蒼き山なみを越えて 第43章 平成10年 急行「アルプス」・急行「ちくま」  | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

どの駅にも、昼と夜が移り変わる時間帯がある。

 

帰宅ラッシュの潮が引く時間帯に相当することが多く、ホームやコンコースを歩く人々の姿が目に見えて減り、大量の乗降客を捌き終えた駅員や売店の店員がホッと緊張感を緩めて、構内全体がまったりした表情を見せる。

夜行列車が発着する駅ならば、大きな荷物を抱えた長距離客の姿が目立つようになる。

 

 

ところが、新宿駅は、昼と夜の境が判然としない。

日付が変わる頃合いを迎えても、なお膨大な数の乗降客が駅の隅々までひしめき合い、駅の外の繁華街へ出ていく人も、駅に戻って来る人も引きを切らず、ホームでは、電車を待つ人々と到着した電車から吐き出される人々が錯綜して、こぼれんばかりである。

 

僕が新宿駅から長距離列車に乗る機会は、東京駅や上野駅に比べるとそれほど多くないが、今回、初めて夜行列車に乗るために新宿駅へ足を踏み入れると、やっぱり戸惑ってしまう。

いつまでこの駅は日常を引きずっているのだろう、と首を傾げたくなる。

 

「眠らない街」という言葉が頭に浮かぶ。

平成5年に大沢在昌の警察小説を原作とした映画「眠らない街~新宿鮫~」が公開され、僕は未見であるし大した興行成績も上げなかったと聞いているが、テレビで予告編を観て、「眠らない街」という題名だけは強く心に刻まれた。

上京して何年が経過しようとも、新宿の昼夜を問わない殷賑さは僕にとって異質に感じられ、足を踏み入れるにはある程度の覚悟を要する恐い街であり、かつ異様な魅力を感じていた。

この映画の頃は、まだバブル経済の余韻が色濃く残っている時代だったな、と思う。

 

平成10年は、何と言っても2月に開催された長野冬季五輪が忘れ難い記憶を残し、僕にとっても、そして故郷の信州にとっても、この年までバブルが延長しているような感覚だった。

新幹線や高速道路が伸び、大型ホテルが乱立し、長野駅舎をはじめ街並みが綺麗に建て替えられるなど、兆の単位の資本が投下されて、史上空前の大建設時代を謳歌していた長野市は、五輪の終了とともに、ホテルや大型店舗が次々と倒産し、買い物客は新幹線や高速道路によるストロー効果で首都圏を目指すようになり、商店街の客足が目に見えて減ったことで、一気に不況の洗礼を受けることになる。

中央通りと昭和通りが交差する新田町で向かい合っていた「そごう」と「ダイエー」が撤退し、市内随一の繁華街で、2つの大型店舗が空きビルになってしまったのは、僅か2年後の平成12年である。

長野駅と新田町の間の中央通りに面していた「長﨑屋」は、それに先んじた平成10年3月に郊外へ移転し、長野市街に残っている大型店舗は、長野駅前の「東急百貨店」と、権堂の「イトーヨーカ堂」だけになってしまった。

 

他の地域に目を向ければ、3月の新宿小田急サザンタワーの完成や、4月の明石海峡大橋の開通は、バブルの名残りを思わせる明るい出来事だったが、日本長期信用銀行や日本債権信用銀行などの大型破綻も相次ぎ、自殺者が初めて3万人を超えて、我が国は確実に泥沼のような不況に嵌まり込んでいた。

不況の時代の政権は短命なことが多い。

7月の参議院選挙で自民党が大敗し、その責任をとって橋本龍太郎が首相を辞任、小渕恵三内閣が発足したばかりであった。

 

ところが、新宿駅に1歩足を踏み入れれば、この街の何処が不況なのか、と首を傾げたくなるくらいに人々は元気に歩き回り、笑いさざめき合っているではないか。 

日中に特急「あずさ」と「かいじ」が発着する9番線と10番線の階段を上がれば、多少は人が減るので、ようやく一息つくことが出来た。

 

 

複数の地域に向かう夜行列車が出入りしていた東京駅や上野駅と異なり、新宿駅を出入りする夜行列車は、甲信方面一択である。

それでも、かつて「山男列車」を名乗った客車419列車(後に437、425と列車番号が変更)や、昭和50年に電車化された441Mをはじめ、早朝に山に入る登山客を主体とした夜行列車が存在した。

 

僕は、登山に向かうのに夜行列車を利用した経験はない。

夜行明けで登山する自信もない。

山に登る時は、いつも麓で1泊して、早朝3時頃に出立する慎重派である。

山岳小説を得意とした新田次郎の小説や、中央東線沿線を舞台に取り上げることが多かった松本清張を筆頭とする推理小説などに、新宿発の夜行列車の描写が数多く見られ、僕はどこか遠い国の列車の話のように感じながら、読み進めて行ったものだった。

 

