺構を巡る観光が注目を浴び、旧道を経由する系統を中心に、利用客が増加傾向になった。

運行開始当初は1日7往復だった「碓氷線」は、翌年に平日10往復、土休日は12.5往復に増便され、平成11年には旧道経由の観光路線「めがねバス」の運行が始まった。

ところが、平成12年になると、平日8往復に減便され、平成24年に平日、土休日ともに7往復と、初期の本数に戻ったのである。

 

一時は、鉄道を復活させても良いのではないか、という意見が出るほどの人気を博したのだが、結局は、一過性のブームだったのであろうか。

 

 

横川駅から信州の方角を振り替えると、険しい山塊が屏風のように折り重なっているのが見えた。

この土地によくぞ鉄道を敷いたものだ、という畏怖の念が湧き上がって来る。

 

横川駅を通って何度も故郷を行き来した記憶が懐かしく脳裏に蘇ってくるが、同時に、1つの時代が終わったのだな、と思う。

新幹線があるじゃないか、と自らを慰めても、込み上げてきた寂寥感は、如何ともし難かった。


 

 

 

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