相手が動くその時にはすでに押さえている。

つまり動いたのを見てから反応してたら間に合わない。

どう動くということより、その前の在り方、
どう対峙しているか。

恐れているのか

勝とうとしているのか

または感じているのか


それぞれの在り方で動きの反応はちがう。

体術で思うのは、強さとか、勝とうとか、よりも受け流す身体の在り方を稽古している。

筋肉は細部に感覚をおき、相手と自分の呼吸、重心を感じている。

叩くパンチは跳ね返るが、触れる突きは中に通るもの。

軟らかくという自然を知らなければ、心身が関わる武術は狭い世界のエゴの武器となってしまう。

本日は朝の稽古会。

朝に身体を動かすのはとてもさわやかだ。

武術会とはまた違った丁寧さがある。

もちろん武術会も丁寧さが中心だ。

摺り足で重心を安定させ、ゆったりとした動きで身体の中を使っていく。

心は穏やかさが基本。

呼吸を感じ

軸を感じ

自分という身体を大切にしましょう感じていく。

そんな稽古。

ゆっくり身体を動かすことで心のストレスも消えていく。



どのように接触するかという前に、間合いで技になるかどうかはほぼ決まる。

緊張状態の接触では互いの身体は閉じる。

弛緩でもだめ、まず間合い、そして自身の重心。

そっと触れるように関節の可動を感じながら動かす。

変化の前に追い越すのではなく、変化に沿うように自分の身体を動かす。

力を抜くことは、言葉では単純なことだが、実際は間合いや、接触、重心などが関わっている。

人は緊張してないと思っても対峙しただけで構えを作るもの。

そんなときに
重心の位置をコントロールできれば、緊張を解くことが出来る。

身体の稽古は、出来るとか出来たいとか、そういう表面的な達成感に似る欲の働きでは到達できない。

細部の地道な観察と感情の働き、動作などが重なりながら一つの現象が成っていく。

だから丁寧に地道な稽古が大事なのだ。

そしてそれが楽しみに変化していけば言うことないのだが。

今日は土曜武術会!

組太刀は緊張の連続。

そんな緊張の中でいかに相手を包むように繋がるか。

敵対することは武術の働きであるが、技が働く境地は相手を知る心。

相手より力を抜く!

相手より軟らかでいる。


感情ではなく

正確な動き

追い越すのではなく

沿う。



本気かどうかというところ。

こうありたい

こうなりたい

それがエゴの満足ではなく

心からそれを好きで行っているか

それが身体の芯になり

動きに繋がる

怪我も

自分の不注意

だから注意深く技に集中し

心の隙を滅し

真剣にやらなければ

そう感じる。

素振りで

気合いを入れた!!