『新宿駅は、この年の瀬に小舟を浮べて、なんとか、生への彼岸へ渡ろうとする人々で、ごった返していた。

かつぎ屋と闇屋が、わが物顔にプラットフォームを行ったり来たりしている中を、かつぎ屋によく似ているが、かつぎ屋でない証拠としてのピッケルを持った、竹井岳彦と河本峯吉の2人は、長野行きの汽車に乗った。

汽車が入って来ると、列が乱れ、腕ぷしの強いかつぎ屋が先に乗りこんで、窓から、同類がほうりこむ、帽子だの新聞紙だのを、ぽんぽんとあっちこっちに置いて席を取り、後から乗りこんで来る乗客が、そこへ坐るのを拒否した。

文句を言うと、すごい剣幕で怒鳴るので、結局は善良な乗客たちは泣寝入りの形で、立たねばならなかった。

岳彦も河本峯吉も被害者となった。

 

「ひどい奴等だ」

 

と岳彦が言った。

河本は、1時間も待っていて席を取れなかったのだから鬱憤のやり場に困ったように、登山靴で、床を蹴とばしていた』

 

新田次郎の長編「栄光の岸壁」に描かれた、昭和23年の新宿駅の光景である。

このように殺人的な列車に一晩揺られてから、山に登っていた人々がいるとは、驚異である。

 

『シーズン中には毎度のことながら、この夜行列車を待つ登山姿の乗客が、ホームから地下道の階段、通路に2列になって長く座りこんでいる。

早くから汽車の入構を待っているので、退屈と身体の不自由のためにすでに疲れた顔つきをしているのが多い』

 

松本清張の短編「遭難者」に描かれた、高度経済成長期と思われる新宿駅である。

 

『新宿発23時55分、各駅停車の長野行。

これが「アルプス」や「穂高」以上に東京の山仲間には必要とされ、かつ親しまれている列車なのだ。

鈍行列車だからニックネームは付けられていないが、山へ行く者なら誰でも知っている「419」列車。

最も大衆的なアルプス定期便というところか』

 

と、日本山岳会副会長を務めた渡辺公平氏が、雑誌「旅」の昭和30年8月号に書いており、入線時刻が22時40分であるにも関わらず、午後5時頃から列車を待つ列が伸びていたという。

 

 

新宿駅の待ち合わせ場所として知られている「アルプス広場」は、昭和30年代の新宿発「信州夜行」の全盛期からの施設である。

令和の世を迎えて、改装により清楚だが無機質になった印象の広場を覗いてみても、肩を寄せ合うアベックばかりが目立ち、山へ向かう装いの人々を見掛けることは殆んどないと聞く。

 

東京駅の「銀の鈴」もそうであるが、1人旅が多い僕は、このような場所が苦手である。

家族や友人と駅で待ち合わせたこともあるけれど、大抵は改札口やホームを指定することが多く、ただでさえ巨大で迷路のような構内で、列車の乗り降りと全く関係がない待ち合わせ場所を探すことなど、合理的ではないと思っている。

 

 

平成10年の8月のこと、僕が、相も変わらずごった返している新宿駅に足を踏み入れたのは、23時50分発の信濃大町行き下り夜行急行「アルプス」に乗るためであった。

 

これから、長野市の実家に帰省しようと思っている。

鉄道で帰省するために、夜行列車で新宿駅を発つのは初めてだった。

前年の平成9年10月に長野新幹線が開業したので、東京駅を利用する機会が増えたし、それより以前は、上野駅で信越本線の列車を利用するばかりだった。

 

どうして新宿駅からの急行「アルプス」を選んだのかと言えば、夜汽車に乗ってみたかった、というだけの話である。

 

 

夜行が好き、という理由もあるが、東京を夜遅くに出て、早暁の長野駅に降り立つ旅の形は、僕にはとても魅力的だった。

在来線を走っていた時代の特急「あさま」は、上野と長野の間を所要3時間弱、新幹線になると1時間半前後に短縮され、何回も行き来すれば、どうしても旅行気分は薄れてしまう。

 

せっかく東京の外に出るのだから、日常とは異質な体験をしたくて、僕は最短距離で200km程度の帰省であっても、夜行を選ぶことが少なくなかった。

 

 

新幹線で1時間半という区間で、夜行列車を使う人は少ない。

上野から長野を経て直江津に向かう夜行急行「妙高」は、長野新幹線の開業を待たず、平成5年に廃止されてしまった。

僕は、機関車が牽引する客車列車だった時代の「妙高」の寝台車を利用したことがあり、故郷へのありきたりな行程がこれほど新鮮に感じられるのか、と蒙を拓かれた思いがした 。

 

「妙高」が廃止された後も、上野から信越本線経由で金沢に向かう夜行急行「能登」が、長野新幹線開業の前日まで運転されていたので、長野まで利用したことがある。

 

 

