カルピスの味 | 風又長屋

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    徒然なるままに綴り候
    

☆カルピスの味☆





北の大地から 津軽の海を渡って青森は 弘前の地に降り立った若者がいた。 彼の名は三郎と云った。

ときは春 家業の老舗のお菓子屋の修行のため 三郎はこの地にやってきたのだった。 三年の修行期間であった。
 なんでも石の上にも三年とか。 そんなこんなで 三郎は学生生活を終え 初の社会人として生きはじめた。

一年目は 無我夢中で 過ぎ去ってしまった。

最初は営業から そのうち 或る支店を任されるようになった三郎であった。 なんだかんだ売上を伸ばせねばと 四苦八苦 試行錯誤の日々が過ぎた。

客の身になって どうしたら 足を止めさせることが出来るかと。 まずは その基本的なことから 始めた三郎であった。

そんな或る日 本社の社長に呼び出しを受けた。 なんと金一封が 渡された。  売上が倍増したのが理由であった。ここ数年、どこの支店にも与えら れていなかった「大入り袋」の贈与であった。



ちょうど その頃 社内報の発行問題が生まれ 初代編集長に 抜擢された三郎であった。 支社が 市内に8社もあった会社である。 休日は各支店の取材で チャリンコで駆け巡った三郎であった。 なかなか原稿が集まらない 三郎はその記事の穴を埋めるため 自分で 原稿をつづった 深夜遅くまで 下宿のちゃぶ台で。


三郎は仕事にもようやく慣れ 余裕が出てきた。
そんな夏の或る日 ふと 簿記の勉強をしたくなった彼だった。

夜間の簿記学校へ  入学手続きをすませ  その初日であった。 或る若い娘が、たまたま三郎の席の隣に腰掛けたのが きっかけであった。


「すみません 筆記道具をうっかり忘れてきたのですが 鉛筆を貸してく ださいますか」
「はい、遠慮なくお使いください」

これが 二人が巡り合った瞬間の会話であった。彼女の名前は 「純子」と云った。「スミコ」と呼ぶ のだと云った。


それから 学校ではいつも一緒の席に座るようになった二人だった。


夏の 「ねぷた祭り」も浴衣で 出かけた二人 すごい人出の中 離れ離れになりそうに感じた三郎は おもわず 彼女の手を握った 自然であった。 彼女は 別になんとも感じていないのか それから手を握り合ったままであった。


純子の家は  母子家庭で 弘前の奥座敷 「大鰐温泉」にあった。 弘前からは  電車で15分くらいであったろうか。 気がつくと 学校のある夜は かならず 送っていくようになっていた彼であった。

最終便の電車で、 弘前の下宿先に戻るのが 日課となっていた。 学校を仕事の都合で休むと、純子は下宿先にその日の授業の内容を教えにくるようになっていた。下 宿のおばさんは そんな二人を温かく 見守っていた。


三郎が 弘前にきて2度目の夏がやってきた。

支店経験も 早や1年半を 経過していた やるだけのことはやりつくした想いをしていた三郎であっ た。これは どんな原材料から出来ているのだろう ふと そんな素朴な疑問が彼の心に芽生えた。


原材料もわからぬ状態で 自分は販売していたのかと 改めてそのことを思い知らされ 冷汗が流れる のを覚えた。即、機会を見つけて 社長に製造現場の仕事任務につかせて欲しい旨の直訴をした三郎で あった。


たまたま製造現場に欠員が生じた 彼の要望は運が良い時期であった。 初めて 現場を経験し、 なあるほど これはこういう原材料で こういう手順で 完成していたことを初めて知った。彼は 現場の物を創造する喜びに のめり込んでいったのだった。


その時代は まだ現在のような ベルトコンベアーで品物が出来あがっていくような 時代ではなかっ た。いわゆる 手職技術の頃であった。 ここで 三郎はこういう技術は「年期」というものが 必要であるということを身をもって 実感した 。

営業は営業なりに  製造現場は製造現場なりの 「年期」がいかに大事なものであることかを。



そうこうしているうちに 月日の流れは早く 修行期間は半年を残すのみとなっていた。


三郎と純子は、次第に 喫茶店で逢っても、お互いの目をみつめるだけに変わっていっていた。会話は 、次第に少なくなっていった。 目で会話していたようなものであった。 別れの日が次第に近づいてきていた。



12月の或る夜 いつものように 純子の家を訪れた三郎。 そこで目にした光景は なんともいえないものであった。

彼女が泣きじゃくっていたのである。 その前には母親が厳しい顔をしながら 三郎を見て 母親から衝撃的な言葉を告げた。

 

あなたがこの地にとどまるのならば 一緒にさせてあげましょう。でも 北の大地に帰るのならば 一緒には出来ないと。

母親は いまさら  見知らぬ土地で 暮らしていく気はなかったのである。 彼女は 母一人娘一人 板挟みになって どうしようもなかったのであった。

突然、純子が牡丹雪降る中、素足のまま、外へ飛び出して行った。 三郎は、あとを夢中で追った。 純子は雪の中で泣き崩れていた。 三郎は、彼女の名前を呼び、抱きしめるしか方法がなかった。


どう、母親を説得しても、とうとう受け入れてくれなかった。 一年したら 迎えに来ると 言い残して北の大地に戻って行った三郎であった。



三郎が北の大地へ戻って行った半年後 純子は東京のいとこの会社へ行ってしまった。 想い出多き 弘前におれなかったのだという。


それを知ったのは、彼女を迎えに行った1年後であった。

住所を母親に問い詰めても とうとう連絡先は教えてくれなかった。 純子は 三郎が北の大地に帰って行った時に すでに決心していたと云う。 一緒には なれないと。  

そんなこととは露知らず 三郎は懸命に仕事に精をだしていたのだった。   一年後 迎えに行ったつもりが 逆に傷心を抱いて 北の大地に戻って行った三郎であった。


それから数十年、風の便りに 彼女は東京で結婚し、息子が小学3年のときに息子を置いて、 離婚したそうな。  

そんな噂が耳にはいってきた三郎であった。 甘ずっぱくも ほろ苦い三郎の 「カルピスの味」であった。


HP2012年3月9日より