地動説になれるか | 社会保障を考える

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「それが、大人になると、多かれ少なかれ、地動説のような考え方になってくる。広い世

間というものを先にして、いろいろなものごとや、人を理解してゆくんだ。 場所も、もう何県何町といえば、自分のうちから見当をつけないでもわかるし、人も、何々銀行の頭取だとか、何々中学校の校長さんだとかいえば、それでお互いがわかるようにな っている。しかし、大人になるとこういう考え方をするというのは、実は、ごく大体のことに過ぎないんだ。人間がとかく自分を中心として、ものごとを考えたり、判断するという性質は、大人の聞にもまだまだ根深く残っている。」(『漫画 君たちはどう生きるか』)

 

だが、体験的には地動説になる人は自分を含めて少ないと思う。障害者団体や施設では、関係するのは、障害当事者・家族・職員・ボラティアなどです。例えば、障害者は地域で暮らしたいと願う人が多いと思いますが、家族にしてみれば親なきあとのことを考えれば入所施設などが「安心」できます。しかし、運営に注意しているとしても定められた時間に食事したり、入浴したりしなければならないという「管理」プログラムを避けることはできません。障害者でない多くの人は自分の都合で食事などしています。

 もうひとつ、障害者施設では退職する職員が多いです。余程意欲的な人ではないと低賃金などの労働条件に耐えられないからです。だが、障害者は障害者であることをやめることはできません。そのことに障害者を「仲間」と呼ぶことの抵抗感があります。「仲間でありたい」という意味でしょうが、立場を乗り越えることは容易なことではありません。