当時は、東京から長野に向かう夜行高速バス「ドリーム志賀」号が運行されており、僕も時々利用しては、短いながらも夜の旅を楽しんだものだった。

「ドリーム志賀」号を差し置いて、夜行急行「アルプス」を選んだのは、目先を変えてみたかったからに他ならない。

 

盆の帰省ラッシュの時期と重なっているので、混雑を予想して指定席を取得していたが、それは正解であった。

新宿駅構内の人混みを抜け出してホッと一息つく暇もなく、発車の30分程前からホームに入線した「アルプス」には、次から次へと引きも切らずに利用客が乗り込んで来たのである。

 

 

『お待たせしております。23時50分発の信濃大町行き急行「アルプス」です。途中、立川、八王子、高尾、大月の順に停車します。その他の駅には停まりませんので御注意下さい。指定席は先頭の9号車から6号車、6号車はグリーン車の座席指定です。自由席は5号車から後ろ1号車です。この列車の御利用には急行券が必要です。指定席を御利用のお客様は、お手持ちの切符をお確かめになりまして、席を間違えないようお願いします。自由席を御利用のお客様、本日は大変混雑しております。お荷物などは網棚の上に置き、少しでも多くのお客様がお座りになれますようお願いします。また通路にお荷物を置かないようお願いします。23時50分発信濃大町行き急行「アルプス」です。発車まで、もうしばらくお待ち下さい』

 

畳み込むような車掌の案内放送が繰り返し流れ、客室に足を踏み入れた客が券面に目を遣りながら、次々と席に腰を下ろしていく。

中には、品定めするように左右の座席を見回しながら、通路を足早に通り過ぎて隣りの車両に移っていく客も見受けられる。

 

登山服に身を包んでいる人もいるが、Yシャツやスーツ姿の方が目立ち、どうやら「アルプス」は「ホームライナー」のような使われ方もされているらしい。

車掌の案内も、飛び乗りの帰宅客を意識しているように聞こえる。

似たような混雑を呈していても、登山客で溢れていた夜行鈍行の時代と、平成の夜行急行「アルプス」の客層は、大きく様変わりしていたのである。

 

 

東京都内の中央線は、三鷹まで各駅停車の緩行線と、高尾まで足を伸ばす快速線の複々線になっているが、東海道本線や横須賀線、総武本線などと異なり、グリーン車を連結した電車は運転されていない。

「ホームライナー」も何本か運転されているものの、需要に比して着席サービスが遅れていると言っても過言ではなく、特急「あずさ」や「かいじ」も、立川や八王子までの短距離利用が少なくないと聞く。

 

「ホームライナー」代わりの急行列車は、金沢行き「能登」で経験済みだったので、あの時のように窮屈な羽目になるのかと辟易する一方で、「能登」は高崎線の最終列車だったが、「アルプス」の後には、新宿0時11分に発車する中央線快速高尾行き、各駅停車も新宿0時15分発高尾行きまで3本の電車が残されているので、「能登」ほど混雑はひどくならないかな、と期待するより術はない。

 

 

発車時刻の1分前からホームに発車メロディが流れ始め、窓の外を駆け足する飛び乗り客も全て拾い上げて、急行「アルプス」は定刻きっかりに新宿駅を後にした。

 

僕が乗る指定席は、ほぼ9割の座席が埋まっているが、通路に立つ客はいなかった。

新宿大ガードを渡る前後で、歌舞伎町のどぎついネオンが車内を照らし出したが、人影の少ない大久保駅のホームが過ぎ去ると、窓は闇の中に点々と浮かぶ家々の灯や街路灯を映すだけになった。

 

地図を見れば、都内の中央線は立川の辺りまで一直線に敷かれているように見えるが、快速電車と同じ線路を走る「アルプス」の速度は、それほど上がらない。

先行する通勤電車に追いつかないようにしているのか、もどかしいような速度であるが、その分揺れが少なく、走りは滑らかである。

 

 

窓外を過ぎていく通過駅のホームの眩さと、対照的な駅間の暗闇が目まぐるしく繰り返されて、何となく疲れを覚える。

車内には、カーテンを閉めて眼を瞑っている客も多く、それが正しい夜行列車の乗り方なのだろうが、僕は眠る時間すら勿体なく感じてしまう性質なので、じっと真っ暗な外を眺めている。

通過駅のホームの人影が疎らになり、遠くに向かっているのだな、という実感が湧いて来る。

 

勤め人も登山客も、明日に備えて夜更かしは禁物なのだろうが、僕は実家に帰るだけの至って気楽な身分である。

眠くなれば寝れば良いだけだが、そのうちに孤独な疎外感が込み上げてくる。

あれほど飛び出したいと渇望していた日常が、ふと恋しくなって、さっさと新幹線で帰れば良かった、との後悔が込み上げて来るのも、この頃である。

何が悲しくて、実家のある長野行きではなく、松本まで5時間も掛かるような列車に乗っているのだろうと、社会のはみ出し者になったような心持ちがする。

 

