「動物全て好きのブログ」さんの”殺処分0、その奥にあるもの”を読んで | なぜぼくらはおいていかれたの 

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殺処分0は賛成なのだが、土台作りを疎かにしては決していいことにはならない、という考えを持っている。↑のブログさんの発信にそうですよねと頷く。

↓マオ記

殺処分0を悪いと思うわけがない。何十年も前からそう願っている。

それでも私は心の中に自然に、「殺処分0は切望していることだ。だが、現状のままで、”殺処分0”とアジテーションしていっていいのだろうか。行政は、殺処分0にする土台作りをどれほど実際に実現させるための努力をしているか・・・」という困惑の気持ちがわいてくる。


数年前に、センターに持ち込む猫や犬が有料になった時、私は夫が要介護4の認知症を発症して介護しながら、犬が十数匹、猫が30匹以上ともに暮らしていたのだが、その筆舌に尽くしがたい苦労をしていた中に、人々がどっと我が家の庭や近辺に置いていったのだ。しかも毎日のようにである。


もお恐ろしかったですよ。有料になったなら無料の佐々木の家に押し付ければいいと考える世間が、です。

センターに、有料にすることは反対しないが、そうしていく方法や土台をつくる必要はあるのではないか、個人で捨てられる猫犬を哀れに思い掬いあげる家に集中させる結果をどう考えますか、と言っても実体のある返事はなく、むしろこちらの重圧は過酷になるだけだった。


こういう事態に晒されるる”個人”に対して、センターも役場も、「大変なら処分しましょう。処分に応じないあなたが悪い」・・・でしたよ。ほんとに恐ろしかったです。彼らは一般人の不備を、「無知だ、無知だ、異常だ」と見下しておられたけど、自分の側の無知には気づかない。ほんとに怖かったですよ。寂しかったですよ。悲しく辛かったですよ。

認知症の夫に、「もう限界。みんなで日立の海か霞ケ浦に車で行き沈んでしまおう」と言ったら、「ぼくは死ぬの嫌だよ。猫たちも犬たちも死にたくないと思うよ。君ひとりでどうぞ」と言ったもんだ。

今でも時々思い出して一人ぽっちで大笑いする。


現在のまま殺処分0に決めて施行したら、どうなるか!!!???

行政も国も、しっかり考えなさいよ。


殺処分0が新たな地獄を作り上げてしまうことなく、本当に素晴らしい正しい思想にしていくには、最低限


1・動物たちを収容する施設の改善をしてください。

2・そして、里親探し、譲渡会場として、愛護団体やボランティアさんと連携しながら、経済的負担も国や行政がもち、地道に活動してことが必要と思います。

こうした活動にかかる費用は、税金を使うというより、犬の予防注射や手数料を見直し、確保できるのではないでしょうか。やろうと思えば必ずできる。やろうと思わないからできない言い訳ばかりは、もうやめましょうよ。

3・これは一番大事なことですが、動物行政の正しい姿にもっていくには、住民の意識に、そうした考えと慈愛心をもってもらうことが大事です。

行政や国は、真剣に犬猫の飼い方を正しく(華美に贅沢に飼う必要はないということも含めて)伝え続けていくことがほんとにほんとに大事です。たまに配布するチラシのレベルではだめですよ。


かって、日本にもさまざまな差別意識がありましたよね。差別意識はなくならないものとは思いますが、ひとつひとつ指導していくことで少しづつ変わっていきました。例えば病気の人への差別等。

動物に関しては動物たち自身が何も言わないから、いつまで経っても、結局は、”殺せばいい””殺す人は、ま、いいじゃないかとあいまいにする、で済ます””餌は残飯が出た時でいい、一週間に一回汁をかけたご飯を少ししかやらない。犬はこれを我慢するのが犬だ、猫はねずみをとって食べる”などなど(ほんとですよ、私は黙々とどれだけそういう近隣の犬や猫に給餌し、そのお宅の方と話しまぁまぁわかってもらい、でもなにかあると裏切られてきたか。(ま、いいですけどね。笑っちゃうぐらい黙々とそうして繋がれた犬たちを救い、手術もさせてもらい、してきたんですよ。それを知らない愛護団体が、動物病院で、私が無責任に給餌をして産ませているだの、ほんとに嘘っぱちな作話で貶められたもんです。ま、それもいい。その人たちの人間の質はそうであって、そういう人たちの浅ましい見識が、動物愛護の正しい在り方と定着していった。それもいい。わからないことは永遠にわからないものだ。こういう私だってわからないままのことばかりだ。


でもどこかで真理をわかっていきたい。動物への慈愛心に目覚めていくことは、何も失うことにはならないはずだ。私個人は、この目覚めこそがあればすべてに通じると信じているんですけどね。


私は動物愛護家ではない。活動家でもない。動物のことで人前に立って先生面する気は一度もなかった。そのことにおいては勝手に決めつけないでほしい。ぞっとするよ。

私は、ただただ、捨てられ親を求める猫や犬や、絶望と失意のなか力尽きていく老いた猫たち犬たちが、痛くて痛くて痛くてならないだけであったし、そういう日が40年以上にもなってしまった、というだけだ。

貶められることも馬鹿にされることも相手にされなくなっていくこともどうでもよくなった。


ただ、自分が老い、病み、持っていた多少の財もすべて失い、私を頼る継母や猫や犬を放ったまま死んでいく日が近いかもしれない、という実感がちょっと辛い。

こうして話を方向ずらしていくのもその悲しみを紛らわせたいのかもしれない。

目を通して下さる方には心から申し訳なく思います。