ふと、東京駅八重洲南口を23時30分に出た夜行高速バス「ドリーム志賀」号は、今頃、どの辺りを走っているのかな、との邪念が胸中を横切る。

途中で新宿駅南口バスターミナルに寄り、日付が変わる1分前の23時59分に発車するので、今頃は甲州街道か、首都高速4号新宿線に入ったばかりであろうか。

 

「ドリーム志賀」号の開業当初は、まだ上信越自動車道が開通しておらず、信州に向かう高速道路は中央自動車道だけという時代だった。

松本に停車こそしないものの、中央道を回るので、前半部分は急行「アルプス」と似た経路ということになる。

「アルプス」は、バスに比べれば座席も広いし揺れも少ないが、「ドリーム志賀」号ならば通勤客など乗り込んで来ないし、消灯すれば車内は寝室のように暗くなる。

何よりも、長野市まで乗り換えなしである。

 

 

『本日はJR東日本を御利用下さいましてありがとうございます。急行「アルプス」の信濃大町行きです。次は立川です。立川、八王子、高尾、大月の順に停まります。大月到着は1時18分、大月には1時18分。塩山、山梨市、石和温泉、甲府、甲府の到着は2時08分、甲府には2時08分。韮崎、小淵沢、茅野、上諏訪、上諏訪到着は3時19分、上諏訪には3時19分。岡谷、辰野、飯田線にお越しのお客様は辰野でお乗り換え下さい。辰野3時40分です。塩尻、松本、松本には4時10分、松本の到着4時10分です。豊科、穂高、終点の信濃大町の順で停車でございます。終点の信濃大町5時05分の到着でございます』

 

落ち着いた声音だが、妙に慌ただしい口調の案内放送だった。

大月より手前の駅の到着時刻を言わないのは、近距離客が少ないためなのか、などと思いながら耳を澄ませていた。

発車直後に流れる停車駅と到着時刻の案内は、旅立ちの旅情を殊更に煽るので、僕には欠かせない演出である。

 

ところが、その後も主要駅の時間を言うだけだったので、拍子抜けした。

夜行列車で、このように省略した放送は初めてだったが、おそらく飛び乗り客が多いので、放送なんぞ早く終わらせて、自分も検札に回りたいのかな、と推察したりする。

 

 

『列車は9号車が先頭です。9号車から6号車が指定席です。6号車はグリーン車の指定席です。自由席は5号車から後ろ1号車です。禁煙車は9号車、8号車、2号車、1号車、デッキを含めまして禁煙でございます。御協力をお願い致します。また6号車の一部も禁煙です。カード式の電話機がついております。カード式の電話機は6号車、前寄りのデッキのところです。テレホンカード御利用のお客様、車掌が1000円のカードを用意しておりますので、御利用下さい。ジュース、お飲み物と一般雑貨類の販売員の乗車はございませんので、御了承下さい。なお、1号車、3号車、8号車の洗面所のところには、冷たいジュースの販売機がございますので、御利用下さい。夜行列車でございます。お休みの際には貴重品には充分御注意下さい。急行「アルプス」の信濃大町行きです。立川、八王子、高尾、大月の順で停車です。なお、早速ではございますが、乗車券、急行券を拝見させていただきます。御協力をお願い致します』

 

 

夜行列車で定番とも言うべき数々の注意事やお願い事など、きちんと言うべきことは言い終わったものの、最後まで早口だった案内放送が終わるや否や、車掌が検札に現れた。

 

「松本ですね。明朝4時10分の到着になります」

 

僕の急行券を一瞥して愛想よく鋏を入れようとした車掌が、下に重なっていた乗車券を見直すと、一瞬、居ずまいを正したように見えた。

僕の乗車券は「東京都区内⇒長野」と書かれているので、長野駅へ向かう客が「アルプス」に乗っていることに違和感を感じたのか、もしくは経由地がきちんと中央東線・篠ノ井線と記載されているのかを確認したのだろう。

 

別の席では、

 

「お客さんは八王子ですね。急行料金510円をいただきます。この席を使うお客さんが来たら譲って下さいね」

 

などと言う声が聞こえたので、我が物顔で座りながら、実は定期券しか持っていない客も少なからずいるらしい。

 

さすがに指定席車両では一部に過ぎなかったが、それでも、2~3割の客が、立川、八王子、高尾で降りて行った。

ホームを歩く大勢の人波を目にすれば、もしかすると、自由席は、通勤客がいなくなったらガラガラになったのではないだろうか、と思ったりする。

すし詰めの中央線快速に比べれば、「アルプス」の方がずっと居心地が良いのだから、お疲れ様、と頭が下がる。

 

 

立川駅を過ぎると、急行「アルプス」の走り方が明らかに変化する。

 

中央東線は左へ曲線を描いて多摩川を渡り、細かなカーブが増えて、八王子を発車した直後から、登り勾配に差し掛かった気配が感じられる。 

暗闇の中に山肌が間近に迫って来る感触があり、長さ2594mの小仏トンネルを筆頭に、「アルプス」は関東平野に別れを告げて、関東山地の懐に分け入って行く。

相模湖畔を過ぎると、線路は桂川の河岸段丘に敷かれ、昼間であれば、細長い谷底に点在する集落を駆け抜けていく鄙びた区間であるが、今は家々の灯も少なく、カーブで左右に揺さぶられる列車に身を任せるだけである。

 

この日の「アルプス」の記憶は断片的で、ところどころ明確に覚えている場面もあるのだが、よく眠ったのかどうかも曖昧模糊としている。

覚えていないということは、それなりに眠れたのかもしれない。

 

 

急行「アルプス」に使われていたのは、特急「あずさ」に用いられている183系特急用車両の居住性を向上させたグレードアップ車両である。

時刻表には「デラックス車両」と記載され、「あずさ色」と呼ばれる白地に水色の塗装が特徴的だった。

普通車指定席の座席はバケットシートに改良され、それまでのように、背もたれを倒すとお尻が前にずり落ちてしまうような造りではない。

 

僕が指定席を選んだのは、グレードアップ車両でも、自由席は旧来のシートのまま据え置かれたと聞いていたことも一因である。

新宿駅で座席に腰を落ち着かせた時には、フリーストップのリクライニング装置と合わせて、こいつはいいぞ、と嬉しくなった。

 

 

特急「あずさ」用の車両が改良されたのは昭和62年のことで、僕の故郷に向かう特急「あさま」が改良された平成2年よりも早く、悔しく感じたことを覚えている。

 

信州と言えば、長野よりも松本の方が知名度も好感度も高く、北アルプスや上高地への玄関口も松本であり、旧制松本高校の流れを汲む信州大学の本部が置かれているのも松本、信州への列車と言えば「あさま」よりも「あずさ」という世間の認識は、長野出身の人間として、甚だ心外だった。

中でも、昭和52年にヒットした歌謡曲「あずさ2号」の影響力は絶大だった。

長野は県庁所在地ですぞ、と反論してみても、県外の人々に「松本じゃなかったんですか」と驚かれるのがオチであった。

 

   

時が過ぎて、長野新幹線が開通し、北アルプスの麓の大町や白馬へは、長野駅で特急バスに乗り継ぐ方法が最速となって、元長野市民として多少は溜飲が下がったのだが、このルートは「あずさ2号」に勝る歌謡曲を産み出していない。

「あずさ2号」を歌った「狩人」は、2曲目に、中山道の近くの中山峠越えを舞台にした「コスモス街道」を発表したが、「あずさ2号」ほど売れなかった印象がある。

 

こうして、「アルプス」に揺られて「あずさ」と同じ道のりを走れば、中央東線の旅情には敵わないな、と思う。

長野がようやく便利になったと思えば、今度は、長野から消えてしまった東京からの夜行列車が、松本に残されていることが羨ましくなったのだから、勝手な話である。

 

 

中央東線が全通したのは明治39年で、明治44年に中央西線が全通するとともに、飯田町-名古屋間に夜行列車705・706列車が走り始めたのが、同線の夜行列車の先駆けである。

大正2年に飯田町-長野間に1往復の夜行列車が登場し、大正10年に二等寝台車を連結、昭和8年に飯田町駅の旅客営業の廃止に伴って新宿駅始発となり、太平洋戦争中も運転を続けた。

急行「アルプス」の前身は、昭和23年に中央東線初の優等列車として新宿-松本間で運転された夜行の臨時準急列車である。

昭和24年に定期列車に格上げされて、昭和26年に「アルプス」と命名された。

昭和26年以降、昼夜行の準急列車が新宿-松本間に次々と登場し、後に「穂高」「白馬」「あずさ」「上高地」と命名され、昭和32年に「アルプス」が急行に格上げされて昼行列車となり、夜行列車が「アルプス」から「穂高」に組み込まれたのを期に、他の列車も続々と急行列車に格上げされた。

 

特筆すべきは、中央本線の戦後史で唯一、昭和29年から昭和36年まで、準急「きそ」が新宿-名古屋間を直通運転したことであろうか。

中央東線から大糸線に乗り入れる列車の起源は、昭和36年のダイヤ改正で急行に格上げされ、信濃森上駅まで直通運転を開始した「白馬」で、後に、同線の終点糸魚川駅まで乗り入れる列車も登場する。

 

 

昭和40年代になると、中央東線を走る急行列車は次々と「アルプス」に統合され、大糸線直通運転も「アルプス」に引き継がれた。

昭和41年12月に、新宿-松本間に特急「あずさ」が登場する。

昭和58年に岡谷と塩尻の間を短絡する塩嶺トンネルが完成し、特急「あずさ」は、「大八回り」と呼ばれていた辰野駅経由から新線に乗せ替えられ、急行「アルプス」も、昭和60年に全列車が塩嶺トンネル経由に変更されたが、夜行だけは辰野経由で残された。

 

昼夜行合わせて1日11往復が中央東線を行き交っていたこの時期が、急行「アルプス」の全盛期だったと言えるだろう。

 

昭和61年のダイヤ改正で、急行「アルプス」の昼行列車が全て特急「あずさ」に格上げされて、残された夜行列車は183系特急用電車に置き換えられた。

 

 

ちなみに、戦前からの夜行鈍行列車の伝統を受け継いだ新宿-長野間の「山男列車」441Mと442Mは、昭和61年に上りの442Mが廃止され、下り441Mの運転区間が上諏訪駅止まりに短縮されている。

平成4年に下り列車が甲府止まりとなり、平成5年に姿を消した。

 

僕は「山男列車」に乗ったことも見たこともなく、無縁に終わった。

代わりに、夜の新宿駅で、共通運用の「あずさ」の車両更新に伴い、様々な塗装を身に纏った「アルプス」を見掛けては、仄かな旅情を催したものだった。

僕にとっての「アルプス定期便」は、文字通り夜行急行「アルプス」だった。

 

平成9年に、「アルプス」の下り列車は新宿発松本経由信濃大町行きという従来の形で運転されたが、上り列車は長野発松本経由新宿行きに変更されている。

僕が初めて「アルプス」を利用したのは、このダイヤの時代であった。

 

このダイヤ改正は、中央東線の特徴を如実に表していたと言っても良い。

もともと中央東線の夜行列車は、早朝に現地に入りたい登山客を対象としていたため、上り列車に比して下り列車の運転本数が多く、それ故に下りの「アルプス」を大糸線直通で残したのであろう。

 

上り「アルプス」を長野始発にしたのは、長野新幹線の開業に伴って信越本線の夜行列車が消えたことへの救済策と囁かれたが、JR東日本の意に反して、長野と首都圏の間の夜行移動もまた、下りの比重が高かったのではないだろうか。

一般的に、地方と大都市の間の流動は、地方側から大都市に向けて行き来する比率が高く、大都市に夜遅くまで滞在したい利用客が少なくないと言われている。

平成8年の上信越自動車道開通に伴って登場した高速バス「新宿-長野線」も、下りだけ夜行便を設けている。

 

そのような需要との不一致が一因であったのか、それとも、夜行需要や登山客が減少した時代の趨勢なのか、平成13年に、上りの急行「アルプス」が臨時運転になった。

故郷を出入りする貴重な夜行列車であったはずなのに、乗る機会には恵まれなかった。

翌年に下り列車が廃止され、上りの臨時運転もなくなって、半世紀もの間、中央東線を走り続けた急行列車は、その役割を終えて退場したのである。

 

 

そのような数年後の運命を知ってか知らずか、夜行急行「アルプス」は、順調に夜を駆けている。

1時18分に停車した大月駅では、何度か利用したことのある富士急行線のホームが、まるで廃駅のように、明かり1つない暗闇の中に沈んでいた光景が、今でもありありと脳裏に浮かぶ。

改札の向こうに停車している電車が、洞穴の中に蹲っている怪物のように見えた。

 

轟々と走行音が反響する長いトンネルの中で眼を覚まし、延長4656mの笹子トンネルを走っているのだな、と思ったことや、灯が散りばめられた甲府盆地を左手に見下ろしながら斜面を駆け下ったこと、2時08分に到着した甲府駅で、降りていく客がざわめく気配に薄目を開けて、このような丑三つ時にお疲れ様、と思ったことも、急行「アルプス」のかすかな断章である。

 

韮崎駅から先は、信州の高みに向けて再び登り勾配になるが、「アルプス」の軽快な行き足は衰えを見せない。

特急「あずさ」ほど一生懸命には走っていないけれど、速すぎず遅すぎず、眠るのに手頃な速度である。

白樺の木立ちが線路端に密集し、白い幹が、骸骨のように、窓から漏れる光に鈍く浮かび上がると、甲信国境が近いのだな、と思う。

 

 

2時55分に着いた小淵沢駅では、さあ行こうぜ、と声を掛け合いながら、大きなリュックを揺さぶって数人の山男が降りていった。

 

隣りの「信濃境」の駅名標が窓外を過ぎ去ったのは、午前3時頃である。

この駅を目にすれば、信州に来たのだなと、いつも思う。

思うけれども、どれほど寝心地の悪い列車であっても、午前3時を過ぎれば、猛烈な眠気に襲われるのが僕の体質である。

ましてや、グレードアップされた座席が心地良いのだから、諏訪湖畔にある上諏訪、下諏訪駅も、飯田線を分岐する辰野駅も、中央西線を分岐する塩尻駅も、眠りの中で知らないままに過ぎてしまった。

 

早暁4時10分に着く松本駅を、よくぞ寝過ごさなかったものと思う。

4時32分の発車まで22分間も停車し、大半の乗客が賑やかに降りて行くので、白川夜舟で済むような駅ではなく、安心して寝入っていた。

 

真夏の空はうっすらと白く染まり始めているけれども、駅の構内は暗がりの中に沈んでいる。

ホームに降りれば、蒸し暑かった東京とは別世界のような、涼しい風が吹いていた。

 

上高地の入口にある新島々駅までの松本電鉄線には、松本4時22分発という大層早起きな始発電車があり、登山客がゆっくりと跨線橋の階段を昇って行く。

やっぱり、「アルプス」は「山男列車」の後継であった。

 

 

がらんとしたホームの向かいには、大阪を前夜の21時42分に出てきた長野行き夜行急行「ちくま」が停車している。

こちらは松本に4時14分に着いて、33分も停車する。

 

『お待たせしております。4時47分発の長野行き急行「ちくま」です。聖高原、篠ノ井、長野の順に停車して参ります。自由席車両は後ろ寄り5号車と6号車です』

 

車内に足を踏み入れると、嗄れた声の案内放送が、ぼそっと流れた。

以前に「ちくま」を利用した時は、松本でごっそりと乗客がいなくなり、別の列車に仕立てられたような雰囲気だったが、この日も、僕が乗り込んだ自由席車両はすいていて、好きな席に座り、前のシートをこちら向きに回転させて、足を投げ出すことが出来た。

 

 

がらがらだけれども、「ちくま」に投入されているのは、日中に特急「ワイドビューしなの」に運用されている新鋭383系特急用電車で、座席の座り心地は申し分ない。

5時45分着の長野まで、たった1時間しか乗れないのが惜しいほどである。

客室の空気は、気怠く澱んでいた。

残っている僅かな乗客は全て座席に深く沈み、空席の窓枠や床には空き缶が転がっていて、大阪から長駆7時間を夜通し走り続けてきた夜汽車の余韻があちこちに残っている。

 

2つの夜行急行列車がきちんと接続しているので、早朝の乗り換えは眠くて煩わしいけれども、東京から長野まで夜行で移動することが可能なのである。

ただし、「アルプス」から「ちくま」に乗り継いだ乗客は、ほんの僅かだった。

 

 

東京から長野へ向かう夜行列車は、戦前からの長い歴史があり、急行「妙高」や「能登」が消えた後にも、下りは「アルプス」と「ちくま」を接続させ、上りは「アルプス」を長野始発にすることで、かろうじて便宜が図られているのは嬉しい。

 

高速バスでも、平成4年に東京と長野・湯田中を結ぶ「ドリーム志賀」号が運行を開始し、平成22年に新宿と長野を結ぶ高速バスが下りに夜行便を設け、平成24年には、千葉・TDL・上野・浅草から松本を経由して長野に向かう夜行高速バスが登場している。

「ドリーム志賀」号は平成11年に廃止されてしまったが、残りの2本の夜行高速バスは今も健在で、東京と長野を往来する夜行需要は厳然と存在している。

逆に、バスで事足りる程度に減少した、と見るべきかもしれない。

 

 

「ドリーム志賀」号でも、何人かの登山客が乗っていたことを覚えている。

千葉からの夜行高速バスは、TDLからの観光客ばかりだったが、一部登山の装いをした客が見受けられて、茅野バスストップや松本駅で降りていった。

「山男列車」の系譜は、夜行高速バスに脈々と受け継がれていると言っても良いのではないだろうか。

 

長野へ向かうのに、松本を回るような真似をするのは僕くらいだろう、と「アルプス」と「ちくま」の車中で苦笑いしていたけれども、十数年後に、首都圏から松本経由で長野に向かう夜行高速バスが走ることになろうとは、予想外であった。

 

 

定時を迎えると、急行「ちくま」は、すっかり夜が明けた松本駅を物憂げに発車した。

ここで終わりにしてもいいのですけど、と言いたげな走り出しだったが、もう一息頑張って貰わなければ、僕は故郷に帰れない。

 

夜の底に眠ったままの街並みを抜け出すと、広大な河原を抱く犀川の向こうの雲が晴れ始めて、朝日に輝く飛騨山脈が姿を現した。

懐かしい。

松本と長野を結ぶ篠ノ井線は、子供の頃から数え切れないほど行き来して、中央東線とは比べ物にならないくらい沢山の思い出が詰まっている。

 

 

夜行急行「ちくま」もまた、同様である。

 

大阪と長野を直通する東海道本線・中央西線経由の列車は、昭和34年に登場する準急「ちくま」が最初であり、当初は長野行きが夜行、大阪行きが昼行で運転されていた。

昭和36年に「ちくま」は急行になり、昭和41年に夜行・昼行各1往復ずつに、昭和43年には季節運転も含めて夜昼行3往復に増便されている。

昭和46年に定期の昼行1往復が特急「しなの」に統合され、昭和47年に「ちくま」は気動車に置き換えられた。

昭和53年に寝台車つきの20系客車が投入されると同時に、「ちくま」の定期運転は夜行1往復だけになり、昼行1往復は季節運転の電車になった。

 

 

僕は、家族旅行で京都や奈良に出掛けた際に、キハ58系気動車と20系客車の夜行「ちくま」をそれぞれ体験している。

どちらも長野から京都まで乗車したのだが、気動車時代には、長野と大阪の間に非電化区間など残っていなかったので、不思議でならなかった。

当時の国鉄は急行用電車が不足し、電化区間に気動車急行を走らせる場合が少なくなかったようで、今となれば貴重な経験だった。

20系客車の「ちくま」は、僕にとって生まれて初めての寝台車体験となった。

 

昭和59年にも、大学受験の往復に「ちくま」を使い、この時は座席車で安上がりに済ませたのだが、受験生特有の不安に苛まれる長い夜が、今でもほろ苦く胸中にありありと思い浮かぶ。

 

 

様々な思いを抱いて乗り続けてきた「ちくま」が、平成9年に383系電車に置き換えられた直後に、僕は久しぶりに利用したことになる。

 

一新された車内は、往年の「ちくま」とは大違いで、まして松本から短区間の利用であるから、まるで特急「しなの」に乗り込んだような気分である。

もちろん、検札に現れた車掌に支払ったのは急行料金だったし、意外と奥深い筑摩山地に分け行っていく「ちくま」の走りっぷりは、「アルプス」と変わらず、のんびりした夜行急行列車の足取りだった。

 

 

鬱蒼と木々が生い繁る山肌が窓外に迫る山中で、車輪がレールを刻む規則正しい走行音を夢枕に、僕はうつらうつらしながら過ごしていた。

 

篠ノ井線における最大の難所、長さ2656mの冠着トンネルを抜け、スイッチバックのある姨捨駅を通過するあたりで、ふと、窓に目を向けた僕は、思わず身を乗り出した。

車窓いっぱいに、朝靄に沈む善光寺平の眺望が広がったのだ。

信越本線や長野新幹線に、このような眺望はない。

松本経由の帰省も悪くないじゃないか、と感動した。

 

 

急な斜面に拓かれた段々畑を見遣りながら、「ちくま」は、軽やかに下り勾配を駆け降りていく。

周囲の地形がすっかり平らになり、最後の停車駅となる篠ノ井駅を発車すると間もなく、車掌の到着案内が流れ始めた。

 

『長らくの御乗車、ありがとうございました。間もなく、終着の長野でございます。長野は7番線に着きまして、お出口は左側です。お忘れ物等なさいませんよう、お支度してお待ち下さい。高崎、大宮方面の新幹線「あさま」500号東京行き御利用のお客様、新幹線乗り場13番線から6時02分の連絡です。飯山線、飯山、戸狩野沢温泉方面、普通列車の十日町行きは、降りましたホームの向かい側、6番線から6時01分です。妙高、高田方面、普通列車の直江津行きは2番線です。6時38分までお待ち下さい。本日は急行「ちくま」号御利用いただきましてありがとうございました。御案内致しました車掌は長野運輸区の〇〇、△△でした。またの御利用をお待ちしております。間もなく、終着の長野でございます。お忘れ物等なさいませんよう、お気をつけ下さい。7番線に着きまして、降り口は左側です』

 

前夜に東京を出てきた身としては、東京行きの新幹線の案内に違和感を禁じ得ないが、それは僕だけの都合であって、篠ノ井線沿線から「ちくま」を利用して長野新幹線の始発に乗り継ぐ乗客もいるのだろう。

今や、松本からでさえ、東京に最も早い時間に到着するのは長野経由、という時代になっていた。

松本を午前6時03分に発車する始発の上り特急「あずさ」52号の新宿着は9時12分であるが、「あさま」500号の東京着は7時41分である。

新幹線とは、地域の交通地図を劇的に塗り替えるものなのだな、と感心する。

 

 

篠ノ井から先は、付かず離れず、長野新幹線の高架が右手を並走する。

視界が遮られてしまって台無しであるけれども、これが故郷の新しい車窓である。

轟々と鉄橋を鳴らしながら犀川を渡って川中島を通り抜け、裾花川を渡れば、終点の長野駅は直ぐだった。

 

懐かしい街並みを目にして、はるばる故郷に帰ってきた、という実感よりも、名残り惜しさが募ってきたのは、我ながら意外だった。

目先を変えてみたいという軽い動機で選んだ「アルプス」と「ちくま」の乗り継ぎ旅であったが、これほど深く心に刻まれる一夜になろうとは、思いも寄らなかった。

 

平成15年に夜行急行「ちくま」は臨時列車に変更されて、平成17年を最後に運転されなくなった。

僕が、夜行列車で長野駅に降り立ったのは、平成10年のこの旅が最後になったのである。

 

 
 
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